早くするのは何かという話【書評「考えよ!」】

51Yj6L--MBL2014年ブラジルW杯の日本代表メンバーが間もなく発表になる今、元サッカー日本代表監督の本を読んでみました。前回2010年南アフリカ大会の直前に出た本なので情報として新しくはないし(そりゃそうだ)、「(敵チームには弱点もあるのに)相手を脅威に感じ過ぎる」など、サッカーから見る日本人像ももっともな点。

スターに敬意を表し過ぎる」なんて言い回しは、いかにもこの著者らしい。

そんな中、印象的な指摘だったのが

私が訴える「スピード」とは、素早く考えどのような局面に置かれても、動きながら瞬時にして判断する「スピード」である。

日本人は責任を他人に投げてしまうことに慣れすぎている」という別の指摘ともあわせると、日本人が今後目指す方向が見えてくるのではないだろうか。

前回紹介した「無印良品は、仕組みが9割」でも

改革にはスピード感が重要で、戦略が間違っていても、実行力があれば軌道修正ができます。

 

実行してみて、結果が出ないのであればまた改善するという繰り返しで、組織は骨組みをしっかりと固めていけます。

と実行することの重要性を説いていた。

話はズレるけど、ここら辺の指摘を受けて、日本人が好きな話って「逆転サヨナラ勝ち」なんじゃないかと思った。危機的状況に追いつめられた人たちが一発逆転で成功を収める話。ナレーションは田口トモロヲで、テーマ曲は中島みゆき。

まぁそれで成功することもあるだろうけど、社会を持続的に変える「アニマルスピリット」を出すには、追いつめられて破れかぶれで行動するのではなく、リーダーが責任を持って判断と行動のサイクルを早くする社会にする必要があるんだろうな、と考えたのでした。

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発想を転換する話【書評「無印良品は、仕組みが9割」】

51LneCdUKkL企業が帝国化する」でも仕組みを作る側になることの重要性に触れられていたけれど、実際に仕組みをつくる側になるためのヒントになりそうな本。一時の低迷からV字回復を成し遂げた無印良品(良品計画)の会長が「マニュアルの重要性」を説く。

無印良品には店舗で使う「MUJIGRAM」、本部の業務用の「業務基準書」の2種類のマニュアルがあり、売り場の商品陳列から接客、商品開発、出店の判断などの経営までマニュアル化されている。「MUJIGRAM」はなんと2000ページ。いずれも「個人の経験や勘に頼っていた業務を仕組化する」ためなのだそうだ。

新規出店の際、応援に駆けつけたベテラン店長たちが、各々勝手に「これじゃ『無印らしさ』がない」といって商品を並び替えていくので開店準備がちっとも終わらなかった―というエピソードを著者は紹介しているが、確かにこれは「業務が個人の経験や勘に頼っている」例だろう。

著者はマニュアルを「守ること」の重要性を説くのではなく(いやもちろん守らないといけないのは当然として)、「つくる人になる」重要性を訴える。マニュアルを作り、マニュアル通りに実行しながら、絶えずマニュアルを磨き上げていく組織が著者の理想だ。著者にとってマニュアルとは「仕事の最高到達点」でもあるのだ。

その対極が「上司の背中を見て育つ文化」なのだという。

背中を見せるのが上司の仕事ではなく、マニュアルを作り、改善し続けるには全員で問題点を見つけ定期的、かつリアルタイムに改善する必要があるのだから、様々な意見を検証してまとめるのがリーダーの役割なのだそうだ。

またマニュアルからは離れるが、会社を強くするために必要なことに「ヒントは他社から借りる」を挙げ、その理由を「同質の人間同士が議論をしても新しい知恵は出ない」と言い切ったのも印象的だった。閉塞感を打破する当たり前のことですよねこれ。

仕事に徹底的にマニュアルを取り入れるという、ともすれば一番閉塞的な手法が実は会社を活性化させうるという、一見矛盾を感じさせる著者の主張は興味深かった。

ただ、あまりページを割かれてはいないのだが、著者自身は結構「実行力」のあるタイプのよう。

売れ残った商品はアウトレットなどにせず社員の目の前で焼却してみせて在庫管理を徹底させるよう仕向けたり、それでも在庫管理に失敗すると在庫管理を現場から本社に強制的に移す。「MUJIGRAM」作成に反対する社員を「MUJIGRAM」作成委員に任命してやる気を出させる一方、なかなか「MUJIGRAM」に従わない店長には「多少の強制力」を発揮した—とさらっと書いているのがちょっとコワい。

いずれにしろ「マニュアル」はリーダーの指導力、実行力を適切に促し、かつ、部下の意見を吸い上げる仕組みでもあるということで、双方にやりがいを生じさせる仕組みなのだ。発想の転換が興味深い本だった。

古典の誕生を目撃した話【鑑賞・アナと雪の女王】

 

今作の白眉、日本語版では松たか子が歌う「ありのままで」の場面を見て、今年の冬の東京ディズニーランドのエレクトリカルなんちゃらにエルザとアナと脇役の男2人がいる姿がはっきり見えましたよ。

そして数年後には観客に吹雪が吹いてくる「ミッキーのフィルハーマジック」みたいなアトラクションまでできて、自分が行列に並んでいる姿まで見えました。

それくらい(?)今作の完成度は圧倒的。ディズニーアニメの新しいクラシックが誕生した瞬間に立ち会えた。

王家の姉妹、姉のエルザと妹のアナ。エルザには触れるものを凍らせる“魔法の力”があった。制御できない魔法の力を見せないよう人目を避けて来たエルザだったが、戴冠式の日、エルザは力を制御できなくなり国中を凍りつかせてしまう。エルザは山へ逃げ出し、アナは凍った国と姉を救うため、姉の後を追う…。

思い出してみると細かい部分で省かれている描写もある。エルザが魔法を使えるという記憶を消されたはずのアナが、エルザの魔法を見て大して驚いていない点とか。前半に登場する悪役が後半になると影が薄くなるとか。

しかし、ストーリーの骨格は二人のヒロインをうまく使い、古典的な「王子と王女が結ばれてめでたしめでたし」的な結末になるのか…とみせかけつつ「これしかない」という結末に導いたのが見事。エルザの“魔法の力”の解決方法も悪くない。力を手放すのが答えじゃないんだよね。

思えばディズニーのミュージカルアニメってまともに見たのは初めてだった気がする。圧倒的な完成度の今作を見て、過去作は何故見ていなかったのか思い出したぞ。

「美女と野獣」「アラジン」など過去のディズニーアニメも面白そうだったけど、有名な作品をそのままアニメにした(印象)があったんだった。どうせ「王子と王女が結ばれてめでたしめでたし」的な話なんでしょ、と今でも思っているんです(見てないけど)。

その点今作は万人受けする古風な素材を扱いつつ、今の観客を飽きさせないよう結末は古風にしない。よくできた話でした。

鑑賞したのは吹き替え版だったのだが、単純に声だけ差し替えたような「吹き替え版」ではなかった。あたかも外国産のパソコンソフトを日本人でも扱えるようにした「日本語ローカライズ版」のように、「最初からこのキャラの声はこうだった」と思わせる出来。

何と言っても松たか子…もなのだが、それ以上に神田沙也加とピエール瀧!二人とも歌も声の演技もうまかった。言われなきゃ当人たちと分からない。ピエール瀧の歌はミュージカルの定番、上品なメロディーのコミックソングなのだがキャラのなり切りぶりが完璧。「生まれてはじめて」「雪だるまつくろう」などでの神田沙也加の歌は「e」の音を伸ばし方がお母さんにそっくりなのが微笑ましかった。親の七光りじゃないな、ミュージカルスターですよ。もちろん松たか子の「ありのままで」も言うことなし。

「ありのままで」という歌自体、エルザがようやく得た自由への喜びと、とうとうたどり着いてしまった孤独への絶望がない混じりになった印象的な場面でありました。

アニメとしてももちろん楽しめた。オープニングやエンディングで氷や雪の結晶のイメージが音楽に合わせぱっと広がるのだが、それだけでグッときてしまう。このヤラレっぷり何なんでしょうか。ミュージカルという芸術の魔力でしょうか。これだけのレベルの作品を特定の個人に頼らず集団体制でつくっちゃうんだからディズニー恐るべし。

3D版も見たかったが、4月末から一部劇場では、アメリカでは実施済みの「歌詞字幕付き版」が公開されるとか。一緒に歌うのは恥ずかしくてもコンサートのような雰囲気が楽しめるのかな。こういう映画は繰り返し上映してもいい。見れば見るほど楽しみ方が変わってきそうだ。もう一度劇場で見たら曲に拍手を送ってしまいそう。うーんもう一回見るか?(はまり過ぎ)

協働って面白そうという話【書評・はじめての編集】

31uXbXQPiRL編集についての本。以前読んだ「僕たちは編集しながら生きている」にも通じる内容で、メソポタミアの壁画から雑誌、ウェブ、選挙候補者といった個人まで対象として俯瞰しながら編集についての概論や編集で用いる素材の扱い方、編集という思考法の活かし方などが書かれている。

SNSなどが普及した現在、編集は個々人の生活をも可能にするという考え方は二冊に共通するのだけれど、「はじめての編集」の方が後に出版された分、アーティストと作品の比較で

現在はアーティストの作品が、その人自身のアウトプットの小さなひとつにすぎないのではないかと思うのです。(中略)情報の流通量が少ない時代においては、作品というのはクリエイターよりもはるかに大きい存在でした。しかし今は違います。人生の方がはるかに情報化されて、伝わっているわけです。ということは高く評価されるクリエイターになるには、評価される人生を送るしかありません。(P230−231)

 

それはつまり「人生の作品化」です。(P235)

と(楽しいかどうかに関わらず)人生の編集化は避けられない…ともとれる内容になっているのが興味深い。

無限の選択肢のなかから、自分で可能な範囲で選んでカスタマイズして人は生きているわけです。言い換えれば、人は常に「人生を編集している」のです。(P235−236)

とも著者は書く。大量消費社会と言われる現在、消費することも(見方を変えれば)編集だったのだ。そして、そう意識した上で“編集物”を世間に発信していくことも出来るようになっている(SNSなどで)。

こうなってくると「人生の作品化」は「セルフプロデュース」とほぼ同義となり、下手をすると「リア充」などと僻まれたり「必死だなw」と蔑まれたりしかねない…気もする。

概念として「人生の編集」は理解できても、具体的に行動するのは容易ではない。以前、SNSを使った活動で評判になった人が「自分の印象をよくするにはオフィスの住所にもこだわりましょう」といった内容のことを書いていて目が点になったのを思い出した。

そこでこの本に戻ると、「はじめての編集」では

編集者は、自分よりもずっとうまく写真を撮れる人、自分よりもうまく原稿を書ける人、自分よりもうまくデザインのできる人などを集め、彼らの特性を生かしたディレクションをすることによって、自分のアイデアを、当初考えていたもの以上にすることができるのです。(P80)

と、周囲とのコラボレーションが編集に不可欠と説く。「僕たちは編集しながら生きている」でも編集について

編集の醍醐味は、「せまい自分」を確立することではないと僕は思っています。常に未来に対し開かれたスタンスであり続けること。いかに「可能性」の高い人生を送るか、それが問題です。(「僕たちは編集しながら生きている」P4)

と言っていた。

つまり、たとえ「人生の作品化」がセルフプロデュースと同義であっても自分一人ではできないということ、だろうか。

もちろん周囲を(一方的に)利用するのではなく(そんなことをしても長続きしないしね)、「この人とコラボしたい」と思われ、周囲に使われるくらいの才能は持ちたいところだ。「企業が『帝国化』する」の書評でも書いたが、学ぶのは自分だけが生き残るのでなく、周囲に役立つ存在でいたいから(=そういう形で生き残りたい)ということかな。

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