人は丁寧に生きていく話【鑑賞「海街diary」】

是枝裕和監督の作品を全部見ていないのに言うけど、これがベストかなぁ。観客も多かった…!

原作は漫画家・吉田秋生の「海街diary」。鎌倉で暮らす3姉妹が、死んだ父の腹違いの娘・すずを引き取ることに。父親に捨てられた3姉妹と、彼女たちに対し密かに自分を責めるすず。互いのふとした言動に戸惑いながらも静かに心を通わせていく話でした。

これでいいのだ、という世界でした
これでいいのだ、という世界でした

説明的なセリフが極力省かれ、かつ、3姉妹が父の死を知ってすずを鎌倉に呼ぶまでが割とあっという間に描かれるので、最初は登場人物の関係や心理状態を掴むのがちょっと苦労する感じ。3姉妹の真ん中・佳乃(長澤まさみ)が恋人と別れた理由もよくわからなかったし(本筋とはあまり関係はないけど)。

しかし、すずが鎌倉で過ごし始めてからは、急に描写がじっくりとした感じになる。自宅の古い日本家屋で梅酒を作る、縁側で涼む、カレーを作る。近所の馴染みの定食屋に行く。サッカークラブでボールを追う。仕事に打ち込む。桜道を自転車で駆ける。花火を見る。友達の家の仕事を手伝う。法事に出る。葬式に出る。墓参りをする。そして海辺を歩いていく。

大きなドラマやキャラクターの感情の爆発などは起こらない(ちょっとした口喧嘩はあるけど)。なんということもない日々の暮らしを断片的につづりながら、4人姉妹を中心に人々の丁寧な暮らしを描いた作品でした。

「丁寧な暮らし」というと、こざっぱりした家でナチュラル&スロー&オーガニック…みたいな、雑誌で描かれるようなライフスタイルのイメージが(身勝手に)あるんだけど、もう少し、地に足をつけた丁寧さってこの映画で描かれている世界かな、と思ったのでした。

印象的だったのは長女・幸(綾瀬はるか)が再会した母にちょっと冷たく当たりながらも、別れ際に母に自家製梅酒を持たせる場面。床下に置いている大瓶から梅酒を小分けするショットが丁寧さを印象付けたんですよねー。

もちろん映画の世界だから現実よりちょっと綺麗に描いている面はある、でしょう。パンフレットにある是枝監督のコメントの中で印象的だったのは、4姉妹が自宅2階の窓から外を見る場面で「自然にはこんなふうに並ばない」と言っていること。フィクションとしての心地よさがさりげなく計算されてはいるのだ。

しかし、だからこそ、見終わった時に、観客一人一人の生活だって客観的に見ればこの映画のように輝いているのでは、と思わせてくれる。

物語終盤、4姉妹の父の生前の様子を知っている喫茶店のマスター(リリー・フランキー)が、すずにぽそっとかける一言が良かった。離れた場所から見守る大人ってカッコいいものです。

女性らしさも様々という話【鑑賞・ガール展】

男性でも楽しめると思います。
男性でも楽しめると思います。

高鍋町美術館が「攻めて」きましたよ…。

今月28日まで開催中の「宮崎アーティストファイル『ガール展』」を見てきました。県外招待1人を含む10人の女性アーティストを美術館が選んで企画したグループ展。初の試みだそうで、タイトル通り女性らしさをどの作品からも感じました。

女性らしい作品といってもカワイイ、キモカワなど方向は様々。毒のある…「病んでる」というと言いすぎ?…作品もありました。

でもそんな作品でも、どことなくチャーミングだったり清潔感があったりする。男の作家だったらもう少し感情が強く出るのかも。絶妙の感覚だったと思います。その辺が「ガール」たる所以か?

会場内には作家を紹介するボードが置かれ「キュレーターズボイス」として各作家の特徴を要約してくれているのが、鑑賞の手助けになっていました。

個人的に気に入ったのはしおれた花をモチーフにしていた川畑清美(油絵)、鏡をうまく使う屈折した作風が波長に合った古庄千夏(彫刻)、異素材を複合的に使ってポジティブなメッセージを感じさせた杉尾幸(絵画、彫刻)でした。

次はどんなテーマで開いてくれるのか、興味深い催しでした。

変化は静かに進む話【鑑賞「チャッピー」】

人工知能やらロボットやらSF好きには既知のガジェットが頻出しながらも、ひねりのある話が出来てました。

治安維持のため人型ロボットが導入された2016年(!)の南アフリカ・ヨハネスブルグ。ロボットの発明者ディオンはさらに人工知能プログラムの開発にも成功するが、会社からは研究を止められる。諦めきれないディオンは廃棄寸前のロボットに密かに人工知能を導入しようとするが街のチンピラ達に襲われ、人工知能プログラムをインストールしたロボットを奪われる。何も知らない子どものように振る舞うロボットはチンピラ達に「チャッピー」と名付けられ、言葉とともに生死が隣り合わせの社会の厳しい現実、そして自分のバッテリーが尽きかけていることも知って…。

人工知能が空っぽの状態のロボットがチンピラ達と出会う、というのが本作の一つのキモかな、と。人工知能プログラムがインストールされてから急に生々しく動く「チャッピー」が実に印象的。スラングやギャング的振る舞いを知るだけでなく、元が警察ロボットなので街の真ん中に放り出され、他の不良達に「いじめられる」という見ていてキツイ場面もあります。

フィギュア出ないかなぁ…
フィギュア出ないかなぁ…

この作中、倫理的に振舞おうとするキャラクターはロボットのチャッピーくらい。チャッピーの「想像主」ディオンも社のルールに違反してロボットのプログラム更新に必要なUSBメモリを持ち出しているので、完全な善人ではない。いっぽうでチャッピーを利用するチンピラ達も敵に襲われた時は自身を犠牲にして仲間を逃がそうとするなど、完全な「悪」とは描かれない。

チンピラの親玉は出てくるけど、荒廃した街で金と力を独占しようとする「あるある」的キャラクターだし、チャッピーを破壊しようとするディオンと同じ社のライバルも、やったことはいけないんだが「人工知能は危険だ」と考える存在なのである程度の説得力がある。

ロボットに人工知能がインストールされてチャッピーが誕生するまではちょっと退屈な展開(正直「ロボコップ」風なんだよなぁ)だったのだが、個々人が勝手な振る舞いを取った結果として結末になだれ込むので、クライマックスがどうなるか見えにくい面白さがあった。この監督のメジャー第1作「第9地区」もそんな感じだったな。

そういう意味では「面白い!」と思った後のエピローグが若干冗長だった気もする。あそこまで描く必要はあったのかな…匂わせるくらいでちょうどよかった気もする。

今作では「人工知能が限りなく人間に近づいたらどうなる?」という問いかけに一つの回答を描いている。今作を見ている間は「そんなテーマ、日本なら「攻殻機動隊」シリーズ(もうすぐ新劇場版公開!)などで繰り返しやっとるわ」と斜に構えていたのだが、(ほぼ)現代を舞台にしたことで、今作の着地点がかなり違っている…端的に言うとマイノリティーになってしまった点…のが印象に残った。

社会は先進的技術をなかなか受け入れないものだけど、変化は少数者から生まれる。現実から目をそらさずに変化への胎動を感じさせ話でした。

勇気は身近なところにあった話【鑑賞・シンデレラ】

公開から結構経ってしまったので弱干興味が薄まりつつ、いざ見てみたら、なかなか面白かった作品。

おとぎ話の古典「シンデレラ」の実写映画化。ディズニーが手掛けたこともあり、最近の「アナと雪の女王」「マレフィセント」を思い出すと、何か余計な手を加えてないかと多少訝りながら見ました。

いい意味でディズニーらしい映画でした。
いい意味でディズニーらしい映画でした。

ちょっとニュアンスを加えている程度の、上品な実写化でしたね。良い作品でしたよ。

良かったのは、結婚相手を「『小国』の王子」として、王子や王様が国力維持のため政略結婚を考えざるをえない立場に置いたこと。シンデレラをいじめる継母にコンプレックスを忍ばせたこと。

主役以外に「弱さ」を持たせたので、物語に深みが気がします。

余談ですが「ガラスの靴」ってディズニーの創作だったんですね。

「本当の魔法は、あなたの勇気」という惹句も、今回は的を射ていたと思う。シンデレラという話で何故勇気が出てくるのかと思ったけど、今作で描かれる勇気は、強大な敵に立ち向かう類いのものでなく、耐えるとか許すとか、相手が雲の上の存在でもちょっと声をかけるとか、そんな身近な勇気だったように思う。

折角なんだから、最後に二人が式を挙げるのは、「あの城だったら完璧だったかも。冒頭にあの城が出た時は「ディズニーだから当たり前」と特に気にならなかったんだけど…。

文もまた「力」だった話【書評「光圀伝」】

「光圀伝」表紙
なるほど「虎」のような人物でした。

テレビの中でカッカッカッと笑ってた好々爺のような様は、最後まで出てきませんでした(助さん格さんは出てくるけど)。むしろ冒頭で家臣を刺し殺してるし。

時代劇にもなった「水戸黄門」こと水戸光圀の生涯を描いた、「天地明察」に次ぐ冲方丁の時代小説。「天地明察」にもちらりと光圀は登場するのだけど、そこで描かれるのは、幕府に巨大な影響力を持ち文武に長けた、あまりに強大な存在としての光圀像。しかしそこに至るまでには苦難の過程があったのだ。

兄がいながら水戸藩を継ぐことを命じられた光圀。「なぜ自分が?」「自分がなすべきことは?」苦悩する光圀は酒場に入り浸るいっぽう、詩歌に救いを求めていく。「詩歌で天下を取る」と豪語する光圀の前に現れる、鼻っ柱の強い儒学者・読耕斎や、自分の苦悩を心の底から理解してくれる妻・泰姫。彼らとの出会いや別れ、江戸を襲い全ての書を灰にした大火を経て、光圀は歴史書の編纂という事業を持って、戦国の世から学問の世に移そうとしていく。しかしその意思を汲み間違うものが現れて…

史実の光圀は時代劇のように諸国を漫遊していないこと、歴史書「大日本史」編纂を手がけたこと…は知っていたけれど、ここで描かれる光圀像は豪胆でありながら迷い、悩む存在。心を通わせた人たちにも次々と先立たれ、自分の「義」ーなすべき事ーを実際に起こす時、そばには読耕斎も泰姫もいなかった。しかし生前の彼らに「自分の信じた通りにやればいい」と励まされていた事が最後まで光圀を動かした。

しかしその先にあったのは苦い現実。戦国の世でなくなったことを実感するのは、将軍が愚鈍でも幕府が揺るがなくなったからであり、世を安定させるために史書編纂を推奨したら、光圀からすると絶対認められない大義を編み出す家臣が現れる。冒頭の処刑が再び描かれるクライマックスは胸が痛む。

この時、家臣が光圀に言う「大義」。作者の創作だろうけど、それを言わせたことで現代人である我々からすると、「うむむ…!」と唸ってしまうんである。時代を越える学びの力と、学びの力が呼ぶ死の匂い。

武だけでなく文もまた、力になる。世に平定を与えるには「力」をどう使うか。そこに「義」もあるのでした。若輩、立つべし!