文字は文字以上の意味を持つ話【鑑賞「みやこんじょ力の発信」展】

都城島津伝承館で開催中の特別展「みやこんじょ力の発信~紫舟と都城島津家史料の出会い~」を見てきました。

「龍馬伝」に似た雰囲気の「都城」ロゴ
「龍馬伝」に似た雰囲気の「都城」ロゴ

都城地域の領主だった島津家の史料と領主らに捧げる形で書かれた書家・紫舟の書を一同に展示。紫舟の書は大河ドラマ「龍馬伝」タイトルで知っていたし、今回のコラボのきっかけになった都城市のイメージロゴも「龍馬伝」と似た、鋭く力強い線で書かれていたんだけど、それ以外にも豪快に太い線やゆらりとした線で書かれた書もあった。

 

なんというか、書家は皆そうなんでしょうけど、この人は一人でいろんな「フォント」を持っているって感じがぐっと伝わってきました。それをイメージによって使い分ける。

会場では彼女が出演した「情熱大陸」も上映されていた。それを見て釘付けになってしまったのは、大人の指みたいな細く長い筆先の筆で50通りくらいの「道」を書き分けた場面。線の太さの強弱、払い、止めを使い分けて同じ字なのに「まっすぐ一直線な道」「迷ってる道」などと印象づけていた。

うーん、なるほど。字もアートなんだ。

 

会場には書の他に文字をモビールやオブジェにした立体作品も展示。別会場ではインタラクティブアートにもなっていた。

オブジェになった文字たち
オブジェになった文字たち

たとえば電子書籍では文字の大きさはおろか書体も変えられるのが特徴で、ユーザーが読みやすい書体を選べるのは利点なんだろうけど、そこで表示される字は明朝体でもゴチックでも同じ意味、という前提になっている。

しかし書は違うんだな。同じ字でも書き方によって違う意味、深い意味を込められる。書でそこまでできるなら、一般的なデザインにおいてはどうか…?

メッセージをどう伝えるか、最適なデザインは何か、もっと深く考えられることも出来るはずと考えさせられた展示会でした。

 

楽しいのがちょっと楽しめなかった話【鑑賞・ベイマックス】

中身ふわふわのコロッケを口に入れたつもりが肉汁たっぷりのトンカツだったよ若干腑に落ちないが旨かったね!…とこの映画を評したら、見た人にはわかってもらえるのだろうか…。

「アナと雪の女王」以来の、2014年冬公開のディズニーアニメ映画。見終わっての感想は「『面白い』じゃないか!」でした。

【あらすじ】マイクロロボットを一人で発明した天才少年ヒロは、同じく介護ロボットを開発している大学生の兄を不慮の事故で亡くしてしまう。ふさぎ込む彼の前に現れたのは兄が開発していたロボット「ベイマックス」。ベイマックスによって癒されたヒロは、自分が開発したマイクロロボットが何者かに悪用されようとしていることを知り、ベイマックスとともに真相を探ろうとする。事件の真相、そしてベイマックスに託されていた兄の思いとは…。

ええ、娯楽作品としてきちんと楽しめる作品でしたよ。冬休み中に見たので客席の子供たちはベイマックスのグータッチに爆笑するなどいい雰囲気。白煙を吹き出しながらサンフラントウキョウの空を飛ぶベイマックスのアクションは目を見張った。事件の黒幕も(お約束かもしれないが)意外性を持たせ、残酷さを持たせず解決する。そしてディズニーアニメには珍しく「これは続編の可能性ビンビンにあるな…!」と思わせて終わる。方位的に「楽しませよう」という配慮があった作品でした。

そんな作品な分、日本国内でのこの作品の宣伝の方向性に納得がいかなかったわけで。兄弟愛がメーンのような宣伝だったでしょ。でも明らかにこの映画は(原作通り)ヒーロー誕生譚なわけですよ。スパイダーマンやアイアンマンといったマーベルコミックの流れを汲んだ作品なわけですよ。作品の持っているカラー通り、アクション映画として宣伝しても全く問題ない気がしたんだけど。米国版の宣伝ポスターも検索すればいっぱい出てきますけど、あきらかに「ソッチ方面」だったのに、予告編やNHKのドキュメンタリーを見た限りでは泣かせる系って感じのアピールだった。

確かにじーんとさせる場面もあるんだけど、本編の作り手たちが「ディズニーアニメの新しい可能性を見せたぜ!」って思ってるのかもしれんのに、作り手でない人たちが「ディズニー=感動、泣かせる」とか決めつけてない?見終わって「面白かったんだけど、何か騙された気がする…」というのが正直な感想でした。まぁ次作はさすがに見る側もアクション映画という前提で見るでしょうけど。

ちなみに泣かせるというなら、同時上映の短編「愛犬とごちそう」がガチですw。3Dの体に2D風のテクスチャで描かれる子犬が愛らしいことこの上ない…!

弱い力が人をつなぐ話【鑑賞「インターステラー」】

久しぶりの骨太SFキターッ!な一作。科学的にあり得るぎりぎりの線とフィクションを高いレベルですりあわせた充実の作品となっております。

【あらすじ】植物が次々に枯れ、人類が住めなくなりつつある地球。人類は移住できる他の星を探すため密かに探索を開始していた。あるきっかけで探索チームに加わった元宇宙パイロットの男は「行かないで」という娘の願いを振り切り、時間と空間を越えて星々の中へ飛び立つが…。

「2001年宇宙の旅」「コンタクト」などにつながる、最新科学考証をできうる限り盛り込み、エンターテイメントとして見せる「ハードSF」映画。スター・ウォーズのような「スペース・オペラ」とは違い、作品世界は現在考え得る物理法則、宇宙科学に支配されているのです。

空間をつなぐ「ワームホール」の説明などは作品内でもあったけれど、最新の宇宙物理学を解説する、リサ・ランドール「ワープする宇宙」を偶然にも読んでいるので「時間と空間のゆがみ」という概念がうっすら頭に入っていたのが助かった。主人公の家で起こっていた“ポルターガイスト現象”の種をあかすクライマックスでは「その“概念”を映像化してくれたか!」と涙が出そうになりました。本を読んでもわかるようでわかりにくい部分なんだよねー。

頭使うのが楽しい映画でした
頭使うのが楽しい映画でした

先述した2作と比べると、人間ドラマに比重が置かれているのもポイントか。父と娘の心のつながりを描くのに重力を用いるというアカデミックさ!重力って科学者の間では自然界にある4つの力のうち、非常に弱い力とされているそうなのだが(詳しくは検索してください)、その弱い重力と親子「愛」という、これまた強さがあやふやな力が組み合わさって大きな奇跡を成し遂げるのが実にドラマチックでした。

けれど、作品の核となる概念、いわゆる「ウラシマ効果」はどこまで知られているんだろう。知らない人からすると、「星の上での1時間が7年って?」となりそう。

そして「2001年」「コンタクト」同様、この作品でも、作劇上避けられないのかもしれないが、登場人物間の対立が描かれてしまう。特に今作では人類救済計画としてA案、B案が提示され、A案を成立させる候補に3つの星がある…という前提でさらにそれを転換させていくのでややこしい。なおかつそれを主人公のいる宇宙と主人公の娘がいる地球の話を交互に描きながらすすめるので、「この人はなぜ反対しているの?」と少々混乱してしまう。

まぁ今考え直すと、今作で描かれる対立とは「未来を信じるか否か、人間の力を信じるか否か」に帰結するように解釈できますが。その視点でクライマックスは、科学で解明できうる世界から一気にフィクションの世界へ飛び込むわけです。しかしそんなフィクションの世界で効果的に使うツールが先述の「重力」なわけで。この使い分けが実に絶妙で「ハードSFだなぁ!」と思うわけですよ。

そしてエピローグ。劇中で繰り返される詩の一節が実に胸に迫るのです。進め、進もう。科学の面白さをもう一度思い出し、未知の世界へ。SF(サイエンス・フィクション)という、よく考えると矛盾しているこの言葉の意味がよくわかる作品でした。

選んだ言葉から自分が見える話【書評「ぼくの好きなコロッケ。」】

表紙の紙やページの角落としなどにこだわるのが電子版では出来ない技ですね
表紙の紙やページの角落としなどにこだわるのが電子版では出来ない技ですね

あけましておめでとうございます。

2014年、最後に読んだのは糸井重里の「僕の好きなコロッケ」でした。2013年に糸井重里が書いた原稿やツイートからの抜粋本の最新版。2007年から続いているそうですね。知らなんだ。最新2巻を買おうと思って、この本ともう一冊「小さい言葉を歌う場所」を選んだのですが、「小さい言葉を歌う場所」は一番古いもの(2007年)でしたw。

いわば糸井重里の箴言集なわけですが、こんな本の中からどんなコトバを選ぶかで、自分の今の気分が見えてくるのかもしれません。

というわけで、2015年に向けて選び出したのは以下のコトバたち。

「どこにも場所が空いてない」ということは、
いつも、新しい何かの出発であった。(P27)

では、どういう人と「対談」するのがおもしろいのか?「こういうことかな?」と考えついたのは、話していて「じぶんが変わることを怖れてない人」。ことばのキャッチボールをしているうちに、「変わってもいい」と思っている人とだと、話がたのしく転がるんですよね。(P40)

おそらく「集中して死ぬほど考える」ということよりも、
「しっかり感じる。そして毎日休みなく考える」ことのほうが、
難しい問題を解決に近づけてくれる。(P69)

「好きになってもらう方法」について考えはじめたら、
それはもう、えんえん救われない道に迷いこむと思うんだ。(P69)

「だれかの力になりたいと思ったときに、
自分に力がなかったら、とても残念だろう?」
ということは、今でも思う。(P120)

光の側を見ることを、能天気だと思う人もいるでしょう。
影を語るほうが、真剣で深いことに見えたりもします。
でもね、光の側を見ている人、そうそうバカでもないし、
影ばかり語る人、さほど優れているということでもない。(P156)

できることなら、あらゆる人が
「じぶんって変わるものだ」と思っててくれたらなぁ。
「変わる」ことを怖れない人どうしだったら、
人に会うことは、たいていたのしいと思うんです。(P163)

倫理や高潔に期待するものは、たいてい知恵と寛容を忘れている。(P167)

気に病んでいるだけなのは、祈ってるとは言わない。
心配しているだけなのは、考えてるとは言わない。(P168)

「じゃあお前がやってみろ!」とは言わないが、
「じゃあお前は何をやってるんだ?」は言う。(P169)

新聞の一面に出ているようなことについて、
あれこれ語っていると、なんだか
むつかしそうで高級そうなのだけれど、
考えようによっては、誰にでもできる簡単なことだ。
家のことやら、近所の問題があったとき、
しっかりと解決することは、実にたいしたことである。(P170)

ぼくは、自分が参考にする意見としては、
「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。
「より脅かしてないほう」を選びます。
「より正義を語らないほう」を選びます。
「より失礼でないほう」を選びます。
そして、「よりユーモアのあるほう」を選びます。(P172)

じぶんが、上手になること、
じぶんが、もっとできるようになること、
それについての期待や希望がさ、
誰かに期待したり頼んだりすることよりも、
先にあるべきなんだと、ぼくは思っている。(P177)

だいたい「エロチックサスペンス」って、
カツカレーみたいにおトク過ぎるよなぁ。(P200)

とっさの「じぶん」が、じぶんの育てた「じぶん」だよな。(P218)

本気に対して、本気じゃない者は謙虚であれ。(P222)

先に空にするってことが、大事なんだよなぁ。「ふ~~っ」と、息を吐き出すだろ。その吐き終わってできた空間を、新しいなにやらが急いで埋めようとするんだよ、きっと。(P237)

どういうものが理想なのかを誤ったままに、技術やら環境が整って、それが実現したとしても、あんまり意味ないと思うんです。「いままでなかったけれど、こんなのがあったらなぁ」という理想が見えること、それこそが大事なんです。(P238)

力というのは、必ず、とてもおもしろくて危うい。そういう「過剰さ」を感じながら扱わないと、いけないんだよなぁと、思うのであります。(P239)

「薬味は、どれくらい入れたらいいんですか?」などと野暮な質問をぶつけられても、もう大丈夫。「嫌じゃない程度に」と答えればいいのだ。この「薬味理論」は、まだ生まれたばかりだけれど、なんかものすごく応用が利くと思うよー。人生に「薬味みたいなもの」、いっぱいあるもの。(P240)

ばいばい鹿児島。
なんか、傷もなかったのに
癒えてる気がする。(P258)

「絶望は愚者の結論である。」とかいう
「名言」だって知っているけれど、
ぼくらは、いつでも「希望」を手放しやすいものだ。
その「希望」の手を放してしまうことの快感さえも、
僕らは経験してもいる。
「絶望」って、たぶん、一時的な解放感があって、
気持ちがいいように感じられるものなんだよね。(P308)

ああすればいいこうすればいいは言えなくても、
未来から見て「あきらめなかった」人間に、
こころからなりたいと思う。(P308)

終わりとか、別れとかのなかには、
もれなく、ハードボイルドなメッセージが込められているのです。
「さらば…」そして、
「おまえは、これからどうする?」です。(P311)

…やはり今の自分、変身願望wがあるようです。あとニヒリズムは苦手。地に足つけて、バランスよく、2015年も行って見て考えたことを記録していきたいと思うのであります。