小説の存在理由を再確認した話【鑑賞「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」】

時期を逸しているなぁと思いつつ、いつか書き留めておかなくてはと思ったので書いておくのです。

企業のトップがオススメの本を紹介する日経新聞「リーダーの本棚」コーナーで今年5月、某お菓子会社社長の話が掲載されておりました。

「人にとって設備投資に当たるのは学ぶこと。その一番効率的な方法は読書」とその社長は語り、読み方のポイント…本はたくさん買え、最初の30ページは必ず読め、(一生懸命読むために)読んだら捨てろ(また読みたくなったら買えばよい)…を述べていたのですが、その次のコメントに目がとまりました。

「私は小説でも事実に基づいたものを選びます。著者が勉強せずに思いつきで書いた本は読みません。くだらない本で暇つぶしをするほど人生は長くない」

…端的に申し上げて馬鹿者発見と思いましたね。こんな社長の下じゃ働きたくねぇなぁ。創作ってのをバカにしすぎてねぇ?

でも、じゃあ自分自身が小説…フィクション…を読みたくなる理由ってなんだろう?とも思っていたのです。

そこで見たのがNHK Eテレの「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」。彼の本は一冊も読んでいない(モウシワケナイ)が、英国人なのに日本人ぽい風貌と名前の作家だなーと印象に残っていたのです。彼は両親とも日本人なのだが生まれて間もなく父親の仕事の関係で英国に渡り、英国で育ち作家デビューした(英国籍も取得)んですね。

彼の話は、自分がなぜ小説を書くことになったのか、から始まり、彼が考えるフィクションとノンフィクションの特徴の違いなどにも及びました。以下書き出してみると…

小説の価値は表面にあるとは限らない。歴史書を時代を変えていいとしたらおかしなことになる。でも小説では可能だ。物語の意図するものは表面には結びついていない。価値はもっと深いところにある。

フィクションでできるのは異なる世界を作り出すこと。異なる世界に入ることで、実生活で生まれた多くのことは想像から生まれたものだと私たちは思い起こす。多くの文明の利器はまず想像されて実際に作り出された。

私たちはどこかで異なる世界を必要とし、行きたいという欲求がある。それはノンフィクションでは生み出せない。

私が好む隠喩は、読者がそれが比喩だと気づかないレベルのものだ。物語に夢中になって、背景を分析せずにすむような。そして本を閉じた時に気づくかもしれない。人生に直接関係する何かの隠喩だったからこの物語に夢中になったのだと。

私たちが小説に価値があると思うのはなんらかの重要な真実が含まれているからだ。完成度が高い小説には、そんな形でしか表せないなんらかの真実が含まれている。

真実は月並みな事実ではない。人間は長い歴史を通じて様々な物語を語ってきた。それはある種の真実を伝える手段だったからだ。

真実とは人間として感じるものだと思う。語られる体験や伝わってくる感情を、私たちは真実だと認識する。小説では時に重大な心情を伝えることができる。だが事実にだけ基づいた本やノンフィクションではつたえきれないものだ。

小説は特定の状況で感じた気持ちを伝えられる。歴史書やジャーナリズムでは状況を伝えることができる。事実だけでは人間は不十分だと感じるのだ。私たちはどう感じたかを伝えて欲しいのだ。それが人間の本能だと思う。

自分たちの体験に関して、人間としての感情を分かち合うことは非常に重要なことなのだ。人間は社会で経済活動をするだけでは不十分だ。心情を分かちあう必要がある。

最後の方でカズオ・イシグロは「小説は人の感情を分かち合う媒体」と定義した。その感情は事実の羅列だけでは伝わらない、とも。言葉を使って言語化できない人間の感情を表現するのが小説なのだ…全くもって腑に落ちました。わかったか某社長!

ならば、あの本を再読してみようかな…。

家からコミュニティが広がる話【書評「住み開き」】

自宅の一部をギャラリーやサロン、博物館、劇場にしてしまった人たちの暮らし「住み開き」ぶりをルポした本。東京、大阪を中心に31カ所が紹介されている。

著者自身、バンドマンとして音楽に携わった経験から表現一般に関心が転じNPO活動に参加、そして地域コミュニティで活動を継続させるためのアイデアとして家を少しだけ社会に解放する「住み開き」を提唱するようになったのだとか。

「住み開き」は、自分の日常生活の中で区切られてしまっている様々な役割−仕事、学業、家事、趣味−といったものを再編集し、人間同士の関係性を限りなくフラットにする。

と著者は言う。

似たことをしている人が東京、大阪以外にもきっといるはず…
似たことをしている人が東京、大阪以外にもきっといるはず…

そんな暮らしをしている人たちってきっとナチュラルでスローでオーガニックな感じなんでしょ…と思っていたが、紹介されている様子の写真をよーく見ると、改装して雰囲気のいい感じの一室もあったりする一方、ごく普通の家だったりする例も結構多かった。

この本でちょっと残念だったのが、主催者に話を聞いている「だけ」という例が目立ち、実際にその場所で開かれているイベントの雰囲気が文章で伝わりにくかった点。写真も撮り方をもう少し工夫できなかったかなぁ。ごく普通の家であろうと、各場所が持っている「味」をもう少し感じたかった。

著者一人で取材したのだろうから、イベントに参加したりじっくり写真を撮るのも時間的制約があったのかもしれませんが。

とはいえ、著者が提案する「住み開き」というテーマは非常に興味深い。むしろよく31もの例を集めたとも言える。若い夫婦や若者たち、校長先生、66歳の主婦、73歳の教授など主催している人も様々。ある主催者の「僕がここに住んでいるということが、誰かの役に立っていて、そしてそこから仕事が生まれ食べていけるというサイクルを作り出したい」というコメントが印象に残った。

著者の考える「住み開き」9つのコツとは

目玉を用意する
プライベートを確保する
経済的に無理をしない
日時を決める
徐々に輪を広げる
大家さんと仲良くする
なるべく大きな音は出さない
子供とペットを媒体とみなす
困ったときは「ここ私の家ですから」

とのこと。

この本では事例紹介の他に著者と識者の対談も収録されているのだが、その中で著者は「美しく暮らすってことと、徹底的に手をかけて暮らすことは必ずしも同じではない。手をかけずとも気付いたことをパッとその時に程よい体裁でやれるかどうかが重要」とも語っており、これまた非常に印象に残ったのです。

またこういったプライベートな面と対極にある「仕事」も地域に開くべきだともいう。一人のアイデンティティの多様性を確認するためにも、仕事の中に自分の素を適度に獲得しつつ、自らの専門性を地域コミュニティに転用する−僭越ながら「職開き」と(勝手に)命名しましょうw。

そして…「無理して開かなくたっていい」とも著者は言う(前書きでw)。「開いているところに参加するだけでも今まで味わったことのないようなコミュニケーションの回路を手に入れることができるはず」という指摘もまた重要。参加する人がいての「住み開き」なわけですからね。

この著者の最新刊「コミュニティ難民のススメ」も実はもう買っているので、近く読んでみたいと思います。

住み開き―家から始めるコミュニティ
アサダ ワタル
筑摩書房
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観客は身勝手と自覚した話【鑑賞「バケモノの子」】

あらすじを知って、前作「おおかみこどもの雨と雪」をどうしても思い出してしまった。前作が母性の話なら、今作は父性の話かな、と。おおむね予想通りでした。

人間界とは別の、バケモノたちが住む世界「渋天街(じゅうてんがい)」。渋天街に紛れ込んだ人間の少年・蓮はバケモノ「熊徹」と出会う。蓮は「九太」と名付けられ、熊徹の弟子になる。粗野な熊徹と共同生活をするうちに親子のようなきずなが生まれる二人。成長した蓮は人間界と行き来するようになり、自分が本当に進む道を考え始める。そんな中、渋天街を揺るがす大事件が起こる…

人間界で行われるラストバトルには若干物足りなさが残る。鯨をモチーフにしたのは正直詰め込みすぎではないのか(「白鯨」のエピソードはなくても良かったのではないか)。(結局そうはならなかったとはいえ)敵の倒し方を蓮が知っていたのはなぜか。敵の前に立ちふさがって「私だって闇を持っている!」というヒロイン・楓は正直ウザくないか…とかですね。

キャラクター総登場のキービジュアルもお馴染みですねぇ
キャラクター総登場のキービジュアルもお馴染みですねぇ

でもそこで蓮を助けるために現れる熊徹が良かったのですよ。父性とはこうあってほしい、という作り手の思いが見事に形になっている。

バケモノの世界「渋天街」は、外見が動物人間なだけの連中が現代のトルコかモロッコのような街でふつうに暮らしていてあまり異世界観がない。長老級になると超能力が使え「転生」もできるらしい、人間の心の闇を恐れている、などの設定はせりふで説明される。

渋天街やバケモノたちに必要以上の特殊能力を持たせていないので話がご都合主義になっていない。日常とは違う「だけ」の場所になっていて、今作で語るテーマに普遍性を持たせていると思います。

そんな中、長老以外で超能力(念動力)が使えるのは人間だけ、という設定はキャラクターの行動のみで表現しているのが巧い。ファンタジー、アクションとしての面白味をちゃんと入れているんですね。

で、その「父性」ですが。前作が母親ひとりで子供2人を育てる話だったのに対し、今作は子供1人を男3人で育てる話になっているのが興味深い。その3人がそれぞれの役割を担っている。たとえるなら人としての熱さ、知性、冷静さ、か。

中盤から登場する蓮の実の父も興味深い。成長した蓮にこれまでの話を根ほり葉ほり聞こうとはしない。蓮の自主性に任せている。成長した子供にはこう接してほしい、ということかなー。

かたや敵になる存在の生まれた理由ー育てられ方の違いーもさらりと描写され、蓮との違いを示した。秘密はいつか、きちんと打ち明けなくてはいけないんですよね…。

前作の感想で、2人の「おおかみこども」を育てる花と正反対の行動をとる母親(子供の進路に口出しするような母)なんてのを出して対比されたら最悪だった…と書いていた。

今作では対比する存在を出してきながらもその相手、その周囲の人々も赦されて終わる。存在するすべての者に優しい視点を貫いた、安心のクオリティでした。

しかし…極めて高いレベルで万人受けするような作品だからこそ、観客側からのないものねだり、欲張りだとわかっていても、もっと何か惹きつける、忘れられないシーンが欲しかった。

良いエンターテイメントを意味する「期待に応えて予想を裏切る」という言葉を耳にしたことがある。今作は、期待には十二分に応えてくれたけど予想を裏切るまでには至らなかった。ええそうですよ、こっちの期待値がそれだけ上がってしまってたんだなぁスミマセンモウシワケアリマセン。

というわけで、次作はちょっとくらい設定や物語に矛盾や一見して不明な点があってもそれをぶっ飛ばすような物語世界を見せてほしい。そんなことが許されるアニメ監督ってもう細田監督しかいないんで…。

 

魅力的なのは人間か恐竜か?な話【鑑賞「ジュラシック・ワールド」】

ラプトール!!!!レェェェェックス!!!!(歓喜の叫び)

遺伝子操作で現代に甦った恐竜たちが人間たちを蹂躙する「ジュラシック・パーク」22年ぶりのシリーズ最新作。今回は今まで以上に恐竜の魅力たっぷりの作品になっておりました。

初期のトラブルを乗り越えついに開場した恐竜テーマパーク「ジュラシック・ワールド」。そこでは見物客の興味をさらに引こうと恐竜の遺伝子操作を繰り返し、対人兵器への応用も密かに計画されていた。そんな中、遺伝子操作で生まれた最強恐竜「インドミナス・レックス」が脱走。パークを大混乱に陥れる…!

正直、ツッコミどころは多いです。登場人物に「プロの矜持」を持った者がいないのが何より惜しい。生で見る恐竜にテンションバカ上がりなのになぜか1シーンだけ「パパとママが離婚しちゃうかも…」と泣いている弟グレイ。恐竜には無関心だったのにパークに非常事態がアナウンスされているにも関わらず「おまえ恐竜見たかったんだろ。パークを楽しもうぜ」とコースをそれて恐竜見物を始めインドミナス・レックスに弟ともども襲われる兄ザック。パークの現場責任者ということで通常時は兄弟の扱いを秘書任せにしてたくせに緊急事態になって2人が行方不明になると職場をほっぽりだして探しに行く兄弟の叔母クレア。ラプトルを手なずけつつあったとはいえパークの混乱が収まらないからラプトルを恐竜退治に使おうとすると怒り出す大局観のない、クレアのモトカレで元軍人のオーウェン。

「ジュラシック・ワールド」パンフ
あのテーマ曲も流れて感涙なんだけど、場面とフィットしてないんだよなぁ!

オーウェンくらいかな「恐竜を人間がコントロールするなんてできない」的なことを言ってたのは。それでもオイ!とつっこみたくなったのは上記の場面。オーウェンにラプトル使用を言うのは今作の悪役的立場の人間なんだけど、この場面だけは「こいつの言うことが正しいわ」と思ってしまいました。

人間が管理していた恐竜たちが暴れ出す話なので、ワルい奴ズルい奴ダメな奴はいてもいいけど、プロもいてほしかったのですよ(結局恐竜に負けてしまうとしても)。第1作にはいたんだよねー。

話が進めば進むほど、登場人物のほとんどに魅力を感じなくなっていくのでした。都合良くトランシーバーが通じなかったり、ヘリコプターのパイロットが足りなかったりと不自然な点も多いしなー。

しかしその中で、反比例的に恐竜たちが面白くなってくるのが今作の特徴。インドミナス・レックスが恐竜をただ殺す、という場面は他の恐竜とインドミナス・レックスに一線を引き、インドミナス・レックスを純粋な敵へ仕立て上げる、いい伏線でしたよ。

小型肉食恐竜ヴェロキラプトルに知能があって、人間とも意思の交換ができるかも、という設定は前作で提示されていたもの。それを生かしてラプトルとオーウェン、インドミナス・レックスがぶつかり合うラストバトルも泣ける。

そしてインドミナス・レックスを倒すため解放されるあの恐竜!遺伝子操作の化け物に対峙する「ジ・オリジン」(仮名)!ですよ。大スターが満を持しての登場!中盤ではちらっと姿を見せてただけの演出がここで利く!アオり気味のカメラアングルと相まって非常にアガッてグッとくる名場面!

とこのように、もうクライマックスは完全に恐竜が主役。何なら足下にいる人間たちを2、3人踏んづけてもいいぞとか思ってしまったw。しかしそんなことは起こらず(残念)、パーク内に去っていくラプトルと頂で雄叫びを挙げる「ジ・オリジン」(仮名)に胸を熱くして映画は終わるのでした。

思い返すとこの映画、研究室で恐竜(たぶんラプトル)が誕生するシーンから始まった。なのでラプトルの立場で話を追うと…

人間の都合で生を受け人間と仲間になろうとしていたが真の仲間は誰かを知り、裏切られたとばかりに暴れるがオーウェンだけはやっぱり別…と思っていたけどおいインドミナス・レックス何すんだ貴様ぁ!(以下略)…

と、完全にラプトルが主役。人間は脇役。そう思って見ると倍楽しめるはずですw。

人間も恐竜も本能の赴くままなんだけど、恐竜の方が魅力的なのはなんででしょう~