リアルを伝える工夫がヒドイ話【視聴「ねほりんぱほりん」】

NHK、Eテレで仕掛けて来やがったですね…

番組内容は上記のビデオでお分りいただけるかと思います。レギュラー化第1回「偽装キラキラ女子」は見逃したものの(無念)、「元国会議員秘書」「元薬物中毒者」の回は見ました。バラエティ番組でタレントを顔を出さずに起用するのはNHKのパターンではあるけど、まさか人形劇とコラボするとは。操演技術のムダづかいというか有効活用というか(どっちだよ)。

カメラワークもトーク番組風の仕様。話し手にズームインしたり、相手の背中越し、テーブル越しから撮ったりと大真面目。でも撮っているのは人でなく人形。ズームアップしても強調されるのは人肌感でなく人形のフェルト生地感。意味あるのかよ!素晴らしいけど!

何と言っても人形劇と話し手(声)の一体感が本当に興味深い。本当に話し手が喋っているかのよう。いや、人形劇という仕組み上、話し手の人間以上に細かな仕草を入れているはず。特に聞き手・モグラの「ねほりん」「ぱほりん」にはまぶたがある。絶妙のタイミングで目をパチパチされるだけでも面白い。収録したトークをじっくり聞いて操演してるんだろうなー。手がかかってますよきっと。

人から聞いた話を視聴者に伝えるにはどんなメディアでも誇張&簡略化が避けられない。ましてエンタメ番組ならなおのことハードルが上がりそう。そんな中で生々しい話と人形劇という様式の組み合わせがびっくりするほどハマってます。リアルをどう伝えるかと考えるとなかなか深い番組のような気もしてきました。

それではもう一度テーマソングを聞いてお別れしましょう。某発動機メーカーが提供だったミニ番組のテーマ曲に寄せて来た聞けば聞くほどヒドイ歌です。着うた配信希望。

自分と向き合う話【鑑賞「怒り」】

全般的に重い話ですが救いもないわけではない、見ごたえのある作品でした。

<作品紹介>

原作:吉田修一X監督・脚本:李相日のタッグに音楽:坂本龍一が加わり挑む意欲作「怒り」。愛した人は、殺人犯なのか?家族や友人、ときに愛する人でさえ、簡単に疑ってしまう不信の時代に、本作は“信じる”とは?という根源的な問いかけを一つの殺人事件をきっかけに投げかける感動のヒューマンミステリーである。

<ストーリー>

ある夏の暑い日に八王子で夫婦殺人事件が起こった。窓は閉められ、蒸し風呂状態の現場には「怒」の血文字が残されていた。犯人は顔を整形し、全国に逃亡を続ける。その行方はいまだ知れず。事件から一年後、千葉と東京と沖縄に、素性の知れない3人の男が現れた。

(以上、公式サイトより)

作品紹介にあった通り八王子の事件は本当にきっかけにしか過ぎず、物語のメーンは千葉、東京、沖縄の話という全体の構造が、見る人によっては不満が残りそうな作品ではある。特にクライマックスは千葉、東京、沖縄の話に加え八王子事件の顛末まで目まぐるしく描かれ、しかも八王子事件は犯人自身の供述でなく、別件逮捕された男による伝聞という形になった。いきなり出てきた男に物語の肝心の部分(と思われる箇所)を語られるのは若干興ざめではあるんです。

「怒り」は「キレる」のとは違うんですよね。
「怒り」は「キレる」のとは違うんですよね。

でも先述の通り、視点を千葉、東京、沖縄の話に向ければ違う作品世界が見えてくる。各エピソードのクライマックスで噴出する「怒り」は、他者ではなく自分自身に向けられた「怒り」。人を信じられなかった自分自身への怒り。それが涙で終わるものもあれば、次の行動に繋がっていく話もあった。

その中で八王子事件の犯人が登場するパートだけは犯人の異質さ・不可解さも加わるため、観客は頭の中で、別に語られる八王子事件の真相と一致させないといけなくなる。観客だけが犯人の実像を知る構造になっている。その犯人像に戸惑わされたままこのパートの話は終わってしまう。パンフレットに掲載されている、犯人役の俳優のインタビューが人物像を理解するのに役立つと思います。何が起きているか説明しづらいのだけど見る側に確かに訴えかけるクライマックスを演じきったのは実に素晴らしかった。

思うに、犯人が持っていた「怒り」は自身にではなく他者に向いていたように思いました。それが他の登場人物との違いなのかな、と。

3人とも犯人ではない、というオチもアリかな…と終盤まで思っていましたが、人が「怒り」と向き合う姿を複数描くためにこうなったのかな、とも思います。自分の底流に流れる感情とどう向き合うべきか問う作品でした。

ロクデナシが憎みきれない話【鑑賞「SCOOP!」】

必ずしも善人とは言い切れない人物が主人公の映画って久しぶりに見たなぁ。

<作品紹介>
日本一撮られない男・福山雅治がまさかのパパラッチ役を熱演!「モテキ」「バクマン。」大根仁監督との初タッグで挑むのは、芸能スキャンダルから社会事件まで様々なネタを追いかけるカメラマンと記者の物語。原作は、1985年に製作された伝説の映画=原田眞人監督・脚本作品「盗写 1/250秒」。写真週刊誌の編集部を舞台に描く、2016年度最もスキャンダラスでスリリングな圧倒的エンタテインメント大作!
<STORY>
かつて数々の伝説的スクープをモノにしてきた凄腕カメラマン・都城静。しかし過去のある出来事をきっかけに報道写真への情熱を失ってしまった静は、芸能スキャンダル専門のパパラッチに転身。何年もの間、自堕落な日々を過ごしてきた。そんな彼に、再び転機が訪れる。写真週刊誌「SCOOP!」に配属されたばかりのド新人記者・行川野火とコンビを組まされる羽目になってしまったのである。まったく噛み合わずケンカばかりの静と野火。ところが、この凸凹コンビが、まさかまさかの大活躍で独占スクープを連発!そしてついに、日本中が注目する重大事件が発生する…。

(以上、公式サイトより)

パパラッチを主人公にした作品は洋画でも最近「ナイトクローラー」というのがあった(未見)。行為は必ずしも褒められたものではないがその仕事に対しての需要は絶対にあるという意味で、パパラッチは善悪の境界線上の存在のよう。原作映画で原田芳雄が演じた役を今回は福山雅治が担ったのが今作の肝でしょうね。汚れ役の主人公をもっとリアルにキャスティングするなら別の俳優なんでしょうが、福山雅治になったことで汚れ役だがスターの雰囲気がしっかり。幅広い客層を意識した作風になったと思う。熱量控え目、クールで都会的な雰囲気な劇伴(劇中伴奏音楽)やテーマ曲も好印象でした。

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糸井重里のコピーは目立つところにあまりなかったような。

序盤の静と野火がコンビを組まされる下り、(劇中ではコンビを組んで2度目になる)若手政治家スキャンダルを狙う下りに若干もたつきを感じたものの(野火のカンの鈍い描写を引きずりすぎ?)、その直後のカーチェイス以降は一気に見せていく。主要人物の過去を匂わす程度の描写に留めたのも大人な作りでした。(監督は違うけど)福山雅治とまたコンビを組んだリリー・フランキーの怪演が見ものです。ただ、最後の事件を記事にしたときのキャプション(説明文)は正しく書いて欲しかったとは思う。観客を泣かせる方に舵を切りすぎたかな…。

編集部には二人のデスクがいて、彼らを通してスキャンダリズムとジャーナリズムと商業主義を問うのもポイントか。作中で結論めいた主張を打ち出さない一方で、そんな問いと一線を画し編集部からの注文をこなしていく静はプロの魅力。自身の本当の夢を抑えながら生きる静に共感もしてしまう。そのチャンスが突然来たとしても、自分の夢よりもっと大事なものを守ろうとしてしまう様も切ない。善と悪のすれすれを歩く運命に流されながらも、その場その場で誠実であろうと足掻く静は我々と大して変わらなかった。ロクデナシの主人公が最後は魅力的に見えてくる、ピカレスク映画の魅力を楽しめる作品でした。

生命力が世界を変える話【書評「男性論 ECCE HOMO」】

「いい男」も「いい女」も中身で決まる。好奇心と熱さが必要だと思わされた本でした。

<内容(「BOOK」データベースより)>
古代ローマ、あるいはルネサンス。エネルギッシュな時代には、いつも好奇心あふれる熱き男たちがいた!ハドリアヌス、プリニウス、ラファエロ、スティーブ・ジョブズ、安倍公房まで。古今東西、男たちの魅力を語り尽くす。

<著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)>
ヤマザキ/マリ
漫画家。1967年、東京生まれ。17歳でイタリアに渡り、フィレンツェにて油絵を学ぶ。その後、エジプト、シリア、ポルトガル、アメリカを経てイタリア在住。『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)で手塚治虫文化賞短編賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

(以上、アマゾンの著書紹介ページより)

「テルマエ・ロマエ」も「プリニウス」も読んでないのに読んでしまいました。それでも著者の選ぶ古今東西の「いい男」〜ローマ皇帝ハドリアヌスからスティーブ・ジョブズ、(連ドラ「とと姉ちゃん」にも登場した)花森安治まで〜は読んでなるほど、見習いたい部分はあると思わされた(一緒にいたいかはまた別の話)。

本文中のイラストもいいです。
本文中のイラストもいいです(電子版表紙はこんなんですが)。

日本を飛び出しイタリアで絵を学び結婚、離婚、再婚し漫画家デビューする著者の言う「いい男」は、古代ローマ時代が象徴する「生きる喜びを味わうことに貪欲で、好奇心がひじょうに強く、失敗もへっちゃら、活力がむんむんとみなぎっている熱い男」。皇帝だけでなく一般の人々もそんな熱い男が多かったという。そして中世イタリアにルネサンスが起こったように「文化や技術があらゆる場所で芽吹いてくるダイナミズム」を今の日本にも起こってほしいと願う。

ルネサンスは暗黒の中世時代の反動から生じたもの、と著者は言う。ならばそろそろ、失われた二十年を経て日本にもルネサンスが起こる時期が来るのかもしれない。しかし起こるのを待つのではなく、起こす側になるのが著者の言う「いい男」。そんな男の「共犯者」−「なにか自分が新しい局面に立ったとき、背中に隠れているのではなく、一緒に手を取って飛び込んでくれるひと」−になれるのが知性があり成熟した「いい女」なのだそうだ。

好奇心は周囲に興味を持ち、常識を疑い、枠からはみ出す力になる。もちろん枠からはみ出すのは楽ではない。著者自身「フィレンツェでの青春時代はもがき苦しみの一〇年」と振り返る。最初の夫との思い出は本の中で「苦い話」と表しているが相当にキツい体験だった様子。そんな苦労も糧にするくらいでないと枠からははみ出せないのかもしれない。

いろんなものをまぜこぜにして行くうちにもようやく自分なりのものを掴んでいく。その増長する細胞分裂の感覚を、「気持ちいい!」と思えるかどうか。絶頂をきわめても、どん底を経験しても、「まだまだ理想像を追い求めていくぞ」というときの心地のよさ、エクスタシーを感じられるかどうか。

そんな生命力、可能性にはやはりあこがれる。自分の生命力はいまいかほどか…?

男性論 ECCE HOMO (文春新書 934)

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