フェアとシェアで生きていく話【書評「コミュニティ難民のススメ」】

副題が「表現と仕事のハザマにあること」なのだけど、表現に限らず「生活と仕事のハザマ」としても読み取れる内容かと思いました。

著者は「日常編集家」を名乗り、文筆業やイベントプロデュースに携わる。自分の家をオープンにして周囲と交流する拠点にしている人たちを紹介した著書「住み開きー家から始めるコミュニティ」は、以前感想を書きました。

いつか実際に話を聞いてみたいものです。
いつか実際に著者の話を聞いてみたいものです。

今回は「個人の生産活動において特定のコミュニティに属さず、表現手段も拡散させて、社会との新たな関わり方を生み出す人」を「コミュニティ難民」と定義し、著者自身の生き方や、著者が出会った6人を紹介しながら、新しい人物像を描き出していく。

上記の定義だとちょっと分かりにくい気もするのでこちらが理解した範囲で言うと『「2足のわらじ」をどう履くか』ということでしょうか。著者自身は2足以上履いているのだけど。

著者の問題意識の根底には

「大人たちが子どもたちに対して、求めてくる夢がイコール“なりたい職業”という、暗黙の前提があることに違和感を抱いてきた」(P2)

「この世の中において、自分が何者であるか、あるいは何屋さんであるかを一言で語れないということは、それなりに“生きづらい”」(P20)

といったものがある様子。現代社会はどこに帰属していかが問われすぎている、と理解した。「広く浅く」な生き様が成立しづらく、それが閉塞感を生じさせているのでは、と。

この本で紹介されるのは「FMラジオ局や商店街と連携してアーティスト発掘や地域経済活性化を手がけた銀行員」「雑誌編集委員でもある一級建築士」「NPO法人理事のミュージシャン」など。(著者含め)ひとところに留まらず/留まれない、難民のような人たちだ。彼らの生き様を深く紹介し、著者なりに考察を深めているのが「住み開き」とは違う点か。

けっして彼らを賞賛するのではなく、ひとところに留まれなかった苦しみにも目を向けている点に著者の誠意を感じます。だからこそ「難民」と名付けたんですね。

本の最後には住職にして大学教授の釈徹宗氏と著者の対談が収められている。そこではこういった「コミュニティ難民」がコミュニティに刺激を与える可能性、「コミュニティ難民」のように宙ぶらりんな状態が人を鍛える可能性、定年後のサラリーマンなどコミュニティから退場させられた宙ぶらりんな人々と「コミュニティ難民」が出会うことでの可能性などが示される。

個人的には「人口減社会」「高齢化社会」と言われる今の日本との関連性について考えた。

サラリーマンが定年を待つまでもなく、今はひとりで複数のことをやらざるを得ない状況が増えているように思われる。たとえば外部からは「会社員」というコミュニティに属していると見えても、当事者は会社にではなく、職種に応じたさらに小さなコミュニティに帰属意識を感じていたりするものだ。営業とか研究開発とか。そんな会社の中のコミュニティの境界は今、どんどん薄れているのではないだろうか。この本では取り上げられていないが、コミュニティの側から外に追いやられ居場所をなくす「(文字通りの)コミュニティ難民」が出現する可能性も高いはずだ。

上記の対談で釈徹宗氏は「コミュニティ難民」について、高度経済成長だった頃はズルさや駆け引きを持たないといけなかったが、低成長期である成熟社会では自分勝手な欲望を振り回さず分かち合うーフェアとシェアーな状況だから生まれてきた存在、と指摘する。

誰もが一つのコミュニティに頼ったまま生涯を終えられないだろう現代、複数のコミュニティを渡り歩くためにはフェアとシェアが必要、という指摘は非常に理にかなっていると思えました。いつかくる日のために覚えておきます。

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選択が自分をつくる話【書評「情報を捨てるセンス、選ぶ技術」】

友達があなたのメールにしばらく返信してこなかったとき、あなたは友達に嫌われたのだろうか?そう考える仮説と証拠の関係は?

この本では私たちが情報を受け取る際に用いるべき「作法」について、様々な角度から検証が行われる。

著者は経済学者。この本では一人一人の意志決定の質を高めるため、情報の収集、選別、分析はいかにすべきか、誰の意見に耳を傾けるべきか、異なる意見をどう比較評価するかなどについて論考している。

現代はインターネットを通じて大量の情報が氾濫している。価値ある情報は偽情報に紛れ、ひっきりなしに届く情報は私たちの集中力、思考力を妨害する。でありながら、私たちはメールチェックなど情報への接触をやめられず、一種の中毒になっている。

さらに、情報化の進んだ現在では社会全体の構造ー既成の秩序ーが崩壊しつつある。これまで信じてきた過去が未来の道しるべにならない。

…といった著者の時代定義に対して、結論はやや凡庸かもしれない。正直、読み終わるとちょっと肩透かしな印象もあった。

「過去の成功や失敗に固執しすぎて、まともな思考ができなくなったり、偏見のない客観的な心で現在の問題を評価できなくなってはいけない。私たちの環境とそれがもたらす結果の相互作用は絶え間なく変化するということを、強く意識しておこう」

こんな感じ。しかし別の見方をすれば、上記のような内容は普遍的な主張、ともとれる。

基本に立ち戻るのは大事ですね
基本に立ち戻るのは大事ですね

著者は進化する技術に目を奪われて、情報を極端に受け入れたり拒絶したりするのは否定する。この主張に従えば中庸でありつづけることができそうだ。今はそれが難しいのだ。熊本地震でツイッターなどに川内原発に関するデマが出回ったことは記憶に新しい(本書ではネットに飛び交う情報の真贋に関して、受け手である自分に問うべき項目もある)。

しかし一番印象に残ったのは、先述した「友人からメールの返事がこない場合」を例に問われる「仮説と証拠の関係」だ。

「友人から嫌われている」という仮説を起点にしたら「メールがこない」事実に説得力があるように思える。しかし「メールがこない」事実を起点に考えたら「友人から嫌われている」仮説は説得力を持つだろうか?ほかの可能性もあるのではないか?

この仮説と事実に関する自身の思いこみを再確認させる指摘と、リスクに関する指摘(「絶対リスク」と「相対リスク」)は本書の重要な箇所だと思う。

変化のスピードが速い現代社会では先述の通りネットの情報も正しいとはいえず、かといって専門家も当てにならなくなってきた(「政治の動向をぴたりと予想する人は非常に謙虚であることを、数々の研究が示している」と著者はいう。至言ですね)。

著者は最後にこういっている。

「この世界をあいまいになるほど簡略化しようとしたり、情報を楽に受け入れられるように誰かにかみ砕いてもらおうとしたりする自身の欲望に立ち向かわなければならない。」

「混沌を受け入れるとは、今日の正しい決断が、明日には正しい決断でなくなっているかもしれないことを認識することだ。」

思い込みは自分自身にも生じがち。まずできることは、絶えず自分自身を疑うこと、かもしれない。

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世界は変わっても自分は変わりにくい話【鑑賞「アイアムアヒーロー」】

話の骨格にちょっとズレを感じたんだけど、パニックホラーとしてかなり健闘した作品だったとは思いました。

【あらすじ】彼女と破局寸前の漫画家アシスタント鈴木英雄の周りで突如人々がゾンビ化し始めた。途中で出会った女子高生の比呂美と辛くも都心を逃げ出す英雄。二人は富士山麓のアウトレットモールに身を寄せる。ゾンビ化していない人間たちが立てこもるモールだったが、そこにもゾンビたちが迫っていた。英雄と比呂美は生き残ることができるのか。

原作漫画を未読のままの鑑賞。まだ完結していないそうですね。だからでしょうか、この映画単体で見たときに不明な点が幾つか残ってしまったのは残念でした。

金払って初めて見たゾンビ映画でした
金払って初めて見たゾンビ映画でした

例えば序盤、まだ世界の異変がテレビニュースなどで散発的に伝えられている程度の状況でいわくありげに軍用機が都心で群れをなして飛んでいたのですが、その後特に絡んでこない。いわくありげなだけ。比呂美はある設定が中盤で明かされるのですが、中盤以降それを使って英雄を助けて活躍するのか…と思いきやそうでもない。

一番の謎は、ゾンビが突如跋扈するようになった世界で英雄が猟銃を持っていながらなかなか使わないこと。挙句モールで会った他の男に奪われる始末。

ゾンビ出現前の世界での英雄は連載経験もある漫画家だが今はアシスタント、という存在だった。突如ゾンビが出現する世界はいわば異世界。さえない人間が異世界でヒーローになる、のはフィクションの定番ですね。気弱だった人間が感情をあらわにするのが物語の見せ場、とかも定番。そういう意味では今作もフィクションとしては王道なのかもしれません。この映画の見せ場は、そんな英雄が最後、ゾンビ相手に猟銃をバンバン打ちまくるシーンなので。

でもクライマックスまで至らなくても「普通この状況なら使うんじゃないの」という場面でも使わないのはやっぱり違和感が残った。銃を持った主人公が「俺が君を守る!」と言う漫画を描いてた英雄が、現実にはなぜ最後まで銃を使うのをためらったのか。なぜ撃つと決めたのか。

作中の解釈では「ゾンビが怖いけどやるしかなかったから」と見えた。でもそれでは、なぜ英雄が「(猟銃所持許可証を持った)売れない漫画家」でなければならなかったのかが分からない。

英雄は自作の漫画の主人公には銃を平気で持たせる一方、自身は極限状態になっても許可証の所持にこだわったり、銃を極力さらさないようにしたり(法律違反なので)と扱いにはきわめて慎重だった。おそらく一発も撃ったことはないのではないか。そんなさえない漫画家だった英雄にとって世界の方が変わってくれるなんて千載一遇の好機なはず。それでも英雄は中盤「俺はこんな世界になっても自分は変われない」と吐露する。

自作の漫画と現実世界は違ったってこと?銃を撃ちまくって人を守るのは、漫画で成功したかった英雄にとって本当になりたい姿ではなかったってこと?でもこの世界ではそうならざるをえないから悩んでたの?

今作中のゾンビは「ZQN(ゾキュン)」と呼ばれ、ゾンビになる前に固執していたことを繰り返す、という設定もあった。英雄にとってのZQNと銃と漫画の意味について踏み込んで解釈してくれればもっと面白かったのに。その余地が十分あっただけに惜しい。原作があるから難しいのかなぁ。

ここまで書いてきて、映画「ダイ・ハード」第1作を思い出した。ビルの中で一人テロリストと戦う主人公ジョン・マクレーンを外から無線で応援する黒人警官パウエル。彼は誤射事件を起こして以来、腰の拳銃を抜けなくなっていた。全てが解決したと思われたエピローグで、その彼が…というのが「ダイ・ハード」最後の見せ場でした。

ゾンビ相手に撃ちまくる英雄の姿も興奮させられる場面なんだけど、「ダイ・ハード」のパウエルはたった一発でこちらの心を鷲掴みにしてくれたんだよなぁ。

…注文がメインになってしまいました。が、駄作だとは決して言いきれない。「R15+」も納得のグロ描写は言うに及ばず(同じ回に鑑賞していた方が退室してしまってました)、英雄がゾンビが大量発生した都心から逃げ出す場面は長回しで圧倒的な迫力。キャストも皆適役ではなかったかと思うのです。

特に英雄役の大泉洋。さえない姿は哀愁や(場面によっては)笑いを生み(ホラー映画でこれ大事!)、最後はキメる。一つの映画でここまで様々な顔を見せるのは素晴らしい。他の役者では無理じゃないかなー。テレビだとヘラヘラした姿が多いけど、実は相当な逸材ではないかと思う次第です。未見だった「探偵」シリーズもチェックしようかなー。

為すべき正義を為す話【鑑賞「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」】

事実上の前作「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」では正直、ついていくのが大変だと思っていたけれど「キャプテン・アメリカ」シリーズを見た上で今作に臨んだところ、いやー面白かった!クロスオーバーを続けるマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)で一番の出来ですよこれは。

【あらすじ】世界を危機から何度も救ってきたキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャースらヒーローチーム「アベンジャーズ」。だがその陰で失われた命もまた多かった。世界は彼らに国連の指揮下に入るよう命じる。アイアンマンことトニー・スタークらは従おうとするが、スティーブは迷う。そんな中、国連を狙ったテロが勃発。犯人と目されたのスティーブの親友で悪の組織ヒドラ党に洗脳された「ウィンター・ソルジャー」ことバッキー・バーンズだった。バッキーを捕まえられるのは自分しかいないと動き出すスティーブ。それを独断だとして止めようとするトニー。キャプテン・アメリカとアイアンマン、アベンジャーズたちの対決は避けられないのか…。

キャップの現相棒「ファルコン」もいいキャラでした
キャップの現相棒「ファルコン」もいいキャラでした

見る前は「マーベルヒーローのあいつとこいつ、戦ったらどうなるのか、見てみたいでしょー見せますよー」程度で製作された作品だと思っていた。ヒーローが集まる「アベンジャーズ」とは真逆のお祭り的内容ってことで。ところが今作は話がどんどんシリアスになっていく。「キャプテン・アメリカ」シリーズ前作「ウィンター・ソルジャー」もシビアな展開だったけど(予習としてビデオ鑑賞)今作はそれ以上。シリーズ一番の激渋話です。

興味深いのはDCコミックのシリーズ化「スーパーマンvバットマン ジャスティスの誕生」でもモチーフになっていた「正義の執行に伴う犠牲者」の存在が、今作でも中心に据えられていたこと。「エイジ・オブ・ウルトロン」ではアベンジャーズたちが一般市民を助ける場面が印象に残っていただけに「マーベルもそっちに舵を切ったか」と思いました。それもかなり深く舵を切っている。今作の敵の最後の切り札には驚かされました(ひょっとしてアメコミに詳しければそうでもないのかな?)。

その切り札、一歩間違うとご都合主義的でもあるんだけど、そこで説得力を持たせるのがキャラクター描写。話のほぼ全般は正義と情に厚いスティーブが持って行き、後半でトニーが熱情をほとばしらせて盛り上げる。トニーについても今作で必要な背景説明はされている一方、トニーが主役だった「アイアンマン2」も思い出され、説得力がいや増す。

そもそもキャプテン・アメリカというキャラクター自身、MCUの中では一番、正義を為そう為そうとしているんだけど、やればやるほど自身が拠り所とする組織から望まないのに飛び出してしまう悲劇の存在でもある。今作ではとうとう社会全体から飛び出すようなことになってしまった。

でも自身が信じる正義を為そうとし続ける彼には、離れてしまう友もいるかもしれんが、新たな出会いもあるのですよ。

何が言いたいかというと新キャラ「ブラックパンサー」最高ってこと!

今作を観る前には「また『黒豹』とかいう一般日本人には馴染みのないマーベルヒーローが出るのか面倒臭いな何モンだこいつ」と斜に構えてました。これまで鉄人間も蟻人間も米国主将ですら受け入れてきたくせにね…。

いいんですよブラックパンサー!なんであんなに強いのか分からない(正体は明かされる)けど、ヒーローの能力を説明するより正体キャラを魅力的に描くことに注力したのが素晴らしい。行きがかり上それぞれの正義にこだわってしまい分裂したアベンジャーズたちに代わって、今作で本来為されるべき正義をきっちり果たしてみせた姿に惚れました。一生服従ですw。

また「エイジ・オブ・ウルトロン」以降のマーベルヒーローではアントマン、スパイダーマンも登場するんですが彼らはまぁ、賑やかし、かなw。話の本筋には関わらない。

ただしこの二人、めっちゃ盛り上げてくれます!アクションシーンでは大活躍!某映画をネタにするスパイダーマン最高。(文字通り)大技炸裂のアントマンに対し「こっちで誰かあんな隠し技持ってる奴はいないのか」とぼやくアイアンマン最高。先述した通り話は最終的にどんどんシリアスになっていくんだけど「ヒーロー対決のお楽しみ」もきっちり描いたのも素晴らしい。斜に構えた観客も結局見たいんですよそういうのをさ!

とまぁこれまでのキャラクター描写の積み重ねとさりげない新キャラ登場があり、アクションも見てて楽しかったり辛かったりと盛りだくさん。シリーズ作を積み上げたMCUの底力が遺憾なく発揮された現時点での最高傑作でしょう。早く続きが見たい!ブラックパンサー単独作はまだか!次は「スパイダーマン・ホームカミング」!

動き出す物語世界に興味津々な話【鑑賞「スーパーマンvsバットマン」】

アメリカンコミックスの2大レーベルの一つで、スーパーマンやバットマンを持つ「DCコミックス」が、アイアンマンやスパイダーマンなどを持つ「マーベルコミックス」同様、異なるキャラクター間で同じ世界観を持たせるシリーズに本格着手した一本。前作「マン・オブ・スティール」で感じた違和感をかなり解消した、次回作も楽しみな一本でした。

【あらすじ】メトロポリスを舞台に繰り広げられたスーパーマンとゾッド将軍の激戦。多くの一般市民が犠牲になった戦いの現場に、バットマンとしてゴッサムシティの治安を陰ながら守ってきた男、ブルース・ウェインもいた。スーパーマンを危険な存在と判断しスーパーマンの秘密を探り始めるブルース。しかし彼に先んじて政府とも手を組みながらスーパーマンの弱点を突き止めた男がいた。その男の名はレックス・ルーサー。そしてブルースやレックスの間にちらつく謎の美女の正体は…。

新バットマンのベン・アフレックも違和感なかったなぁ
新バットマンのベン・アフレックも違和感なかったなぁ

最初に気になった点を指摘するなら、キャラクターの名称や外観で説明してしまっている箇所が散見されること。「レックス・ルーサー」という名前や、クライマックスで正体を明かす美女の外観でアメコミ読者ならピンとくるんでしょうが、読み慣れてない人には分かりにくいでしょうね。

とくにレックスとブルースは同じ目的で動いているはずなのに共闘しないのがちょっと不自然でさえある。最終的にブルースが拒否したとしてもレックス側からはっきり誘う場面があってもおかしくないので(におわせる場面はあったかな)。

途中でレックスの一味のトラックとバットモービルのカーチェイスもあるんだけど「トラックに発信器つけたんだから追う必要ないよね」という指摘も聞きました。おっしゃるとおりですw。予告編で出てきたシーンが本編では夢の場面だったりして残念だったことも指摘しておきたい。

とはいっても、全般的には結構満足したんです。

まずは前作で感じた「スーパーマンが周囲の地球人無視して戦いすぎ」という違和感をふまえた構成になっていたのが良かった。なのでクライマックス、人間社会に身を投じたスーパーマンがようやく受け入れられた様にちょっとじーんとしちゃうわけです。次回作ではなかったことになるんでしょうけどw。

その最後のスーパーマンの姿は「ダークナイト」クライマックスでのバットマンと二重写しにも見えました(バットマンはあえて敵役を引き受けたんだけど)。

スーパーマンの映画だった前作「マン・オブ・スティール」は「スーパーマンが(イメージに反して)暗い」という欠点があった。同じDCコミックのキャラクターで最近大ヒットしているバットマンの重厚なイメージに寄せていたんでしょうけどね。今作でようやく暗めのスーパーマンでもオッケー(だってバットマンがいる世界だし!)という整合性がとれた気がします。マーベルとの違いも出せるのではないかな。

今作から始まったクロスオーバーシリーズとして「メタヒューマン」たちの存在も提示。ただまぁそのキャラクターたち、日本ではほとんど馴染みがないwので今後しっかり描いてほしい。マーベルはそんなキャラたちも上手に映像化してアメコミに馴染みがない人にも間口を広げてますので。

そういう意味では「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」は、キャラクターをどう描くかについてマーベル側からの最新回答になりますね。「X-メン」も新作が夏に公開されるし、追いかけるシリーズが増えて困ったもんだなこりゃ。

マーベル、DC、X-メンと既存のキャラクターを映像化する手法についてハリウッドは方程式を掴みつつある気がします。日本はどうかなー。