物流ももてなしだった話【書評「アマゾンと物流大戦争」】

書名はアオリ気味につけられてますが、内容はバランスが取れ、読みやすい本でした。

【内容】
アマゾンが仕掛ける物流革命から、今、経済の地殻変動が起こり始めている。ウォルマート、楽天、ヨドバシカメラ―アマゾンに立ち向かうための戦略はあるのか?あらゆるビジネスを飲み込む巨人アマゾンの正体とは?流通先進国アメリカで取材を重ねる気鋭の物流コンサルタントが、日米ビジネスの最前線からレポートする!
【著者略歴】
角井亮一
1968年大阪生まれ、奈良育ち。株式会社イー・ロジット代表取締役兼チーフコンサルタント。上智大学経済学部を3年で単位修了。米ゴールデンゲート大学でMBA取得。船井総合研究所、不動産会社を経て、家業の物流会社、光輝物流に入社。日本初のゲインシェアリング(東証一部企業の物流センターをまるごとBPOで受託)を達成。2000年、株式会社イー・ロジットを設立し、現職。現在、同社は230社以上から通販物流を受託する国内ナンバーワンの通販専門物流代行会社であり、200社の会員企業を中心とした物流人材教育研修や物流コンサルティングを行っている

(アマゾンの著書紹介ページより)

どこも頑張れ、と応援したくなりました

ネット通販を使い始めた頃は、主に利用していたのは楽天だった。ポイントがつきますからね。でも同じ商品を色々な店で扱っているので、値段が違うのは当たり前でもクレジットカードが使える店と使えない店があって、次第に楽天を離れ、アマゾンをよく使うようになった。

さらにアマゾンの利点として(大半の商品で)コンビニ受け取りができるようになったこともある。商品が届くのを待つのも、案外苦痛になってきたのだ。外出のついでに近くのコンビニに寄れば受け取れるのは意外と楽なんです。

…と思っているところに読んだこの本。楽天とアマゾンの違いについて

楽天のようなモール型ECサイトは、ロジスティクスのノウハウを必要としていなかったため、立ち上がりのスピードが速かったのです。
ロジスティクスを楽天は短期で買えるもの、つまりコストだと考え、アマゾンは長期で構築する投資だと考えたところに決定的な違いが現れました

と書いているところに非常に納得した次第。コンビニ受け取りサービスはアマゾンから始めたはず。そういった取り扱い品の数や価格だけでなく、物流面に力をいれるのがアマゾンの特徴なのだなぁと再確認した。

この本が書かれたのは2016年9月。2017年になって社会問題化してきた宅配業者への過剰負担問題にも触れている。結局、配送センターから顧客までの「最後の1マイル」をどう効率化するかが問題なのですね。そこで著者はアメリカでアマゾンがとっている戦略を紹介している。配送センターを消費者に近い場所に置く、自前配送、ドローン配達など。日本から見ると突拍子もなかったり、地味すぎてニュースにもならない取り組みをアマゾンは着実にしているのですね。

またアメリカでのアマゾンのライバル、スーパーマーケットチェーン「ウォルマート」のサービスも紹介。ネットで注文した商品を顧客の近くの店舗から発送する、専用の物流センターでドライブスルーのように直接受け取れる、などなど。

こういった物流サービスの改善、向上について著者が引用しているアマゾン幹部の

「顧客の注文通りに組み立てていると言ったほうがいいでしょう。作業内容は小売業より製造・組立の現場にずっと似ているのです」

という言葉が印象的。パソコン、スマホ、ネットを使うサービスなのだから全てをデジタルに処理できるかというとそうではない、アナログにコツコツと取り組む姿勢が感じられるのです。

そんな中、日本のネットスーパーとして著者が注目するのがヨドバシカメラ。「在庫の一元管理」「店頭とネット通販の価格統一」「店員教育」を実現しているのだそう。アマゾンもアメリカで実店舗を開くなど、顧客との接点を強化しようとしている。ネットから実店舗へ向かうアマゾンに対し、日本のヨドバシカメラ、セブン-イレブンのネットスーパー「オムニセブン」は実店舗からネットへ向かう。先述した宅配業者への過剰負担を消費者側から減らそうとするなら、実店舗がすでにあるネットスーパーを利用するのも一つの方法なのかもしれません。

そして最後に著者が、様々な事業者を集めた「モール型ネット通販」の楽天へ「さまざまな事業者が混在するからこそ、アマゾンも驚くような商品が次々と登場するのがモール型の優位な点です」とエールを送っているのも心憎い。物流も不可欠だが、物流だけで勝負が決するとは限らないわけです。

物流事業は消費者の立場では見えにくい。商品を受け取るときの宅配ドライバーの態度くらいか。ドライバーに丁寧な「接客」をさせるのが顧客へのサービス、と思っていたが、商品と消費者をどう繋げるかも広くサービスの一環なのだ。業者を短期的な勝ち負け的の視点で描かない、物の見方が少し(よいほうに)変わる、いい本でした。

アマゾンと物流大戦争 (NHK出版新書)
角井 亮一
NHK出版
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見えないところで時代は変わる話【書評「ネーミング全史」】

自分の気付かないものにも歴史はあるんだよなぁ、という一冊でした。

【内容紹介】
「名前がなくて、売れたものってあるだろうか? ネーミングは、すべての始まりだ。」(糸井重里)
あのヒット商品、話題のネーミングはこうして生まれた! 時代を超えて生き続ける「ネーミング」を歴史と共に振り返ります。
◆AKASAKA SACAS(ビル街のネーミングは、いまや日本語の言葉遊び)、KITTE(郵便のシンボル「切手」で、親近感アピール)、お〜いお茶(語りかけるネーミングは、背景に自販機)、うどん県(自治体のネーミング意識に火をつけた)…あのヒット商品、話題のネーミングが生まれた背景をネーミングの第一人者で、現在も数々のプロジェクトに関わっている著者が解説します。
◆本書では、1990年以降、「ネーミングが主役になった」時代に生まれたヒットネーミングを、その開発プロセスを交えて紹介しています。写真をふんだんに盛り込み、見て読んで面白い一冊です。また、発想チャートなど著者独自のネーミング作成法を紹介。実務家にも役立つ内容です。
【著者紹介】
岩永 嘉弘
ロックスカンパニー代表・主筆
1938年生まれ。早稲田大学第一政治経済学部新聞学科卒。光文社編集記者4年半・明治製菓宣伝4年の後、ロックスカンパニー代表・主筆に。広告制作の最前線で広告コピーライター、クリエイティブディレクターとして活躍する一方で、ネーミングという新分野を拓いた。ネーミングから始まる、ロゴデザイン、パッケージ、C.I.展開に至る広範な仕事をこなす。ニューヨークADC賞・朝日広告部門賞・毎日広告部門賞・日経広告賞などを受賞。

(アマゾンの著書紹介ページより)

業界誌、業界紙の連載に加筆したものだそうで、その点では以前紹介した本と同じか。でも内容柄、こちらの方が軽く読めます。

でもこの本の底に流れる「コピーの時代からネーミングの時代へ」という指摘は重要。一つ一つの商品に宣伝費をかけられなくなってきたので、商品名で勝負する時代なのですね今は。

全てのモノには名付けた人がいたのです。

著者自身、洗濯機「からまん棒」「東急bunkamura」「日清oillio」などを名付けた第一人者。例えば洗濯機、「からまん棒」以前は「うず潮」「青空」「銀河」など洗濯→キレイ、というイメージ勝負だった。それが洗濯槽の中心に棒が据えられた「からまん棒」以降、機能を直接命名するようになった。プレゼン時は悪評紛々だったそうですが見事大ヒットしたわけです。「広告にコピーが少なくなった。なくなった。キャッチフレーズが衰退した。いや、キャッチフレーズさえ消えてきた」という著者の言葉は一消費者の立場からでもうなずける。確かに最近、印象的な広告コピーってないからなぁ。

だから本の帯を名コピーライター・糸井重里が書いているのがオモシロイ。もう糸井氏自身、コピーライターが本業ではありませんからね。

最後の章はネーミングのコツを伝授。「分野違いのキーワードを探す」「世間のネーミングの半分以上は、コンセプトを追求し、加工しなくても立派に目的を果たす言葉をそのまま使った素ネーミング」など基本ではあるが重要なことをまとめている。

読み通せば、あの時代あんな名前の商品があったと思い出せるのだけど、「全史」と名乗るくらいなら巻末に年表をつけて、当時の時代風俗と重ね合わせられれば面白かったのに、とは思いましたが。

そしてもう一つ心に残るのは、「とは言ってもこの本で紹介される商品の全てが『ブランド』にまでなっているわけではないんだよなぁ」ということ。先述した洗濯機「からまん棒」も過去の商品。bunkamuraのような場所名は長く残るけど「ブランド」とは言えない。

そもそも今、家にある白物家電やテレビの名前、知らないぞ。名無しになった商品たちはもはや差別化すら放棄された日常品、ということでしょうか。長く残るのが一概にイイコトかどうか一考の余地があるのかもしれないけど、意外とそんな名前の消えた商品、周りに多い気がする。「ネーミングの時代」の先がもう始まっているのかもしれない。

ネーミング全史 商品名が主役に躍り出た

ネーミング全史 商品名が主役に躍り出た

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岩永 嘉弘
日本経済新聞出版社
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日本は昔から変わってない話【書評「外交感覚」】

辞書みたいに分厚く、ページ内も上下2段組と大変なボリュームなんだけど、頷ける点が多い一冊でした。

【内容紹介】
1996年の逝去した国際政治学者・高坂正堯が残した時評集を集成。中国、米国、国際社会、そして日本政治や外交に向けられた鋭い視線は、21世紀の日本を見通すかのような寸鉄が散りばめられている。
【著者紹介】
高坂正堯
国際政治学者、法学博士。1934年京都市生まれ。1957年京都大学法学部卒業後、同助手に採用され、1959年同助教授、1971年教授に昇進。専門は国際政治学、ヨーロッパ外交史。1978年『古典外交の成熟と崩壊』で第一三回吉野作造賞を受賞。国際戦略研究所理事、財団法人平和・安全保障研究所理事長などを歴任するも1996年急逝。

(アマゾンの著書紹介ページより)

立ちますからね、この本。

1977年から1995年にかけ中日新聞、東京新聞に掲載された時論を中心にまとめた、1985年出版「外交感覚」、90年出版「時代の終わりのとき」、95年「長い始まりの時代」3冊の合本版。現実を見据えた提言を続けた人で、一度ちゃんと評論を読んでみたいと思っていた。げっぷが出るくらいの大盛り本から手をつけてしまいましたが。新書もあるのに。

とはいえ、中身は先述の通り新聞掲載の時論が主なので、一つ一つの評論は読みやすく、短い。しかし寸鉄人を刺す名言があちこちに散りばめられている。

1977年から1995年というと、日本とソ連(!)の漁業交渉に始まりイラン革命、ソ連のアフガニスタン侵攻、イラン・イラク戦争、新冷戦の激化と集結、湾岸戦争などがあった期間。しかし起こったことは過去のことでも、日本が向き合った課題は当時も今も変わらないことに愕然とする。

例えば先述の日本とソ連の漁業交渉。高坂は交渉の基本としてこんなことを書いた。

ソ連は日本の弱みにつけ込もうとした。それをわれわれが怒ることは無意味である。ソ連はその程度がひどいとはいえ、それが外交の常なのである。したがって外交において成功するためには、弱みを作らないことが第一の条件となる。
備えのない国の外交は、必ず失敗し、国益を守ることができない。その備えとは軍事力を持つことだけではないし、広義の力を持つことにもつきない。必要な制度的変更を国内において行い、外国に無理をいうとか、頼み込まなくてはならないようなことを作らないことも重要なのである。
それを抜きにして外国の強引さを非難するのは、甘えん坊のすることであり、それを抜きにして政府の無策だけをそしるのは、無責任者のすることである。

一読して通底しているのは、経済大国となった日本は「主体的に」国際社会で役割を果たすべき、という高坂の主張。

日本はこれまで慎重さゆえか、あるいは利己主義のためか、協議に加わると引きずられるとして一歩離れた態度をとって来た。しかし、それは典型的な小国の態度であり、世界を相手に広く貿易している日本として、もはや継続しえないものである。それは、世界政治のシステムだけを利用し、その維持のためのコストを払わないとみなされるであろう。協議に積極的に加わり、発言し、行動することによって、その自立性と利益を守ることができるし、それが現在における唯一有効な方法であるというヨーロッパ人の考えから、学ぶべきところは多い。
ここまで大きくなった日本は、世界の秩序の形成と維持にかかわらざるをえないのだが、秩序の維持は基本的に力の問題だからである。そして、相当部分が軍事力(それが使われる場合と使われない場合を含めて)の問題であるのだから、それとは一切無関係という立場は成立しない。
しかし、日本人はこれまでの考え方を変えたくはなかったし、政治を指導する立場にある人のかなりもそうだった。その根本的な原因は、日本人が世界秩序を自分たちの問題とは考えず、良かれ悪しかれ、だれかが与えてくれるものとみなす態度にある。
積極的に行動することは反発を招き、疑惑を生み、かつ失敗する危険を伴っている。しかし、大きな国力を持つ国が消極的であることは、不気味なものである。積極的に行動し、それが無法でも愚かなものでもなく、国際社会のルールにのっとったもので、有用なものであることを示して信頼を獲ち得なくてはならない。それ以外に信頼を獲ち得る方法はないし、信頼を得ることなしに大国は生きていけないのである。

国際社会の信用を得るためには日本から行動を起こす必要があり、それは国内的な制度変更をも含むのだ、という指摘は通商、防衛の観点から残念ながら今も有効なのだ。でも「今も有効」というより、絶えず見直さなくてはいけない点なのかもしれない。国外の問題に対処することを「巻き込まれる」と受け止める発想や、何かを「しない」だけでは国際社会での信用は得られないのでしょう。

また戦争を中心に人間の業に目を背けない姿勢も印象に残った。そして目を背けがちな日本社会に警告を発し続けた。

戦う必要のない戦争を戦ったことが事実であるなら、そこには人間の誤りが存在したはずなのであり、そうした誤りはわれわれとも無関係ではないからである。戦争が起こると、あるいは「侵略戦争」として非難し、あるいは「無益な戦争」としてからかうのが日本人の通例だが、それは自分たちと関係がないと考えている点で無責任でもあるし、また傲慢でもある。自分たちも犯しうる過ちをそこに見て、そこから学ばなくてはならない。
言論、報道の自由がなく、エリートがしっかりとまとまって統治しているという国は、われわれの目から見て好ましくないが、しかし、そうした体制は安定している。悪いものが早くだめになり、よいものが長続きするということはいえないのである。その逆もかなりおこる。
闘争もやむをえないということはできないが、しかし、そうした攻撃性向がわれわれのなかに存在していることを認めなければ、闘争を制御することはできないのである。
国家は自国を有利な立場に置こうとして軍備を行うのだが、それは軍備縮小に際しても変わらない。できるだけ有利な形で軍備縮小を行おうとして、知恵をしぼり、駆け引きを行うのである。それが軍縮に関する常識なのだが、平和の構築といった美名のため、この厳しい現実を忘れてしまうことがどれだけ多いことか。
破局の可能性を減らすことは、たしかに文明的である。しかし、人間の不完全性を考えるとき、破局の可能性がはっきりしている方が、人間の自制を生みやすいことも残念ながら事実である。
人間社会は、秩序を守るために力を用いる覚悟と、最悪の場合にはそれを使うことによって保たれうるのだし、それによって人間は人間たりうる、それは嫌な論理だが、人間という存在の根本に関わる心理である。そうした真実を直視せず、悩みもせず決断もしないで暮らすとき、人間は必ず腐敗する。そして、豊かであればあるほどその腐敗は激しい。

引用した部分、現実と理想の間で揺れる著者の思考が現れているように思う。現実を無視して理想に逃げ、キレイゴトを述べて満足する人はまだまだ多い。理想に逃げない姿勢はオトナだなぁと思うわけです。

人間は愚かであるという言葉は、決して、他人を批判、非難するときに使われてはならない。それは他人を許し、自らを戒めるための言葉である。

苦味ある大人な姿勢こそが「外交感覚」なのでしょうね。

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり
高坂 正堯
千倉書房
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変化の努力は続いている話【書評「ヒットの崩壊」】

現在の日本の音楽業界を俯瞰できる一冊。新たな気づきもあり、読みがいある本でした。

【内容紹介】
激変する音楽業界、「国民的ヒット曲」はもう生まれないのか? 小室哲哉はどのように「ヒット」を生み出してきたのか? なぜ「超大型音楽番組」が急増したのか? 「スポティファイ」日本上陸は何を変えるのか? 「ヒット」という得体の知れない現象から、エンタメとカルチャー「激動の時代」の一大潮流を解き明かす。テレビが変わる、ライブが変わる、ビジネスが変わる。業界を一変させた新しい「ヒットの方程式」とは──。
【著者について】
柴那典 1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立。雑誌、ウェブ、モバイルなど各方面にて編集とライティングを担当し、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。主な執筆媒体は「AERA」「ナタリー」「CINRA.NET」「MUSICA」「リアルサウンド」「ミュージック・マガジン」「婦人公論」など。「cakes」と「フジテレビオンデマンド」にてダイノジ・大谷ノブ彦との対談「心のベストテン」連載中。著書に『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)がある。 ブログ「日々の音色とことば」 http://shiba710.hateblo.jp/ Twitter: @shiba710

(アマゾンの著書紹介ページより)

最近の音楽業界が楽曲販売よりライブによる収益で成り立っている、というのは何かで読んだ。楽曲販売に携わるレコード会社の方々は大変だろうけど演者の皆さんは儲けられているからまぁ頑張ってください、ワタクシも行きたいライブには行くようにしてますんで…。くらいの印象だった。

ヒットは崩壊しても音楽業界は続いていくのです。

でもですね、この本の中で、いきものがかり(放牧中)の水野良樹が言っている「ヒット曲が少ないとは、音楽が社会に与える影響が弱くなったということ」という指摘は重い。

「歌は世につれ世は歌につれ」というけれど、著者はオリコン、ビルボード、カラオケのランキングチャートを概観して、各チャート上位の曲にズレがあること─話題になっている曲が見えにくくなっている─とする。

著者はその理由をCDにオマケをつける「AKB商法」や音楽配信サービスに楽曲を提供しないレーベル側に見ているが、個人的にはリスナーの好みの多様化もあると思う。子供の頃、若い頃に聞いていたアーティスト、音楽ジャンルをずっと聞き続けても今はヘンに思われなくなったと思うのだ。つまりタコツボ化、でしょうか。

でもそうなると、最近テレビで増えてきた長時間の歌番組を著者が「テレビの中の音楽フェス」と指摘するのは慧眼。自分が聞きがちな曲以外にも触れる機会になりうるんですね。

著者はそこから日本のポップ・ミュージック「J-POP」自体が独自の進化を遂げ世界の注目を集めつつあること、一方でアメリカでは定額制音楽配信サービスからヒット曲が生まれる状況、世界的に売れるアーティストの出現などを紹介。「不特定多数のマスを相手にヒットを狙うのではなく、アーティストが自らの個性を発揮し、それに共鳴するファンやリスナーの輪を着実に広げていく」環境づくりが大切としている。著者曰く「ミドルボディ」…中間層、ということですね。

以前読んだ「初音ミクはなぜ世界を変えたのか?」同様、今回も著名アーティストや業界内の関係者が実名で登場し、意見を述べている。噂話や勝手な思い込みで論を進めない、誠実な著者の姿勢は今回も好印象。結論が穏当なものになっているのも必然でしょうね。

ただ、音楽は聞き手がいて成立するもの。リスナー側から見た音楽像の変化ももう少し知りたかった。不特定多数が対象になるので難しいかもしれないが、ヒットチャート以外にも見えるリスナー像って何かなかったかな、と。自分も現状思いつきませんが(苦笑)。読み手側がどんなふうに日頃音楽を楽しんでいるかで、読後の印象も変わるのかもしれません。

舶来文化へのコンプレックスから始まった日本のポップ・ミュージック業界は次のステージに向かいつつあるようだ。アーティストの活動期間も長くなり、ジャンルも増えてきた。個人的には「アーティストが自らの個性を発揮し、それに共鳴するファンやリスナーの輪」が広がるだけでなく、重なりあえばもっと良くなるんだろうな、と考える。先述したけど音楽がタコツボ化した分、他のアーティストやジャンルの楽曲も今は聞けるものが膨大になっているので、聞いてみようと思っても敷居が高いように思う。

リスナー一人一人が「たまには他のものも聴いてみようかな」という好奇心、流行への関心をちょっと持つだけで日本の音楽業界は良くなっていく気がします。業界側はそこを押す仕組みが問われているのでしょう。いろいろ努力はされている様子。まずは長時間音楽番組を気にしてみようかな。

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アートは接着剤だった話【鑑賞「冨永ボンド展」】

芸術は誰にでも開かれている、と再認識しました。

みやざきアートセンターで2017年3月5日まで開催中の「冨永ボンド展」を見てきました。

冨永ボンドは木工用ボンドで絵を描く画家。独自の画法はニューヨークやパリのアートフェスで注目され、現在は佐賀県佐久市の「ボンドバ」を拠点にライブペイントやアートセラピーなどで活躍しているそう。

初めて聞いたアーティストでしたねぇ

会場に展示している作品は「人間」をテーマに、顔、指、神経など様々なモチーフを採用。特に「顔」は気絶した人を描いたそうだけど、ファンキーでサイケデリックな作風が非常にクール。

もともとCDジャケットデザインからアートの世界に入ったものの、クラブイベントではデザイナーはすることがないのでライブペイントを始めたそうなので、音楽との関連が強いんですね。会場で流れるプロモビデオの音楽も、クラブイベントが落ち着いた時に流れるような、涼しげでスタイリッシュな曲でした。

前衛的な感じがいいですね

色使いに都会的なクールさはある一方、「ボンドアート」自体については「誰でもできる、失敗のないアート形式」と自ら定義しているのが興味深い。キャンバスに色を塗って、黒く着色した木工用ボンドで境目を縁取るだけ、なのだから。

しかし出来上がった作品はステンドガラス作品に似てちょっと高級さがあるのがこの技法の特徴かも。安っぽさがないんですね。

応援の意味でiPhoneケースを購入^_^

画家本人は色使いで勝負しつつ、一般の人はおろか福祉施設とも「ボンドアート」で連携、拠点「ボンドバ」はアトリエや作品販売の他、週一回のバー営業もしているそうで(行ってみたい…)個人で完結するのでなく周囲と繋がろうとするスタイルも新鮮。「つなぐ」というコンセプトと創作活動が高いレベルで一致してると感じました。

今回が初の個展だったそう。企画したアートセンターも挑戦的ですね。期間中に

大作を公開制作してましたが、あの作品、センターのどこかに常設展示されるといいなぁ。入場無料なので行ける方は是非。