裏切っても信じる話【鑑賞「沈黙 -サイレンス-」】

(宗教的な)愛の形について考えさせられたヘビー級の一本でした。

【作品解説】
刊行から50年、遠藤周作没後20年の2016年。世界の映画人たちに最も尊敬され、アカデミー賞にも輝く巨匠マーティン・スコセッシ監督が、戦後日本文学の金字塔にして、世界20カ国以上で翻訳され、今も読み継がれている遠藤周作「沈黙」をついに映画化した。
【ストーリー】
17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教 (信仰を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは 日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。
日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々―
守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―

公式サイトより)

原作を読まずに臨んだのですが、まず印象に残ったのはナレーションの多さ。原作が手紙や記録形式で登場人物を描いたことの反映なのでしょう。とはいえ、もう少し絞った方が良かった気もする。説明過多な印象が残ったのです。特にエピローグ、「決断」した後のロドリゴについてナレーションはあんなに必要だったかな…。

作中度々登場する拷問シーンは意外と冷静に見られました。舞台が江戸初期ということで、別世界のように思えたからかもしれません。昔は酷かったねぇ、という感じ。これが現代の話だったらちょっと正視できなかったかも。

自然音しかない音楽構成も見事でした。

侍たちは、警察の取り調べで容疑者にカッとなる若い刑事と彼をなだめて容疑者に優しく接する老刑事といった趣。単純な悪人として描かれないのも奥深い。ロドリゴに棄教を迫りつつどこかロドリゴと共感しているようでもある。

この話の中で一番怖いのは拷問シーンではありません。拷問の前後に踏み絵を迫る際、侍たちがキリシタンたちに「形だけだから」と優しく言う場面が一番ゾッとするのです。踏むよう脅さないのがかえって怖いのです。精神と一つになった肉体を殺すのも怖いけど、肉体は生かされつつ精神を切り離すのも恐ろしい。人はこうやって自分でも思ってない方に進んでしまうのか…。

と思わされる一方で、何度も踏み絵を踏みまくり、何度もロドリゴに懺悔するのがキチジロー。信仰を捨てたのか捨ててないのか、したたかを通り越して、現代の視点で見ても分からない存在になっていました。

でもキチジローこそ、ある種の理想としてこの話の中に存在していたことにクライマックスで気づかされる。裏切り者のはずが、どんな状況でも同じように寄り添ってくれる存在に見えてくる。捨てたはずの信仰が、神が、相手の側から寄り添ってくれるような。

クリスマスも正月もフツーに祝う、宗教にこだわりのない身ではありますが、見えない大きな立場の愛を感じた場面でした。

ロドリゴの生涯からは神と人の一筋縄ではいかない関係が伝わる。神への愛と裏切りの形は簡単に決められないのでしょうね。