ヒーローは隣にいる話【鑑賞「スパイダーマン:ホームカミング」】

これまでの作品と比べもっともこぢんまりした話なのですが、なかなか楽しめたのです。

【イントロダクション】
「スパイダーマン:ホームカミング」の主人公は、スパイダーマンこと15歳の高校生ピーター・パーカー。ピーターが憧れのアイアンマンに導かれ真のヒーローになるまでの葛藤と成長を描きつつ、一人の高校生としての青春、恋愛、友情が瑞々しく描かれている。圧倒的スケールのアクションとドラマが展開する、この夏最高のヒーローアクション超大作!
【ストーリー】
ベルリンでのアベンジャーズの戦いに参加し、キャプテン・アメリカからシールドを奪って大興奮していたスパイダーマン=ピーター・パーカー。昼間は15歳の普通の高校生としてスクールライフをエンジョイし、放課後は憧れのトニー・スターク=アイアンマンから貰った特製スーツに身を包み、NYの街を救うべく、ご近所パトロールの日々。そんなピーターの目標はアベンジャーズの仲間入りをし、一人前の<ヒーロー>として認められること。ある日、スタークに恨みを抱く宿敵“バルチャー”が巨大な翼を装着しNYを危機に陥れる。アベンジャーズに任せておけと言うスタークの忠告も聞かずに、ピーターはたった一人、戦いに挑むが…。

公式サイトより)

スパイダーマン単独作としては「アメイジング・スパイダーマン2」が前作となるわけですが、「アメイジング」は2で製作終了したとのこと。まぁ鑑賞してそう思いました。やっぱちょっと暗かったんだよねー。

そこで今作。当時から噂されていたマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)とつながる形になりました。結果、「スパイダーマン誕生の秘密」はバッサリカット。ピーターがなぜ叔母と二人暮らしなのかも説明なし。初心者には敷居の高い構成になっていますが、この辺は仕方ないかと。「アメイジング」だけでなくその前の3部作もまだまだ新鮮な作品ですからね。

つまり今作は過去の単独作になかった視点、解釈をどう持ち込むかがキモ。その意味ではかなり成功していると思うのです。

スパイダーマンの絶妙な弱さが魅力的でした

今作の特徴はピーターが高校生であること。過去作だとピーターのハイスクール・ライフってあまりよくは描かれていないのです。蜘蛛の特殊能力を身につけた冴えない男子高校生がちょっかいを出してくる体育会系バカ男子をぶっ飛ばす(そして自分に備わった力におののく)だけ。その後すぐ卒業してしまう。

今作のピーターも非体育会系なのだけど頭はいいし気の合う友人にも恵まれている。レゴの人形を持って「放課後はレゴで(スター・ウォーズの)デススターを一緒に作るのだ〜」とピーターに迫ってくる親友ネッド(太めオタク系)最高。ピーターとネッドにツッコミを入れながらもなぜかいつもそばにいるツンデレ女子ミシェルも良い。彼らが所属するサークルの他の仲間たちもいい。ピーターとネッドをからかう役回りの生徒もいるのだけど単純ないじめっ子でもなく、同じサークルの席にしれっと座っていたりする。このハイスクール・ライフだけでも見ていて楽しい。

いっぽうでスパイダーマンとしての活躍は実は今ひとつ。敵と戦って周囲に予想外の被害を広げるのはまだしも、過去作では糸を使って華麗に敵を追う様な場面が、今作では郊外の家を何かと壊しながら必死に追いかける。予告編でも描かれるフェリー崩壊の場面もアイアンマンに格の違いを見せつけられるエピソードになっていた。

今作のスパイダーマンは予告編(「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」でも)でトニーから呼ばれた様に「新人」なのですね。映画のキャラクターとしてはアイアンマンよりベテランなんだけどw。

そんな新人ヒーローが一人で戦うと決めたとき、見ている観客もグッとくるのです。その前触れとなる車内の会話シーンの緊張感も良い。そして全てが終わった後、自分の立ち位置を決める決断をしたピーターに成長を見るのです。その決断に影でうろたえるトニーも愛らしい。

今作は英語版で見たのだけど、ピーターの決断をトニーが「Working Class Hero」(労働者階級のヒーロー)と呼んだのが印象に残った。もちろん彼なりの皮肉ではあるんだけど、今作のスパイダーマンはいわばニューヨークの「ご当地ヒーロー」。今回はたまたま強力な敵と戦うことになったけど、ピーターはあくまでNYの「親愛なる隣人」。新聞の一面に載るような活躍はアベンジャーズたちで、自分の活躍はいわば社会面のベタ記事のようなもの、かな。それでも自分を必要とする人はいる、というピーターの確信がいいんですよ。

MCUの中では小さいスケールの話ではあるんだけど、それがこれまでの映画化で伝えきっていなかった「隣のスーパーヒーロー」感を伝える一作となっていました。で、こんなスーパーヒーローのまた違う一面をシリーズに組み込んでしまうMCUの全体構成の巧みさにもうなってしまうのでした。

ないはずの絵心を刺激された話【鑑賞「クレパス画と巨匠たち展」】

高鍋町美術館で2017年9月3日まで開催中の「クレパス画と巨匠たち展」を見てきました。株式会社サクラクレパスが所蔵する作品約100点を展示。色々な表現形態に驚かされました。

そもそもクレパスって1925(大正14)年に日本で開発された画材ってことすら知らなんだ。クレヨンのちょっと柔らかい版、程度の認識しかなかった。開発当初は寒い冬でも描きやすい「冬用」、夏の暑さでも溶けない「夏用」があり、冬に夏用を使うとカチカチ夏に冬用を使うとドロドロ、という苦労もあったそうで。でも3年後には統一化に成功し「ほんとのクレパス」と銘うって仕切り直したそうで。こんな解説を見るだけでも「へぇー」ボタンが欲しいところです(古い)。

「クレパス」は商標で一般的にはオイルパステルと呼ぶそうです。

学校の図工の時間ではクレヨンもクレパスも同じような扱いでしかなかった。だからできた絵も大差ないものだった。でもクレパスはクレヨンと違って色を混ぜられる特徴があるのだ(それも知らなかったぞ!)。その結果、会場に展示されているのは油絵に似た「これがクレパス画?」という物が目立つのだ。後日検索してみたらオイルでこすったりペインティングナイフで削ったりとクレパス画の技法にはいろいろある様子。実際に油絵っぽいですね。そういった技法まで学校で学んでたらなー。

そんな中、印象に残ったのは山本鼎「江の浦風景」(1934)。油絵にも似ているが油絵ほど重みがなく軽やかな発色がいい。こんな絵を描いてみたい、と思わされた。

この「自分でも描けないかなー」と思わされるのが本展覧会の特徴。一般的な展覧会では作品世界が別次元すぎて「描いてみたい」とは決して思わない。油絵も描いたことないので画材に馴染みがない。絵を本格的にやる人が使うのが油絵、というイメージ。

しかしクレパスは違う。クレヨンと大差ないもの、という認識(実際は先述の通り違うのだけど)があるので馴染みがある。あの画材でこんな絵が描けるならちょっともう一回…とくすぐられるのだ。脳トレにも効果ありそうだし。

なので、会場の販売コーナーで作品の絵葉書や画集などといっしょにならんでいる「ほんとのクレパス復刻版」や「クレパス誕生90年記念90色セット」(15000円)にむむっ…となったのはここだけの話。今まで気にもとめてなかった「大人の塗り絵」も興味が湧いてきた。「クーピーペンシル」も懐かしい…!と変に刺激されてしまったのでした。基本的な絵の描き方からわかってないので結局買わなかったけど。でも「クーピーペンシル30 カラーオンカラー」はどうしようかなー。

衝動は理屈じゃない話【鑑賞「夜明け告げるルーのうた」】

全国公開時は見られなかったのだけど再上映の機会がありようやく見ることができました。楽しい作品でしたねー。

【作品紹介】
ポップなキャラクターと、ビビッドな色彩感覚。観客の酩酊を招く独特のパースどり(遠近図法)や、美しく揺れる描線。シンプルな“動く”喜びに満ちたアニメーションの数々。文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞した『マインド・ゲーム』(04年)で長編監督デビュー以降、鬼才・湯浅政明の圧倒的な独創性は、国内外のファンを魅了してきた。そんな湯浅が満を持して放つ、はじめての完全オリジナル劇場用新作。それが『夜明け告げるルーのうた』である。
「心から好きなものを、口に出して『好き』と言えているか?」同調圧力が蔓延する現代、湯浅が抱いたこの疑問がこの物語の出発点だった。
少年と人魚の少女の出会いと別れを丁寧な生活描写と繊細な心理描写で綴りながら、“湯浅節”とも呼ぶべき、疾走感と躍動感に溢れるアニメーションが炸裂する。1999年に発表された斉藤和義の名曲「歌うたいのバラッド」に乗せ、湯浅政明がほんとうに描きたかった物語が今、ここに誕生する。
【ストーリー】
寂れた漁港の町・日無町(ひなしちょう)に住む中学生の少年・カイは、父親と日傘職人の祖父との3人で暮らしている。もともとは東京に住んでいたが、両親の離婚によって父と母の故郷である日無町に居を移したのだ。父や母に対する複雑な想いを口にできず、鬱屈した気持ちを抱えたまま学校生活にも後ろ向きのカイ。唯一の心の拠り所は、自ら作曲した音楽をネットにアップすることだった。
ある日、クラスメイトの国夫と遊歩に、彼らが組んでいるバンド「セイレーン」に入らないかと誘われる。しぶしぶ練習場所である人魚島に行くと、人魚の少女・ルーが3人の前に現れた。楽しそうに歌い、無邪気に踊るルー。カイは、そんなルーと日々行動を共にすることで、少しずつ自分の気持ちを口に出せるようになっていく。
しかし、古来より日無町では、人魚は災いをもたらす存在。ふとしたことから、ルーと町の住人たちとの間に大きな溝が生まれてしまう。そして訪れる町の危機。カイは心からの叫びで町を救うことができるのだろうか?

公式サイトより)

まず印象に残ったのは音楽。映画はカイがサンプラーで作曲する場面から始まるのだけど、その曲がいい。この作品が音楽(リズム)を鍵にした内容だと印象付ける。

そしてカイも含めルーの歌を聞いた人々が足からリズムをとる様の不思議さ。足と頭が切り離されたかのように足が勝手にリズムを刻みだし、全身をぐにゃぐにゃにして踊りだす。ここが中盤の見せ場でしたね。

キャラのデフォルメもカワいくないのがよかったですね。

監督の作品ではテレビアニメ「四畳半神話大系」を見ました。文系ネクラ男子大学生の妄想と日常が暴走する様を主人公の高速ナレーションと極端に遠近感をつけた構図で描いており、非常にインパクトがありました。今作の主人公カイも根暗な男の子なのですが、クラさがユーモアにつながっていた「四畳半神話大系」と比べると正真正銘暗い。カイは周囲の人々と良好な関係を結べていないんですね。

そんな中、友人たちからバンドに誘われ、人魚のルーに出会う。友人たちの常識的な好意に加え、ルーも「好き!」と思いを真っ正直にカイに伝える。紆余曲折がありながらもカイが気持ちを込めた歌を歌うのがクライマックスになるわけです。

この「紆余曲折」が今作のちょっと弱いところかもしれません。何がどうなったかちょっとわかりにくい部分が散見される。大筋としてのストーリーは語られても細かい箇所で「?」となる部分があるんです。中盤登場するルーのお父さんがあんなにあっけなく受け入れられるの変じゃない?とか、ある場面でふさぎこんでた登場人物が次の場面でけろっとしている様に見えるんだけど?とか。人魚と人間たちが対立するきっかけになる事件の描写があっさりしすぎてないか?とか、終盤で舞台の日無町にだけ起こる事象の説明ってありましたっけ?とか。

それでもキャラクターだけでなく背景もぐるんぐるん動かして観客を掴みラストまで持っていくダイナミックな力量にやられます。細かい部分の整合性より勢いで勝負、という感じでしょうか。ルーたち人魚と人間の関係の顛末も驚くくらいさらっと済ませる。そこじっくり描けば泣ける場面になりそうなのに。でも描きたいのは顛末ではなくカイの成長なんですね。全てが終わり町が(文字通り)明るくなったのは、カイの心境ともシンクロしている様でもありました。

一方で思い返すと人魚と人間の間には死の影が付きまとっているのも忘れがたい。あくまで「影」。超えられない壁として、死に似た「影」。人魚と人間の関係を別のものにも置き換えられそうでもあり余韻を残します。

原作のないオリジナルストーリーでキャラクターデザインも少し幼い雰囲気。劇中の場面のショットなどを見る限り子供向けの地味な映画と思っていたのですがとんでもない。老若男女全ての人を捕まえて離さない快作でした。

味わいは複雑な話【鑑賞「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」】

一筋縄ではいかない厳しいビジネスの世界を垣間見る話でした。

【作品紹介】
世界最大級のファーストフードチェーンを作り上げたレイ・クロック。日本国内でも多くの起業家たちに、今なお絶大な影響を与え続けている。50代でマック&ディック兄弟が経営する<マクドナルド>と出会ったレイが、その革新的なシステムに勝機を見出し、手段を選ばず資本主義経済や競争社会の中でのし上がっていく姿は、まさにアメリカン・ドリームの象徴だ。手段を選ばず資本主義経済や競争社会の中でのし上がっていくレイと、兄弟の対立が決定的になる過程は、どこか後ろめたさを感じながらも、スリルと羨望、反発と共感といった相反する複雑な感情を観る者に沸き起こすに違いない。
熱い情熱で挑戦を続け、世界有数の巨大企業を築き上げた彼は英雄なのか。それとも、欲望を満たす為にすべてを飲み込む冷酷な怪物なのか。野心と胃袋を刺激する物語。

【ストーリー】
1954年アメリカ。52歳のレイ・クロックは、シェイクミキサーのセールスマンとして中西部を回っていた。ある日、ドライブインレストランから8台ものオーダーが入る。どんな店なのか興味を抱き向かうと、そこにはディック&マック兄弟が経営するハンバーガー店<マクドナルド>があった。合理的な流れ作業の“スピード・サービス・システム”や、コスト削減・高品質という革新的なコンセプトに勝機を見出したレイは、壮大なフランチャイズビジネスを思いつき、兄弟を説得し、契約を交わす。次々にフランチャイズ化を成功させていくが、利益を追求するレイと、兄弟との関係は急速に悪化。やがてレイは、自分だけのハンバーガー帝国を創るために、兄弟との全面対決へと突き進んでいくー。

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印象に残っているのは冒頭、レイが車にサンプルを積み、一人アメリカ大陸を駆け抜けて一軒一軒のドライブインでミキサー機を売る様子。またマクドナルドのフランチャイズを始めるにあたり、自身が加入していたゴルフ倶楽部の会員たちに投資を持ちかけたものの、会員たちが経営する店はレイの理想と程遠いものだったため彼らと決別し一人でフランチャイズ事業を進めるエピソードも忘れがたい。

平凡なセールスマン、事業家とは違うレイのガッツを感じさせる。理想のビジネスを実現するには従来の人間関係を断ち切っても構わない(「新しい友人を作ればいい」といったセリフがあったな確か)、変化を恐れない姿がある。

人間として全否定できにくいのが悩ましい。

だからこそマクドナルド兄弟やレイの妻の顛末はやるせない。マクドナルド兄弟は事業を考案したにもかかわらず「マクドナルド」という店の名前まで奪われてしまう。レイの妻は事業の助けになればと彼を倶楽部に誘いテーブルトークで売り込みのタイミングをさりげなく促すなどしたのに捨てられてしまう。

ではマクドナルド兄弟は愚鈍なのか。そうは思わせないのが今作の憎いところ。変化を恐れなかったのは彼らもそうだったのだ。映画産業に携わり映画館事業につまづいた後に新しい形態のハンバーガービジネスを考案し、実店舗として成功させる。マクドナルド兄弟がレイに語るこれまでの歩みは、それだけでも立派なアメリカン・ドリーム、成功譚なのだ。

だが兄弟の夢の本当の可能性を、兄弟より気づいていたのがレイだった。レイとマクドナルド兄弟、根本では同じ気質があったのだ。しかし描いた夢の大きさは決定的に違っていた。

またビジネスで巨大な成功を収めたレイが金にだらしない男としては描かれないのも興味深い。レイが妻と別れ、ビジネスパートナーの男性の妻を横取りして再婚するエピソードはあるのだが、それはレイが女にだらしない、のではなく、仕事を広げていく上での考え方の違いとして描かれる。レイはあくまでビジネスの規模を拡大することだけに長けている人間なのだ。その結果、彼についていけない人は振り落とされてしまう。

ビジネスにおける発明家と事業家の違いを考えさせられる。自分のアイデアを大事にする発明家、アイデアを広げることを大事にする事業家。アイデアの核は何か、という点を突き詰めておけばレイとマクドナルド兄弟の決裂はなかったかもしれない。レイはビジネス界のヒーローかもしれないし、人を蹴落として成功を掴んだワルかもしれない。自分はレイによりそうのか、マクドナルド兄弟によりそうのか。人によって見方は変わる、複雑な味わいの一本でした。