自分を助ければ社会も助けられる?話【書評「自助論」】

「自助論」表紙
テンション高いですよ〜

サッカー日本代表の本田圭佑も読んでいたということで手に取ってみた。「天は自ら助ける者を助ける」という事を、これでもかこれでもかと繰り返す本。目次を眺めるだけでも妙にテンションが上がること間違いない。なにしろ明治初期から読まれ続けるベストセラーなのだから。

イギリス人サミュエル・スマイルズ(1812−1904)が西欧の学者や作家、政治家を数多く紹介し、努力する大切さを説いた本。「いつの時代にも、人は幸福や繁栄が自分の行動によって得られるものとは考えず、制度の力によるものだと信じたがる。だから、「法律をつくれば人間は進歩していく」などという過大評価が当たり前のようにまかり通ってきた」という記述は、昨今の風潮を鑑みると結構考えさせられる。

個人の善なる力を信じているんだねえ。

先日読んだ「光圀伝」でも学びの力の使い方について考えさせられたがこの本でも「知識の価値とは、どれだけ蓄えたかではなく、正しい目的のためにどれだけ活用できるかにある」と同じ問い掛けがあって、そうだよなぁと再確認。

いっぽうで個人の努力が積み重なった先の国や社会の姿−著者が考える理想像−は描かれていない。「われわれ一人ひとりが勤勉に働き、活力と正直な心を失わない限り、社会は進歩する」「国家の力、産業、文明――これらの盛衰は国民一人ひとりの人間性にかかっているといえよう。安全な市民社会の基盤もその上に築かれるし、法律やさまざまな制度でさえ、その国民性から生じたものにすぎない」程度か。社会の理想像は時代によって変化し、今や個人によって違ってもいる。当然、個人の努力の方向もまちまちになっているので、著者の言うほど単純ではなくなってしまった。

しかしそこが書かれていないことで個人の努力の大切さという普遍的な点だけが残ったとも言える。やっぱり怠惰はいけない。

生活と思考に高い基準を設けて暮らす人間は、確実に進歩向上する。最高の成果を求めようと努力すれば、誰でも最初の出発点よりはるかに前進できるはずだ。しかも究極の目標地点には達しなくとも、向上の努力は必ずそれにふさわしい恩恵をもたらすにちがいない」という著者の言葉にどこまで納得できるか。自分が望む結果を得られなくても自分を信じられるか。そして自分の努力が社会を支えているとの自覚があるか。

社会に「有責感」を持てるかがこういった論調のカギなのかもしれない。

イラストレーターとして生きる話【鑑賞「生賴範義展2」】

宮崎市のみやざきアートセンターで昨年開かれた「生賴範義展」の第2弾(2015年8月30日まで)。第1弾が活動全体を総括するような内容だったのに対し、「記憶の回廊」と題した今回は1966年から1984年の作品を紹介する企画になっておりました。

今回も見応え十分!
今回も見応え十分!

平井和正「幻魔大戦」シリーズ、「ウルフガイ」シリーズ、SFアドベンチャー誌の表紙「美姫」シリーズ、新聞や雑誌、図鑑のイラストなどなど約260点。前回見た作品もありましたが、また再会できた喜びの方が大きいくらい。

今回特に印象に残ったのは戦争をモチーフに描かれた4点のオリジナル作品。「CHONG QING 重慶 1941(中国)」は倒れた人々を描き、「DAK TO 1967(ベトナム)」は戦闘中の兵士たちをガイコツに描き変え、戦争の悲惨さを伝えている。

…のだが、背景が宇宙だったり地球だったり、その宇宙も赤や紫、青など色鮮やかに描かれていたりするので、なぜか見入ってしまう。有り体に言えば「悲惨だが美しい」「残酷だが美しい」のである。

作品の一部には創作の元になった写真(戦闘ヘリの墜落事故)も並べられており、これらの作品が反戦の思いで描かれていることは間違いないのだけど、描き手が戦争を高みから否定するような位置ではなく、寄り添いながらも否定するイメージ。

あるいは、人間の愚行には違いないが人間が惹かれてしまう愚行の悪魔的魅力をも捕まえようとしているのか?

資料コーナーで紹介された、図鑑で臓器を描くため資料としたスケッチも印象深い。顕微鏡で実際にみたものをスケッチし、ここで感じた色彩のイメージが宇宙画などにも生かされたそう。

ゴルフ雑誌のイラストもそう。ラフに入ったボールのモノクロ画なんて、今ならデジカメで写真を撮ってフォトショでレタッチすれば済むような代物。それを手描きしてたとは…!

時代小説広告用の武将画はイラスト単体と広告として使われた例が展示された。広告の一部として(想像とはいえ)精密に描かれた人物画を見ると、むしろ単体として主張していないように感じられるのが不思議だ。だからこそ、発注も次々来たのかもしれない。

今回の展示会はぐっと地に足が着いた、注文を受けた画を描く労働者としての生頼氏の働きぶりを感じる内容でありました。前回大々的にフィーチャーされたゴジラもスターウォーズも、そして今回の目玉作の一つ「マッドマックス2」も地に足を着けた働きぶりの延長上にあったのだろう。

そして出口には来年12月に第3弾開催予定の告知が…!

感情はどれも必要な話【鑑賞「インサイド・ヘッド」】

喜び、悲しみ、怒りなど人の主な感情それ自体を個別のキャラクターにして話をつくったピクサーの意欲作。すべてにおいて成功している、とまでは言いにくいが、なかなかのレベルにまで達しているような作品でした。

両親と幸せに暮らす少女ライリーの心の中には「司令室」があり、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリといった感情たちが住んでいる。彼らはライリーの幸せのため協力しあっているのだ。しかしある日、家族は大都会サンフランシスコへ引っ越すことに。慣れない環境の中、ふとしたきっかけでヨロコビ、カナシミの二人が「司令室」からはじき出されてしまう。ライリーの心から明るい性格や過去の懐かしい思い出が失われ、ライリーは次第に暗く沈んでいく。ライリーを元通りにすることはできるのか?

(イメージソングではなく)テーマ曲が印象的でした
(イメージソングではなく)テーマ曲が印象的でした

夏休みとあって子供たちが結構見に来ていたのだけど、隠喩だらけのこの映画、世界観のすべてを理解するのは骨が折れるかもしれない。

この世界で描かれる心の中の世界は、感情ごとに個別のキャラクターが存在して人間の行動を制御する一方で、記憶や思い出の扱い方は割と機械的、官僚的、システマチックにできている。

その結果、心の中には表面上様々なキャラクターが登場するのだけど、ヨロコビやカナシミなどそれこそ感情的に動くキャラクターがいる一方で、記憶を消去したり夢をつくるキャラクターたちの魅力が足りないのは残念なところ。

いっぽうで他の登場人物の心の中の描写もあり、他の人たちの心の中ではリーダーになる感情キャラはそれぞれ違っている、という設定は心憎い。仲むつまじい両親でも父親はイカリ、母親はカナシミがリーダー。基本的な性格は違っている、というわかりやすい表現ですね。

さて見る前から懸念に思っていたのが「感情を代表するキャラクターたちが中心になるならば、彼らはその設定上、成長・変化はしないのではないか?」という点。彼らは登場した時点で成長の余地のない完成しているキャラクターで、お互い対等な立場のはず。そこから話をつくることはできるのか疑問だった。

まぁそこはやはり話を展開させるためか、ライリーの心の中ではヨロコビがカナシミを邪険に扱っていて、ヨロコビがカナシミの必要性に気づくのがクライマックスになっているのだった。

感情のバランスが取れるのが成長の証と考えれば、ライリーの感情キャラ間で力関係がゆがんでいるのは子供ならでは、とも説明できる。カナシミだけでなくイカリ、ビビリなどネガティブな感情も必要なのだ、というテーマはクライマックスにおける記憶との関係やエピローグの描写を見ても説得力がある。記憶の球の変化にちょっとグッと来たのも事実です。

しかし、テーマは巧く語れているとは思うものの、感情キャラの設定がぶれてしまったのはやはり残念な点だ。ヨロコビが泣いちゃだめだと思うのだ。キャラクターの設定より話の面白さを肝心なところで優先させてしまったなぁ。

一つの感情キャラの変化がその人自身の変化、成長に結びつけきっていないのが詰めの甘さになっていた気がする。作中での「成長」は「司令室」のバージョンアップになっていたけれど、「こうなったら人は成長したことになる」というこの作品上でのゴールが事前に示されていると良かったのではないか?

隠喩の多い設定をなんとか生かしてドラマにしようとした意欲作ではあります。面白い部分もあっただけに「惜しいなぁ」という思いも残る作品でした。

言葉を繰る力を感じた話【鑑賞「相田みつを展」】

高鍋町美術館で2015年8月30日まで開催中の「相田みつを展」に行ってまいりました。

会場に入ってまず意外だったのが、相田みつをのポートレート。どの写真も目が笑ってない。はっきり言ってちょっとコワイ。写真で見る限り近寄り難い雰囲気を周囲に放っているのである。「にんげんだもの。」なんてのん気な言葉を流行らせた人とは思えない。

10年越しの企画だったそうですよ。お疲れ様でした!
10年越しの企画だったそうですよ。お疲れ様でした!

行った日はちょうどギャラリートークの時間と重なった。初日にあった相田みつを美術館の館長・相田一人氏(長男)のトークの受け売りなんですが…と恐縮しながら学芸員さんの話すことには、相田みつをのあのへタウマのような字は、きちんとした書道の技術の裏付けがあってのもので、若い頃はコンクールで好成績を修める程だったそう。また作品が完成するまでには、原稿用紙1枚程に文章を書き、それを詩に縮め、さらにそこからエッセンスを抜き出したものがあの言葉たちだったとのこと。

また会場で購入した相田みつをと一人氏の共著「相田みつを 肩書きのない人生」によると、同じ言葉でも年代によって筆体も変えてきたし、改行のタイミングや紙の中での段落どうしのバランスなど見た目にも工夫を重ね続けた。裕福ではないのに書く紙は常に本番用の高価な紙。

相田みつをというと、「ポエムの人」と(弱干半笑い気味に)評価されている気がする(好きな人は好きだろうけど)。居酒屋に書かれているような、至極真っ当なのだが真っ当過ぎて逆に心を通り抜けていくメッセージ。やろうと思えば自分にもこれくらい書けるんじゃないかと思わせる書の雰囲気。

でもこの分野の創始者は、そんな簡単にここまで行き着いたわけではなかった。相田みつをが切り開いた跡を歩くのは容易かもしれないが先駆者の努力は並大抵ではなかったのだ。

モドキとの違いが一見わかりにくいのが相田みつをの不幸かもしれないが、言葉を練って伝えようとする意志の強さを感じた展示会でした。

人は崖っぷちを目指す話【鑑賞「セッション」】

才能を活かす。野心を成就させる。人の根源的欲望をガチで叶えようとするとどうなるかを描いたコワいけれど魅力的な話でした。

音楽関係者の方からは「こんな教育法はない」「音楽の魅力を伝えてない」て感じで批判されているようだけど、この話の「音楽」は物語上の素材であって、音楽関係者の方が求める「音楽のリアル」は最初から描く気がなかったのではないか。最初に書いたけど今作では音楽に代表される「才能」と「野心」を描いた話だと思う。

名門音楽大学に入学したニーマンはフレッチャーのバンドにスカウトされる。成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然だが、待ち受けていたのは完璧を求めるフレッチャーの狂気のレッスンだった。恋人や家族の理解をもなげうち、フレッチャーが目指す極みへ這い上がろうともがくニーマンだが…。

甘い言葉をかけておいていざ練習の場になると、ビンタはかますわ本人どころか親まで罵倒するわと、フレッチャーの指導は容赦がない。あげくクライマックスでは事実上、怨恨でしかない仕打ちをニーマンに下す。指導者として明らかにダメな人間としてフレッチャーは描かれている。

「セッション」パンフ表紙.jpg
邦題はこの作品の本質を掴みきっていない気がします。

だが一方で、フレッチャーに対峙するニーマンも純粋な人間とは描かれない。親戚の前で野心をあらわにしたり交通事故で血まみれになってもステージに上がろうとしたりと、指導を受ける彼自身も狂気を持った人間なのだった。

教える者と学ぶ者、偉大な才能とは何かという理解も相通じていたがために、クライマックスは二人だけの世界に突入していく。ついにわかり合った二人、という甘美さ、いっぽうで最後まで息子ニーマンに優しかった父を突き放すという、狂気じみた努力が失わせるものも最後はほのめかしている。ニーマンとフレッチャー、二人の今後は決して明るくないように思えるのだ。しかし、しかし…。

何か大きなものを得ようとすると失うものもまた大きい。しかし求めずにはいられない。そんなスレスレの世界を描いたスリリングな作品でした。

(作品)世界は戸惑うほど広かった話【鑑賞「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」】

うーむ、マーベルシネマティックユニバースについていけるか、ちと心配になってきた。

アイアンマン、キャプテン・アメリカ、マイティ・ソー、ハルクといった(マーベルコミックの)ヒーロー達が一堂に会した「アベンジャーズ」シリーズ第2弾。暴走した人工知能ウルトロンとアベンジャーズ達の戦いが描かれる。

シリーズ第2弾なので主要キャラクターの紹介は省いてもそりゃ構わない、のだけど、冒頭繰り広げられるアベンジャーズ達のバトルの理由がよくわからなかった。どうやらこれは前作「アベンジャーズ」後に公開された「キャプテン・アメリカ」シリーズ第2弾「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」から続く話だったんですね。

アベンジャーズを支援する秘密組織シールドの長官ニック・フューリーが中盤思わせぶりに登場するのも「ウィンター・ソルジャー」で組織が崩壊していたから。「ウィンター・ソルジャー」ってそんな話らしかったですね見ようかと思ってたけど見てませんでした。

何気に強力な新キャラ登場してるのも見逃せない!
何気に強力な新キャラ登場してるのも見逃せない!

今作の敵ウルトロンは、宇宙からの敵に襲われるトラウマを持っていたアイアンマンが生み出してしまう。このアイアンマンのトラウマってのも、前作「アベンジャーズ」後に公開された「アイアンマン3」で描かれてはいた。

でも「アイアンマン3」は今作の正当な続編ではない…。

なので、わーい「アベンジャーズ」の続編だーと思って今作を見に行き、前日譚があったことに上映後気づいたときのプチ残念感たるや。「ウィンター・ソルジャー」見てたらもっとアガったんだろうなぁ。

というわけで「アイアンマン」「キャプテン・アメリカ」など各ヒーロー単独のシリーズとヒーロー大集合「アベンジャーズ」シリーズのつながり方がよくわからなかったのが残念ではありました。別々の作品を少しずつ繋げて世界観を深めていくというのは挑戦的な試みではあるけれど、「これ見るなら事前にこれ見とけよー」的な、何か事前に告知していただく方法はなかったのかしら。関連作は全部チェックしとけってことなのかしら。

しかし本作の中の話が進み出すと集中して見ていられるのがこの作品のよくできているところ。ヒーロー達と一緒に戦う一般人・ホークアイが深く描かれているのがよかったですね。ウルトロンにだまされてアベンジャーズと戦うことになる超能力兄妹が登場するんですが、真相を知り戦いの最中にもかかわらず某然とする妹にホークアイがかける一言は今思い出してもグッとくる。ヒーロー爆誕の瞬間ってアガるぜ!なんで日本語版予告編でそこを使うかな!!!(怒)見てなくてホントよかった…。

いっぽうで自分の能力に苦しめられるハルクの姿もまた印象に残ったのでした。対ハルク用のスーツを着たアイアンマンとのバトルも迫力あったし。個性的なキャラクターにそれぞれ見せ場をもたせているなかなかのバランス作でありました。エピローグがちょっと苦いのもいかにもシリーズ第2作な感じ(SW「帝国の逆襲」参照w)。最後にでる「アベンジャーズはまた帰ってくる」というテロップを信じたいところであります。

であればこそ、今作の話の続きが「アベンジャーズ3」で描かれるとは限らないと勉強したのでマーベルシリーズをもう少し詳しくチェックしないといけないなと思いました。でもちょっと面倒臭いかも…