学びの理由を考えた話【書評・企業が「帝国化」する】

41Epgl4y3OLレイヤー化する社会」でも参考文献に挙げられていた一冊。アップル米本社で働いた経験がある著者が、アップルに代表される「私設帝国」企業の実態とそんな帝国が存在する社会での生き残り方法を提言する。

「レイヤー化する社会」では、アップルやGoogleなど国家を超える財政規模や影響力を持った「帝国化」した企業について、負の側面をあまり書いていなかったように思う。この本でも「帝国の「打倒」なんてことは訴えず、そんな帝国のような企業が存在し続けるのが前提ということで結論に至っているのだが、「レイヤー化する社会」よりは帝国化する企業が社会に与える負の側面をしっかり書いている。

大事な点は「私設帝国」企業はネット関連だけでなく食やエネルギーの分野にも存在し、我々の健康や環境に悪影響「も」もたらしているという点だ。著者は様々な事例を紹介してその実態を伝える。

アップルの米国本社で働いた著者が明かす「私設帝国」内の働きぶりも凄まじい。朝6時からメールチェック、社内の政治闘争も激しいのだという。著者自身、そんな環境に疲れてしまい退職してしまったのだとか。

また、GoogleやFacebookなどのユーザーは「客」ではない、という指摘も重い。ユーザの個人情報や(検索などで)分析された行動が商品となって企業の広告出稿に使われているのだから。

そんな「私設帝国」企業とどう付き合えばいいのか。著者が提示するのが私設帝国企業は『イメージ』を気にするという点。評判が悪くなることを「私設帝国」企業は恐れ、下請けの業務改善や製品の販売中止にも繋がっているのだという。確かに企業は国家と違って複数の関係者の利害を調整しなくていいから決断が早くなる。また「私設帝国」企業の下請けで働く人々についても触れ、劣悪な環境であっても住んでいた故郷での暮らしよりはよっぽどまし、という例もあげる。

欠点があるとはいっても「私設帝国」企業がなくなることはないだろう。それは国家の力が弱くなっていくことの裏返しでもある。ならば我々は「私設帝国」企業と賢く付き合い、絶えず学んで自分を高め、仲間をつくり助けあっていこう。著者はそう説いている。

…と、概略だけで結構な量になってしまったが、結論としては「レイヤー化する社会」とあまり変わらないかな。バランスの取れた記述で、世界的に有名な企業の概要を知ることはできた。

ただこの本の中でも取り上げられている、エネルギー関係の「私設帝国」企業はやはり用心したい気がする。アップルやGoogle、マクドナルドなどは代わりがありそうだけど、エクソンなどエネルギー関連の企業は(石油採掘など)専門的な技術を持っているので代替がききにくいのではないかな。評判が少々悪くなっても結構平気な気がする。

また、これからの生き方として、仲間を作ることに触れつつも、「天は自ら助くる者を助く」として語学や専門的な技能など個人のスキルを高めることや「持ち家が自由を奪う」「移住を考える」など固定資産を持たないことに主眼が置かれているのも気になった。

ここ最近、東日本大震災を振り返る番組を見ていて思ったのだが、著者のように土地や家に思い入れの少ない人ばかりではないんだよねぇ。

また、著者が考える仲間づくりも、まずは自身のスキルアップありきで仲間づくりはその次、といった印象がある。「自分を高めてくれる環境に身を置く」という発想なんかその典型か。

環境や健康に害を及ぼす面もある「私設帝国」企業を、著者は

「帝国」を批判するのは簡単ですが、「帝国」を興してきたひとたちもまた、さまざまな体験を積み、常識にとらわれない新しいモノの見方、考え方といったものをつかみ、そこから湧き出てくるイメージやアイデアを形にしてきました。

と内部の人たちを見据えた上で肯定的にみる面もある。この視点は決して間違っていないとは思う。だからこそ

今後は「周囲と同じように振る舞う」といった行動様式ではなく、自分がどんな人生を歩んでいきたいのか、自分なりの考えを持つことが非常に重要になります。

と個人で考え、行動することを説く。

そう考えると、著者の考えるこれからの生き方とは、自分が生き残るのが目的で、今自分の周りにいる人たちと共生する感覚が乏しいように思う。

英語やプレゼン、コンピュータ、議論など著者が紹介している、これからのために必要なスキルの一つ一つは非常に説得力を感じさせるのだが、個々人がそんなスキルを身につけた先の社会像に血が通っているようには見えなかった。最終章に納得されつつも何か残念だったのはそこかなぁ。

何のために専門技能を身につけるのか、学び続けるのか。「私設帝国」企業と共存が不可欠な社会の中で、単に社会で生き残るためではない目的を見つけたいものです。

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見る側が試される話【鑑賞・アンディ・ウォーホル展ほか】

上京話の続き。六本木ヒルズの「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」メディア・アート展「Media Ambition Tokyo」についてです。

写真 1-1スープ缶や段ボール箱のパッケージを(ほぼ)そのまま模倣してアートにしてしまったアンディ・ウォーホル。かたや「Media Ambition Tokyo」は複数の作家によるメディア・アート展で音楽やテクノロジーを組み合わせて芸術の可能性を広げようとした企画。

どちらも現代的なアートでありながら「アンディ・ウォーホル展」は一見、アートとして分かりやすすぎて戸惑わせ、「Media Ambition Tokyo」はアートとして分かりにくすぎて戸惑わせる、そんな感じ。

もちろん、「分かりやすい/分かりにくい」がアートとしての優劣を決めるものではないんですが。鑑賞者を「何だこりゃ」と思わせるのがアートの特徴の一つであるならば、両者ともまさしくアート。アンディ・ウォーホルは1987年に58歳で亡くなっているけれど、何にでも興味を持った彼のこと、もしもう少し長く生きていたらデジタル技術にも興味持ったはず。この2つの展示は意外に共通点がある。

写真 2-1アンディ・ウォーホル展は著名な「キャンベル・スープ」「マリリン」「エルビス・プレスリー」などの作品や彼が創作の場にした室内すべて銀色の「シルバー・ファクトリー」の再現、映像作品の上映などもあり、回顧展として楽しめた。

彼の人を食ったようで本質をついているような発言の数々も会場のあちこちにちりばめられ、多様な創造性を示していた。「なんでオリジナルじゃないといけないんだ?他の人と同じがなんでいけないんだ?」「東京で一番美しいものはマクドナルド。ストックホルムで一番美しいものはマクドナルド。フィレンツェで一番美しいものはマクドナルド。北京とモスクワはまだ美しいものがない」あたりが、一番この人らしい発言でしょうか。そもそもあのトレードマークの銀髪もカツラだったそうだし。

「ぼくの時間が終わるとき(中略)ぼくは何も残したくない。それに残り物にもなりたくないんだ」という発言を描いた部屋が、何でも溜め込み捨てられなかった彼の雑多なコレクションをまとめた「タイムカプセル」コーナーだったのも気が利いてる。

写真 3いっぽう「Media Ambiton Tokyo」はPerfumeの衣装にプロジェクションマッピングをしたパフォーマンスで有名なライゾマティクスや現在佐賀県で作品の展示をしているチームラボなどが参加。ライゾマティクスの作品はトヨタの高級スポーツカー、レクサスLFAを光とエグゾーストノイズ、風などで立体的に魅せる試み。アンディ・ウォーホル展でアンディ自身がペイントしたBMWが展示されていたのを思い出した。時代が変わると表現方法も変わるもの。

この2展示会、共通点もあるのだけど「アンディ・ウォーホル展」のほうがどうしてもある程度の年月を経た分「時代」や「風俗」を反映している。「Media Ambiton Tokyo」展は現在のテクノロジーを反映してはいるけれど、時代や風俗を反映する作品=名作、傑作になるかは時間が経たないと分からない。

なにしろこの2展を鑑賞した際に、会場の森美術館で(年配客を中心に)一番人が集まっていたのは「ラファエル前派展」だったものなぁ。

「Media Ambiton Tokyo」だけでなく「アンディ・ウォーホル展」も、まだ見る側を試す展示会なのかもしれない。でも「これもアートなのか?」と鑑賞する自分に問うことで、自分の可能性を広げることも出来る気はする。

世界を触って理解した話【鑑賞・3Dプリンティング展】

今月は2度の上京。今度は出張でした。会議が始まる前に「3Dプリンティングの世界にようこそ!」展(印刷博物館)、「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」(森美術館)、「Media Ambition Tokyo」(六本木ヒルズ)を見物してきました。

「3Dプリンティングの世界にようこそ!」展はタイトル通り、3Dプリンティング技術を紹介。以前、3Dプリンティングを中心にモノづくりについて書かれた「メイカーズ」を読んだこともあり興味のある分野。実際に3Dプリンティングで出来たモノを見たのも今回が初めてでした。

写真 1いやぁ、思ったよりシッカリズッシリしたモノが出来るんですねぇ。「どうせ作れてもすぐ壊れるようなヤワなモノしか出来ないんでしょ」と勝手な印象を抱いていたのだけど、それは間違いだった。

一部触れない展示品もある中、「これはぜひ全国で展開してほしい」と思ったのが本物と同じ色形、重さまで一緒の土偶のサンプル。宇宙人みたいな形で有名な遮光器土偶を実際にもって鑑賞できる。意外な重さにびっくりした。本物はなかなか触れないので、ケース越しに見ることは出来ても持つことは出来ないもんねぇ。視覚だけでなく触覚も使って鑑賞できるのはたいへんな進歩だと思う。

ほかにも義足とか、身近なところではスマホケース、アクセサリーなどもあった。本で読んだだけではピンと来なかった3Dプリンティングが現物を見ると少し分かった気がする。

個人的にモノづくりをしている人たちにとっては大変な技術革新には違いないし、一般の人でもたとえば家の中で、パッキンだのネジだの、ちょっと壊れたモノを3Dプリンターで作り直す、ってのはありなのではないかな。そんな例なら小型の3Dプリンターで良いわけだし…。そんな可能性を感じた展示会でした。

地方都市の理想を見た話【書評「別府」】

416ZnjhqZJL小説のようでもありエッセイのようでもあり。この本は、何と呼べばいいのだろう。

著者は様々なアートイベントを手がけた人物。大分県別府市で過去2回開かれた国際的アートイベント「混浴温泉世界」でも総合ディレクターを務めた。この本は1回目の「混浴温泉世界」後に書かれた様子。著者が2回目の「混浴温泉世界」へのヒントを求め、大阪からフェリーで別府に入り、別府の街を放浪しながら様々に思いも放浪させていく。

著者が今まで見た映画、小説、1回目の「混浴温泉世界」での海外アーティストとの思い出。そして温泉街・別府で遭遇する市井の人々、湯けむりの中、夢のように出会った双子の女性との混浴…。著者の思いはあちこちに飛び、虚実入り乱れていく。それは別府という港街が持つ「魔術的な魅力」に他ならない。

おんぼろのアーケードや一目して分かる老舗の商店。空き地もあちこちにある、古びた温泉街。でもその古さ、混沌さが「彩り」となっている街。著者にとっては忘れ得ぬ数々の映画を思い出させる街。そしてアートディレクターとして「肉体のすべてをもって感じるなにか」を生み出し「心にトリックをかけて」、「目の暴走」に歯止めをかけようと決意して大阪へ帰って行く。

別府には過去3度訪れたことがある。最後に来た時にちょうど、第2回の「混浴温泉世界」が開かれており、古びた街並みの中に国内外、有名無名の芸術家の作品が展示されていた。この本はその時、市内に常設されたアートスペースで買ったのだった。

別府の街を歩き回る著者が様々な思いを巡らせる様子は、別府という街がそれだけインスピレーションを与える場所であることを繰り返し表している。この本は別府という街や地方とアートのつながりなどについて論じてはいないのだが(触れてはいる)、港のある温泉地として人が通り抜けていく別府の魅力、地方都市の一つの理想形を抽出しているように思う。

別府に限らず、全ての地方に「魔術的魅力」はあるだろうか。あって欲しいのだけれど。

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理解者は必ず(どこかに)いる話【書評・エンダーのゲーム】

51sR7HQZm9L._SL160_ガイド本などでは必ず紹介される傑作の部類に入るSF小説、なのだが、あらすじを読む限り全く興味がわかなかった。

今冬に映画化されたのを機に「じゃあ読んでやるか」と重い腰を上げたら「なるほど面白い!」と思ったものの時すでに遅く、肝心の映画は公開終了(涙)。AppleTVで見ることにしましょうかね…。

異星人バガーに襲われた人類は逆襲の機会を狙っていた。頼みの綱は才能のある子供達。艦隊司令を発掘するバトル・スクールで今日も子供たちは激しい訓練を行っていた。そんなスクールに入隊した少年エンダー。とびきりの才能があると大人たちに見込まれ、少年たちにはいじめられながらも、優秀な成績をあげていく。そして運命の最終試験…。

気弱な少年が訓練を通じ成長していくような話で正直新鮮味がなさそうな気はしていた。主人公は結局のところ天才だし、なーんかガンダムとかエヴァっぽいし。

そうはいっても少年の成長譚って読ませますよね。ライバルたちからねたまれながらも辛抱強く生きていく(時には逆襲する)エンダーの姿は最後まで目が離せない。

なおかつこの話は、先述したあらすじの先から大きく方向が変わるんですよ。ガンダムやエヴァと比べると主人公が「司令官」なのがミソかな。これ以上書くと結末、オチを語ることになりますが(勘の鋭い人は分かるのかも)、安直そうなスペースオペラがぐーっとヘアピンカーブを曲がって壮大かつ静謐な物語になり、深い感動を残して話は終わります。

スケールの大きな話を味わえるのはSF小説の醍醐味ですよねぇ。

どうやら映画版も結構原作に忠実だったらしいし(制作に原作者が関与したとか)映画館で確認したかったなぁ。

 

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時代を超えるものという話【鑑賞・大浮世絵展、大友克洋ポスター展】

IMG_0994上京話の続きです。滞在2日目は2つの展覧会を見て参りました。

一つは江戸東京博物館でこの日が最終日だった「大浮世絵展」、もう一つは恵比寿で今月16日まで開催中の大友克洋のポスター展。

「大浮世絵展」は浮世絵の誕生から発展(昭和の錦絵まで)を紹介、大友克洋ポスター展は特殊印刷で作られた作品を中心に展示。時代こそ違え、どちらも一般向けに広まったアートという面では共通してました。

で、あと一つ共通していたのが、絵と一緒に書かれた言葉の「古さ」でした。浮世絵に書かれた言葉が読めないのは時代が違い過ぎるからだけど、大友克洋のポスターの中にも「これは…」と苦笑してしまったキャッチフレーズがあった。絵自体は今でも鑑賞に堪えるのに。

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絵より言葉が表現力として劣る、と比較するのはそもそもナンセンスだし、(小説とかならいざ知らず)言葉もまずは、同じ時代を生きている人にちゃんと届かなくてはいけない。浮世絵もポスターもメーンは絵の方で、同じ紙に書かれた言葉は添え物なのだろうし。でもなぁ…。

「(小説とかならいざ知らず)」と先述しましたが、言葉は時代が経つとどんどん変わっていき意味が通じなくなる。現代語に翻訳しつづけないと意味が伝わらない。絵も(大浮世絵展で見せてくれたように)時代によって表現方法は変わっていくし、描かれた背景を理解するには言葉が必要なんだけど、絵の方が時代を超えて伝わる力があるのかな。そんな表現の特性について考えた2つの展覧会でした。

 

つながりは大事にしたいという話

3月1、2日と上京しておりました。大学時代のゼミのOB会に出席するためです。毎年この時期の恒例行事。昨年は体調不良で欠席されたゼミの教授もお元気な姿を見せてくださいました。

それにしても師と生徒という関係、大学時代の先輩後輩という関係は年を経るごとに貴重さを感じてしまうのです。毎年1回、元気に顔を合わせて近況を知り合うだけで充実した気持ちになる。普段の人間関係とは関連がほとんどない「つながり」なのだけど、そんな関係を保てていると、暮らしが豊かになっている感じがする。

また、「師と生徒」という関係は上司と部下、年長者と若輩者などの関係とはまた違う、独特の緊張感もある。今回、教授と話をしたのはわずかな時間だったのだけど、忘れられない時間になりました。

再会した人たちと何を話したか、というのは酒もはいったのであまり覚えていない(苦笑)のだけど、大事なのは交わした言葉の量ではないのかも。今はSNSがあるけれど「直に会う」のも大事なことですね。また1年頑張れる気がする。来年も参加しますよ!