猿の生き様を見届けた話【観賞「猿の惑星 聖戦記」】

男一匹、よくぞ生き切った。一個のキャラクターに焦点をしぼりつつ、知性の意味についても考えさせられた話でした。

【作品紹介】
ウイルスによる突然変異によって高度な知能を得た猿達の反乱、人類が築き上げた文明社会の崩壊、猿と人類の戦争の勃発という衝撃的なストーリーを描き、全世界を震撼させた『猿の惑星』シリーズ。2011年の「創世記(ジェネシス)」2014年の「新世紀(ライジング)」に続き、「聖戦記(グレート・ウォー)」と題された最新作では、ついに地球の歴史が塗りかえられ、新たな支配者が決する激動のドラマと圧倒的なスケール感みなぎる壮絶なアクション・バトルが繰り広げられていく。
【ストーリー】
猿と人類の全面戦争が勃発してから2年後。シーザー率いる猿の群れは森の奥深くに秘密の砦を築き、身を潜めていた。そんなある夜、奇襲を受けたシーザーは妻と年長の息子の命を奪われ、悲しみのどん底に突き落とされる。軍隊を統率する敵のリーダー、大佐への憎悪にかられたシーザーは大勢の仲間を新たな隠れ場所へと向かわせ、自らは復讐の旅に出る。シーザーは大佐のアジトである巨大な要塞にたどり着くが、復讐心に支配され冷静な判断力を失ったシーザーは大佐に捕獲されてしまう。しかも新天地に向かったはずの仲間の猿たちも皆、この施設に監禁され重労働を強いられていた。リーダーとしての重大な責任を痛感したシーザーは仲間たちを“希望の地”へ導くため命がけの行動に打って出る…。

公式サイトより)

今作を劇場で見るために未見だった旧シリーズ5本、前々作「創世記」と前作「新世紀」も追いかけましたよ。わずかな仕草と服から出ている部分だけが猿っぽかった旧シリーズと比べ、この3部作は(旧シリーズと同じように)猿を人が演じているにも関わらず立ち居振る舞いが圧倒的にリアル猿。なおかつシーザーの表情などは本物のチンパンジーのそれではなく明らかに表情が読み取れる意匠が施されている。深く感情移入ができるんです。リアルとフィクションの絶妙な配合。CGの進化は素晴らしいなぁ。

旧シリーズで描かれた「猿の惑星」が誕生する契機となるであろう出来事を、現代を舞台に描いた「創世記」、人類と猿達の抗争勃発を描いた「新世紀」。両作で問いかけたのは「知性とは何か」と理解しました。薬物投与で人間の言葉が理解できるようになった猿、というのはフィクションとしてのきっかけで、真の知性とは他者を受け入れることではないのか、という問いかけが両作ではなされました。猿が知的で人が獣的、という単純な入れ替えではない。猿でも人でも他者を受け入れられない者はいる。それが知性の影の面、ということを特に前作「新世紀」では描いていた。

旧シリーズに心憎い目配せもしたシリーズでした

で、3部作の完結とされる今作「聖戦記」。局地戦とはいえ異種間の闘争勃発を描いた前作からすると話のスケールは小さくなった。妻子を殺されたシーザーの復讐が物語の中心で、シーザー率いる猿達は防衛に徹し人の手の及ばないところへ逃げようとするだけ。異種間闘争の決着は描かれない。まぁこれは、猿と人が直接争わなくてもウイルスで人がどんどん減り異常化もしていくので自然に決着はついてしまうのですよね。

でも過去2作の魅力だった知性への問いかけは今作でも描かれている。今回のテーマはさしずめ「団結と分裂」か。困難な時に知性はどう使われるべきか、が描かれていると思ったのです。異常化していく自身に耐えられず殺しあったり自ら命も絶ったりと知性の無駄遣いをする愚かな人間どもに対し、我らが猿達はこう誓うんですよ。「Apes Together Strong」と。Together Strong!Together Strong!(劇中のポーズ参照)

この3部作で観客が人間側でなく猿側、とくに猿のリーダー・シーザーに惹かれてしまうのはシーザーが最後まで知性を正しく使おうとしつづけたからでした。あるべき姿を貫き通した一匹の猿の生き様は最後まで眩しかったぜ…!

御大の言葉をかみしめた話【書評「富野に訊け!!」】

アマゾンの電子書籍「KINDLE」5周年セールで買った1冊。思いの外、読み応えがありました。

【内容紹介】
『機動戦士ガンダム』監督による破格の人生相談がついに電子書籍になりました! 対人関係から勉強、仕事、恋愛、生と死の深淵まで、富野監督が人生の大疑問に全力で答えます。「どうすれば、他人に優しくなれるのか?」「異性と普通に話ができるようになりたい」「仕事にやりがいが見いだせない……」。多くの人が抱える悩みに対して、時に厳しく、時に優しく語られる言葉の数々は、人生に惑うあなたにきっと一条の光を与えてくれるはず。今日厳しく感じられる言葉も、十年後には正しいアドバイスだったと実感します。人生に迷ったときは、富野に訊け!! (月刊「アニメージュ」連載・アニメージュ文庫『富野に訊け!!』を電子書籍化)。
【著者略歴】
富野由悠季
1941年神奈川県生まれ。アニメーション監督、小説家。64年に日本大学芸術学部映画学科卒、虫プロダクションに入社しテレビアニメ『鉄腕アトム』のスタッフとなる。67年に退社後、CMディレクターを経てフリーの演出家に。72年に『海のトリトン』で実質的に初のチーフディレクターを務め、79年に『機動戦士ガンダム』の原作・総監督となり、のちに世の中にガンダム・ブームを呼び起こす。以後、現在まで多数のオリジナルテレビアニメの原作・監督を務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

(Amazonの書籍紹介ページより)

作品自体は見たことがなくても「ガンダム」というアニメ作品の存在は広く知られているはず。「ガンダム」のほかにも著者はテレビ向けに数々のロボットアニメを制作してきました。作品に出てくる登場人物に共通の芝居掛かった独特の台詞回しや、あまりに個性的な著者自身の存在も話題なのです。

骨太オヤジっていつの時代にも求められるのです。

同じアニメ監督としてテレビに登場する人では、宮崎駿もなかなか口の悪いヒトでしたが、この著者は宮崎駿以上の毒を吐く。しかも表現がややこしいw。なおかつ自分のコンプレックス、妬みを臆面もなく晒す。下で働くのはまず間違いなく大変な人です。

しかしこの人には目を離せない魅力がある。先述した自分のダメなところも晒しながら周囲を批評しまくるので、強い部分と弱い部分がないまぜになる姿が正直でもあるし、主張に説得力を持たせているのです。

この本はアニメ雑誌「アニメージュ」に2002年から2009年にかけて連載された、読者からの人生相談。一番痛烈なのは「仕事にやりがいを見出せない」という質問への回答か。著者はこの質問者の手紙が読ませ方、見せ方についてまるで考えていない、質問者は社会人としての立ち居振る舞いが身についていないと批判した上で「治療法はない」「アニメ雑誌なんかにこういう質問を持ってくるのは甘え。もっと上等な雑誌に持っていくはず」と、けんもほろろ。掲載誌までとばっちりを食う始末。

でも質問者本人にとっては気の毒だけど回答の最後「ちょっとした文章だけでも人の品位や性格は伝わってしまう」という著者の言葉にはハッとさせられる。まずそういうところから鍛え直せ、ってことだろう。文面に書かれている以上のものを読み取ろうとするのが興味深い。

「アニメ監督になるには?」という高校生の質問への回答は内容が面白いように二転三転。「(著者自身が)高校生の時は絵や小説をどんどん書いていた。何もしてないなら君は普通の人。以上です。」とあっさり結論を下した上で「貴方がなぜアニメに簡単に興味を持ったか」に問いを変え、答えもくれる。それはアニメ雑誌を迂闊に読んだから。つまり…

あなたが世間に溢れかえった情報をそのまま受け止めてその情報を「良い」と判断してしまうのは、あくまであなたが受け止めているその情報の「量」が多いだけの話なのです。

この後の著者の真の結論は、だから若いあなたは色々な体験をして自分のやりたいことを探してください…となるのだけど、抜き出したこの部分、タコツボ化した今のネット社会への警告にもなっていないか。いろいろに読み取れる楽しさがあちこちにあるのです。

創作の世界に憧れた若者が就職難の中、当時は社会的に目立たない産業だったテレビアニメ制作プロダクションに入社し、いつか実写映画を撮る日の為にとアニメ監督の仕事を続け、実写の仕事はこないけれどアニメ監督として名をあげた。そんな自分に忸怩たる面もあるが悪くないとも思っている−。欲望と諦観を重ね持つ先達の姿はハードボイルド。人生の全てを体現しているような著者は、ファンが呼ぶ通り、まさしく「御大」なのです。

富野に訊け!! (アニメージュ文庫)
徳間書店 (2014-10-24)
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ちなみにテレビアニメ「機動戦士ガンダム」の制作から打ち切り、その後の再評価の顛末はこのマンガで描かれています(キャラクター描写は誇張されてるけど)。

「ガンダム」を創った男たち。上巻 (角川コミックス・エース)
KADOKAWA / 角川書店 (2014-08-11)
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「ガンダム」を創った男たち。下巻 (角川コミックス・エース)
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奪い奪われ与える話【観賞「散歩する侵略者」】

日常が静かに終わる異常な感じを堪能しました。

【イントロダクション】
国内外で常に注目を集める黒沢清監督が劇作家・前川知大氏率いる劇団「イキウメ」の人気舞台「散歩する侵略者」を映画化。数日間の行方不明の後、夫が「侵略者」に乗っ取られて帰ってくる、という大胆なアイディアをもとに、誰も見たことがない、新たなエンターテインメントが誕生しました。侵略者たちは会話をした相手から、その人が大切にしている《概念》を奪っていく。そして奪われた人からは、その《概念》が永遠に失われてしまう。「家族」「仕事」「所有」「自分」…次々と「失われる」ことで世界は静かに終わりに向かいます。もし愛する人が侵略者に乗っ取られてしまったら。もし《概念》が奪われてしまったら。あなたにとって一番大切なものは何ですか?
【ストーリー】
数日間の行方不明の後、不仲だった夫がまるで別人のようになって帰ってきた。急に穏やかで優しくなった夫に戸惑う加瀬鳴海。夫・真治は会社を辞め、毎日散歩に出かけていく。一体何をしているのか…?
その頃、町では一家惨殺事件が発生し、奇妙な現象が頻発する。ジャーナリストの桜井は取材中、天野という謎の若者に出会い、二人は事件の鍵を握る女子高校生・立花あきらの行方を探し始める。
やがて町は静かに不穏な世界へと姿を変え、事態は思わぬ方向へと動く。「地球を侵略しに来た」真治から衝撃の告白を受ける鳴海。当たり前の日常は、ある日突然終わりを告げる。

公式サイトより)

黒沢清の作品は最近見てなかった。「CURE」や、特に「回路」がこんな雰囲気の話だったかなー、と記憶しています。

宇宙人が(宇宙人として)登場しないSF映画ですね。静かに侵略を始める宇宙人たち、それを察知し対抗を始める人類(のリーダーたち)。一般人類は何も知らない。全体がおぼろげながらも見えているのは鳴海や桜井(と観客)くらい。

長澤まさみがよかったですねー。

この「全体がおぼろげに見える」感じが絶妙にコワイ。鳴海や桜井の後ろを普通に歩いている一般人たちが宇宙人に見えてくる。この作品、登場人物が街を歩く場面が何度かあるのだけど、後ろに写っている人たちが普通の映画より明らかに多い。意図的に人が配置されている感じもして、気味の悪さを増幅させている。

「概念を奪う」という宇宙人の特殊能力が発揮される場面もヒヤリとする。奪われた人間がへたり込むあの瞬間。薄気味悪かったですねー。

いっぽうで鳴海のエピソードと桜井のエピソードが分離しすぎてたかな、という気はします。桜井側の宇宙人2人がもっと鳴海側に執着するのかと思ったらそうでもなかった。両者が出会ってもさして何も起こらなかったのが残念なところ。

エピローグでの鳴海も、その直前までの描写と違いすぎてた気が。へたり込むことなく「何も変わらないけど?」と言ってたのになんでああなったのかな。中盤で神父が愛の定義を語る場面があるのだけど、今作での「愛」という概念が、そこで神父が語る愛と同じものであるなら、ああいう結末にはならないのではないかな。やはり愛も概念の一つであるならば、奪われたら尽きてしまうってことではあるんだろうけど。

ともあれ、「愛」の概念がカギだというのはメロドラマ的要素を強めてて、話を盛り上げたのは間違いない。そう考えるとひたすら暴力描写でひっぱっていた桜井側のエピソードも最後には愛があったと解釈できる気がしてきた。桜井も鳴海も最後は自分を捨てたのだから。

奪う者と奪われる者のドラマで最後に姿を見せる「与える者」。彼らこそ最も不可解で、それゆえに魅力的な存在でした。もらった側が「なるほど」で済ませず、ずっと影響を与え続けるのが愛、と言えるでしょうか。

気持ちのやり場がどこにもない話【観賞「エイリアン:コヴェナント」】

「つまらないですよ」「面白いらしいよ」と真逆の評価を聞いたので前作「プロメテウス」を鑑賞した上で臨んだのですが…うーむ。

【イントロダクション】
メガヒット・シリーズ「エイリアン」の創造主である巨匠リドリー・スコットが直々にメガホンを執った待望の最新作「エイリアン:コヴェナント」は、これまで謎のベールに覆われてきた“エイリアン誕生の秘密”を解き明かす物語だ。その背景となるのは第1作「エイリアン」の20年前にあたる時代。シリーズの原点に回帰し極限の緊張感とバイオレントなショック描写の演出に腕をふるったリドリー・スコット監督は、息もつかせぬストーリー展開の果てに「誰がエイリアンを創造したのか?」という大いなる疑問の答えを提示していく。
【ストーリー】
人類の植民地となる惑星オリガエ6への移住計画のために、2000人の男女を乗せて地球を旅立った移住船コヴェナント号が、航海中に宇宙空間で大事故に見舞われる。修復作業中に奇妙な電波を受信したクルーは、発信元の惑星を調査することに。やがて事故で夫を亡くした女性乗組員ダニエルズやアンドロイドのウォルターらが降り立ったその惑星は、自然環境が地球と極めて似通っていた。しかし美しい“宇宙の楽園”のように思われた未知の惑星には、あの凶暴な生命体エイリアンをめぐる恐るべき秘密が隠されていた…。

公式サイトより)

前作がヒットしたので続編、また続編…と統一感なく増築を繰り返すシリーズ映画の中で、前作「プロメテウス」はエイリアンの起源に迫ろうという話でした。とはいっても公開時は見逃したわけですが。公開時の宣伝がどっちつかずだった印象があるんですね。新シリーズ起動!とか打ち出すこともなく、エイリアンの前日譚らしい、と噂が広まっていたんで、よく分からなかった。

で、「プロメテウス」と「エイリアン:コヴェナント」ですが。確かに「エイリアン:コヴェナント」は「プロメテウス」続編で「エイリアン」シリーズの最新作です。増築し尽くした本館の隣に別館が建ち始めた趣。この2作は創造主と創造物の関係を色々な層で提示しているので、ドラマとして一つの筋が立ってはいる。人間がエイリアン化する、エイリアンに襲われる、などの映画的お楽しみもある。

表紙を飾るべきだったのはマイケル・ファスベンダーでは。

でも肝心の「創造主と創造物の物語」が今ひとつ面白くない。創造物だったアイツが創造主になったら面白いでしょ?という程度でしかない。偉大なる創造主という一神教的世界観を逆手に取ったのだろうけど、過去一連のシリーズで語られた顛末のきっかけは、コイツ一人に集約されるの?という点に説得力を感じられなかった。彼の創造への欲望は伝わるんだけども。

エイリアンの起源という点では、前作「プロメテウス」でほぼ語られているし、今作でエイリアンの創造主(人類の創造主でもある)種族「エンジニア」があっという間に丸ごと退場してしまったのももったいない。コヴェナント号のクルー達もとてもプロフェッショナルとはいえない。とくに序盤、着陸艇を失くしてしまう顛末はお粗末の一言。結果、どの登場人物にも感情移入しにくいのですよ。勝手にやってれば、という感じ。

ただ今作は明らかに次回作を意識した宙ぶらりんな形で終わるので、次回作できっちりケリをつけてほしい。創造主が創造物から逆襲される結末がないと落ち着かんぞ。次回作はひょっとしたらエイリアンに感情移入する作品になるのかもしれません。

謎が人をつなぎとめる話【鑑賞「三度目の殺人」】

宣伝上「サスペンス映画」と謳ってはいますが、実際はサスペンス映画でも社会派映画でもサイコ映画でもない、なんとも言いようのない作品でした。

【イントロダクション】
カンヌ国際映画祭・審査員賞受賞から全世界へと広がった「そして父になる」の熱狂から4年。是枝裕和監督×福山雅治主演というタッグに加え、名優・役所広司が是枝組に初参加。さらに「海街diary」に続き是枝組2度目の出演となる広瀬すずを加え、日本を代表する豪華キャストの共演が実現した。弁護士が覗いた容疑者の深い闇。その先に浮かび上がる、慟哭の〈真実〉とは。心震える心理サスペンスが完成した。
【ストーリー】
それは、ありふれた裁判のはずだった。殺人の前科がある三隅が、解雇された工場の社長を殺し、火をつけた容疑で起訴された。犯行も自供し死刑はほぼ確実。しかし弁護を担当することになった重盛はなんとか無期懲役に持ち込むため調査を始める。調査を進めるにつれ重盛の中で違和感が生まれていく。三隅の供述が会うたびに変わるのだ。金目当ての私欲な殺人のはずが週刊誌の取材では被害者の妻に頼まれたと答え、動機さえも二転三転していく。さらには被害者の娘と三隅の接点も浮かび上がる。得体の知れない三隅の闇に呑み込まれていく重盛。弁護に必ずしも真実は必要ない、そう信じていた弁護士が初めて心の底から知りたいと願う。その先に待ち受ける真実とは?

公式サイトより)

観客の「こういう話だろうなー」という甘い期待を最後まで裏切り続ける話です。人によっては「これで終わり?」と思うでしょう。結局何?何が言いたかったの?って。観客に対し不親切な一本だなぁとは思います。

福山雅治の困惑する様が今回も見所ですね

最初に「サスペンス映画でも社会派映画でもサイコ映画でもない」と書きましたが、gむしろそれらの要素が全部入っている、とも言えるのです。とくにタイトル「三度目の殺人」が象徴するのは、殺した動機が曖昧なまま下される三隅への判決なのでしょうから。その点から司法制度への疑問を投げかける社会派作品、と言えなくもない。裁判官、弁護士、検察の公判前整理手続きとか出てくるし。広瀬すず演じる被害者の娘の告白もそう。

いっぽうで小鳥のエピソードを留置所で話す三隅の様子にはサイコ映画の香りも濃厚。話している時の役所広司のあの手!怖かったですねー。

でも、特に三隅と重盛の留置所のシーンで顕著なのですが、三隅をあたかも聖者のように明るく映したり三隅と重盛が同じような存在かのように重ね合わせて映したりと、被告人・三隅の描き方は非常に凝っている。もちろんストーリー上も殺人の動機について周囲の発言はおろか三隅本人もコロコロ変えていく。変えていく理由もはっきりしない。あげく最後には…とこれ以上書くのは野暮か。

ただ三隅最後の告白が観客側からすると「はぁ?!」と困惑してしまうのは避けられない。なおかつその告白に重盛が乗ってしまうのもますます困惑させられた。被告にとって最大限の利益を引き出さればオッケーという立場だった弁護士が、そんな告白に乗ったら裁判上圧倒的に不利だってのは一般人でも予想がつきそうなものだけど。で、実際その通りになってしまう。重盛が三隅に強く影響を受けたのだろうな、とは察せられるのだけど違和感がかなり残りました。この辺、人を選ぶだろうなー。

鑑賞後に解放感を味わえる作品ではありません。困惑させられたまま放り出されてしまいます。でもこれって是枝監督の本を読んだ後の印象にも繋がるのです。「これが答えだ」と示されないのは監督の考える現実観の反映か。それを示してしまうことこそが「三度目の殺人」になるのか。もやもやとしたものを引きずっていくことで三隅は重盛や観客の中で生き続けるのでしょう。