英雄は日常の中にいる話【鑑賞「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」】

文化が違えばヒーロー誕生譚も描き方も違う。相違点と共通点が印象に残りました。

【作品紹介】
75年に日本で放送開始、79年にイタリアでも放送されて大人気を呼んだ永井豪原作によるアニメ「鋼鉄ジーグ」。本作は、少年時代から日本アニメの大ファンだったガブリエーレ・マイネッティ監督が、40年近く経った今もなお、イタリア人の心の中に深く刻まれるその「鋼鉄ジーグ」を重要なモチーフにして生み出した、イタリア映画初の本格的ダークヒーロー・エンタテインメントだ。
【ストーリー】
舞台は、テロの脅威に晒される現代のローマ郊外。裏街道を歩く孤独なチンピラ エンツォはふとしたきっかけで超人的なパワーを得てしまう。始めは私利私欲のためにその力を使っていたエンツォだったが、世話になっていた“オヤジ”を闇取引の最中に殺され、遺された娘アレッシアの面倒を見る羽目になったことから、彼女を守るために正義に目覚めていくことになる。アレッシアはアニメ「鋼鉄ジーグ」のDVDを片時も離さない熱狂的なファン。怪力を得たエンツォを、アニメの主人公 司馬宙(シバヒロシ)と同一視して慕う。そんな二人の前に、悪の組織のリーダー ジンガロが立ち塞がる…。

公式サイトより)

Youtubeで第1話が公式配信されてました。

改めて当時のアニメを見るとちょっと怖い。絵の拙さもあるのかもしれないけど、洗練されてしまった今の作品より怪奇さ、荒々しさがありますね。「鋼鉄ジーグ」をモチーフにした今作もその荒々しさが印象に残ります。ハリウッドのヒーロー映画にはない側面ですね。

コスチュームを纏わないのがイタリア流でしょうか。

先述した通り、基本的な話の流れはなじみあるものです。主人公が正義に目覚めるために犠牲が生じたり、敵役がヒーローと同等の力を持ったりするのもお馴染みのパターン。でも暴力や恋愛の描写は日米のヒーロー映画よりぐーっと「大人」。子供は見ちゃいけません。最近ではX-MENのスピンオフ「LOGAN/ローガン」も過激な暴力描写が話題になりましたが、正直「LOGAN/ローガン」より大人向け。

ヒーロー映画が大人向けになったのが「LOGAN/ローガン」で、大人向け映画の中にヒーローが現れたのが今作「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」という感じです。

ということは、今作の「特殊能力」は拳銃などの武器に置き換えても話が成立する、といえる。でもそこで「ヒーロー映画」にしかない特徴が際立つ。

ヒーロー映画には自分の力を社会のため正義のために使う、と「決心する」場面が必ずある。日常ではあり得ない超能力と我々観客の日常が結びつく瞬間ともいえる。その日常が今作では本当に我々と地続きの日常のように見えたことが素晴らしい。これまでのヒーロー映画における日常とは、単にヒーローが活躍する舞台でしかなかったのではないか、とまで思えてくる。

ヒーローの誕生がこうして何度も語られるのは「社会を救う存在が現れてほしい」という願いもあるでしょうが「人は皆、自分の能力を社会に還元するべきだ」という願いも込められているのではないか。「能力を還元しなくてはいけない社会」は空想の社会ではなく、もっと身近なのかもしれません。

成熟するのも楽じゃない話【書評「あなたの人生の意味」】

非常に自己抑制的な生き方を理想とするよう説く一冊。前回紹介した「ヒルビリー・エレジー」と合わせて考えると、ちょっと理想主義的すぎるのかなぁ。

内容(「BOOK」データベースより)
人間には2種類の美徳がある。「履歴書向きの美徳」と「追悼文向きの美徳」だ。つまり、履歴書に書ける経歴と、葬儀で偲ばれる故人の人柄。生きる上ではどちらも大切だが、私たちはつい、前者ばかりを考えて生きてはいないだろうか?ベストセラー『あなたの人生の科学』で知られる『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニストが、アイゼンハワーからモンテーニュまで、さまざまな人生を歩んだ10人の生涯を通じて、現代人が忘れている内的成熟の価値と「生きる意味」を根源から問い直す。『エコノミスト』などのメディアで大きな反響を呼び、ビル・ゲイツら多くの識者が深く共鳴したベストセラー。
著者について
《ニューヨーク・タイムズ》のop-ed(署名入り論説)コラムニスト。シカゴ大学卒業。《ウォール・ストリート・ジャーナル》、《ザ・ウィークリー・スタンダード》、《ニューズウィーク》の記者・編集者などをへて、2003年より現職。PBS、NPR、NBCなどのテレビやラジオ・コメンテーターとしても知られ、イェール大学でも教鞭を執る。アメリカ芸術科学アカデミー会員。本書(2015年)は《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラーリスト(ノンフィクション部門)で1位を記録し、さまざまなメディアで反響を呼ぶ。ほかの著書に、同じく《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラー1位となった『あなたの人生の科学』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、On Paradise Drive、『アメリカ新上流階級ボボズ』など。

(アマゾンの著書紹介ページより)

紹介されている10人は米大統領アイゼンハワーやルネサンス期の哲学者モンテーニュは日本でも知られているだろうけど、他はローマ時代の哲学者アウグスティヌスとかアメリカの公民権運動活動家や米国初の女性閣僚とか、ピンとこない人が多い。欧米人なら名前を聞いただけですぐわかるんだろうけど、各章を読み進んでも「この人は結局何をした人なのか」が曖昧な印象が残る。

ただ「何をした人か」というのは著者の言う「履歴書向きの美徳」なのだろう。著者が伝えたいのは彼らが何かをなすまでにどれだけ苦労したかと言うこと。堕落した生き方から再生したり愛を求め続けたり常に自分を自制し続けたり。偉大な生き方とはそういうものでしょ?と著者は繰り返し問いかける。

平凡で単調な人生で良ければ、それで自分は満足だというのなら、道徳的であろうとして闘い、もがき苦しむ必要はないかもしれない。だが、より良く生きたいと望むのであれば、そうはいかない。より良く生きようとすれば、人生の多くの時間は闘いになるし、拷問にかけられているような苦しみを味わうことになる。常に道徳的であるためには大変な勇気が必要になる。行く手を阻む者、嘲笑う者も大勢いるに違いない。だが、それでも、最後は単に快楽のみを追い求めた人間よりも、はるかに幸福になれるはずだ。
人となりは、その人の努力の賜物、その人の作品のようなものということだ。そちらの方が「本当の私」であり、生まれた時の「ありのままの私」と同じではないことになる。
人が未来のことを思う時には、幸せに生きている自分の姿を思い描くのが常である。ところが面白いのは、人が過去を振り返って何が今の自分を作ったかを考える時に思い出すのは、たいていは何か辛い出来事である。
自分の人生を一つの道徳的な物語ととらえ、苦難もその物語の一部とみなすべきということだ。良くない出来事に出会ったら、それを何か神聖なものに転換しなくてはならない。
私たちは皆、「失敗する人」である。だが、人生の意味は、失敗の中にある。人生の美もそこにある。失敗することで何かを学び、年を追うごとに成長する、そこにこそ意義があるのだ

などなど印象的な一節をあげてみました。いいことを書いているとは思う。けど道徳の教科書を読んでいるような窮屈感は最後まで拭えなかった。

「マジメか!」と言いたくなる衝動が湧くんですよねー

前回紹介した「ヒルビリー・エレジー」の著者の半生も、この本で紹介されてもおかしくないような偉大な生き方の物語だった。でもこの本では(社会活動に尽力した人物を紹介した章もあるとはいえ)偉大な人生は個人の努力で得られる、という考え方が基本にある。自己向上という意味の中には独善的に陥らないよう中庸の大切さも説く面や、現在の個人主義は経済的な向上を求めるだけで精神の向上を求めていないと説く面もある。正しい個人主義ではない、と言いたいのでしょうね。

それは決して間違ってはいない。しかしこの本のメッセージが届かない人もいるだろうな、という疑念は残った。「ヒルビリー・エレジー」で描かれたような、向上する生き方を考えることすらできない人もいる、という視点が足りないようにも思う。この本の原著が出版されたのは2015年。米大統領選でトランプ旋風が吹き荒れる前だった。著者は今、今のアメリカをどう見ているのかな。

あなたの人生の意味――先人に学ぶ「惜しまれる生き方」
デイヴィッド・ブルックス
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アメリカは希望の国ではなくなった話【書評「ヒルビリー・エレジー」】

アメリカの白人労働者層のあまりに厳しい暮らしぶり。その責任は自らにある、とする結論もまた苦い。

【内容紹介】
無名の31歳の弁護士が書いた回想録が、2016年6月以降、アメリカで売れ続けている。著者は、「ラストベルト」(錆ついた工業地帯)と呼ばれる、オハイオ州の出身。貧しい白人労働者の家に生まれ育った。回想録は、かつて鉄鋼業などで栄えた地域の荒廃、自分の家族も含めた貧しい白人労働者階級の独特の文化、悲惨な日常を描いている。ただ、著者自身は、様々な幸運が重なり、また、本人の努力の甲斐もあり、海兵隊→オハイオ州立大学→イェール大学ロースクールへと進み、アメリカのエリートとなった。今やほんのわずかな可能性しかない、アメリカンドリームの体現者だ。そんな彼の目から見た、白人労働者階級の現状と問題点とは? 勉学に励むこと、大学に進むこと自体を忌避する、独特の文化とは? アメリカの行く末、いや世界の行く末を握ることになってしまった、貧しい白人労働者階級を深く知るための一冊。

(アマゾンの書籍紹介ページより)

大学を卒業しない労働者階級の白人アメリカ人は「ヒルビリー(田舎者)」と呼ばれているそうだ。著者の母親は結婚と離婚と薬物依存を繰り返す。著者に平穏をもたらしたのは祖父母と姉、そのほかの一族たち。著者はなんとか貧困から抜け出し弁護士になるが「あとがき」に記す彼の見た夢は、自身に今も残る粗暴さにおののく姿を描いていて、苦い。

ヒルビリーを断罪せず寄り添う筆致が切ないのです。

今の貧しい生活から抜け出すことすら考えられない絶望と、家族を侮辱するものには激しい怒りを示す親愛が共存するヒルビリーの複雑な社会。自分の人生は自分で切り開く、公の支援を受けるのは恥、という意識があるいっぽうで、よりよい暮らしを求めて勉学に励むことは「女々しい」と忌避する。古い「男らしさ」が残っているようだ。結果、自身の真の姿を直視できない人が多いというのだ。

著者の絶望のピークは高校生の時。薬物から抜け出せない母親が抜き打ち薬物検査を逃れるため、著者に「きれいな尿を欲しい」と懇願した時だ。著者はこの出来事を機に結婚と離婚を繰り返す母から離れ、祖父母の元で高校に通う。生活が安定した著者は成績が向上、進学を考える。しかし進学資金の不足、大学の自由な生活が自身を(母のように)堕落させるのではないかという不安から海兵隊に入り、社会常識を身につけた上で進学していく。

著者を最後まで支える祖母が涙ぐましい。実の子(著者の母親)はまともな人間にはならなかったが、祖母は著者にこう教える。

楽をして生きていたら、神から与えられた才能を無駄にしてしまう、だから一生懸命働かないといけない。クリスチャンたるもの、家族の面倒を見なくてはならない。母のためだけでなく、自分のためにも、母のことを許さなければならない。神の思し召しがあるのだから、けっして絶望してはいけない。

真面目に生きろ、家族を大事にしろ。言っていることは何も間違っていないし、ヒルビリーと呼ばれる人たちもそのつもりで生きているはずだ。しかし実際は貧困の真っ直中にあり、そこから抜け出せない。成功するのは才能のある人間だけと思い込み、努力の意味を考えられない。

本文中にドナルド・トランプの名前は出てこない。オバマの名は出てくるが、著者のような人々にとってオバマのような完璧な学歴を持ち大都会で暮らす人は別世界の人間なのだそうだ。その後の大統領選で後継のクリントンが敗れ、トランプが勝利したのはヒルビリーに着目したから。ヒルビリーはアメリカ社会にそれだけ影響力を持つ程の存在になっていたのだ。

でも本当は彼らの生活を向上させるにはトランプに一票を投じるだけでなく、著者のように自ら生活を変えないといけないのだ。経済学ではブルーカラー(肉体労働者)からホワイトカラー(知的労働者)に社会構造が変われば労働者もそれに合わせ変わるもの、と聞いた覚えがあるが、変化は簡単ではないようだ。

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

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辛い世界に優しさが光る話【鑑賞「彼らが本気で編むときは、」】

世界観を重視してきた監督の意欲作。なるほど「第二章」かもしれません。

【作品紹介】
『かもめ食堂』『めがね』などで、日本映画の新しいジャンルを築いてきた荻上直子監督の5年ぶりの最新作『彼らが本気で編むときは、』は、編み物をモチーフに、今日本でも急速に関心が高まりつつあるセクシュアル・マイノリティ(LGBT)の女性リンコを主人公としていち早く物語に取り込んだ。監督自身「この映画は、私の人生においても、映画監督としても、“荻上直子・第二章”の始まりです」と公言する、新しいステージに踏み出した作品である。
【ストーリー】
小学5年生のトモ(柿原りんか)は、荒れ放題の部屋で母ヒロミ(ミムラ)と二人暮らし。ある日、ヒロミが男を追って姿を消す。ひとりきりになったトモは、叔父であるマキオ(桐谷健太)の家に向かう。母の家出は初めてではない。ただ以前と違うのは、マキオはリンコ(生田斗真)という美しい恋人と一緒に暮らしていた。それはトモが初めて出会う、トランスジェンダーの女性だった。キレイに整頓された部屋でトモを優しく迎え入れるリンコ。本当の家族ではないけれど、3人で過ごす特別な日々は、人生のかけがえのないもの、本当の幸せとは何かを教えてくれる至福の時間になっていくが−。

公式サイトより)

作品紹介でも取り上げられた「かもめ食堂」「めがね」は見た。「かもめ食堂」は確かに雰囲気の良い作品で、いい印象が残っている。けれど「めがね」は雰囲気に馴染めず、何を訴えたいのかわからない、雰囲気だけの作品としか思えなかった。

雰囲気重視の作品って、見る側と波長が合えばいいけれど、ズレてしまうとまったくダメになってしまうんですよね。

生田斗真がだんだん女性っぽく見えてきたのがすごかったですね。

そこで今作。正直、監督が同じ人とは知らなかった。冒頭描かれるのは暗い荒れ放題の部屋でトモがコンビニのおにぎりを寂しく食べる場面。「かもめ食堂」っぽい感じが出るのはマキオの部屋が登場してから。やけにこざっぱりしてる団地の部屋で、3人が食べるリンコの手料理のこぎれいさに過去の作品との繋がりを感じさせる。

一方で印象に残ったのは作中何度か用いられる暗転。これまでになかった緊張感を作品に生んでいると感じました。

なにより本作の特徴は強いストーリーがあること。トランスジェンダーという日本ではまだ難しい題材を真っ正直にとりあげているのがとても素晴らしい。自分の特徴に気づき悩むリンコ、それを受け入れる母親。それとは対照的な結果になるトモの同級生カイとその母親の顛末。「トランスジェンダー」を巡って理想だけでなく現実も見据えた作品構成が非常に良かったです。リンコの母親とカイの母親、どちらが「あるべき存在」かは観客には十分伝わるわけで、それでもカイの母親を(作中では)断罪しきらないところに絶妙のバランス感覚を見るのです。

バランス感覚といえば、トモの母親になることを本気で考えるリンコと実母ヒロミの関係もそう。トモが選ぶ道はけっして楽ではないだろうが、エピローグでまた登場する(かつて荒れ放題だった)トモとヒロミの部屋の変化に、二人の関係性の変化も匂わせている。リンコがトモに贈るプレゼントも心憎い。リンコだけにしかあげられないものでしたねー。

もっとも、カイの母親同様、ヒロミも改心した描写はなし。トモ以外、リンコに接した登場人物の中で明確に立場を変えていく人はいないのです。みな既に変えたか変えられない人ばかり。そしてそんな人の間にズレを感じたとき、人は怒りを感じるわけです。

そこで今作で登場するのが編み物。辛い思いを一針一針に込めて一人解消していたリンコの振る舞いがトモ、マキオにも広がる。3人で編み物をする様子は微笑ましい一方で世間の理不尽にじっと耐えている姿でもあったのだ。

編み物や食べ物(コンビニおにぎりとキャラ弁)など、一見するとふわっと優しげな印象を残すツールに、今作は明確なメッセージを込めたのが荻上監督の「第二章」たるところでしょうか。世界は優しくないけれど、生きるに値するものもあるのです。

大人は意識低くて上等な話【書評「芸人式新聞の読み方」】

新聞のゆるい読み方を紹介しながらムムッと思えるメディア論としても読めました。

【内容紹介】
芸人ほど、深く、おもしろく新聞を読み込む者はいない! これで「読んだつもり」からもう卒業!!
なぜか新聞がどんどん好きになる! 人気時事芸人による痛快&ディープな読み方、味わい方をお届けする本書。たとえば、こんな読み方を紹介しています。
・朝刊紙社説は、「大御所の師匠」からの言葉として読む。
・スポーツ紙と芸能事務所の深い関係から見える「SMAP解散の真実」。
・森喜朗氏の記事を読むことは日本の政治家を考えることだ。
・「日刊ゲンダイ」の終わらない学生運動魂。
・「東京スポーツ」から「週刊文春」へ。最強のスクープバケツリレー。
結局、新聞にこそ、世の中の仕組みが詰まっているのです!
【著者について】
1970年長野県生まれ。スポーツからカルチャー、政治まで幅広いジャンルをウォッチする「時事芸人」として、ラジオ、雑誌等で活躍。著書に『教養としてのプロレス』、『東京ポッド許可局』(共著)がある。オフィス北野所属。

(アマゾンの著書紹介ページより)

ヤフーなどを通じてネット上で記事は(無料で)読まれているけれど、媒体としては読まれなくなってきた新聞。著者は芸人としての視点から「おじさんが書いておじさんが受信する『オヤジジャーナル』」である新聞の伝統の作法を紹介している。

「おもしろまじめ」ってのが大事なのかなー。

芸人視点なので主要全国紙、スポーツ紙を擬人化するという下りもあるけれど、同じニュースを素材に全国紙の報道姿勢(紙面展開や見出しのつけかたなど)の違いをきっちり比較している様子はまさに一人編集会議。新聞って各家庭で1紙しか取らないのが普通だから比較って難しいんですよね。全国紙の一部では事後的に各紙の姿勢を検証するコーナーを設けているところもあるけれど、だいたい結論は自社をよく印象付けるだけなので…。ホントですよみなさん、読み比べてわかることもあるんですよ新聞は。

でも最終章「ネットの『正論』と『美談』から新聞を守れ」では擬人化という形で著者が面白がっていた各紙の論調や報道姿勢(著者言うところの「芸風」)がネットでは通用しないと痛感している。また各紙が自身の「芸風」に引きずられることへの警告も発している。

そんな(新聞側も読者側も含めた)社会への著者の助言は簡単だ。「意識の低い大人になれ」である。この本を通じて著者の姿勢の根幹にあるのは「半信半疑」。ワクワクしながら疑う余裕である。著者は「はじめに」で「自分は『川口浩探検隊』とプロレスでリテラシー(読解力)を学んだ」と書いていたのだ。

私は野次馬だし下世話だし、陰謀論も大好きな人間だ。でも、そこには「半信半疑」を楽しむ余裕がなければならないと思っている。自分の思想や主張を通すために必死になってしまったら、その瞬間、あらゆる言説はイデオロギーのためのストーリー、運動のための方便に硬直化してしまう。
受け手である我々の側に、「大いなるムダ」を楽しめる土壌がなければ、新聞は楽しめない。

米大統領にトランプ氏のような暴論を連発する人物が就任してしまうのも、誰もがフラットに発信できるインターネットの普及ゆえに、必要以上に遠慮した社会を生んでいるからではないか、と著者は指摘する。

でもここまで読み進めて、個人的には読者に「意識の低い大人」を求めるのはまだしも、伝える新聞側が「意識の低い大人」になるのは難しそうだなーと思ってしまう。先ほど引用した「自分の思想や主張を通すために必死」な姿勢が今の新聞には強い気がするのだ。特に「リベラル」とされる側に。そして「反リベラル」な側もそれにつられている。お互い余裕をなくしている。

うがった見方をすれば衆院選が小選挙区制になったことが大きいのかな、とも思う。政権交代が起こりやすいシステムになり「白か黒か」がはっきり出やすい。与党の議席を中途半端に減らす「お灸をすえる」ってことができにくい。まぁ権力が官邸に集中している今の方がわかりやすい利点はある。首相より与党の幹事長の方が偉いなんていうおかしな時代には戻りたくないもの。

閑話休題。そんな時代の変化に新聞は対応できているか。ヒントは著者の新聞に対するスタンスにある気がする。「新聞は日用品ではなくすでに嗜好品だと思っている。コーヒーやタバコと同じ。趣味のカテゴリーだと」。社会の木鐸と気構えることから卒業してもいいのかもしれない。

芸人式新聞の読み方

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