終わりと始まりは痛々しい話【鑑賞「何者」】

現代の就職活動を鍵に、普遍的な若者の痛い部分に焦点を当てた話でした。もう若者ではなくても…痛い。

<作品紹介>
平成生まれの作家・朝井リョウが直木賞を受賞し、大きな話題を呼んだ『何者』(新潮文庫刊)が遂に映画化!映画化もして数々の賞を独占したデビュー作『桐島、部活やめるってよ』で等身大の高校生を描き切った朝井リョウが今回挑んだのは、就職活動を通して自分が「何者」かを模索する5人の大学生たち。果たして彼らは「内定」を取ることができるのか? そして「内定」を取れば「何者」かになれるのか?まだ誰も見たことのない超観察エンタメここに解禁!
<ストーリー>
ひとつの部屋に集まった5人の男女。大学の演劇サークルに全力投球していた拓人。拓人がずっと前から片思いをしている瑞月。瑞月の元カレで拓人とルームシェアをしている光太郎。拓人たちの部屋の上に住んでいる、瑞月の友達の理香。就活はしないと宣言する、理香と同棲中の隆良。理香の部屋を「就活対策本部」として定期的に集まる5人。みんなを見守っている大学院生のサワ先輩。それぞれが抱く想いが複雑に交錯し、徐々に人間関係が変化していく。「私、内定もらった…」。やがて「裏切り者」が現れたとき、これまで抑えられていた妬み、本音が露わになっていく。人として誰が一番価値があるのか?そして自分はいったい「何者」なのか?いま、彼らの青春が終わり、人生が始まる−。

公式サイトより)

予告編やストーリーでも出てくる「青春が終わり、人生が始まる」という惹句にひかれました。確かに現代の日本人にとって就職活動ってそういう時期だし、実際自分自身もそうだったわけで(当時はネットもSNSもなかったけど)。

この中で一人だけ、変われないまま終わってしまった人がいるのも切ない…
この中で一人だけ、変われないまま終わってしまった人がいるのも切ない…

そして見終わった時「ああ、大人になるってそういうことだった」と思わされるわけです。同じ演劇サークルで創作していたにも関わらず演劇を辞め就職しようとする拓人と、就職せず演劇の道を進む拓人の友人が、次第に逆転していくかのように描かれるのが印象的。自分の足で自分の人生を歩む。言葉にすると実に陳腐。だがライバルより自分を大きく見せようと様々にいきがる若者たちは、なんだか自分にも当てはまる部分があるようで見ていて苦しくなるのです。

「昔の自分もこうだった気がする」「いや今でもそんな部分がありはしないか?」「ぎゃあぁぁぁぁ」の3段変化。

いい意味で「人は人、自分は自分」。家庭の事情だったり極めて個人的な想いだったりと、人にはそれぞれの都合がある。それを気にしているうちはまだまだな訳で、互いを認められるようになった時、人は大人への階段を登るんでしょう。

拓人が自分の弱さに向き合うクライマックスの描き方が秀逸。キツイ皮肉が効いてます。そして明らかに一歩階段を登ったところでスパッと終わる、印象的な幕切れでした。まさに人生の始まり。自分の始まりも思い出させ、初心に帰される一本でした。

普遍性と個性を考えた話【鑑賞「リアル展」】

宮崎県・高鍋町美術館で2016年11月23日まで開催中の「宮崎アーティストファイル リアル展」を見てきました。

一つのコンセプトに則り作品を選出する「宮崎アーティストファイル」。「ガール展」に続く第2弾となる今回は予想通り(?)男性作家だけの構成でした。しかしテーマを「リアル」とした今回は、様々な写実作品(造形物含む)が並び、なるほど作家の目が何を捉えているのかが興味深い仕立てとなっていました。

 

高鍋美術館、頑張ってますねー
高鍋美術館、頑張ってますねー

そもそも「絵の見方」って学校で習った覚えがない。宗教画とか風景画は見て「綺麗だ」「印象的だ」と感じるのだけど、静物画、肖像画は上手だとは思うけど「なぜこれを描こうと思ったのか」が伝わらなかった。

でも今回の企画展でようやく覚った気がします。純粋に光や色、形、筆使いの妙を楽しめばいいのでは、と。そこに作り手の個性を読み取ればいいのでは、と。

特に今回のゲストアーティスト・永山真策の油彩画は精密でありながら筆使いを全く感じさせない。「写真か?印刷か?」というほどフラットな作品。一方でピントをぼかしたように風景を描いているのもあった。梅下政良の油彩画でもピントを一部分にだけ合わせたような作品や、表情を極端にクローズアップして捉えた大作(迫力!)など、「作り手の感じたリアルとは何か」が様々な形で伝わってくる。

今回も中心は若手の作家たち。彼らを紹介する解説ボードも興味深かった。彼らにとって写実画は「表現の基礎」「ツール」などである一方、素材に感じる形の面白さを伝えようとするなど、作り手たちが今何を感じているのかがよくわかりました。

作り手一人一人の「リアル」はここまで違う。それが個性。ということは、作り手に限らず我々一人一人が持つ「リアル」も一人一人違っているかもしれない。自分の「リアル」の普遍性と個性の境目はどこか。普遍的と思っていたものが実は個性の名の下に歪んではいないか。自分にも問いかけを迫られた展示会でした。

冒険は明るく楽しい話【鑑賞「スター・トレック ビヨンド」】

「スター・ウォーズ」と並ぶアメリカSF映画シリーズの最新作。「スター・ウォーズ」との違いを改めて感じたのでした。

<作品紹介>

ジーン・ロッデンベリーが創作し、2009年にJ・J・エイブラムズによってリブートされた世界的人気を誇る『スター・トレック』シリーズの待望の最新作『スター・トレック BEYOND』は、U.S.S.エンタープライズ号とその勇敢なクルーの大航海にジャスティン・リン監督(『ワイルド・スピード』シリーズ)を迎え戻ってくる。本作では、エンタープライズ号のクルーが宇宙の最果にある未知の領域を探索し、そこで彼らや惑星連邦の存在意義の真価を問う新たな謎の敵と遭遇する。

公式サイトより)

サイトの説明がやたら素っ気ないのは、日本での人気がそれなりでしかない、ってことでしょうね(涙)。スター・ウォーズと比べると地味なのは避けられない。

チェコフ役のアントン・イェルチンのご冥福をお祈りいたします…
チェコフ役のアントン・イェルチンのご冥福をお祈りいたします…

でもスター・ウォーズと比べ今作で印象に残ったのは、スター・トレック現シリーズは軽く見て楽しめるということ。今作の予告編の伴奏がビースティ・ボーイズ「サボタージュ」だったのに強烈な違和感を感じたのだけど、劇中でちゃんと回答があったのが痛快。「遠い昔の銀河系の話」ではなく、我々の今と地続きなのが気持ちいい。未知の敵に知恵と工夫で立ち向かうのが楽しい。(無名の乗員たちはそうでもないけど)エンタープライズの主な乗員は窮地に立たされても死んじゃうことはないし。

来月にはスター・ウォーズのスピンオフ「ローグ・ワン」が公開予定。もちろん楽しみなんだけど、今作を見てからは、スター・ウォーズって何だかだんだん話が重くなってきてはいないか、という懸念が湧いてきた。第1作「新たなる希望」はもっと軽く楽しめたよね?

ぶっちゃけ、スター・トレックの現シリーズってだいたい同じ話を繰り返してる感じがするのです。こういうと低い評価のように思われるだろうか。でも、なじみの仲間にまた会える喜びも捨て難いんですよ(チェコフ役のアントン・イェルチンは本作撮影終了後、事故で亡くなってしまったけど…)。最後のセリフ(おなじみのアレ)をこう伝えるか、とニヤニヤ。前向きに冒険しようという思いを感じさせる一本でした。

最後まで理性を捨てない話【鑑賞「ハドソン川の奇跡」】

正しい判断とは結果だけで証明されるわけではないんですね。

<作品紹介>

クリント・イーストウッドの長い監督キャリア史上、最大のヒット作となった名作「アメリカン・スナイパー」の次に選んだのは「ハドソン川の奇跡」。未曾有の航空機事故からの生還劇の裏に隠された実話だ。前作で戦場という極限の状況下における兵士の人間性を鋭く優しく見つめた巨匠が、その視点で新たに問いかける真実の裏側。確かな経験に裏付けられた機長の決断。乗員乗客全ての命を救った英雄への厳しい追及。それでも折れない不屈の信念と、決して揺らぐことのない機長サリーの人間性を描き出す。

<ストーリー>

2009年1月15日、極寒のニューヨーク上空850mで155人を乗せた航空機を突如襲った全エンジン停止事故。160万人が住む大都会の真上で、制御不能の70トンの機体は高速で墜落していく。近くの空港に着陸するよう管制室から指示がある中、機長サリーはそれを不可と判断し、ハドソン川への不時着を決断。事故発生からわずか208秒の事だった。航空史上誰も予想し得ない絶望的な状況の中、技術的に難易度の高い水面への不時着を見事に成功させ“全員生存”の偉業を成し遂げる。その偉業は「ハドソン川の奇跡」と呼ばれ、サリーは一躍英雄として称賛されるーはずだった。ところが機長の“究極の決断”に思わぬ疑惑が掛けられてしまう。本当に不時着以外の選択肢はなかったのか?それは乗客たちを命の危険に晒す無謀な判断ではなかったのか?事故調査委員会による度重なる追求は、サリーを極限まで追い詰める…。

公式サイトより)

少なくとも日本国内での宣伝、紹介の仕方(上記公式サイトのあらすじ紹介とか)は全体をミスリードしているように思う。事故調査委の調査は決して理不尽なものでなく、調査する以上当然の視点と思われるからだ。実際、作品内での調査委による追求描写も抑制的で、単純な善悪描写には陥っていない。

パンフレット欲しかった…
パンフレット欲しかった…

まぁ観客を呼ぶための工夫、と言われればそれまでではあるんだけど。惹句の「容疑者になった男」ってのも違うしね。司法的に責任を問われたわけではない。

むしろ見ていて感じたのは、事故後も消えない主人公サリーの不安。メディアや一般人が「奇跡だ奇跡だ」と称賛しても、一歩間違えば大惨事だったのは彼自身よく分かっている。全員が助かったとはいえ自分の成したことにおののいているような印象を受けた。

だからこそ事故調査委に自身の判断が正しかったと認めさせる必要があった。正しい判断かどうかを証明するのは「全員が助かった」という結果ではなく、ましてや感情ではなく、事実に基づく理性的な検証。これは善と悪でなくプロとプロのぶつかり合いの話だった。

機長自身による原作本を読んでもいないしパンフレットも入手できなかったので、この映画がどこまで史実や本に忠実に作られたかはわからない。そもそも実際のフライト自体208秒しかない。それなのに「これは映画になる」と判断したイーストウッドは凄いです。全てが解決して、サリーと同じく調査委から追求された副機長の粋なアメリカン・ジョークでスパッと本編を終わらせるあたり、本当にニクい出来でした。