勇気で全てが始まる話【書評・嫌われる勇気】

「嫌われる勇気」表紙
勇気を持つのも簡単ではないんですがね

フロイト、ユングと並ぶ「心理学の三大巨頭」アルフレッド・アドラーの思想を青年と哲人の対話形式でまとめた本。三大巨頭でありながら日本でほとんど知られていないのだけど、この本以降、関連本が目につくようになった気がする。

アドラー心理学では「原因」ではなく「目的」に注目する。過去に原因を求めず、「トラウマ」を否定する。人は過去の原因に突き動かされる存在ではなく、なにかしらの目的を達成するために動いていると定義する。その目的とは「わたしは誰かの役に立てている」と思えること。主観的な感覚でかまわない。なぜなら自分が本当に役に立てているかについて他者がどんな評価を下すかは、他者の課題であって、自分にはどうにもできないのだから。つまり他者に「嫌われる勇気」を持って周りの人に積極的に関わっていこう…要約するとこんな感じでしょうか。

この本の中でも触れているが、スティーブン・コヴィー「七つの習慣」の「第一の習慣:主体性を発揮する」に似た内容でもあり、既視感のある内容ではあった。

アドラー本人の著書や専門家による解説書を読んでいないのだけど、この本で紹介されている限りでは、アドラー心理学は比較的易しいキーワードで説明できる考え方のよう。また、アドラー心理学は「どうするか(How)」に回答するもので、心理「学」全般にある「なぜか(Why)」に力点を置いていない。なので「学」のジャンルを超えて自己啓発に近い内容になっている。

つまりアドラー心理学は、知った後に行動に移さないと意味がない思想なのだ。「勇気」を持って一人一人が行動する思想といえそうだ。

いくつか気になる点もある。この本が哲人と青年の対話形式なのはソクラテス以来の哲学の伝統を踏まえているのだという。ソクラテスと対話をする青年はソクラテスの言葉に最初から納得はせず、徹底的に反駁する。その形式をなぞったのだという。

でも正直、最初は若者の「キャラクター設定」に辟易したのも事実。やけに短気で怒りっぽい。初対面の哲人に失礼じゃね?とか、こんだけ長く話をしてきてまだそんなにカッとなるの?と本筋以外の部分が非常に気になった。読み続けるのに勇気がいりましたよ。読み返すのも意外としんどい。対話形式というスタイル、今なら「マンガ形式」になるんだろうな。

またアドラー心理学は個人に向けた思想なので、この本の中でも少し出てきた「公憤」、社会の矛盾や不正に対する憤りをどう扱うかがよくわからなかった。「公憤と私憤は違う」だけで済ませているのだけどメディアやネットが普及し、様々な社会の話題に個々人が容易に意思表示しやすくなった現代では公憤と私憤が混ざってしまいがちな気もする。まぁこれはアドラーがいた頃とは社会が変わってしまったのだから、アドラー心理学を知った我々が勇気を持って行動して解決するべき課題なのでしょう。

先述の通り読むのはなかなか大変だけど、読み出すと重要なフレーズがそこかしこにあります。平易な言葉で深く考えさせる思想の本でした。

静かなだけでは物足りない話【鑑賞・蜩ノ記】

うーむ、この作品で伝えたかった「武士道」はわかったけどなぁ。ベタな演出まではいらないんだけど、もう少し盛り上げて欲しかった作品でした。

【あらすじ】側室と不義密通し小姓を斬り捨てた罪で切腹を命じられた郡奉行の戸田秋谷(とだ・しゅうこく)。しかし藩の歴史書「家譜」編纂の命もあり、切腹は十年後となった。残り三年となったころ、監視役として檀野庄三郎(だんの・しょうざぶろう)が秋谷の元にやってくる。切腹の日が近づく中、淡々と家譜の編纂に励む秋谷に庄三郎は次第に感銘を受け、秋谷が切腹に追い込まれた事件の真相を探り始める…。

「蜩ノ記」パンフレット
堀北真希ちゃんがちょっと現代顔で浮いてたかな…

この秋谷、予想通り無実の罪を着せられているわけですが最期まで泰然としている。それは事の次第をあらかた知っていながら亡くなった先代の殿様の思い…事件が表沙汰になって藩を潰すわけにはいかない…に応えるためで、それがこの作品で描かれる「武士道」。滅私奉公の極みですね。

だけど覚悟をしたからには、のこる人たちはちゃんと暮らしてほしい、という思いも秋谷にはあった。それがあらわになるのがクライマックスだったのですが。

秋谷の無実の罪を晴らす勧善懲悪な展開にしてしまうと武士道と対立してしまう、…という訳ではないだろうけど、後半は秋谷の息子・郁太郎が作中の敵役に会おうとし、庄三郎もそれに加担してしまう。しかも郁太郎の理由が「死んだ友の無念を晴らす」って事になっているのがうむむ、となってしまう。

個人的な思いを果たしたい郁太郎に対し、秋谷や庄三郎は敵役に「善政をなせ」という叱責の思いからの行動…とも取れる。でも事が済んだ後でも秋谷は郁太郎に「真の武士道」を伝えるべきではなかったかな。死んだ郁太郎の友人こそ、農民とはいえ郁太郎より侍らしいので、郁太郎の行動はいくら少年とはいえ、この作品で語られる武士道には反しているように思える。

どうせなら郁太郎をはさまずに、秋谷がいきなり行動すれば「切腹の覚悟を固めていたのになぜ?」と思えてその後の展開も盛り上がったのではないか。

また秋谷たちの行動を受けて敵役が綺麗に説明口調で改心してしまうのもどうでしょうか…。

なんだか、登場人物たちが心情を丁寧に述べすぎていた気がする。状況を説明するときなどは時代劇っぽい、一聴しただけでは分かりづらい単語や語尾を使っていたので、ギャップを感じてしまった。

あとカメラワークですかね。「ワーク」と言っても実際はほとんど動かず、カメラの中の人物はだいたい、胸から上を全部撮る「バストショット」で正直、単調でした。アクションシーンではさすがに横移動したりするんだけど。逆に会話のシーンで急にズームしたので「?」と思ったことも記しておきます。

小泉監督の作品を見たのは「博士の愛した数式」と、これ。「博士…」ではあまりカメラワークに違和感は感じなかったんだけどなぁ。

ひょっとしたらもっとオトナになって、組織のために(切腹という意味でなく)自分を殺すようなことでもあるとこの作品の評価も変わるのかもしれない。そう思いたくなるくらい、かっちりと作ろうとしている一本ではあったが…。作品を見たこちら側が「作り手たちは“黒澤明の後継者”」って部分に構えてしまったか。でもあらすじ自体にサスペンス的要素もあるのだから、黒澤明だったらもっとメリハリを付けてくれたのでは?

人は走るから人だった話【書評・Born to Run】

あらゆる角度から「走る」ことを伝えた本でした。
あらゆる角度から「走る」ことを伝えた本でした。

最近のジムには「エリプティカル(だ円形)トレーナー」という、足を空中で走るようにだ円状に動かす運動器具がある。ソレで運動しながら読んだのがこの本。ヒトが走る理由を精神、肉体、民族、さらに著者の体験も含め描き切った力作でした。

【紹介】メキシコの山岳地帯に「カバーヨ・ブランコ(白馬)」と呼ばれる謎の米国人がいる。彼は現地にひっそりと暮らす史上最強の長距離ランナー民族「タラウマラ族」と交流を持つ唯一の部外者なのだ。なぜ著者は彼を探したのか。カバーヨの正体、タラウマラ族の実態とは。そして彼らとアメリカ最強のウルトラランナーたちがメキシコの山中で対決するとき、人が長距離を走る肉体的、精神的理由、人の走る能力の極限が現れる…。

海外の著者による本だけあって、話の展開が独特ではある。カバーヨや現在のタラウマラ族の話が続いたと思ったらタラウマラ族の歴史、スポーツ医学の話、アメリカのウルトラレースで活躍するランナーたちの話…。登場人物が多く気がつくと違う話になっていたりして面食らうこともあった。

しかし「走る」行為をありとあらゆる角度から描きつつ、カバーヨが再び企画するタラウマラ族とアメリカ人ウルトラランナーのレースに参加するアメリカ人たちの生き様が実に個性的。社会常識が少々欠けているくせにアレン・ギンズバーグの詩「吠える」を叫びながら走るジェンとビリーの「バカップル」がとくに最高。本の中で何度か描かれるレースも迫力があった。

とまぁ、登場するランナーたちはいろいろな意味で凄い連中なので、長距離を走れるのはそんな選ばれた人間だけと思いたくなる。がしかし、そこでスポーツ医学、生物学的エピソードが意味を持ってくる。この本では「ジョギングで足を痛めるのはなぜか」「高機能ランニングシューズは怪我の予防に役立たないのではないか」「裸足で走れば怪我のリスクが減るのではないか」などの疑問に切り込んでいく。

そして、「人間はなぜ『弱い生き物』に進化したのか。人間の遺伝上の優位性は何か?」という根源的な問いにも到達する。むろん答えは「走る能力」。人間には走る能力—具体的には「遠くまで行く能力」—がある!そしてウルトラランナーたちの見ている世界を追体験すれば、走る喜びも理解できるはず。

この章のあと、タラウラマ族とアメリカ人ウルトラランナーたちのレースがクライマックスになるのだけど、ここまで読むと体を動かさずにはいられなくなる。ウルトラランナーにはなれなくても、走る力、走る喜びは誰にでもあるのだから。

個人的にはあとは体を直すだけかな。実は今、朝起きたら足の裏が痛む「足底筋膜炎」に軽く悩んでおります(苦笑)。「エリプティカルトレーナー」は足底に負担かかからないからいいんだよねぇ(駄目過ぎ)。

人を殺し、生かす話【感想・かもめのジョナサン完全版】

Kindle版の表紙は味気ないなぁ
Kindle版の表紙は味気ないなぁ

軽い気持ちで読み始めたら、前回同様、あっという間に読了した。

まぁ…完全版になっても短いですからねw。

従来版の感想は五木寛之の1974年版あとがきに酷似している。五木寛之と同じく、ジョナサンの生活感の無さに違和感を覚えた。

【あらすじ】ただ飛ぶだけでなく、「早く」飛ぶことに夢中になるカモメのジョナサン。飛ぶことは生活の一手段でしかない群れの中で彼は孤立し、追い出される。そこで自分と同じように飛ぶことにこだわって生きているカモメたちと出会い、遂に飛ぶ技とその意味を極める。ジョナサンは自分の技を伝えようと再び群れに戻り、若いカモメに自分の教えを伝え、姿を消すのだが…

完全版で追加されたPart4ではジョナサンが消えた後のカモメたちが描かれる。その姿は自分たちで考え、自由を追求しようとする個人たちの集まりではなく、ジョナサンの存在だけを神秘化し、表面的な答えが与えられた世界に安住する怠惰な者たちの群れだった。

逝きし世の面影」でも書いたが、近代は個が尊重された時代だった。個人の生き方を追い求めるのが善。

Part3まではそんな考えを突き詰めたような作品だった。しかし五木寛之が当初のあとがきで書いたように、 個人主義を礼賛するあまりPart3まででは社会に背を向けたような個人主義のいかがわしさも感じさせた。

Part4では個人の可能性を見たはずの組織の変容が描かれる。ジョナサンを学ぶのではなく崇拝に「逃げる」カモメたちが、やはり個人の自由な生き方を殺す。組織の形骸化という形で殺す。

組織がなぜ硬直化してしまうのか、非常にリアルな回答がPart4にはあった。

しかし組織を硬直化させるのが個人なら、それを破るのも個人の力なのだった。

結局、組織より個人の考え、生き方を大事にしろというテーマ自体は変わっていない。しかし個人と組織(社会)の関係は完全版になって深まったのではないか。完全版になって評価は正反対になったかな。

かもめのジョナサン完成版
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