登山は人生で人生は登山だった話【書評「登山の哲学」】

宮崎県民初のエベレスト登頂を成し遂げた登山家・立花佳之さんという方がいらっしゃる。エベレスト出発前に立花さんの話を直接聞く機会があり、立花さんの挑戦には強い関心があったのです。

立花さんが見事エベレスト登頂に成功されたこの機会に、こんな本があったので読んでみました。8000メートル級の山を登るのはやっぱり「冒険」なのだけど、冒険の定義、危険の定義、プロの定義などは平地で暮らす(?)我々にも十分当てはまることに驚かされる本でした。

体験に通じた主張は説得力がありますねえ
体験に通じた主張は説得力がありますねえ

著者は1971年生まれのプロ登山家。2012年に日本人初の8000メートル峰14座の完全登頂を果たした「14サミッター」の一人。自身の登山家としての歩みを語りつつ、高所登山の魅力を述べた本です。

まず印象に残ったのは著者の言う「登山の定義」。登山は想像のスポーツなのだという。

頂上まで行って、自分の足で下りてくる。ただそのために、登山家はひたすら想像をめぐらせます。無事に登頂する想像も大事ですが、うまく行かないことの想像も同じように大事です。死んでしまうという想像ができなければそれを回避する手段も想像できません。私たち登山家は、どれだけ多くを想像できるかを競っているのです。

この本のプロローグは著者が大雪崩に遭い九死に一生を得た場面。雪崩に巻き込まれ斜面を転がり落ちながら、「助からない」と感じた著者は「死ぬかもしれない」と思えなかった自分に自分に腹を立てていたのだという。状況が想定外であることがそれだけ我慢ならなかった。

危険というのは、見えやすいほど避けやすいのです。「死」を身近に感じられるからこそ、その「死」をいかに避け、安全に頂上までたどり着くか。それを考えるのが山登りです。

危険を察知し回避し目的地へ向かう。これは8000メートル上の頂上を目指す登山家だけでなく、一般人の我々にも必用なスキルではないだろうか。

冒険と技術の関係も興味深い。1953年に人類初のエベレスト登頂がなされて以降、新たな道具や技術が開発されてきたが、著者は「新しい道具は、楽に登るためにつくられるわけではない。より難しいことに挑戦するためにつくられるのです(強調引用者)」という。

新しい技術とは楽をするため、便利にするために生み出されるもの、といつの間にか思っていた気がする。しかし技術を快のためだけに使っては、使う側の進歩はない。そこを新たな踏み台にしてさらに前に進まねばならないのだ。

世界に14しかない8000メートル級の山々でなくても、そもそも山でなくてもいい。著者が高所登山を通じて訴えることは仕事、人生、何にでも当てはまる。

目標が向こうから黙って近づいてくることはありません。だから私は立ち止まることなく、想像に想像を重ねながら、足を前に踏み出し続けてきました

苦しいことも含めた長いプロセスを、いかにおもしろがれるか。その一つの輪の中で記憶に刻まれた印象のすべてが、登った者だけが知り得るその山の個性なのです。

苦しさを知っていれば踏み込んで行ける。知らなければためらいが生じる。

行くという選択も、行かずに下りるという選択も、同じ自己判断です。自分自身の意思と責任とで決めたことなのですから、決めた後に迷いや悔いは一切ない。

人から「やめろ」と言われてやめたら、その時点で自分自身の判断ではなくなります。

趣味でも、勉強でも、仕事でも、自分から興味を持たなければ、おもしろさの本質に触れることはできない。

…などなど、読み始める前は想像もしないくらい多くのグッとくる言葉が出てきました。

あとここでは書きませんが、著者はある人から「集団登校はよくない」という指摘を聞きます。その理由は街中での危険の認識について非常に的を射ていました。何にでも良い面悪い面があるんだよなー。

我々もすでに目標に向かって歩き始めている。ならば次の一歩をより良い形で踏み出そう。と思った本でした。

標高8000メートルを生き抜く 登山の哲学 (NHK出版新書)
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