価値観はじっくり作る話【書評「「できる人」はどこがちがうのか」】

「できる人」はどこがちがうのか
キャッチーさがないのがこの人らしい、のかな…

タイトルで損している感じ。安易な「できる/できない」という評価にとどまらず、自分の価値観を意識的に作る重要性を説いている。

この本で著者が説くのは、初めての仕事であっても挫折せず取り組み成果を手に入れる「上達の普遍的な論理」。上達には〈まねる(盗む)力〉〈段取り力〉〈コメント力(要約力・質問力を含む)〉の基礎的な三つの力が必要で、それをどう生かすかというスタイルを意識するべきだとして、スポーツや古典(徒然草)、村上春樹の創作スタイルなどを参考に説く。

この参考例が運動や単純な反復活動(漢詩の朗誦)など身体論に基づいているのが、いかにもこの著者らしい。正直「またこの話か」とちょっと思ってしまう。上記の〈まねる力〉〈段取り力〉〈コメント力〉といったキーワードも分かりやすく、奇をてらってはいないのだが、個人的にはなぜかいま一つ心に刺さらない。

とはいっても、上達の秘訣をつかもうとすることが、生きる意味をつかむことにつながっているという指摘は無視できないのであります。仕事など自分の(創造的な)生活の中に法則を見つけ、それを伸ばす。その時に頭だけでなく身体も使うようにする…

様々なものを受け入れることができ、自分の中に多様なものを住まわせることができるようになることは、より「自由」になるということである。

自分の生理的感覚に合わないものをすぐに拒絶してしまう態度は、一九六〇年代のカウンターカルチャーから八〇年代九〇年代のムカツク隆盛まで流行し続けている態度である。「瞬間的に沸き上がる生理的な嫌悪感」が、ムカツクの本質だと私は考えるが、こうした生理的嫌悪感を中心にした価値観の作り方は、受け入れるものの幅を狭くする。振り幅が狭いのは、「自由」とは言い難い。

価値観の振り幅はなるだけ広くしたいものです。

「できる人」はどこがちがうのか (ちくま新書)
斎藤 孝
筑摩書房
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世界に結論はない話【書評・「科学的とはどういう意味か」】

ある種の読書論でもありました
ある種の読書論でもありました

映画にもなった「スカイ・クロラ」シリーズなどこの著者の本はいつか読みたいなと思っていたけど、最初に手に取ったのがこの新書だった。

震災以降、原子力発電など科学に対する一般的な認識が大きく変わったように思う。この本はそんな中、科学との付き合い方を説いている。

著者の定義する科学は

自然の観察から始まっている。実際にあるものを見て、その仕組みを理解する。そしてそこに法則性を見出す。すると、次はどうなるのか、という未来が予測できるようになり、また、そうした仕組みをいろいろなものに応用できるようになる

再現される事象を見極めれば、これから起こること、つまり未来が予測できるからだ。科学で証明されたことは、条件さえ一致していれば、結果がほぼ確実に予測できる

というものだ。

一方で事象の再現や予測は数字や数式によって表現されることが多い。再現や予測も一定の状況で起こることもある。この数字や数式を使った精密な表現が一般の人々を科学から縁遠くさせている面がある。著者が言うところの「難しいことはいいから、結論だけ言って」という姿勢」「名称を覚えることで満足し、それ以上を理解しようとする気持ちをなくしてしまう傾向」だろう。

そんな姿勢を見せているのが今のマスコミ、とも著者は言う。それは「大衆がそんな情報ではなく、感情的、印象的、もっといえばドラマ(物語)を求めているからにほかならない。どうして、そういったものを求めるのかというと、それは、自分では考えたくないからだ」と情報の送り手にも受け手にも手厳しい。

この本では取り上げていない表現だが、「原発の安全神話が崩壊した」なんて物言いはこの著者は大嫌いだろうなぁきっと。

まずは科学から自分を無理に遠ざけないこと。数字を聞いても耳を塞がず、その数字の大きさをイメージしてみること。単位がわからなければ、それを問うこと。第一段階としてはこんな簡単なことで充分だと思う。
さらには、ものごとの判断を少ないデータだけで行わないこと。観察されたものを吟味すること。勝手に想像して決めつけないこと。これには、自分自身の判断が、どんな理由によってなされているのかを再認識する必要があるだろう。理由もなく直感的な印象だけで判断していないだろうか、と疑ってみた方が良い

というのが著者の結論かな。

…ところで今「結論」と書いたけれど、科学とは結論を出すことから実は結構遠いところにあるものなのかもしれない。自分の「結論」に常に疑いを持ち、場合によっては上書きできるようにしておくべきなのかもしれない。

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)
森博嗣
幻冬舎
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離れても捉われる話【書評・嘘つきアーニャの真っ赤な真実】

米原万里「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」
第1話の序盤がややお下劣なのがちょっとね…

表題の話だけかと思って読み始めたんですが3つの連作だったのにちょっと戸惑った。しかし中身は、歴史や国家に翻弄される個人のはかなさ、それでも生きていくしたたかさ、苦さを描いた読み応えのある話でした。

1960年当時、チェコスロバキアのプラハには共産主義政党の国際的交流機関が設置されており、日本人の主人公マリは父に連れられ、在プラハ・ソビエト学校に通っていた。そこで出会った3人の女友達ーギリシャ人のリッツア、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビアのヤスミンカーがいかに歴史に翻弄され、それでも3人なりに生きていく様を描いている。

東欧諸国の共産主義政党同士の路線対立から、マリがプラハを去った後、チェコでは1968年、「プラハの春」と呼ばれる社会改革運動が起こったがそれを嫌ったソビエトを中心とするワルシャワ条約機構が軍事介入、改革は頓挫してしまう。80年代、東欧の共産党政権が軒並み倒れ始め、マリはソビエト学校時代のクラスメートの消息を知ろうと再び現地を訪れる。

各国から集まった子供たちはそれぞれの故郷を誇りに思っている。授業の中で上手に祖国の歴史を発表する子もいれば、普段の会話の中で祖国の空がいかに青いかを自慢する子。たわいのない冗談でも祖国をからかわれると烈火のごとく怒る子。そんな子ども達が大人になって、それぞれのスタイルでたくましく生きていく。

中でも生き様が一番苦いのが表題のアーニャ。子どもの頃からルーマニア政府高官の娘として贅沢に暮らし、大人になってルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊しても両親や兄達ほどの苦労をせずに生きている。著者はアーニャの両親や兄に再会し、体制に適用しようとする彼女なりの努力を察した一方、過剰な適用に伴って彼女が人間としての尊厳も失ってしまったと感じる。しかし、彼女はそのことには全く気付いていない。

ギリシャ人のリッツァはドイツからギリシャへの望郷の年を募らせ、ユーゴスラビアのヤスミンカは戦場となった故郷で生きている。ヤスミンカの近くにまで爆撃があったことをさらりと書いてこの本は終わる。

メーンのこの3人以外にも、さらりと触れられた友人達のその後も痛々しい。政情不安な祖国に「それでも帰る」と戻り、親ともども殺された子。行方知れずな子。

異国、異文化、異邦人に接したとき、人は自己を自己たらしめ、他者と隔てるすべてのものを確認しようと躍起になる。自分に連なる祖先、文化を育んだ自然条件、その他諸々のものに突然親近感を抱く。これは、食欲や性欲に並ぶような一種の自己保全本能、自己肯定本能のようなものではないだろうか。

と作者は書く。しかし、ゆえにこそ、その「親近感」には命をも奪いかねない恐ろしい一面もあるのだが。

人間の複雑さを伝える一冊でした。

正統に挑んでいた話【鑑賞・片岡鶴太郎展「還暦紅」】

タレントの余技と思うと結構痛い目(?)に遭うんですよ…

2015年4月12日までみやざきアートセンターで開催中の片岡鶴太郎展「還暦紅」を見てまいりました。

片岡鶴太郎展「還暦紅」
お笑いタレントの印象がどうしても抜けないんだけど…

画業20年という触れ込みにも「まぁ結構前から絵を描いてたよねこの人」程度で正直ピンときていなかったのだが、実際見たら思ったより正統派な日本画が多くて驚きました。

とくにポスターでもメーンに使われている金魚。繊細な筆使いが実に印象的でした。会場の最後に処女作「家族」があったのだけど、土色で荒々しいタッチの絵からよくもここまで歩まれたものだ。

まぁその処女作も、テレビで披露したら横尾忠則から「僕の作品と交換しよう」と言われたそうなんで、もともと「持っている」人なんでしょうけどね。まさにタレント。

にしても、その生来の才能だけでなく、きちんとそれを生かすため学んできたんだろうな。着物や屏風の柄も本格的なものでした。我流に逃げない、ってのも大事ですね。今から20年、自分も何かを続けたらモノになるのかしら、と職場も変わった年度始めに思ったことでした。

ところでこの展示会、鶴太郎による芸能人の似顔絵を展示した部屋があり、そこにはモデルになった芸能人からのお礼のブツも展示されている。大半は色紙なんだけど、タモリは別の手作り品でお礼を返している。

その品がまた、タモリという人の才人っぷりを示していて驚かされるのです。鶴太郎の作品だけでなく、この品も必見。「持っている」人はやはり違う…!