2017私的ベスト3

2018年あけましておめでとうございます。まずは2017年の振り返りから。

ストーリーにグッときた3本でした。ほかにも「ブレードランナー2049」「しゃぼん玉」「猿の惑星 聖戦記」「夜明け告げるルーのうた」も捨てがたかった。その中で「彼らが本気で編むときは、」はLGBTやネグレクトという難しい題材を過剰に語らない姿勢が素晴らしい。「メッセージ」はこれぞサイエンス・フィクション。もう1回見たら必ず印象が変わってしまう語り口の素晴らしさ。「沈黙」はスコセッシ監督の作品への熱意が素晴らしかった。

「ヒルビリー・エレジー」を読んだ後では「日本のメディアが伝えないアメリカの一面があるに違いない」と思ってしまう。そしてそんな層がトランプ政権を支持している気がする。そんな世界のシビアな面を見るべきと再確認させてくれたのが「外交感覚」。「ヒットの崩壊」は2017年紅白歌合戦を見ていて思い出しました。紅白こそ「テレビの中の音楽フェス」の定番。2017年は過剰な演出もなくラインナップもなかなかバランスが取れていた気がするのですが、どうでしょう。ほかには「バブル 日本迷走の原点」「気づいたら先頭に立っていた日本経済」「ある日うっかりPTA」などもよい一冊でした。

いよいよ2018年1月6日から東京・上野の森美術館でも始まる「生賴範義展」。都内の人たちは皆行くがよい。3度は行くがよい。ひれ伏すがよい。感想が聞きたい!そんな作品展が宮崎でちょうど1年前、第3弾があったのでした。絶筆画など未完の油彩群が印象に残っています。「冨永ボンド展」は「こんなアートもありか」と新鮮な驚きが。そして青島太平洋マラソンは今回初参加。10キロとはいえ、いまだに膝が痛いのはなぜだ…(涙)そのほかにも上京した折に「ミュシャ展」「草間彌生展」、2017年11月はライブでライムスターやゲスの極み乙女。などを見ました。ライブはいいよねー。

2018年も良いものを見ていきたいなぁと思っています。どうぞよろしく。

2016私的ベスト3

週1回ペースで更新している当ブログも3年目。2016年を振り返ってみたいと思います。映画に良作が多かったような…?

MCUや再始動したスター・ウォーズなどもみていて楽しかったのですが、単体としてエイヤッと絞ったらこの3本になりました。エンターテイメントの皮を脱ぐことなく偏見と差異というギリギリのテーマに挑んだ「ズートピア」、過多な情報量とスピード感という現代風の面白さで突き抜けた「君の名は。」、そして今の若者の生態を描きつつ人の成長を捉えた「何者」。就職活動は自分を見つめること、とはいうけれど、あんなにシビアに見つめたらもう立ち直れない…しかしそこからでないと再起動もできないのですよ。

今年はあまり本を読まなかった…と思っていたけど、振り返るとまぁまぁ手には取っていましたね。今は「カラマーゾフの兄弟」を少しずつ読んでいるので、最近は本を読み切っていないからか。この3冊からは当事者として眼前のことに臨むことの重要性を読み取りました。それが広く社会のためでもあるし、1対1の個人の関係でもそう。そして眼前のことに臨むにはプロでなければならないのです。

イベントもそこそこ行ったのですが、印象に残っているのは40回目の開催にして初参加の「UMK SEAGAIA JAMNIGHT」。夕方、酒を飲みながらの野外ライブで夏を満喫したのでした。音楽の気楽な楽しみ方を再確認。ブログには書きませんでしたが、Perfumeの幕張オールスタンディングライブやルノワール展(東京)、鳥獣戯画展(福岡)などにも行ったのでした。

とはいっても公開中なのに見てない映画(「スター・ウォーズ ローグ・ワン」!)や行けてないイベント(生賴範義展3!)、読んでいない本もまだまだいっぱい。焦らず、じっくり味わって自身の栄養にしていきたいと思います。

キャラを使い分ける話【鑑賞・NHKリオオリンピック】

日本勢の活躍が目ざましかったリオデジャネイロオリンピックも終わりました。決勝が日本時間早朝だった格闘技系は難しかったけど、卓球、バドミントン、競泳、陸上などはリアルタイムで視聴しました。「もうあかん」と思ったところからの大逆転だったバド女子ダブルス決勝、第4走者で「あれ?2位じゃね?」と気づいたらそのままゴールして見事銀メダルを獲得した陸上男子400メートルリレーなどは忘れられません。閉会式の「トーキョーショー」も「オレたちが見たい/行きたい東京」感がたっぷりでした。

そんな名場面の動画およそ400本をNHKがホームページとYouTubeチャンネルで公開しています。YouTubeならAppleTVを使ってテレビでも見られるので便利であります。

そのリストを見て印象に残ったのが各動画のタイトル。大会後にアップされた動画は「金メダリスト14人の言葉 日本選手団帰国会見より」などと当たり障りのないタイトルですが、大会開催中にアップされた動画のタイトルは妙にテンションが高い。

外国人選手の紹介でもその勢いは変わらず

一番思い入れを感じたのはこのタイトルでしょうか

NHKは地上波の総集編ではブラジルのスラム街「ファベーラ」出身の柔道選手が金メダルを獲得したことなど日本選手以外も紹介して、悪く言うと「優等生的」まとめ方(毎回なんだけど)。それに比べ、ネットでのこのミーハー的な熱量の高さはなんなのか、考えると興味深い。

大げさな表現かもしれんが、メディアに応じて「キャラの使い分け」ができてるってことだろうか。NHKのTwitter公式アカウントが「ユルくて親しみやすい」と一時話題になったけれど、それに通じるものを感じます。

ハード面では4Kハイビジョンなど最新の放送技術を開発する一方で、ソフト面とも言える各メディア上での振る舞い方も考えているようなNHK。どうやったら視聴者に届くか考えているんだろうな。民放以上にきめ細やかでチャレンジングなのかもしれません。まもなく始まるパラリンピックもどう伝えるのか、気になってきました。

2015年私的ベスト3

2015年ももう終わりますねー。自分が読んだり見たり行ったりしたことを綴ってきたこのブログ、週1回更新もなんとか2年続けることができました。

今年最後の更新になる今回は「本」「映画」「イベント」の3分野で特に印象に残った3点ずつを選んで2015年を振り返りたいと思います。

【本Best3】

朱に交われば赤くなる話【書評・年収は「住むところ」で決まる】

エンリコ・モレッティ著「年収は『住むところ』で決まる(プレジデント社)」は産業振興と地域社会の関連を考察した一冊。日本では繋げて考察されにくい分野の関連性を捉えた興味深い本でした。

世界の分岐点は今だった話【書評「イスラーム国の衝撃」】

池内恵「イスラーム国の衝撃(文春新書)」は今年初頭に日本人2人を殺害、フランスでは2度にわたって大規模テロを起こしたイスラム国を分析した一冊。イスラム国は2016年も国際問題の中心になっていくでしょう。冷静にアラブ社会を評した本でした。

心地よく分析された話【書評「なぜ、この人と話をすると楽になるのか」】

吉田尚記著「なぜ、この人と話をすると楽になるのか(太田出版)」はニッポン放送アナウンサーによるコミュニケーション論。コミュニケーションについて目からウロコが落ちるような指摘を連発する一冊でした。「コミュニケーションは成立することが目的の強制スタートゲーム」は特に覚えておくといいんじゃないでしょうか。

【映画Best3】

過去は肯定するがましという話【鑑賞・バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】

自分が思う「映画っぽい映画」だった作品。ハッピーエンドかどうかは微妙だけど、現実と付かず離れずの奇妙な世界が心地よかったのです。

人は丁寧に生きていく話【鑑賞「海街diary」】

登場する人物の暮らしぶりを丁寧に描いた作品。しかし「丁寧」は決して「地味」ではなく、むしろハッとするほど美しい…ということを映像で語った作品でした。

激烈!単純!しかし細心な話【鑑賞「マッドマックス 怒りのデス・ロード」】

ヒャッハー!砂漠を行って帰るだけの話がここまで美しく過激に描かれるとは思わなんだ!荒廃した世界を舞台に支配する者される者、そして抗う者の姿がうまく描かれたアクション映画のエポックメーキングな一本でした。

【イベントBest3】

イラストレーターとして生きる話【鑑賞「生賴範義展2」】

2014年に開かれた「生賴範義展」の第2弾。ゴジラやスター・ウォーズなど著名作が目立った第1弾に比べると展示作品は地味だったかもしれないが、生原画の迫力は全く変わらず。むしろ「こんなものまで描いていたのか」とイラストレーターとして働く意味を考えさせた展覧会でした。

創作とは前進だった話【鑑賞・日岡兼三展】

2015年の高鍋美術館は攻めていたと思います。漫画家東村アキコ氏の師でもあった日岡兼三氏の回顧展は、様々な製作手法に取り組んでいた日岡氏の前進っぷりが印象に残りました。前に進む、とはこういうことなのだな。

君臨する王を迎えた話【鑑賞・Rhymester “King of Stage Vol.12″】

ライブにもいろいろ行ったんですが、今年一番はこれかな。CDやDVDで見聞きするとは大違い。鹿児島の小さなライブハウスでヒップホップの楽しさを存分に味わいました。今度は宮崎にも来てくれー。

…最近見たものは2016年に報告するとして(あのシリーズ第7弾とかね!)、自分で印象に残っているのは、現実と理想の折り合いのつけ方、理想の追い求め方などについて考えさせられた(…というか、自分がそういうふうに解釈したw)ものでした。2016年もいろいろと見て読んで行って、自分の栄養にしていきたいものです。

小説の存在理由を再確認した話【鑑賞「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」】

時期を逸しているなぁと思いつつ、いつか書き留めておかなくてはと思ったので書いておくのです。

企業のトップがオススメの本を紹介する日経新聞「リーダーの本棚」コーナーで今年5月、某お菓子会社社長の話が掲載されておりました。

「人にとって設備投資に当たるのは学ぶこと。その一番効率的な方法は読書」とその社長は語り、読み方のポイント…本はたくさん買え、最初の30ページは必ず読め、(一生懸命読むために)読んだら捨てろ(また読みたくなったら買えばよい)…を述べていたのですが、その次のコメントに目がとまりました。

「私は小説でも事実に基づいたものを選びます。著者が勉強せずに思いつきで書いた本は読みません。くだらない本で暇つぶしをするほど人生は長くない」

…端的に申し上げて馬鹿者発見と思いましたね。こんな社長の下じゃ働きたくねぇなぁ。創作ってのをバカにしすぎてねぇ?

でも、じゃあ自分自身が小説…フィクション…を読みたくなる理由ってなんだろう?とも思っていたのです。

そこで見たのがNHK Eテレの「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」。彼の本は一冊も読んでいない(モウシワケナイ)が、英国人なのに日本人ぽい風貌と名前の作家だなーと印象に残っていたのです。彼は両親とも日本人なのだが生まれて間もなく父親の仕事の関係で英国に渡り、英国で育ち作家デビューした(英国籍も取得)んですね。

彼の話は、自分がなぜ小説を書くことになったのか、から始まり、彼が考えるフィクションとノンフィクションの特徴の違いなどにも及びました。以下書き出してみると…

小説の価値は表面にあるとは限らない。歴史書を時代を変えていいとしたらおかしなことになる。でも小説では可能だ。物語の意図するものは表面には結びついていない。価値はもっと深いところにある。

フィクションでできるのは異なる世界を作り出すこと。異なる世界に入ることで、実生活で生まれた多くのことは想像から生まれたものだと私たちは思い起こす。多くの文明の利器はまず想像されて実際に作り出された。

私たちはどこかで異なる世界を必要とし、行きたいという欲求がある。それはノンフィクションでは生み出せない。

私が好む隠喩は、読者がそれが比喩だと気づかないレベルのものだ。物語に夢中になって、背景を分析せずにすむような。そして本を閉じた時に気づくかもしれない。人生に直接関係する何かの隠喩だったからこの物語に夢中になったのだと。

私たちが小説に価値があると思うのはなんらかの重要な真実が含まれているからだ。完成度が高い小説には、そんな形でしか表せないなんらかの真実が含まれている。

真実は月並みな事実ではない。人間は長い歴史を通じて様々な物語を語ってきた。それはある種の真実を伝える手段だったからだ。

真実とは人間として感じるものだと思う。語られる体験や伝わってくる感情を、私たちは真実だと認識する。小説では時に重大な心情を伝えることができる。だが事実にだけ基づいた本やノンフィクションではつたえきれないものだ。

小説は特定の状況で感じた気持ちを伝えられる。歴史書やジャーナリズムでは状況を伝えることができる。事実だけでは人間は不十分だと感じるのだ。私たちはどう感じたかを伝えて欲しいのだ。それが人間の本能だと思う。

自分たちの体験に関して、人間としての感情を分かち合うことは非常に重要なことなのだ。人間は社会で経済活動をするだけでは不十分だ。心情を分かちあう必要がある。

最後の方でカズオ・イシグロは「小説は人の感情を分かち合う媒体」と定義した。その感情は事実の羅列だけでは伝わらない、とも。言葉を使って言語化できない人間の感情を表現するのが小説なのだ…全くもって腑に落ちました。わかったか某社長!

ならば、あの本を再読してみようかな…。

結果を出さなくてもヒーローにはなれる話

本業とは違うところで忙しくなっております。その中で感じたことをちょっと。

ブルース・ウィリス主演「アルマゲドン」って映画があります。ブルース・ウィリスが地球に向かってくる隕石をぶっ壊す話。監督は「トランスフォーマー」などで(「ロストエイジ」見に行くぞ〜)今を時めく(?)マイケル・ベイですね。

話は単純だし、マイケル・ベイがミュージックビデオの世界から移って間もない頃だけあってカメラが無駄にグルングルン回るのが印象的な一本です。

でもその中で一つ、印象的な場面があるのです。

ブルースたちがシャトルで隕石に向かって飛んで行く場面。大げさなカメラアングルやわざとらしい効果音(カウントダウンの時計がなんであんなにガシャガシャいうのか)で盛大にシャトル打ち上げが描かれる中、管制室のフライトディレクター(現場指揮者)がシャトルの乗員たちにこう言うんです。

「君たちはすでに英雄だ」(直訳)

この「すでに」ってのにグッと来てしまうんですね。

まだ何も成し遂げていない彼らは、日本人の感性で言うとまだ英雄じゃないと思うんです。

だけどアメリカ映画では結果はどうなるか分からなくても、危機に立ち上がった時点で称えられるんですね。

挑戦そのものに重きを置くアメリカっぽい発想だなと思いつつ、日本でもこんな発想広まるといいのになと思っております。

具体的にどんな場面かは、「Armageddon shuttle」とかどこかに打ち込むと出てくるんじゃないでしょうか(無責任)ネットは広大ですね〜。

スポーツの形を考えた話

W杯日本代表、残念でした。「攻めて結果を出す」ことはできなかった。でも「自分たちの型を世界で試す」ことの繰り返しが長い目で見たら日本サッカーを強くしていくんじゃないだろうか。

ところで、学校での授業でしかサッカーをしていない自分でもW杯が気になったのはなぜだろう、と自問しています。

というのも、先頃終わったTVドラマ「ルーズヴェルト・ゲーム」にある種の違和感が残っているからです。

ドラマ終盤、主人公が経営する「青島製作所」の野球チームが都市対抗野球予選の敗者復活戦決勝に臨みます。試合は追いつ追われつの展開で、応援する主人公(社長)や野球好きの会長、実は元野球部長だった専務らが肩を組んで歌を歌って野球部を鼓舞する場面があるのだけど、何というか、見ていて「この応援の輪の中に自分はいないなぁ」という疎外感を感じたわけです。

野球部員たちのストーリーもあったので視聴者も青島製作所野球部に肩入れするようにドラマの構造はできているのですが…ノレなかった。野球を扱った映画「メジャー・リーグ」などでは主人公たちのチームが勝つと我々観客も爽快感があったのになぁ。

きっと、ドラマで描かれたスポーツ(野球)が企業の所有物でしかなかったからではないか。日本のプロ野球も親会社はあるけれど、親会社の関係者だけが応援しているんじゃない。ファンに向けて開かれてはいる。実業団野球って結局、応援するのは関係者だけなんだなぁ…と思ってしまったのかも。

でも、例えばサッカーW杯でイタリアやイングランドの予選敗退など、自国代表以外のチームの勝敗も気になるのはなぜだろう…とも考えるわけです。自分に何の関係もないのに。メディアで大きく取り上げられるから?

そもそも実在のチームとフィクションのチームを混同してはいけないのかもしれないが、自分が応援・関心を持つ範囲の線引きがよく分からない。自分が思っている以上にスポーツ(この場合、見るスポーツ、応援するスポーツ)にはいろいろな形がある、のか?

終わらせたからわかる話

今回は自分への覚書に近い話です。

写真 2014-05-30 14 12 14梅雨入りする前に自宅2階ベランダの床部分を塗り直しました。

洗濯物を干している合間にデッキブラシで床を洗い始め、乾いた洗濯物と物干し竿、物干し台を中に取り込んで、玄関口にある水道からホースを回して水を巻いて床洗いを終わらせ、使い捨てエプロンと腕カバー、靴カバー、手袋をはめて油性塗料を塗り(1度目)、足りなかったので買い足しに行き続きを塗り、乾くまで約2時間休憩し、2度目を塗って終了。半日がかりの作業でした。

以下、いろいろ考えたこと。

1)思ったより早く終わった。終わらなかったら翌日もするつもりだったが…。日程に余裕を持たせたのが良かった。

写真 2014-05-30 14 39 362)2度塗りしても色が薄いなぁと思っていたが、乾燥したらそうでもなくなった。塗料の取説にそこまで書いているわけではないし(そりゃそうだ)、やってみないとわからないことはあるものだ。

3)エアコン室外機の下や床板のサイドなど、もう少し塗ればよかった箇所もある。しかしなにしろ初めてのことなので、今回は終わらせることが重要だった。作業時間がどれくらいかかるか分からんかったし。そんな箇所はまた次回、塗ることにしましょう。

作業時間が分からない場合はゆとりを持って計画すること、とりあえずのゴールを決めておくこと、そして何より、終わらせないと分からないことがあること。「Just Do It」って意味を考えた体験でした。

新しい市民モデルを考えた話

写真 2014-05-31 15 08 22毎月購読している雑誌「Voice」2014年6月号でちょっと覚えておきたい論考があったので、メモ。

東大社会科学研究所の宇野重規教授、同じく東大大学院の谷口将紀教授、ウシオ電機の牛尾治朗会長の共著「中核層の時代に向けて 自らの人生と社会を選び取る人びと」。

日本の将来像を見据える必要があるとして、これまでの「キャッチアップ」型近代化から、新たな社会像を「信頼社会」と定義しそれを担う「中核層」という概念を提示する論考だ。

今までの日本は一般的な社会的信頼が低いため、特定の組織(会社など)や関係(家族など)への関与を深めていた。しかし今や、大企業に就職しても定年までの雇用が保証されるとは期待していない。しかし組織の外に出るのもリスクが高い。結果、安定的な組織への参入競争が激しくなる一方、組織に残る人間も不満があっても外に出られない。

そこで真の意味での「信頼社会」実現のため、集団を超えた人と人のつながりを築かなくてはいけない。一人一人は生涯にわたって学び信頼を構築し続け、組織は主体的な人材によって自らを再編していき、グローバル社会での競争力を強化していく。そんな「信頼社会」で自らの生き方を主体的に選択し、それゆえに積極的に社会を支えようとする自負と責任感を持った人間を「中核層」とこの論考では定義した。

「中核層」は組織を上から指導するエリートとは違い、現場でイノベーションを実現する人々。また、イノベーションを起こすような人々を結ぶ人々、個人を支える医療、介護、教育者などをイメージしているという。

そして人と情報が集積する都市の発展が地域全体の発展につながるとするいっぽう、多様な個性と伝統を持つ地方の魅力を高め、都市と有効な相互補完関係を生むのが望ましい、と結んでいる。

長い論考ではないのだが、日本社会の今の問題点を端的にまとめ、目指す社会モデルを提示している。個人が目指すイメージ、社会として目指すモデルも自分の今の考えにかなりあっていた。

「中核層」たる個人をどう生み出し、育てるかがカギですかね。まずはどんな形であれ「自分の足で立っている」という自覚を持つ人々が増えることかな…

そこでもう一つ連想したのが、雑誌「The21」2014年4月号での日本中央競馬会・土川健之理事長のインタビュー。「運はどうすればつくのでしょうか」という問いに「自分に嘘をつかないこと」と土川氏は答える。

自分に嘘をつくのをやめて自分がやりたいことをやりたいようにやる。全て自己責任でやるようにすれば、結果はすべて自己の糧になりますから、アンラッキーということ自体存在しなくなるのです。

自らの生き方を主体的に選択するヒントがあるように思う。自分の生き方への肯定感をどこまで持てるか。ちょっと間違えると独善的になってしまいそうでもあるから、その点は要注意、要注意。