酒場では粋に振舞いたい話【書評「日本の夜の公共圏」】

「サードプレイス」って、日本にはその言葉が入ってくる前からとっくにあったんですね。

【内容紹介】
サントリー文化財団が奇妙な団体に助成金を出したと話題になっている。その名も「スナック研究会」。研究題目は「日本の夜の公共圏――郊外化と人口縮減の中の社交のゆくえ」という。
スナ研のHPによると、「日本に十万軒以上もあると言われる「スナック」について、学術的な研究がまったく存在しないことに憤り」を感じて決起したという。目指す到達点は以下になる。
〈スナックは、全国津々浦々どこにでもあるが、その起源・成り立ちから現状に至るまで、およそ「研究の対象」とされたことは、いまだかつて、ただの一度もない。本研究では、社会的にはおよそ真面目な検討の対象とはされて来なかった、このスナックという「夜の公共圏」・「やわらかい公共圏」に光を当てることで、日本社会の「郊外/共同体」と「社交」のあり方を逆照射することを目指すものである。〉
調べた結果は仰天するものばかり。人工衛星による夜間平均光量データまで駆使して出てきた統計結果にメンバーも困惑するしかない…。

Amazonの著書紹介ページより)

酒は好きだし独身時代は週末いつも歓楽街に繰り出していたものです。とはいえスナックは縁遠い存在。「オジサンの行く店」という印象がある。年齢的にオジサンと化した今では飲みに出る機会も減り、ますますスナックは縁遠い。

また飲みに行きたくなったなぁ。

とはいえこの本で語られる「様々な地位・年齢の人びととの交流によって、『社会人としての嗜み、人間関係のさばき』が身につく」場としてのスナックは、自分が飲みに行く場が持つ機能とほぼ同じ(カラオケはないけれど)。会社や同じ組織のメンバー同士でのアルコールを介したコミュニケーション(飲みニュケーション)とはまた違う個人の楽しみなんですよね。

またスナックが人々が文化・社会的討議をする場だった18世紀イギリスの「コーヒーハウス」とも異なり、人情を理解し「是非を厳しく論ずることなどせず、『なるほど、そういう場面・立場では、そのように思うものだな』と店の会話に加わるのが、スナックの楽しみ方」なのも納得。語るのではなく聞き役に回るのが粋です。

この本では複数の執筆者がスナックについて様々な角度から論じている。法規制だったり文化史だったり刑法犯認知件数との比較だったり。中には読み慣れないカタカナ語を並べた賢しらな論もあるのだけど、座談会もあって軽くも重くもスナックについて語っている。総じて普段語られることの少なかった「スナック」について色々な見識が得られます。女性が酒をサービスするスナックの前身とも言える(明治時代の)カフェーでは女中の人気投票があったりとか(!)。

まぁこの本に書いてあったことをスナックのカウンターで披露しても野暮なだけでしょうけどね。そもそも「今まで会ったかたたちでも、志に燃えてスナックを開店したなんて人は一人もいない」のだし。その場に合わせて酒を楽しめばいいのです。

ただ、人がふらりと飲みに行くのにはその人自身だけでなく、ひろく社会全般にも意味があるというのが分かる、面白い本でした。

日本の夜の公共圏:スナック研究序説
谷口 功一 スナック研究会
白水社
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関係が創造を生み出す話【書評「POWERS OF TWO 二人で一人の天才」】

様々なエピソードを紹介しながら人間関係と創造力についてまとめ上げた本でした。

【内容紹介(「BOOK」データベースより)】
一人では何もできない。二人なら何でもできる。アップルもグーグルもソニーも、なぜ二人で起業?あらゆるイノベーションは、二人組から生まれる?クリエイティブ・ペアに学ぶ、創造性のシンプルな本質。
【著者について】
ジョシュア・ウルフ・シェンク Joshua WolfShenk
キュレーター、エッセイスト、作家。精神衛生、歴史、現代政治・文化、創造性をテーマに講演・執筆。ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーカー、GQなどに寄稿。一般の人々が体験談を語るストーリーテリングのイベント「モス」に立ち上げから関わる。また、心理学から創造性を研究する「アーツ・イン・マインド」を主宰。著書『リンカーン』(明石書店)は、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストの年間ベストブックにノミネートされた。ロサンゼルス在住。

Amazonの著書紹介ページより)

紹介されるペアはポール・マッカートニーとジョン・レノン、投資持ち株会社を経営する著名投資家ウォーレン・バフェットと副会長のチャーリー・マンガー、バスケットボール選手のマジック・ジョンソンとラリー・バード…などなど。振り付け師とダンサーのような役割分担が明確なペアもあれば、一方が影のように公の場では目立たないペア、あるいはライバル関係もペアとして紹介される。

交わると予想以上の変化が起きる、のでしょう。

創造は一人でするもの、という定説に著者は別の見方を示す。「英雄個人ではなく、英雄を生む文化──16世紀のフィレンツェの宮廷、啓蒙時代のロンドンのコーヒーハウス、ピクサーのスタジオ──が主役なのだ」。ペアの誕生(出会い)から互いを理解し、距離を深め、自然と役割分担をするようになる。高め合う関係が最高のパフォーマンスを生む。そのパフォーマンスが生む影響力はペアにも及び、ペアのバランスが崩れることもある。仲違いし、分裂する。しかしペアは壊れても、ペアだった相手のことは心の中で生き続け、影響力を与え続ける。ペアが生む全てがこの本には描かれている。

一方で読み進めるうちに、自分とは縁遠い世界のようにも思えてくる。創造性を発揮してる!って自覚がないのはまだしも「この人と自分はペアだ」と思える人がいないんだなぁ。

でも最後、著者が自身に引き寄せて書いたあとがきがその答えになった。

挑戦するためには、助けを求めよう。
自分より大きな何かに身を委ね、自分より大きな何かに導こうとする内なる流れに身を委ねる。そのような出会いを受け入れよう。
受け入れたら、次は自分の役割を演じる。

自分の創造力を広げる機会は、あなたが持っているのかもしれません。

POWERS OF TWO 二人で一人の天才
ジョシュア・ウルフ・シェンク Joshua Wolf Shenk
英治出版 (2017-04-15)
売り上げランキング: 17,539

好奇心が組織をちょこっと変える話【書評「ある日うっかりPTA」】

軽く読ませながらも、社会活動への関わり方を考えさせられた本でした。

【内容紹介】
金髪、ヒゲ、サングラスのフリーライターがひょんなことから、息子が通う公立小学校のPTA会長に就任!自分には無関係な存在として大した関わりも持ってこなかったPTA。三年の任期を経て今、感じることとは―。PTA会長になるのは簡単だ。(中略)なぜならば公立小学校の場合、自分からPTA会長をやりますなんて言い出す人間はほぼ皆無だからである。PTA会長に大事な資質。それは、おっちょこちょいであることだ。はい、おっちょこちょいです。私、自分でもおっちょこちょいだと思います。そうじゃなかったら、PTA会長になんてなるわけがないじゃないですか――。(本文より)

Amazonの著書紹介ページより)

著者は自分を「おっちょこちょい」と評しているが、実際に動かしてきたのは好奇心だと思う。

断らなければその先がある。自分の知らなかったことをいろいろ教えてもらえる。思ってもみなかった世界が、すぐ前に開けているのかもしれない。それを知らずに済ませるのは、もったいなさすぎるんじゃないか。

というのがとても腑に落ちる。個人的にも様々な役職を引き受ける際に、似たようなことを思ったのだ。この本はPTAについて書かれているが、個人と組織の関わり方ってPTAに限らず自治会や労働組合など、どこも似たり寄ったりな気がする。

この風貌で会長を務めたのもスゴイ(笑)

「がんばらない、をがんばろう」を合言葉に旧態依然に見える業務は改善する。当初は存在意義がわからなかった上部団体については「よそのPTAはどうしてるんだ?」という情報交換の場と解釈し、仲間もできる。でも人間関係がこじれてしまうこともある。そして雰囲気になじめないなら距離を置く。団体行動が苦手というフリーライターの著者と、前例だらけのガチガチ組織の関わり方は意外に自然だった。パートナーである校長先生との関係が良かったのもあるかもしれないが、先述した著者の「好奇心」も良かったとのだと思う。

対象に好奇心を発揮する時って、まずは対象の有り様をきちんと知ることから始まるわけで謙虚な姿勢から始まらざるを得ない。自身の勝手な思い込みだけで対象をいじることはない。まず知った上で、問題があれば自分一人ではなく仲間とともに変える(ココ大事)。なんだったら組織外の人も巻き込む。この本の中でもそんな例が出てきた。「PTAはここがヘン!」と言い立てて終わるだけでなく、きちんと関わって結果も出した著者はオトナなのである。

そのときそのときを一所懸命にやって、時期が来たら後の人に譲って去る。(中略)関わる人それぞれがが限られた時間の中で最善を尽くせばいい。

著者が3年間の小学校PTA会長活動で得たのはたまに飲みに行ける地元の友達がけっこうできただけ、と謙遜するが、地元に仲間をつくれるって実際はとても有意義なのではないか、とも思う。温泉旅行、楽しそうだもの。

ある日うっかりPTA

ある日うっかりPTA

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杉江 松恋
KADOKAWA (2017-04-28)
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猿の生き様を見届けた話【観賞「猿の惑星 聖戦記」】

男一匹、よくぞ生き切った。一個のキャラクターに焦点をしぼりつつ、知性の意味についても考えさせられた話でした。

【作品紹介】
ウイルスによる突然変異によって高度な知能を得た猿達の反乱、人類が築き上げた文明社会の崩壊、猿と人類の戦争の勃発という衝撃的なストーリーを描き、全世界を震撼させた『猿の惑星』シリーズ。2011年の「創世記(ジェネシス)」2014年の「新世紀(ライジング)」に続き、「聖戦記(グレート・ウォー)」と題された最新作では、ついに地球の歴史が塗りかえられ、新たな支配者が決する激動のドラマと圧倒的なスケール感みなぎる壮絶なアクション・バトルが繰り広げられていく。
【ストーリー】
猿と人類の全面戦争が勃発してから2年後。シーザー率いる猿の群れは森の奥深くに秘密の砦を築き、身を潜めていた。そんなある夜、奇襲を受けたシーザーは妻と年長の息子の命を奪われ、悲しみのどん底に突き落とされる。軍隊を統率する敵のリーダー、大佐への憎悪にかられたシーザーは大勢の仲間を新たな隠れ場所へと向かわせ、自らは復讐の旅に出る。シーザーは大佐のアジトである巨大な要塞にたどり着くが、復讐心に支配され冷静な判断力を失ったシーザーは大佐に捕獲されてしまう。しかも新天地に向かったはずの仲間の猿たちも皆、この施設に監禁され重労働を強いられていた。リーダーとしての重大な責任を痛感したシーザーは仲間たちを“希望の地”へ導くため命がけの行動に打って出る…。

公式サイトより)

今作を劇場で見るために未見だった旧シリーズ5本、前々作「創世記」と前作「新世紀」も追いかけましたよ。わずかな仕草と服から出ている部分だけが猿っぽかった旧シリーズと比べ、この3部作は(旧シリーズと同じように)猿を人が演じているにも関わらず立ち居振る舞いが圧倒的にリアル猿。なおかつシーザーの表情などは本物のチンパンジーのそれではなく明らかに表情が読み取れる意匠が施されている。深く感情移入ができるんです。リアルとフィクションの絶妙な配合。CGの進化は素晴らしいなぁ。

旧シリーズで描かれた「猿の惑星」が誕生する契機となるであろう出来事を、現代を舞台に描いた「創世記」、人類と猿達の抗争勃発を描いた「新世紀」。両作で問いかけたのは「知性とは何か」と理解しました。薬物投与で人間の言葉が理解できるようになった猿、というのはフィクションとしてのきっかけで、真の知性とは他者を受け入れることではないのか、という問いかけが両作ではなされました。猿が知的で人が獣的、という単純な入れ替えではない。猿でも人でも他者を受け入れられない者はいる。それが知性の影の面、ということを特に前作「新世紀」では描いていた。

旧シリーズに心憎い目配せもしたシリーズでした

で、3部作の完結とされる今作「聖戦記」。局地戦とはいえ異種間の闘争勃発を描いた前作からすると話のスケールは小さくなった。妻子を殺されたシーザーの復讐が物語の中心で、シーザー率いる猿達は防衛に徹し人の手の及ばないところへ逃げようとするだけ。異種間闘争の決着は描かれない。まぁこれは、猿と人が直接争わなくてもウイルスで人がどんどん減り異常化もしていくので自然に決着はついてしまうのですよね。

でも過去2作の魅力だった知性への問いかけは今作でも描かれている。今回のテーマはさしずめ「団結と分裂」か。困難な時に知性はどう使われるべきか、が描かれていると思ったのです。異常化していく自身に耐えられず殺しあったり自ら命も絶ったりと知性の無駄遣いをする愚かな人間どもに対し、我らが猿達はこう誓うんですよ。「Apes Together Strong」と。Together Strong!Together Strong!(劇中のポーズ参照)

この3部作で観客が人間側でなく猿側、とくに猿のリーダー・シーザーに惹かれてしまうのはシーザーが最後まで知性を正しく使おうとしつづけたからでした。あるべき姿を貫き通した一匹の猿の生き様は最後まで眩しかったぜ…!

御大の言葉をかみしめた話【書評「富野に訊け!!」】

アマゾンの電子書籍「KINDLE」5周年セールで買った1冊。思いの外、読み応えがありました。

【内容紹介】
『機動戦士ガンダム』監督による破格の人生相談がついに電子書籍になりました! 対人関係から勉強、仕事、恋愛、生と死の深淵まで、富野監督が人生の大疑問に全力で答えます。「どうすれば、他人に優しくなれるのか?」「異性と普通に話ができるようになりたい」「仕事にやりがいが見いだせない……」。多くの人が抱える悩みに対して、時に厳しく、時に優しく語られる言葉の数々は、人生に惑うあなたにきっと一条の光を与えてくれるはず。今日厳しく感じられる言葉も、十年後には正しいアドバイスだったと実感します。人生に迷ったときは、富野に訊け!! (月刊「アニメージュ」連載・アニメージュ文庫『富野に訊け!!』を電子書籍化)。
【著者略歴】
富野由悠季
1941年神奈川県生まれ。アニメーション監督、小説家。64年に日本大学芸術学部映画学科卒、虫プロダクションに入社しテレビアニメ『鉄腕アトム』のスタッフとなる。67年に退社後、CMディレクターを経てフリーの演出家に。72年に『海のトリトン』で実質的に初のチーフディレクターを務め、79年に『機動戦士ガンダム』の原作・総監督となり、のちに世の中にガンダム・ブームを呼び起こす。以後、現在まで多数のオリジナルテレビアニメの原作・監督を務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

(Amazonの書籍紹介ページより)

作品自体は見たことがなくても「ガンダム」というアニメ作品の存在は広く知られているはず。「ガンダム」のほかにも著者はテレビ向けに数々のロボットアニメを制作してきました。作品に出てくる登場人物に共通の芝居掛かった独特の台詞回しや、あまりに個性的な著者自身の存在も話題なのです。

骨太オヤジっていつの時代にも求められるのです。

同じアニメ監督としてテレビに登場する人では、宮崎駿もなかなか口の悪いヒトでしたが、この著者は宮崎駿以上の毒を吐く。しかも表現がややこしいw。なおかつ自分のコンプレックス、妬みを臆面もなく晒す。下で働くのはまず間違いなく大変な人です。

しかしこの人には目を離せない魅力がある。先述した自分のダメなところも晒しながら周囲を批評しまくるので、強い部分と弱い部分がないまぜになる姿が正直でもあるし、主張に説得力を持たせているのです。

この本はアニメ雑誌「アニメージュ」に2002年から2009年にかけて連載された、読者からの人生相談。一番痛烈なのは「仕事にやりがいを見出せない」という質問への回答か。著者はこの質問者の手紙が読ませ方、見せ方についてまるで考えていない、質問者は社会人としての立ち居振る舞いが身についていないと批判した上で「治療法はない」「アニメ雑誌なんかにこういう質問を持ってくるのは甘え。もっと上等な雑誌に持っていくはず」と、けんもほろろ。掲載誌までとばっちりを食う始末。

でも質問者本人にとっては気の毒だけど回答の最後「ちょっとした文章だけでも人の品位や性格は伝わってしまう」という著者の言葉にはハッとさせられる。まずそういうところから鍛え直せ、ってことだろう。文面に書かれている以上のものを読み取ろうとするのが興味深い。

「アニメ監督になるには?」という高校生の質問への回答は内容が面白いように二転三転。「(著者自身が)高校生の時は絵や小説をどんどん書いていた。何もしてないなら君は普通の人。以上です。」とあっさり結論を下した上で「貴方がなぜアニメに簡単に興味を持ったか」に問いを変え、答えもくれる。それはアニメ雑誌を迂闊に読んだから。つまり…

あなたが世間に溢れかえった情報をそのまま受け止めてその情報を「良い」と判断してしまうのは、あくまであなたが受け止めているその情報の「量」が多いだけの話なのです。

この後の著者の真の結論は、だから若いあなたは色々な体験をして自分のやりたいことを探してください…となるのだけど、抜き出したこの部分、タコツボ化した今のネット社会への警告にもなっていないか。いろいろに読み取れる楽しさがあちこちにあるのです。

創作の世界に憧れた若者が就職難の中、当時は社会的に目立たない産業だったテレビアニメ制作プロダクションに入社し、いつか実写映画を撮る日の為にとアニメ監督の仕事を続け、実写の仕事はこないけれどアニメ監督として名をあげた。そんな自分に忸怩たる面もあるが悪くないとも思っている−。欲望と諦観を重ね持つ先達の姿はハードボイルド。人生の全てを体現しているような著者は、ファンが呼ぶ通り、まさしく「御大」なのです。

富野に訊け!! (アニメージュ文庫)
徳間書店 (2014-10-24)
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ちなみにテレビアニメ「機動戦士ガンダム」の制作から打ち切り、その後の再評価の顛末はこのマンガで描かれています(キャラクター描写は誇張されてるけど)。

「ガンダム」を創った男たち。上巻 (角川コミックス・エース)
KADOKAWA / 角川書店 (2014-08-11)
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「ガンダム」を創った男たち。下巻 (角川コミックス・エース)
KADOKAWA / 角川書店 (2014-08-11)
売り上げランキング: 43,728

奪い奪われ与える話【観賞「散歩する侵略者」】

日常が静かに終わる異常な感じを堪能しました。

【イントロダクション】
国内外で常に注目を集める黒沢清監督が劇作家・前川知大氏率いる劇団「イキウメ」の人気舞台「散歩する侵略者」を映画化。数日間の行方不明の後、夫が「侵略者」に乗っ取られて帰ってくる、という大胆なアイディアをもとに、誰も見たことがない、新たなエンターテインメントが誕生しました。侵略者たちは会話をした相手から、その人が大切にしている《概念》を奪っていく。そして奪われた人からは、その《概念》が永遠に失われてしまう。「家族」「仕事」「所有」「自分」…次々と「失われる」ことで世界は静かに終わりに向かいます。もし愛する人が侵略者に乗っ取られてしまったら。もし《概念》が奪われてしまったら。あなたにとって一番大切なものは何ですか?
【ストーリー】
数日間の行方不明の後、不仲だった夫がまるで別人のようになって帰ってきた。急に穏やかで優しくなった夫に戸惑う加瀬鳴海。夫・真治は会社を辞め、毎日散歩に出かけていく。一体何をしているのか…?
その頃、町では一家惨殺事件が発生し、奇妙な現象が頻発する。ジャーナリストの桜井は取材中、天野という謎の若者に出会い、二人は事件の鍵を握る女子高校生・立花あきらの行方を探し始める。
やがて町は静かに不穏な世界へと姿を変え、事態は思わぬ方向へと動く。「地球を侵略しに来た」真治から衝撃の告白を受ける鳴海。当たり前の日常は、ある日突然終わりを告げる。

公式サイトより)

黒沢清の作品は最近見てなかった。「CURE」や、特に「回路」がこんな雰囲気の話だったかなー、と記憶しています。

宇宙人が(宇宙人として)登場しないSF映画ですね。静かに侵略を始める宇宙人たち、それを察知し対抗を始める人類(のリーダーたち)。一般人類は何も知らない。全体がおぼろげながらも見えているのは鳴海や桜井(と観客)くらい。

長澤まさみがよかったですねー。

この「全体がおぼろげに見える」感じが絶妙にコワイ。鳴海や桜井の後ろを普通に歩いている一般人たちが宇宙人に見えてくる。この作品、登場人物が街を歩く場面が何度かあるのだけど、後ろに写っている人たちが普通の映画より明らかに多い。意図的に人が配置されている感じもして、気味の悪さを増幅させている。

「概念を奪う」という宇宙人の特殊能力が発揮される場面もヒヤリとする。奪われた人間がへたり込むあの瞬間。薄気味悪かったですねー。

いっぽうで鳴海のエピソードと桜井のエピソードが分離しすぎてたかな、という気はします。桜井側の宇宙人2人がもっと鳴海側に執着するのかと思ったらそうでもなかった。両者が出会ってもさして何も起こらなかったのが残念なところ。

エピローグでの鳴海も、その直前までの描写と違いすぎてた気が。へたり込むことなく「何も変わらないけど?」と言ってたのになんでああなったのかな。中盤で神父が愛の定義を語る場面があるのだけど、今作での「愛」という概念が、そこで神父が語る愛と同じものであるなら、ああいう結末にはならないのではないかな。やはり愛も概念の一つであるならば、奪われたら尽きてしまうってことではあるんだろうけど。

ともあれ、「愛」の概念がカギだというのはメロドラマ的要素を強めてて、話を盛り上げたのは間違いない。そう考えるとひたすら暴力描写でひっぱっていた桜井側のエピソードも最後には愛があったと解釈できる気がしてきた。桜井も鳴海も最後は自分を捨てたのだから。

奪う者と奪われる者のドラマで最後に姿を見せる「与える者」。彼らこそ最も不可解で、それゆえに魅力的な存在でした。もらった側が「なるほど」で済ませず、ずっと影響を与え続けるのが愛、と言えるでしょうか。

気持ちのやり場がどこにもない話【観賞「エイリアン:コヴェナント」】

「つまらないですよ」「面白いらしいよ」と真逆の評価を聞いたので前作「プロメテウス」を鑑賞した上で臨んだのですが…うーむ。

【イントロダクション】
メガヒット・シリーズ「エイリアン」の創造主である巨匠リドリー・スコットが直々にメガホンを執った待望の最新作「エイリアン:コヴェナント」は、これまで謎のベールに覆われてきた“エイリアン誕生の秘密”を解き明かす物語だ。その背景となるのは第1作「エイリアン」の20年前にあたる時代。シリーズの原点に回帰し極限の緊張感とバイオレントなショック描写の演出に腕をふるったリドリー・スコット監督は、息もつかせぬストーリー展開の果てに「誰がエイリアンを創造したのか?」という大いなる疑問の答えを提示していく。
【ストーリー】
人類の植民地となる惑星オリガエ6への移住計画のために、2000人の男女を乗せて地球を旅立った移住船コヴェナント号が、航海中に宇宙空間で大事故に見舞われる。修復作業中に奇妙な電波を受信したクルーは、発信元の惑星を調査することに。やがて事故で夫を亡くした女性乗組員ダニエルズやアンドロイドのウォルターらが降り立ったその惑星は、自然環境が地球と極めて似通っていた。しかし美しい“宇宙の楽園”のように思われた未知の惑星には、あの凶暴な生命体エイリアンをめぐる恐るべき秘密が隠されていた…。

公式サイトより)

前作がヒットしたので続編、また続編…と統一感なく増築を繰り返すシリーズ映画の中で、前作「プロメテウス」はエイリアンの起源に迫ろうという話でした。とはいっても公開時は見逃したわけですが。公開時の宣伝がどっちつかずだった印象があるんですね。新シリーズ起動!とか打ち出すこともなく、エイリアンの前日譚らしい、と噂が広まっていたんで、よく分からなかった。

で、「プロメテウス」と「エイリアン:コヴェナント」ですが。確かに「エイリアン:コヴェナント」は「プロメテウス」続編で「エイリアン」シリーズの最新作です。増築し尽くした本館の隣に別館が建ち始めた趣。この2作は創造主と創造物の関係を色々な層で提示しているので、ドラマとして一つの筋が立ってはいる。人間がエイリアン化する、エイリアンに襲われる、などの映画的お楽しみもある。

表紙を飾るべきだったのはマイケル・ファスベンダーでは。

でも肝心の「創造主と創造物の物語」が今ひとつ面白くない。創造物だったアイツが創造主になったら面白いでしょ?という程度でしかない。偉大なる創造主という一神教的世界観を逆手に取ったのだろうけど、過去一連のシリーズで語られた顛末のきっかけは、コイツ一人に集約されるの?という点に説得力を感じられなかった。彼の創造への欲望は伝わるんだけども。

エイリアンの起源という点では、前作「プロメテウス」でほぼ語られているし、今作でエイリアンの創造主(人類の創造主でもある)種族「エンジニア」があっという間に丸ごと退場してしまったのももったいない。コヴェナント号のクルー達もとてもプロフェッショナルとはいえない。とくに序盤、着陸艇を失くしてしまう顛末はお粗末の一言。結果、どの登場人物にも感情移入しにくいのですよ。勝手にやってれば、という感じ。

ただ今作は明らかに次回作を意識した宙ぶらりんな形で終わるので、次回作できっちりケリをつけてほしい。創造主が創造物から逆襲される結末がないと落ち着かんぞ。次回作はひょっとしたらエイリアンに感情移入する作品になるのかもしれません。

謎が人をつなぎとめる話【鑑賞「三度目の殺人」】

宣伝上「サスペンス映画」と謳ってはいますが、実際はサスペンス映画でも社会派映画でもサイコ映画でもない、なんとも言いようのない作品でした。

【イントロダクション】
カンヌ国際映画祭・審査員賞受賞から全世界へと広がった「そして父になる」の熱狂から4年。是枝裕和監督×福山雅治主演というタッグに加え、名優・役所広司が是枝組に初参加。さらに「海街diary」に続き是枝組2度目の出演となる広瀬すずを加え、日本を代表する豪華キャストの共演が実現した。弁護士が覗いた容疑者の深い闇。その先に浮かび上がる、慟哭の〈真実〉とは。心震える心理サスペンスが完成した。
【ストーリー】
それは、ありふれた裁判のはずだった。殺人の前科がある三隅が、解雇された工場の社長を殺し、火をつけた容疑で起訴された。犯行も自供し死刑はほぼ確実。しかし弁護を担当することになった重盛はなんとか無期懲役に持ち込むため調査を始める。調査を進めるにつれ重盛の中で違和感が生まれていく。三隅の供述が会うたびに変わるのだ。金目当ての私欲な殺人のはずが週刊誌の取材では被害者の妻に頼まれたと答え、動機さえも二転三転していく。さらには被害者の娘と三隅の接点も浮かび上がる。得体の知れない三隅の闇に呑み込まれていく重盛。弁護に必ずしも真実は必要ない、そう信じていた弁護士が初めて心の底から知りたいと願う。その先に待ち受ける真実とは?

公式サイトより)

観客の「こういう話だろうなー」という甘い期待を最後まで裏切り続ける話です。人によっては「これで終わり?」と思うでしょう。結局何?何が言いたかったの?って。観客に対し不親切な一本だなぁとは思います。

福山雅治の困惑する様が今回も見所ですね

最初に「サスペンス映画でも社会派映画でもサイコ映画でもない」と書きましたが、gむしろそれらの要素が全部入っている、とも言えるのです。とくにタイトル「三度目の殺人」が象徴するのは、殺した動機が曖昧なまま下される三隅への判決なのでしょうから。その点から司法制度への疑問を投げかける社会派作品、と言えなくもない。裁判官、弁護士、検察の公判前整理手続きとか出てくるし。広瀬すず演じる被害者の娘の告白もそう。

いっぽうで小鳥のエピソードを留置所で話す三隅の様子にはサイコ映画の香りも濃厚。話している時の役所広司のあの手!怖かったですねー。

でも、特に三隅と重盛の留置所のシーンで顕著なのですが、三隅をあたかも聖者のように明るく映したり三隅と重盛が同じような存在かのように重ね合わせて映したりと、被告人・三隅の描き方は非常に凝っている。もちろんストーリー上も殺人の動機について周囲の発言はおろか三隅本人もコロコロ変えていく。変えていく理由もはっきりしない。あげく最後には…とこれ以上書くのは野暮か。

ただ三隅最後の告白が観客側からすると「はぁ?!」と困惑してしまうのは避けられない。なおかつその告白に重盛が乗ってしまうのもますます困惑させられた。被告にとって最大限の利益を引き出さればオッケーという立場だった弁護士が、そんな告白に乗ったら裁判上圧倒的に不利だってのは一般人でも予想がつきそうなものだけど。で、実際その通りになってしまう。重盛が三隅に強く影響を受けたのだろうな、とは察せられるのだけど違和感がかなり残りました。この辺、人を選ぶだろうなー。

鑑賞後に解放感を味わえる作品ではありません。困惑させられたまま放り出されてしまいます。でもこれって是枝監督の本を読んだ後の印象にも繋がるのです。「これが答えだ」と示されないのは監督の考える現実観の反映か。それを示してしまうことこそが「三度目の殺人」になるのか。もやもやとしたものを引きずっていくことで三隅は重盛や観客の中で生き続けるのでしょう。

生きる力をもらう話【鑑賞「鳥丸軍雪」展】

着飾ることは生きる力、なのかも。

宮崎市のみやざきアートセンターで2017年10月22日まで開催中の「ファッションデザイナー 鳥丸軍雪展」を見て来ました。

鳥丸軍雪(とりまる・ぐんゆき)氏は1937年、宮崎県小林市生まれのファッションデザイナー。「軍雪」という珍しい名前はおそらく、お父さんの「軍二」、お母さんの「雪」から1字ずつ取ったんでしょうねー。

ダイアナ妃をはじめとする世界の一流セレブたちが着たものと同じ型のドレスは撮影も可能。

軍雪氏は小林市の中学校を卒業後、滋賀県の高校でテキスタイルを学び上京。東映動画でアニメ映画「白蛇伝」制作に携わったのち(!)渡英。ピエール・カルダンのアシスタントデザイナーになり、1986年、ダイアナ元英国皇太子妃が来日した際に着たロイヤルブルーのドレスを製作したことで注目を集めました。今年10月まで全国コンサート中の五輪真弓さんの衣装も手がけたそう。そんなスンゴイ人がよりによって日本人で宮崎県出身とは知らなんだ。

会場には氏が所有するドレスや黒柳徹子さんの衣装、デザイン画、東映動画時代時代の資料などを展示。ドレスはドレープやプリーツを多用、デザイン画にはダイアナ妃のほかマイケル・ジャクソンの衣装プランもあったことがわかる。

先着順に配布されたパンフレットの裏表紙。軽やかですねー。

男性目線で見る限り、展示されている服には全く縁がない。着てみたい、とは思わない。でも華やかさ、優雅さは十分伝わります。むしろ「男の服ってジャケット+シャツ+パンツっていうパターンばかりだよなぁもっとこんな風に変化がつけられんのかい」とうらやましくさえ思ってしまった。

会場では軍雪氏と仕事をした外国人スタッフや黒柳徹子さんなど軍雪氏のドレスを持っている人のコメントが上映されていた。そこで思ったのは服を着る意味。「軍雪氏のドレスが似合うよう、いつまでも若くいなくちゃ」という言葉が心に残りました。

勝負服、という言葉があるけれど、会場に展示されているのはまさにそれ。着ることで気持ちが上がることって男女問わず確かにある。「これでいいや」という後ろ向きな思いでは、着ても元気にはならんですわね。せっかく着るなら「これがいい」と思えるものを着て毎日を前向きに過ごしたい。服にはそんな力があるはず。

この企画展のことを初めて聞いた時、はっきり言って「誰この人?」と思いました。いやぁ、すごい人がいたもんですね。今回の展覧会が日本国内では初とのこと。国内巡回したら面白そうだなー。

撤退戦でも勝利をめざす話【鑑賞「ダンケルク」】

撤退戦でもエンターテイメントになる、と踏んだところが慧眼でした。

【イントロダクション】
『ダークナイト』『インセプション』『インターステラー』と、新作ごとに圧倒的な映像表現と斬新な世界観で、観る者を驚愕させてきた天才クリストファー・ノーラン監督。彼が、初めて実話に挑んだ本作は、これまでの戦争映画の常識を覆す、まったく新たな究極の映像体験を突きつける。
史実をもとに描かれるのは、相手を打ち負かす「戦い」ではなく、生き残りをかけた「撤退」。絶体絶命の地ダンケルクから生きて帰れるか、というシンプルで普遍的なストーリーを、まるで自分が映画の中の戦場に立っているような緊迫感と臨場感で、体感させる。開始早々からエンドロールまで、映像と音響がカラダを丸ごと包み込み、我々観客を超絶体験へといざなう。
そして上映開始とともに動き出す時計の針のカウントダウン。陸海空それぞれ異なる時間軸の出来事が、一つの物語として同時進行。目くるめくスピードで3視点が切り替わる。これぞノーランの真骨頂!99分間ずっと360度神経を研ぎ澄まさないと生き残れない、一瞬先が読めない緊張状態が続くタイムサスペンス。

【ストーリー】
フランス北端ダンケルクに追い詰められた英仏連合軍40万人の兵士。背後は海。陸・空からは敵――そんな逃げ場なしの状況でも、生き抜くことを諦めないトミーとその仲間ら、若き兵士たち。
一方、母国イギリスでは海を隔てた対岸の仲間を助けようと、民間船までもが動員された救出作戦が動き出そうとしていた。民間の船長は息子らと共に危険を顧みずダンケルクへと向かう。
英空軍のパイロットも、数において形勢不利ながら出撃。命をかけた史上最大の救出作戦が始まった。果たしてトミーと仲間たちは生き抜けるのか。勇気ある人々の作戦の行方は!?

公式サイトより)

このあと独軍に勝利するとわかってても今作は爽快感のある話ではありません。最後にトミーが新聞に掲載されたチャーチル英首相の演説を読みあげる場面があるのだけど、そこでようやく奮い立たされる。今作は戦いを中心とした戦争ものというより危機的な状況からの脱出もの、の映画なのでしょう。昔ありましたね、高層ビル火災を描いた「タワーリング・インフェルノ」とか。だからこそ敵側である独軍の姿ははっきりと描かれない。空中戦で登場する飛行機程度。

冒頭の簡単なテロップで状況を説明した後は細かいリズムを繰り返し刻む劇伴音楽で緊迫感を常にあおっていたのも、舞台であるダンケルクの海岸に独軍が迫っている描写を省く効果があったと解釈しました。独軍兵が姿を見せるのも本当に最後の最後だったし。

生き残るだけで勝利なのです。

と考えると、今作が防波堤、海、空という3つの話を同時進行させるのは、過去のパニック映画であった複数のエピソードを並行して描くパターンをなぞっている、といえる。ただ今作は、防波堤の1週間、海の1日、空の1時間という時間軸が全く違う3つの話をクライマックスで合わせるという構成がキモでした。

でもまぁ思い出してみると、各エピソードの冒頭に「1週間」「1日」「1時間」とテロップは出ていたけれど、時間軸の違いにそんなに違和感がなかったというか気にならなかったというか。むしろ「1週間」「1日」「1時間」というテロップの意味がわかりにくいというか。見終わった時に「3つのエピソードの時間軸って全然違うよね?」と言われる前に先手を打ったというか。3つのエピソードをそれだけうまく編集できていたわけで、玄人はうなるかもしれんが素人は気づかない編集かもしれませんねー。

印象に残ったのは「防波堤」のトミー。普通に順番を待っていたら脱出できるのは最後になってしまうとばかりにあの手この手で早く逃げ出そうとして、その度に失敗する様が辛い。海岸で独軍機から爆撃を受け画面奥から手前へ向けて爆発が続く場面、病院船が魚雷を受け沈没する場面など、ビジュアル的には見ごたえのある場面が多かった。内容的には辛いけど。

で、その辛さを少しでも解消するのが「空」の話。最後の敵機を落とすクライマックスはちょっと出来すぎとは思うけど、ドラマ的にはそんな爽快感が必要なんですよね。その後は辛い結末だけど。

「海」の話は不幸な形で犠牲を出してしまったのが「防波堤」とは別の辛さを感じさせる。戦場の辛さを想像できるが故に罪を咎められない民間人の辛さ。軍人には従わなければならない弱い民間人、とは違うのがまたやりきれない。美談にする(おそらく船内で実際に起こったことは描かれない)ことで救われるのが印象に残りました。

…こう振り返ると、どのエピソードも結局辛い。帰り着いたトミーたちが街で大歓迎されることでようやく爽快感が湧いたかな。こんな「負け戦」でも次を見据えてまずは無事を喜ぶ様子に、撤退を転進と言い換え続けた某国を思い出しそりゃ戦争に負けるわなと考えたわけです。今作で描かれた撤退戦、英国は「ダイナモ作戦」と呼称までしていたそう。現実を見据えその中で最善を尽くすのって大事なことです。苦いけどね。