出したい自分は簡単には出ない話【鑑賞・岡田武史が見たFIFAワールドカップ】

結局日本戦以外の試合はまともに見なかったのだけど、こういった特集番組だけは見てしまう自分のような人ってサッカーファンなのかなんなのか、よくわかんないです。

NHK-BSで放送されたこの番組、内容はサッカー前日本代表監督・岡田武史氏が見たブラジルW杯、という…タイトルそのまんま、ですね。

印象的だったのは、岡田氏が、日本が勝てなかったことにがっかりしながらも、日本の攻撃について「(状況を打開するために)たとえばミドルシュートを打つとか(できなかったんでしょうか)…?」というインタビュアーの質問に「誰がするの?」と逆質問したところ。今回の日本代表は陣形をコンパクトにしてパスで相手陣営に切り込んでいくスタイルなので、相手ゴールから離れたところからシュートを打つような選手はいないってことでした。

岡田氏は日本の実力はあったと認めつつ、結果を出す方法は限られていることを認識していた。個人でも団体でも、結果を最も出しやすい形はいくつもあるわけじゃない。っていうか、普通そんなの一つだけで、この場合それを「自分たちのサッカー」と呼んでいたわけで。

一方で岡田氏は決勝トーナメントでの他国の闘いぶりを「必死だった」「最後まで諦めなかった」と評していたのも印象に残った。

今回の日本代表は「自分たちのサッカーをすれば結果は出る」的なことを言っていたようだが、実際には難しかった。型が見つかったことで手応えを感じていたのだろう。

個人的に、何かを「必死にする」のと「自分たちの型を出す」のは矛盾することだと思いこんでいた気がする。必死になるには型にこだわらず、型を出そうとするには冷静でなければ、と。でも違ったのかもしれない。

自分に型があるというだけでは不十分で、本番で型を出すにはとてつもない精神力も必要なのだろう。頭と心の使い方のヒントになった…気がします。

人生は肯定したがマシという話【書評・四畳半神話体系】

51SBa3cat3L人生も編集だ」という本にもちょっと通じるところもあるこの小説。人は大なり小なりの岐路で選択を繰り返す(人生を編集する)のだけど、選択をやり直せたら人生はどう変わるのか…?という話です。

バカバカしいほどに自意識過剰だけど根は気弱で真面目な「私」は京都の大学生。ボロボロの四畳半アパートで悪友・小津や階上に住む謎の先輩の襲来を受けながら「私の夢見たキャンパスライフはこんなんではなかった…」「1回生の春、違うサークルに入っていたら黒髪の乙女と付き合って一点の曇りもない学生生活を満喫していたはず…orz」と妄想しがちな日々。3回生になったある日、街角の占い婆さんにふらっと見てもらったら好機を捕まえるヒントを教えられ…

日を分けて読んでいったのだが、改めて読むと「乱丁か?」と思うほど同じ表現の箇所が続出する。前後を読み直して、やっとそれが作者の意図的なものとわかる。

なんだかツンときた登場人物たちのセリフもあったので挙げていくと…

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々が持つ可能性ではなく、我々が持つ不可能性である 」

「腰の据わっていない秀才よりも、腰の座っている阿保の方が、結局は人生を有意義に過ごすものだよ」
「本当にそうでしょうか」
「うむ…まあ、なにごとにも例外はあるさ」

少々選択が違ったからといって人の運命はそうそう変わらない…身も蓋も希望もないような結末かもしれないが、憎めない悪友や妖しげな年長者、普段はクールだけど意外な弱点を持ってる異性に囲まれた「私」の3回生の暮らしはどう転んでもちょっと面白くちょっとロマンチック。

最終章で「私」がたどりついたように、自分のこれまでとこれからを、とりあえず大目にみてやるにやぶさかではない…そう思いたくなる楽しい話でした。この作者の他の小説も読んで見ることにしよう…!

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二度あることは三度はないんじゃないかという話【鑑賞・マレフィセント】

 

単独で見たら力作なのかもしれんけど、大ヒット作「アナと雪の女王」に続くディズニー作品という点を気にしてしまうと、評価を一瞬、保留したくなる作品。アクションシーンの迫力や主演アンジェリーナ・ジョリーのなりきりっぷりなど悪くない出来だとは思うんだが(たまたまかぶったんだろうけど)「アナ雪」の二番煎じ感はどうしても否めない。

もちろん「アナ雪」と作品上のつながりはないのだが、「アナ雪」は「雪の女王」、今作は「眠れる森の美女」と有名な童話を現代風に再解釈するという試みが同じなら…再解釈した結果まで同じだったってのはやはり大きなマイナスではないだろうか。

人間の国と魔法の国が隣り合う世界。魔法の国の最強の妖精マレフィセントは、人間の国に生まれた王女オーロラに呪いをかける。「16歳の誕生日の日没までにこの子は永遠の眠りに落ちる。目覚めさせるのは真実の愛のキスだけ」。しかしその呪いはオーロラだけでなくマレフィセント自身も苦しめることになる…彼女が呪いをかけた理由とは?

↑見てない人のためにあらすじの書き方がこんな風になりましたが、実際は「呪いをかけた理由」はマレフィセントの生い立ちと絡めて描かれるので、そこが話のポイントではないんですスミマセン。むしろ呪いをかけてからが面白くなる。今作は原作「眠れる森の美女」をマレフィセントの側から描いたような「新訳版」的な位置づけになるのでしょうか。

その結果、キャラクターの行動に一貫性がなくなっている面はある。原作では悪役だったマレフィセントが今作では悩み、迷う存在になっているのはそれがいい方に出たところ。マレフィセントを演じるアンジェリーナ・ジョリーの「アニメのまんまやんけ!」と言わずにはいられないなりきりっぷり。このキャラもいずれディズニーランドのエレクトリカル何ちゃらに出ること間違いなし。このキャスティングが成立した時点で今作の成功は見えていたんでしょうねー。「ルパン三世」はどうかなー(汗)

ただ原作を意識しすぎたのか、その矛盾が一気に出ているのが、原作でも今作でも見せ場のオーロラ姫の誕生を祝う場面。妖精たちがオーロラ姫に幸せの魔法をかけるのだが、今作では妖精たちの住む魔法の国と人間の国は対立している。そんな「敵国」で3人の妖精がフツーに来賓扱いされてるのはなぜ?魔法の国のリーダー的存在のマレフィセントと妖精たちの関係性も分からないし。

また祝いの場にマレフィセントも現れオーロラ姫に呪いをかけるのだが、今作ではこの登場場面、原作以上に大変な意味が生じているはずなのだが、誰もそれを指摘しない。この場面以降、王の立場がまったく危うくならないのもおかしいところ。

まぁ今作はこの場面以降、話の本筋はオーロラ姫とマレフィセントの関係に移り、その描写は役者の演技力で説得力を持たせた(アンジェリーナの目!)ので、観客は楽しめるんですが…先述しましたが主題の新解釈がね。古い話に新しい命を吹き込もうとするディズニーの意気込み、脇役キャラを魅力的な主人公に描き直す力量は感じたけれど、解釈のありかたはそろそろ工夫しないと、いくらディズニーでもさすがに飽きられるかもなぁ。

思考力は2種類あった話【書評「評価経済社会」】

51LJYadud2L発想は面白く、論の雑さは極めて残念。これからの社会は貨幣を交換する「貨幣経済社会」から、評価と影響を交換し合う「評価経済社会」に移行する、と考察した本。

将来のことはわからないんで著者の主張を無下に否定するのもなんなんですが、過去はともかく、前提条件となる現在社会の認識が極めて雑なので「そんなカンタンに貨幣経済がなくなるわけない」と思ってしまう。

どう雑なのかというと、具体的なデータを提示することなく「今の社会はこうだ」「今の若者たちはこう考えている」としてしまうから。一箇所でも著者の主張に「そうだっけ?」と思ったが最後、もうその先は読めなくなってしまう。前提が納得できないのだから、結論に納得できないのも当然でしょ?

著者は、オカルト番組を見る「私たち」はインチキなら科学の力で暴けとか考えず、「ふぅーん、そんなこともあるかもしれない」と考えながら見ているのだ…というけれど、この本全体が「ふぅーん、そんなこともあるかもしれない」程度の議論でしかない。この本の表現からまた借りれば「本質ではなく著者自身の気持ちでのみ値打ちを計ろう」としている。

「いつまでもデブと思うなよ」は著者自身の体験を元にした本だったし、最初に読んだ「オタク学入門」は斬新だった。だけど、今にして思えば「オタク学入門」は著者の視点や発想が面白いだけで済んでいた。未来予測に論の中心を移した時点で、視点や発想と言った瞬発力的思考でなく自説の正しさをどう証明するかという持久力的思考も必要になる。

扱う語の定義もきちんとしてほしいし。著者が「科学主義は死んだ」というときの「科学主義」とは「民主主義、資本主義、西欧合理主義、個人主義と言った価値観を含む一つの世界観のこと」なのだそうだ。それ曖昧過ぎて何を指してるかわかんないんですけど!orz

未来予測」も結論はトンデモナイところまで行ってしまっていたが、著者の逡巡まで含まれていた分、読者には誠実さを与えた。

この本の結論は頭の片隅に置いておくとして、個人的な感想は「頭の良さにもいろいろある」ってところでしょうか。

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