世界はより良くつながっていく話【鑑賞「ア・フィルム・アバウト・コーヒー」】

見た人全員そうでしょうが、見終わると「うまいコーヒーが飲みたい」と思う映画でした。

世界中で愛飲されるコーヒー。その中でも「スペシャリティコーヒー」は生産から焙煎、抽出まで人の手が絶えず関わる特別な一杯だ。スペシャリティコーヒーの最前線を豆の生産者からバリスタまで追ったドキュメンタリー。

良い世界を描く作品でした。
良い世界を描く作品でした。

1時間ちょっとの短い作品だけど、中身は濃い。空撮からクローズアップ、スローモーション、「サードウェーブ」とも称されるコーヒーショップ(日本含む)のオーナーたちのインタビューなどを通して、コーヒーを巡る人間模様を映し出す。

印象に残ったのは豆のバイヤーが語る「(ブラジル以外の)生産地では、豆はすべて手で採るのです」という言葉。何気なく飲む一杯のコーヒーも、最初は誰かが手で豆を摘むところから始まっていたのだ。

以前見たドキュメンタリー「いのちの食べかた」を思い出した。あちらは産業化された農業の模様を描いていたけれど、スペシャリティコーヒー用の豆の生産現場は採取から発酵、乾燥まで人の手がたっぷりかかっている。

男たちが歌いながら踊るように赤いコーヒー豆を踏んで発酵させ、白くなった豆は天日干しされ、不良品は一つずつ人の目で排除される。そして米ポートランドで焙煎されてあの見覚えのある豆になる。

良い豆を手に入れようとバイヤーたちは生産地の環境改善にも取り組んでいた。インタビューを受けていた人物が「いいものにはちゃんとお金を払ってほしい」と話していたのが心に残った。生産地から安く買い叩く悪いグローバリゼーションでない、良い形のグローバリゼーションと見た。

とはいっても生産者たちが初めてエスプレッソを飲むシーンは(思い出すと)少し複雑。彼らは自分たちの食文化にないものを栽培、生産しているというのが伝わるシーンなので。日本の農業従事者が(価格面ではいざ知らず)自分たちでは食べないものを生産することはまずないはず。それがいいことなのかどうか、ちょっと判断が付かないな…。

いっぽうでスペシャリティコーヒーではない一般的なコーヒー(コモディティコーヒー)についても、パンフレットの中ではあるが「おいしいコーヒーづくりに励む人々はいる」と伝えている。

スペシャル/コモディティと線引きするのでなく、コーヒーに携わる人すべてをたたえようとする姿勢が好印象なのです。

この作品はコーヒーについて語っているが、コーヒー以外でも生産地と製造者が一体になってより良い食品をつくろうとする流れは国内外で広まっている。この流れがもっと広まると世界中がより良くなるかも。

食べ物が人をより良くつなぐことを伝えてくれる作品でした。

(完全版)引き継ぎ引き継がれる話【鑑賞「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」】

もう好きなように書いていいよね公開から結構な日が経過したので…!

最近3D版でも見たので、2回見た感想を。公開直後に書くと野暮だった点も含め「スター・ウォーズ フォースの覚醒」の感想を書いておくのです。

【あらすじ】銀河帝国は崩壊したが、その残党「ファースト・オーダー」と共和国から支援を受けるレジスタンスとの戦いは続いていた。そんな中、最後のジェダイ、ルークは姿を消した。ルークを探すファースト・オーダーとレジスタンス。居場所を示す地図はドロイドのBB-8に託された。ファースト・オーダーの脱走兵フィンと砂漠の星ジャクーに住む少女レイはBB-8と共にミレニアム・ファルコンを駆って逃避行をすることになる。そんな2人を捕まえたのはハン・ソロとチューバッカだった…。

この新3部作でちょっと残念な点は、敵が帝国の「残党」という設定。「話のスケールは旧エピソード以上にはなりません」と宣言したような気がする。使う武器は旧帝国以上になってはいるけども、むしろギャップが生じたような。

話に夢中になると3Dかどうか気にならなくなるんだなぁ
話に夢中になると3Dかどうか気にならなくなるんだなぁ

戦う相手も共和国支援下の「レジスタンス」。旧敵の残党と独立部隊の戦いという設定は既視感があるなと思ったら「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」と似てるんだな。旧設定を生かしてその先の話をなるだけリアルに書こうとするとこうなるしかないのかも。

いずれにせよ、新3部作はキャラクター間の関係を楽しむような話になるのでしょう。そうなるとまた気になる点が。それは「敵キャラの名前に迫力が足りない」ことです。

「カイロ・レン」に「スノーク」…うーむ強さが感じられん。濁音が欲しかった!だって旧シリーズは「ダース・ベイダー」に「ドゥークー伯爵」「グリーヴァス将軍」などなどと濁音入ってましたよ。

再びガンダムを引き合いにしちゃいますが、ガンダムの富野由悠季監督は「主人公が乗るロボットには絶対濁音を入れる」と話しておりました(「そうしないと玩具が売れん!」と説明してたかなw)。英語圏では気にならんのかもしれんけど、少なくとも日本語圏の人間としては残念なんですよねー。

特に敵方の親玉が「スノーク」って…。大概の人が思ったろうけど「ムーミンかよ!」とやっぱり思いました。

でも今作、良い点ももちろんあるわけです。

まずはカイロ・レン。思春期の少年のような性格描写が目立ちましたが、それが「こいつ何をやるかわからん」と思わされる。今作のクライマックスのような破滅的行動を次回作以降もとるか、あるいは改心していくのかが見どころになっていくのでしょう。

弱さと強さを兼ね備えたレイは魅力的だし、生き残りに必死なんだけど正義感もあるフィンも非常に親近感が持てました。そしてBB-8。これほど表情豊か(?)なドロイドがあったろうか。子猫っぽいんですよね。まさかの「いいね!」にハートわしづかみでしたわ実際。

そして何と言ってもエピローグ!2回見て2回とも泣けたw。ひとっことも喋らんのに表情だけで今作のエモーショナルな部分をほとんどすべて持っていったマーク・ハミル最高。2回目に見て気づいたが、その表情が出る直前、決意を示すようなレイの表情もまた最高です。「この2人、やはり…?!」と思わせて終わる、過去6本ではなかった次回作へ強い「引き」をもたせたエンディングでした。

過去6本はどれも一区切りついたところで本編を終わらせ、次作ではポンと時間が飛んだところから話が始まっていたけれど、次回作エピソード8はひょっとしたら今作の直後から話が始まるのかもしれないなぁ。

父親から受け継ぐことができず成長したルークは、自分が与える立場になった今、下の世代に引き継がせることに失敗してしまった。ルークやレイアら大人たちからレイ、フィン(レイとともにジェダイを目指すんだろうなきっと!)、そしてレンにどう引き継いでいけるか、若い世代たちは何を引き継ぐのか。

とまぁ、こんな視点で来年12月公開予定のエピソード8を待ちたいと思います。その前に今年の年末はスピンオフ「ローグ・ワン」だな!

匠の技を味わった話【鑑賞「ブリッジ・オブ・スパイ」】

久しぶりに見たスピルバーグ監督作。硬質で渋く、ユーモアも混じった洗練の極みの一本でした。

冷戦期、米国で逮捕されたソ連のスパイ・アベルの弁護を引き受けることになった弁護士のドノバン。非国民と罵られながらも法に則った弁護を貫いたドノバンに極秘依頼が届く。それはソ連領域でのスパイ活動中に囚われた米兵パワーズと、自身が弁護したスパイ・アベルとの交換。場所はベルリンの壁を築きつつあった東ドイツ。冷戦の最前線の地でアメリカは表立って動けない。ドノバンは母国の支援を表立っては受けられないまま東ドイツに赴く。折しも東ドイツでは西側に脱出しようとしたアメリカ人青年・プライヤーが東ドイツ当局に囚われてしまっていた。ドノバンはパワーズだけでなく、プライヤーも救おうとするが…。

まず、説明的なセリフが極めて少ないのが印象的。登場人物たちが見るテレビや新聞、そこで伝えられるニュースに対する一般市民の反応などで当時の雰囲気を醸し出す。

硬質な絵づくりが印象的でした。
硬質な絵づくりが印象的でした。

また脚本に参加したコーエン兄弟が持つ、独特のユーモアも作品にスパイスのように効いていた。クライマックスで米と東独当局のスタッフ間で見せる握手をめぐるやりとりや、東独でドノバンの前に現れる、いかにも怪しいアベルの家族たちが見せる「ほらやっぱり!」と言いたくなる退場シーン。東独でドノバンが接触する米政府諜報員との宿泊所をめぐる会話。要所要所にぷっと吹き出したくなるような場面が織り込まれている。

一方で祖国の敵を弁護するにも法に則って最高裁まで争い、東独でも米政府は「パワーズだけ取り戻せばいい。民間人なんか知らん」という態度の中、アベル対パワーズ&プライヤーの1対2交換を目論むドノバンの姿は、祖国でも外国でも政府の意向に染まることなく人道的立場を貫こうとする。その姿も仰々しくは描かれない。

むしろ、保険を専業とするドノバンが「交渉は1対1。向こうが何人いても1件は1件」と言っていたのに2対1の交渉に臨むことになったり、米国内の裁判では遵法意識の大事さを訴えていたドノバンが無法地帯とも言える国際交渉の矢面に立たされる様は、史実とはいえ歴史の皮肉を感じさせる。

そしてエピローグ。非国民から一転して国民的英雄となったドノバンが、列車の窓から柵を乗り越えて遊ぶ若者たちを複雑な顔で見つめる様子に、主要人物のその後をテロップでサラリと重ねて終わるのも心憎い。

淡々と進む話で、結末もおおよそ予想通りなのだが人質交換のクライマックスは緊迫感十分。「大人の映画」を見た充実感を持てる1本でした。スピルバーグは匠ですね、今更ながら。

自分の「好き」が大事な話【感想「青島デザインの学校 Vol.1」】

宮崎市青島・青島神社儀式殿能楽堂であったイベント「青島デザインの学校」に参加してきました。

青島に能楽堂があったなんて。
青島に能楽堂があったなんて。

第1回はプロの映像クリエイターを招いての「イメージをカタチにする、映像とデザインのチカラ」。動画を切り口に青島の魅力を再発見しようという催しでした。

ミュージックビデオの監督や劇場映画の編集を担当している大関泰幸氏が自作のミュージックビデオ撮影の裏話を紹介、ワークショップでは「青島を『ロケハン』するなら」というテーマで青島を紹介する写真を各自撮影、講師陣が講評する内容でした。

ワークショップで提出したのは駅前の階段と青島神社近くの波状岩(鬼の洗濯岩)。「波状岩の形に目が行ってしまうかも…」というコメントを頂戴しました。うーん、気づかないうちに奇をてらったショットになっていたようです。相手があっての写真ですからね。

ところで印象に残ったのはオープニングセッションとして話をされた、ウェブディレクター・安藤直紀氏のトーク。自身のパンクミュージック好きから転じたさまざまな活動ーZine製作から海外アーティストの招聘までーを紹介しつつ、こんな事を言われたのです。

「みんなが0.1%ずつ余計に頑張ると大きな動きになる」

先週紹介した本のことを思い出して、自分の中で何かがつながりました。自分の好きなことを少しでもやってみる。やってみることで当事者になる。すると仲間が増える(場合もある)。人間いつまでも挑戦、前進ですよ。

最後に安藤氏のトークで上映されたビデオとおなじものに基づいた、TEDでのスピーチ「社会運動はどうやって起こすか(デレク・シヴァース)」を紹介するのであります。リーダーとフォロワーの関係を端的に紹介するスピーチです。




振り返ると、写真を撮るのも「青島のここが好き」を再確認する機会になってたかも。

自分の好きなものは何か、もう一度自分を見つめ直してみようと思ったイベントでした。

自分の立ち位置を考えた話【書評「リスクを取らないリスク」】

本のタイトルから、著者の個人的体験を強引に一般化したような本かも、と構えながら読み始めたが、実際は日本経済全般から個人のあり方まで明瞭に論じた本でした。

この本で著者が述べていた通り、米は2015年に金融緩和を終えました。
この本で著者が述べていた通り、米は2015年に金融緩和を終えました。

著者はNYに拠点を置く投資顧問会社の最高運用責任者。表題通り「リスク」について書かれたこの本は、経済からの視点で「リスクの担い手がいないとどうなるか」を説き、個人一人ひとりがリスクをとる人「リスクテイカー」として日本経済の成長に貢献してほしいと訴える。

著者はマクロ経済から見たリスクをとることの意義、リスクをとることを避けてきた国、企業、個人としての日本経済の現状を説明し、結果、他の国と比べ日本経済が成長していないことを指摘する。

著者が言う資本主義のルールとは「『頑張った人に褒美が与えられる』だけでなく『リスクを取った人にも褒美が与えられる』」というもの。つまり人間は「弱いもの」「リスク回避的なもの」であるが、「弱さに打ち克って頑張っている人」「リスクを取る人」にご褒美を与えるのが資本主義なのだという。

その視点から著者は、市場に出回る通貨の量を増やさなかった日銀、利益を生まない先で積立金を運用している政府の年金政策、資本が過剰になっても株主に還元しない企業などを「リスクを取らないリスクが生じている」と批判する。

リスクを取らない政府や金融機関、企業の振る舞いは成長しない経済、という形で国民一人ひとりにも返ってくる。著者は「日本では多くの、非常に質の高いサービスが提供されているが、これらは、昔から提供されていたものではない。経済が成長するにともない、国が豊かになるにしたがって、徐々に提供できるようになってきたもの」「経済成長がなければ、皆さんは今の生活水準が維持不可能か、将来生活水準の低下がほぼ間違いない状況になる」と断言する。

冷静な筆致で経済のあり方を論じ、リスクを取らないリスクの影響が我々の生活にも及ぶことをきちんと説明しているのが実に興味深い。

 努力しても、リスクを取っても、それに対するご褒美がないと国民が開き直ってしまった場合、人間のそもそもの性質である「人間は弱いもの」「人間はリスク回避的なもの」が顕在化し、経済が成長しなくなってしまうということです。低成長がもたらす問題は格差よりもずっと大きいものです。国防、治安、外交、財政、教育、医療、年金、貧困など、国が抱える多くの重要な問題が解決不可能になり、ひいては多くの国民の命に関わる問題に発展してしまいます。

という指摘は重い。

本の後半では個人でできる具体的なリスクの取り方も紹介している。著者のこの部分の主張をどこまで採用するかは個人個人の判断によるのだろうが、サラリーマンとして今日も昨日と同じように働くのでは気づかぬうちに「リスクを取らないリスク」を負っているのではないかと思わされた。

リスクにどう向き合うか、著者は5つの視点を提示している。その中で印象に残ったのは「短期勝負に出ない」こと。特に経済を通じて世の中を見るとき、短期的な視点に立たないというのは大事ではないか。

読み終わって考えたのは、結局、リスクを取るとは「当事者になる」と同義ではないか、ということ。企業や日銀、政府がリスクを取らない様子なのは第三者である我々から分かるだろうが、自分自身がリスクを回避する立場にいるかは気づきにくい。これからは「誰かが何とかしてくれるだろう」的な他人任せな態度に終始していると、とんでもないことになるのだろう。