リアルを伝える工夫がヒドイ話【視聴「ねほりんぱほりん」】

NHK、Eテレで仕掛けて来やがったですね…

番組内容は上記のビデオでお分りいただけるかと思います。レギュラー化第1回「偽装キラキラ女子」は見逃したものの(無念)、「元国会議員秘書」「元薬物中毒者」の回は見ました。バラエティ番組でタレントを顔を出さずに起用するのはNHKのパターンではあるけど、まさか人形劇とコラボするとは。操演技術のムダづかいというか有効活用というか(どっちだよ)。

カメラワークもトーク番組風の仕様。話し手にズームインしたり、相手の背中越し、テーブル越しから撮ったりと大真面目。でも撮っているのは人でなく人形。ズームアップしても強調されるのは人肌感でなく人形のフェルト生地感。意味あるのかよ!素晴らしいけど!

何と言っても人形劇と話し手(声)の一体感が本当に興味深い。本当に話し手が喋っているかのよう。いや、人形劇という仕組み上、話し手の人間以上に細かな仕草を入れているはず。特に聞き手・モグラの「ねほりん」「ぱほりん」にはまぶたがある。絶妙のタイミングで目をパチパチされるだけでも面白い。収録したトークをじっくり聞いて操演してるんだろうなー。手がかかってますよきっと。

人から聞いた話を視聴者に伝えるにはどんなメディアでも誇張&簡略化が避けられない。ましてエンタメ番組ならなおのことハードルが上がりそう。そんな中で生々しい話と人形劇という様式の組み合わせがびっくりするほどハマってます。リアルをどう伝えるかと考えるとなかなか深い番組のような気もしてきました。

それではもう一度テーマソングを聞いてお別れしましょう。某発動機メーカーが提供だったミニ番組のテーマ曲に寄せて来た聞けば聞くほどヒドイ歌です。着うた配信希望。

キャラを使い分ける話【鑑賞・NHKリオオリンピック】

日本勢の活躍が目ざましかったリオデジャネイロオリンピックも終わりました。決勝が日本時間早朝だった格闘技系は難しかったけど、卓球、バドミントン、競泳、陸上などはリアルタイムで視聴しました。「もうあかん」と思ったところからの大逆転だったバド女子ダブルス決勝、第4走者で「あれ?2位じゃね?」と気づいたらそのままゴールして見事銀メダルを獲得した陸上男子400メートルリレーなどは忘れられません。閉会式の「トーキョーショー」も「オレたちが見たい/行きたい東京」感がたっぷりでした。

そんな名場面の動画およそ400本をNHKがホームページとYouTubeチャンネルで公開しています。YouTubeならAppleTVを使ってテレビでも見られるので便利であります。

そのリストを見て印象に残ったのが各動画のタイトル。大会後にアップされた動画は「金メダリスト14人の言葉 日本選手団帰国会見より」などと当たり障りのないタイトルですが、大会開催中にアップされた動画のタイトルは妙にテンションが高い。

外国人選手の紹介でもその勢いは変わらず

一番思い入れを感じたのはこのタイトルでしょうか

NHKは地上波の総集編ではブラジルのスラム街「ファベーラ」出身の柔道選手が金メダルを獲得したことなど日本選手以外も紹介して、悪く言うと「優等生的」まとめ方(毎回なんだけど)。それに比べ、ネットでのこのミーハー的な熱量の高さはなんなのか、考えると興味深い。

大げさな表現かもしれんが、メディアに応じて「キャラの使い分け」ができてるってことだろうか。NHKのTwitter公式アカウントが「ユルくて親しみやすい」と一時話題になったけれど、それに通じるものを感じます。

ハード面では4Kハイビジョンなど最新の放送技術を開発する一方で、ソフト面とも言える各メディア上での振る舞い方も考えているようなNHK。どうやったら視聴者に届くか考えているんだろうな。民放以上にきめ細やかでチャレンジングなのかもしれません。まもなく始まるパラリンピックもどう伝えるのか、気になってきました。

憧れられる存在を目指したい話【鑑賞「SWITCHインタビュー 達人達」】

NHK Eテレ「SWITCHインタビュー 達人達」はこまめにチェックしている番組のひとつ。最近のヒットは100回スペシャル「日野原重明×篠田桃紅」でしょうか。

104歳の医師・日野原重明と103歳の美術家・篠田桃紅。篠田さんの話を聞いている時の日野原さんがぼーっとしてたり、話が途切れたか取材者が間に入って質問したり、街頭インタビューで集まった質問に答えたりと異例な構成でしたがw、二人が今でも現役でいられる秘訣が伺えて興味深かったのです。改めて見直して、二人のいい言葉を拾ってみると…

「『私にはもっといいものが書ける』と思い上がっている。自分を買い被っている。謙虚な気持ちがない」(篠田)

「人間の迷いの形が文化。毎日絵を書いても一筆一筆いつも迷う。一生迷い。迷いと楽天的な部分が自分の中でやりあっている」(篠田)

「若い人に希望がないということは、先輩である我々があまり楽しそうではないから。憧れられないから。つまり我々の責任。私たちの力が足りない。」(篠田)

「出会いは人の一生を変える。希望を持つには社会の中に飛び込んで自分でチャンスを求めないと」(日野原)

「作り出すこと、始めることが私の生きがい。(医療以外の)世界に自分を放り込む情熱を持てている。人から『若いですね』と言われるのは、始めることを忘れないから」(日野原)

などなどが印象に残りましたね。「始めることが生きがい」というのはある種のリスクを負うこと。楽天的な部分と有責感を持ち、リスクを負うことが大事なのではないかと。「若い世代が希望を持てないのは、憧れられない我々に責任がある」と言われますが、いやいやこのお二人は十分憧れの存在。誰かのせいにせす自分の人生を生きる姿は魅力的ですねー。

成功したからこそ謙虚にという話【鑑賞「入来祐作コーチと若者たち〜」】

NHK BS1で放送されたドキュメンタリー「戦うために 立ち上がるために〜入来祐作コーチと若者たち〜」を見ました。

プロ野球福岡ソフトバンクホークス2軍投手コーチの入来祐作氏は宮崎県都城市(同郷!)出身の野球選手。ジャイアンツで活躍後、日ハムやメジャー挑戦を経て横浜ベイスターズで引退。その後はベイスターズでバッティングピッチャーや道具係を勤め昨年からホークスでコーチに就いています。ホークス監督に就任した工藤氏から3軍コーチとして直接オファーを受け、異例の記者会見で涙を流したエピソードは印象深かったです。

番組はそんな入来コーチの歩み、コーチとしての現在の様子を紹介。「これからは謙虚に誠実に生きなさい」という桑田真澄の言葉を胸に、裏方として一段低く扱われたときも見返りを求めず「自分の役割を果たせればよい」と頑張ってきた過去を経て、(上から目線の)「ティーチング」ではなく(同じ目線の)「コーチング」で若手選手たち個々の能力を引き出そうとしていました。

「選手は一人一人違うのだから『なぜできない』は禁句」「選手に欠点を指摘するタイミングには気を使う」と話す入来コーチ。カメラは入来コーチがブルペンの土ならしを率先して行う様子もとらえてました。「引退後即コーチだったらとんでもないコーチになって即クビだったはず」とも語ってましたね。

番組では桑田氏にもインタビューし「プロ野球選手は自分のピーク時の印象でセカンドキャリアを描きがち。そうではなく、プロの世界で活躍できたことに感謝して謙虚に勉強しながらセカンドキャリアに向かうべきだ」と語っていました。

とはいうものの、プロ野球はその振り幅が大きいだけで、桑田氏や入来コーチの件-謙虚にセカンドキャリアに臨む-は、一般の人にも当てはまるんじゃないかなぁ。

それまでの自分を捨てざるを得なくなり「組織の中で役に立ちたい」「新しい自分をつくらなくては」という時期は人生に何度か訪れる。メジャー挑戦までできるほどの投手だった入来コーチは、現役引退後に道具係まで経験することで自分の過去を客観視しできたんでしょう。

今「なぜできない」と若手選手に問わないのは、現役時代の自分だって「できないこと」より「自分にできること」を探していたことに気づいたからでしょうね。

成功してしまうと自分が何に苦労していたか忘れてしまう。入来氏はそれに気づいたのだと思います。そしてそれはプロ野球選手に限らず、社会人として一定の地位を築いたであろう我々一人一人もまた、かもしれません。

前向きな力を取り戻す話【書評「NEXT WORLD 未来を生きるためのハンドブック」】

2015年初頭に放送されたNHKスペシャル「NEXT WORLD」を書籍化。未来予測、バイオテクノロジー、仮想現実、宇宙開発などをテーマに科学の力で人間の可能性を探ったシリーズでした。

心の準備はいいですか…?
心の準備はいいですか…?

遺伝子改変や極小機械「ナノマシン」を体内に入れての病気治療、人間の行動を代行する遠隔操作ロボット、犯罪発生を予測したりヒット曲を作り出せる人工知能、これまでとは全く違う原理で動き従来の処理能力を遙かに超えるとされる量子コンピューター…など、ここで取り上げられるひとつひとつの内容はかなり突飛なもの。どれか一つでも実現するとそれだけで社会ががらっと変わってしまうだろう。

こういったテクノロジーの進歩を比較的前向きに紹介していたのがこのシリーズの特徴で、書籍自体もその流れに乗って構成されている。

先述の様々な最先端の研究に携わっている人たちは、基本、未来を明るくとらえている。

ハーバード大学医学大学院で長寿や若返りの研究に取り組むデイビッド・シンクレア教授は「未来は私たち自身の手で生み出すことができる。きっと明るくてすばらしい未来が待っている」と言う。

地球への帰還までは保証されない火星移住計画を考案したオランダ人起業家バズ・ランスドルプ氏は「世界にはフロンティアを発見し、開拓し、定住したいと思う人々はいる」と言う。選考から漏れたものの、このプロジェクトに応募した日本人女性研究者・小野綾子さんは「人間が行ける限界の地で、自分にできる限りのことをする。それがかなえば本望」と話す。

この本のあと書きは番組プロデューサーが書いている。それによると、作り手としては「テクノロジーの進化で不安が膨らんだり想定しないことが起こるかもしれないし、大切にしてきたことも捨てないといけないかもしれないが、前に進むしか未来や幸福はないのではないか」という思いがあったのだという。その上でどんな未来を選択するか、その材料を提供したかったのだとも。

「人類は常に次のフロンティアを求めて前に進もうとします。思うように前に進むことができないとき、人類は不満を抱きます。それは悪いことではありません。だからこそ人は創造的であろうとし、さらに次のフロンティアを生み出すのです」(未来学者レイ・カーツワイル)

「頭の中では、おそらく答えは見つからない。とにかくさまざまなアプローチを試して、実際に手を動かした結果、面白いことが分かった。その連続です。理論から出発するのではなく、見えてきた部分を理論に還元していくというアプローチがあってもいいと思います。とにかく突き進んでみることが“その先の未来”への近道と言えるでしょう」(拡張現実をテーマに研究する慶応大学准教授・筧康明博士)

日本はバブル経済崩壊以降「失われた20年」と言われ、リーマンショック以降は「もう経済成長はない」とも言われ、悲観的ムードが残っているように感じている。

ちょうど最近完結したTVドラマ「下町ロケット」のことも考えた。中小企業を舞台にものづくりの意義を問う話だったけど、このシリーズでの目標はロケットにしろ人工心臓にしろ、意義があらかた確定している物だった。しかし今の日本の課題は「いいものを作れば良い」から一歩進み、何がいい物かを定義していく必要があるのではないか。その点が「下町ロケット」は物足りなかった。

人間には本来、蛮勇ともいえる力があるはずではないのか。日本はそんな力を発揮するべきときが来ているのではないか。先が見えない?先が見えた時代なんか今までなかったろうし、見えた方がつまんないよ。先が見えないからこそワクワクするんじゃないの?…と、もう一度前向きな力を取り戻したくなるような、そんな本でした。

NEXT WORLD 未来を生きるためのハンドブック
NHK出版 (2015-03-30)
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小説の存在理由を再確認した話【鑑賞「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」】

時期を逸しているなぁと思いつつ、いつか書き留めておかなくてはと思ったので書いておくのです。

企業のトップがオススメの本を紹介する日経新聞「リーダーの本棚」コーナーで今年5月、某お菓子会社社長の話が掲載されておりました。

「人にとって設備投資に当たるのは学ぶこと。その一番効率的な方法は読書」とその社長は語り、読み方のポイント…本はたくさん買え、最初の30ページは必ず読め、(一生懸命読むために)読んだら捨てろ(また読みたくなったら買えばよい)…を述べていたのですが、その次のコメントに目がとまりました。

「私は小説でも事実に基づいたものを選びます。著者が勉強せずに思いつきで書いた本は読みません。くだらない本で暇つぶしをするほど人生は長くない」

…端的に申し上げて馬鹿者発見と思いましたね。こんな社長の下じゃ働きたくねぇなぁ。創作ってのをバカにしすぎてねぇ?

でも、じゃあ自分自身が小説…フィクション…を読みたくなる理由ってなんだろう?とも思っていたのです。

そこで見たのがNHK Eテレの「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」。彼の本は一冊も読んでいない(モウシワケナイ)が、英国人なのに日本人ぽい風貌と名前の作家だなーと印象に残っていたのです。彼は両親とも日本人なのだが生まれて間もなく父親の仕事の関係で英国に渡り、英国で育ち作家デビューした(英国籍も取得)んですね。

彼の話は、自分がなぜ小説を書くことになったのか、から始まり、彼が考えるフィクションとノンフィクションの特徴の違いなどにも及びました。以下書き出してみると…

小説の価値は表面にあるとは限らない。歴史書を時代を変えていいとしたらおかしなことになる。でも小説では可能だ。物語の意図するものは表面には結びついていない。価値はもっと深いところにある。

フィクションでできるのは異なる世界を作り出すこと。異なる世界に入ることで、実生活で生まれた多くのことは想像から生まれたものだと私たちは思い起こす。多くの文明の利器はまず想像されて実際に作り出された。

私たちはどこかで異なる世界を必要とし、行きたいという欲求がある。それはノンフィクションでは生み出せない。

私が好む隠喩は、読者がそれが比喩だと気づかないレベルのものだ。物語に夢中になって、背景を分析せずにすむような。そして本を閉じた時に気づくかもしれない。人生に直接関係する何かの隠喩だったからこの物語に夢中になったのだと。

私たちが小説に価値があると思うのはなんらかの重要な真実が含まれているからだ。完成度が高い小説には、そんな形でしか表せないなんらかの真実が含まれている。

真実は月並みな事実ではない。人間は長い歴史を通じて様々な物語を語ってきた。それはある種の真実を伝える手段だったからだ。

真実とは人間として感じるものだと思う。語られる体験や伝わってくる感情を、私たちは真実だと認識する。小説では時に重大な心情を伝えることができる。だが事実にだけ基づいた本やノンフィクションではつたえきれないものだ。

小説は特定の状況で感じた気持ちを伝えられる。歴史書やジャーナリズムでは状況を伝えることができる。事実だけでは人間は不十分だと感じるのだ。私たちはどう感じたかを伝えて欲しいのだ。それが人間の本能だと思う。

自分たちの体験に関して、人間としての感情を分かち合うことは非常に重要なことなのだ。人間は社会で経済活動をするだけでは不十分だ。心情を分かちあう必要がある。

最後の方でカズオ・イシグロは「小説は人の感情を分かち合う媒体」と定義した。その感情は事実の羅列だけでは伝わらない、とも。言葉を使って言語化できない人間の感情を表現するのが小説なのだ…全くもって腑に落ちました。わかったか某社長!

ならば、あの本を再読してみようかな…。

世界は広くてどこも似てる話【鑑賞「世界入りにくい居酒屋」】

NHK-BSプレミアムでここ半年ほど放送している英題「Bar in The World」という番組が気に入って録画しております。

正式な番組名は「世界入りにくい居酒屋」。この脱力したタイトルがたまりません英題はカッコイイのにw。ホームページもやかましいしw。

「現地コーディネーター調べ(適当!)」の、地元の人しか知らない居酒屋を紹介するという番組。変な路地の奥だったり観光地から船で行った先の島だったり、収録後閉店しちゃってたり(苦笑)、そんな店の様子や常連酔客たちを突っ込み気味のテロップで紹介していく。

テロップのフォントも脱力気味のを複数使ったり、微妙に文字間を空けたりしてお気楽な感じを出そうとしてるのが興味深いところ。最後にちょっとグッとくる店主の自分の店への愛着コメントがあって、見終わる頃には登場する酔客たちと乾杯したくなるw。世界は広い、そして飲んべえはどこも大して変わらないw。

そんな番組で、ふーむと思ったのがトークゲスト。(酒好きっぽい)女性タレント二人(交代制)で、男性がキャスティングされてません。番組で紹介される店は必ずしも洒落てはいない(海外だから多少雰囲気良く見えるとはいえ)し、酔客たちには当然男性も登場するのだけど、男二人で酒を飲むのってなんだか湿っぽくなっちゃうのか?(イメージとして)。

考え出すと日本の男が酒を飲む姿…つまり自分の酒を飲む姿…がどんなもんかと振り返ってしまう。どうせならカラッと明るく飲んだほうがいいや。乾杯!

出したい自分は簡単には出ない話【鑑賞・岡田武史が見たFIFAワールドカップ】

結局日本戦以外の試合はまともに見なかったのだけど、こういった特集番組だけは見てしまう自分のような人ってサッカーファンなのかなんなのか、よくわかんないです。

NHK-BSで放送されたこの番組、内容はサッカー前日本代表監督・岡田武史氏が見たブラジルW杯、という…タイトルそのまんま、ですね。

印象的だったのは、岡田氏が、日本が勝てなかったことにがっかりしながらも、日本の攻撃について「(状況を打開するために)たとえばミドルシュートを打つとか(できなかったんでしょうか)…?」というインタビュアーの質問に「誰がするの?」と逆質問したところ。今回の日本代表は陣形をコンパクトにしてパスで相手陣営に切り込んでいくスタイルなので、相手ゴールから離れたところからシュートを打つような選手はいないってことでした。

岡田氏は日本の実力はあったと認めつつ、結果を出す方法は限られていることを認識していた。個人でも団体でも、結果を最も出しやすい形はいくつもあるわけじゃない。っていうか、普通そんなの一つだけで、この場合それを「自分たちのサッカー」と呼んでいたわけで。

一方で岡田氏は決勝トーナメントでの他国の闘いぶりを「必死だった」「最後まで諦めなかった」と評していたのも印象に残った。

今回の日本代表は「自分たちのサッカーをすれば結果は出る」的なことを言っていたようだが、実際には難しかった。型が見つかったことで手応えを感じていたのだろう。

個人的に、何かを「必死にする」のと「自分たちの型を出す」のは矛盾することだと思いこんでいた気がする。必死になるには型にこだわらず、型を出そうとするには冷静でなければ、と。でも違ったのかもしれない。

自分に型があるというだけでは不十分で、本番で型を出すにはとてつもない精神力も必要なのだろう。頭と心の使い方のヒントになった…気がします。

スポーツの影響力を考えた話【鑑賞・民族共存へのキックオフ】

以前紹介したイビチャ・オシムの祖国ボスニア・ヘルツェゴビナに関するドキュメンタリー。テーマは同じ、っていうかオシムへのインタビューなど取材素材も同じ…なのだが、もう少し一般的にわかりやすくなっていた。

ボスニア内戦のあらましと現在のボスニア・ヘルツェゴビナ代表チームの主要選手の紹介…異なる民族から構成されていることや、選手たちが内戦を体験して来たこと。そして何より、オシムが旧ユーゴ代表監督を務めていたころから民族間の対立は始まっていたこと(このとき、ストイコビッチも代表選手でいたんですね、知らなんだ…)。

今のボスニア・ヘルツェゴビナ代表に対しても、別の民族と同じチームにいることで選手を裏切り者呼ばわりする人も残る。内戦の傷は深いが、選手たちは「民族を超えて一つになることが僕たちを成功に導く」と考えW杯に挑む。

ドラマ「ルーズヴェルト・ゲーム」でもスポーツを素材に団結を訴えていたけど、ボスニア・ヘルツェゴビナの場合、団結を失うと国の存続、人の生命にも関わる。もっとシビアな状況だ。いっぽうで、スポーツの持つ人々を結びつける力は民族の壁すら超える可能性を示している。

前回書いた「ルーズヴェルト・ゲーム」への違和感は、スポーツがもつ人をつなげる力の描かれ方が、会社内にとどまっていたからかもしれない。

番組はボスニア代表がアルゼンチン戦で敗れはしたものの歴史的な初得点を決めた場面がクライマックス。試合を観戦していたオシムはその瞬間、目を潤ませていた。イラン戦を前にした放送だったので初勝利の瞬間は記録されていないが、きっと人前で3度目の涙を見せたんじゃなかろうか。

スポーツの形を考えた話

W杯日本代表、残念でした。「攻めて結果を出す」ことはできなかった。でも「自分たちの型を世界で試す」ことの繰り返しが長い目で見たら日本サッカーを強くしていくんじゃないだろうか。

ところで、学校での授業でしかサッカーをしていない自分でもW杯が気になったのはなぜだろう、と自問しています。

というのも、先頃終わったTVドラマ「ルーズヴェルト・ゲーム」にある種の違和感が残っているからです。

ドラマ終盤、主人公が経営する「青島製作所」の野球チームが都市対抗野球予選の敗者復活戦決勝に臨みます。試合は追いつ追われつの展開で、応援する主人公(社長)や野球好きの会長、実は元野球部長だった専務らが肩を組んで歌を歌って野球部を鼓舞する場面があるのだけど、何というか、見ていて「この応援の輪の中に自分はいないなぁ」という疎外感を感じたわけです。

野球部員たちのストーリーもあったので視聴者も青島製作所野球部に肩入れするようにドラマの構造はできているのですが…ノレなかった。野球を扱った映画「メジャー・リーグ」などでは主人公たちのチームが勝つと我々観客も爽快感があったのになぁ。

きっと、ドラマで描かれたスポーツ(野球)が企業の所有物でしかなかったからではないか。日本のプロ野球も親会社はあるけれど、親会社の関係者だけが応援しているんじゃない。ファンに向けて開かれてはいる。実業団野球って結局、応援するのは関係者だけなんだなぁ…と思ってしまったのかも。

でも、例えばサッカーW杯でイタリアやイングランドの予選敗退など、自国代表以外のチームの勝敗も気になるのはなぜだろう…とも考えるわけです。自分に何の関係もないのに。メディアで大きく取り上げられるから?

そもそも実在のチームとフィクションのチームを混同してはいけないのかもしれないが、自分が応援・関心を持つ範囲の線引きがよく分からない。自分が思っている以上にスポーツ(この場合、見るスポーツ、応援するスポーツ)にはいろいろな形がある、のか?