夢ははかなく裏はリアルな話【鑑賞・ゴジラと特撮美術の世界展】

怪獣だ怪獣だ!
怪獣だ怪獣だ!

来た来たキタ!みんな大好き、怪獣ですよ!

東宝を中心に怪獣映画の魅力を伝える「ゴジラ生誕60周年記念 ゴジラと特撮美術の世界展」(2015年6月7日まで)を見に、みやざきアートセンターに行って参りました。

昨年開催された「生頼範義(おうらい・のりよし)展」でも展示された生瀬さんのゴジラポスターに再会できたのはもちろん、「怪獣絵師」として現在ご活躍中の開田裕治さんの原画もたっぷり。

そんな中、今回特に興味深かったのは怪獣映画の美術を担当した井上泰幸氏の絵コンテ。特撮を使った場面をどう撮るか、実際の画面のイメージを書き留めたものが「絵コンテ」なのだけど、その隅には撮影にかかる予算の見込みがメモされていた。

スーツの撮影もできました!
スーツの撮影もできました!

映画を見ている側は「怪獣だ特撮だ」と喜ぶだけなのだが、撮る側はシビアな計算がいるんですよやはり。生瀬さんや開田さんの絵がいわば怪獣のハレの場…我々からするとある種の「夢」を描いている一方、撮る側にとって怪獣は手の掛かる「現実」なんだなぁ(もちろん絵を描く側もその裏では様々な努力と工夫をされているわけですが)。

人に夢を「見せる」には厳しい現実から目を逸らさず、いろんな努力が必要なのですね。

…というのがまず感想その1。その2は「怪獣」そのものについて。

特に開田さんの絵から感じたのだけど、怪獣は大きく、恐ろしい存在なのだけど、どこかはかなさを感じさせる。

思えば映画の中の怪獣は、ほとんどが「現れて、消える」存在なのだった。人間と共存してめでたしめでたし、という話って記憶にない。ほとんどの怪獣が命を落としたり、海や空へ去っていく。

人間の上に君臨するようで、していないようで。人間の敵のようで神のようで。その2元的な有り様が魅力なのかもしれない。

なぜ今、が問われる話【鑑賞「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」】

続編のほうがスケールダウンしてるって、どうなのかなぁ。

80年代末から90年代にかけてオリジナルビデオアニメ、劇場版アニメ、テレビアニメ、漫画と様々なメディアで製作された「機動警察パトレイバー」シリーズが2014年、まさかの実写版で再登場。50分ほどで12話が製作され、今作はその長編劇場版になる。

ロボットテクノロジーの発達によって登場した汎用人間型作業機械「レイバー」。レイバーは軍事・民生を問わずあらゆる分野で使用され、1990年代末、特に首都圏では大型公共事業「バビロンプロジェクト」のため多くのレイバーが稼働していた。その結果、レイバーによる事故、レイバーを使用した犯罪が多発、警視庁は本庁警備部内に特科車両二課を創設してこれに対抗した。通称特車二課パトロールレイバー中隊。「パトレイバー」の誕生である。

というのがこれまでのシリーズの前提。実写版の今シリーズは「バビロンプロジェクトが一段落ついた2013年の東京」が舞台になっており、不況で手間と金のかかるレイバーはお払い箱になっていた、という前提で話が進む。特車二課は第一小隊が解散。(シリーズの主役である)第二小隊はレイバー運用経験の継続という名分のもと、かろうじて3代目の隊員たちが存続、そろそろ組織も解体か、という状況である。

パトレイバー首都決戦
全12話のOPはアニメ版を彷彿とさせてキャッチーでよかったですよ

これまでのアニメ・漫画シリーズの「続編」という設定なのだが、第二小隊の3代目メンバーたちは旧シリーズのキャラクターに雰囲気はおろか名前まで似せている。そして長編劇場版へつながるにあたって、旧シリーズとのつながりもほのめかしていく。

12話でつくられた実写版は、はっきり言ってアニメ旧シリーズの焼き直し、と言い切ってしまおう。昔ならアニメという形でしかできなかった話が、デジタル技術の進んだ今なら実写でもできるんだねー、という感想しかない。実写のキャラクター配役もアニメ版に似た俳優をよく見つけてきたという印象。

そして「パトレイバー」でやった様々なエピソード−怪獣退治、基地地下の迷宮探索、暴走レイバーとの対決などなど−は今見てもよくできたプロットであったと再確認してしまうのである。

つまり、面白いんだけど今作る意味、は感じられなかった。

長い前置きになりましたが、で、長編劇場版「首都決戦」ですよ。

「首都決戦」は長編アニメ第2作の続編、と言える。長編アニメ第2作では東京に数々のテロ行為(的なもの)が引き起こされ、東京を舞台に戦争が起こる「かもしれない」恐怖を描いた。今作はその時の残党が自衛隊の特殊ヘリを強奪し、都心で再び暴れまわる。第二小隊は自衛隊でも手を焼く特殊ヘリを倒せるか?という話、なんですが。

うーん、まずははっきり言って、見せ場が長編アニメ第2作(アニメ版)より減っている。レイバーのアクションが少ないのはまだしも(そもそもアニメ版も少なかった)、アニメ版の方が飛行船を飛ばしたり幻の戦闘機同士の空中戦を起こしたりと、首謀者の犯行が観客を引きつけた。今回はヘリコプターだけになってしまい、犯行のスケールが小さくなった。

そしてこの「首都決戦」でも、今作る意味が感じられなかった。アニメ版は思想性がかなり強く「当時の日本」における戦争を問う作品になっていた。その続編である「首都決戦」は同時多発テロなどが起こった「2010年以降の日本」を反映しているストーリーとは言えなかった。アニメ版の場面をなぞるような演出もしているので、なおさらアニメ版からのスケールダウンは否めない。

実際の俳優が演技し、デジタル技術でロボット(レイバー)やヘリコプターのアクションは本物と見間違うくらいなので、見た目の力強さ、存在感はアニメよりあがったと思う。その分、アニメ版に込められたキャラクター設定の巧みさ、テーマの重さ、斬新さを上回るものは、この一連の実写企画からは全く感じられなかった。

「今なら実写でもできそうなのでやってみました」だけなんだよなぁ。

警察という実在の組織がロボットを運用するという「パトレイバー」という枠組みは、切り口次第でシリアスからコメディまでなんでも取り込めたシリーズだったんですが、この中でできることはもうなくなったのかも。ある種の限界を感じた実写シリーズでした。

生きるなら面白くという話【雑誌「SWITCH」2015年5月号】

SWITCH 2015年5月号
かっこいい!

もうすぐ次の号が出てしまうのだけど、バックナンバーになっても入手できると思うので紹介。

雑誌「SWITCH」2015年5月号は「ジャズタモリ」と題して、タモリとジャズの特集でした。雪原で黒づくめのタモリがトランペットを吹く表紙のかっこよさに惹かれて店頭に並ぶ前に注文してしまったくらいw 誰が撮影したのかと思ったら繰上和美でした。納得。

ジャズも興味があるジャンルではあるけれど、今回はもう一つのテーマ、タモリについて。今号で紹介されているのは「いい大人」としてのタモリ像。テレビ番組で顔をのぞかせる大学の先輩が開いている岩手のジャズバーで先輩と繰り広げるジャズ談義の深さ。ウンチクを披露するのではなく曲から感じ取ったものを独特の言葉で表現し合う大人の男の会話。

タモリについてのインタビューも幾つかあり、笑福亭鶴瓶は「(タモリは)全てに対して造詣がある」と語っている。よく考えるとタモリが語らないジャンル、興味がないジャンルもあるはずだけど、一般的にそう思わせないのは、メーンより「副」が好きで、物事の中心より周辺に興味を持つというタモリの生き方にあるのかも。

「やる気のある者は去れ」というのはタモリの名言なんですが、それについて「やる気のある人って大抵物事の中心部分しか見ないんです。でも面白いものって意外とその周辺にあるような気がしていて。やる気のあるやつは真ん中だけを見ていきり立っているから、いつまでたっても面白いことができない」と今号のインタビューでも語っていた。

さらにそこから、タモリが好きなジャズの「即興」というものも考える。一人で好き勝手に演奏しても即興にはならないわけで、一緒に演じるプレイヤー、観客を意識しないと即興は成立しない。その瞬間にはやる気が出ているはずなんだけど、それは独りよがりではなく周囲を意識したやる気、ってことでしょうか。

やはり面白がって生きるのが正解ですね。

過去は肯定するがましという話【鑑賞・バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】

さぁこのエンディングはどう解釈すればいいのだろう。あまりに気になるのでネットを散策してみたが、ポジティブに取る人ネガティブに取る人、解釈はいろいろでありました。自分としてはポジティブな側に立ちたいかな。

映画俳優リーガンは、かつてヒーロー映画「バードマン」で一世を風靡したがそれ以降ヒットには恵まれていない。再起をかけ、自身の脚色・演出・主演でブロードウェイの舞台に立とうとしていたが、付き人を任せた実の娘はクスリを止められず急遽採用した代役は実力はあるものの身勝手な男でプレビュー公演をめちゃくちゃにするし映画人が嫌いなベテラン演劇批評家からは最初から相手にされない。苦悩するリーガンの耳元では決別したはずの「バードマン」が度々現れ「もうやめちまえ」とささやく…果たして公演は成功するのか?

音楽もかっこよかった!
音楽もイカしてた!

特徴的なのが(ほぼ)長回しのショット。映画冒頭からクライマックスまでほぼ1ショットでカメラが回る。途中つながりが若干不自然な箇所もあったけど。演劇が本作では重要な要素になっているからか、場面が切り替わらない一連のショットは演劇的でもあった。楽屋から舞台へ視点が流れていくのも現実と虚構がつなぎ目なく繋がっているかのようでもありました。

パンフレットではこの映画を「ファンタジー」と評していたけれど、個人的にはブラックコメディと感じましたね。非現実的な場面もあったけれど、公演を成功させようと四苦八苦するリーガンの様子、プレビュー公演でリーガン自身の不注意で起こしたトラブルとその顛末などネット社会の今への皮肉も聞いていた。

で、ポスターや予告編でも紹介されたクライマックスの場面。結局これもリーガンが見ていた幻想ではあるんだけど、身投げ未遂から一転、「バードマン」だった過去の自分と現在の折り合いをつけた良い場面でした。

そんな風にある種別の次元に行ってしまったリーガンがどうなったか、を語ったエンディング。なぜリーガンの娘サムは窓から外を見上げ微笑んだのか。

…自分は娘が父親(リーガン)を本当に理解した場面、と受け取りました。この作品中では何度か異常なことが起こるけれど、それはリーガンの幻想=リーガンにしか見えていない世界だった。映画最後のショット、幻想が娘のサムにも見えたかのような描写は、娘が父親を理解したのではないかなと(若干無理筋かもしれないが)ポジティブに解釈したい。

この場面で起こったと思われる出来事をそのまま受け取ったのではブラックすぎる気がするんだよなぁ。

こういう、いろいろに解釈できる話って嫌いじゃないんですね。大人な映画でした。