男の生き様は切ない話【鑑賞「ブレードランナー2049」】

あの伝説的映画のまさかの続編はいきなり完全版を見せられたような長尺作品でしたが、思いの外楽しめました。

【作品紹介】
2049年、貧困と病気が蔓延するカリフォルニア。人間と見分けのつかない《レプリカント》が労働力として製造され、人間社会と危うい共存関係を保っていた。危険な《レプリカント》を取り締まる捜査官は《ブレードランナー》と呼ばれ、2つの社会の均衡と秩序を保っていた。LA市警のブレードランナー“K”は、ある事件の捜査中にレプリカント開発に力を注ぐウォレス社の巨大な陰謀を知ると共に、鍵となる男にたどり着く。彼はかつて優秀なブレードランナーとして活躍していたがある女性レプリカントと姿を消し30年間行方不明になっていたデッカードだった。デッカードは何を知ってしまったのか。デッカードが命をかけて守り続けてきた秘密-人類存亡に関わる真実が今、明かされようとしている。

公式ホームページより)

前作「ブレードランナー」にハマった人はもう何度も見ているわけで、なおかつ「ブレードランナー」で示された『現在と地続きの退廃した未来社会』という世界観は当時から新鮮で、今ではある種のパターン、お約束とまで化している。それくらい強烈なビジュアルでした。デッカードと女性レプリカント・レイチェルの逃走という結末もその先を知りたいと思わせつつ、1本の映画として形になっていた。

なので、そんな映画の続編なんて、誰が得をするのかというハイリスク企画です。それでも期待できたのは監督が「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーヴだったってことです。クールなSFを見せてくれたし今作の予告編も悪くはなさそうだったし。

で、オープニングショットですよ。目のドアップ。前作と同じ。ロサンゼルスの街並みも前作を踏襲しつつ雨だけでなく雪も降らせたりしてきちんと世界観をバージョンアップさせているのに好印象。今作の主人公・Kの孤独さを雪が表してましたねー。

重苦しい低音が主体のサウンドトラックも印象的でした

難点は上映時間2時間46分という長さでしょうか。振り返ってみると「長い…!」と感じたわけではない。ただ長さの割に話の展開が中盤まで遅かったような印象がある。後半バタバタと話が進んだような。回収されない設定が出てきたのでそう思ったのかも。もっとも、前半は作品世界をじっくり楽しめたので良かったし、回収されない設定も、それは主人公Kのエピソードとは絡まないから、と理解はできているんだけど。

でも結末は語りすぎではなかったか。建物の中の描写は不要ではなかったか。デッカードとウォレスのエピソードもなくて良かった気がする。そんな場面を刈り込めばそれなりの長さに落ち着いた気がするんですけどね。

前作のデッカードがレプリカントより弱いとはいえタフさ、荒さが魅力だったのと比べ、今作のKはレプリカントでありながら繊細さ、もろさが印象に残った。自分が何者であるかへの不安、自分がどれだけ孤独かということに思いすら及ばないようだったKが変わっていく様が悲しく切ない。演じたライアン・ゴスリングが良かったですね。Kを支える立体映像の女性の名が「ジョイ」でKと闘うウォレス社の女性レプリカントの名が「ラヴ」なのも皮肉が効いている。

見よう見ようと思っている間に上映回数が減ったのは上映時間の長さのせいだと思うけど(その割に上映期間は長かった)、前作同様、今作ももう一度見たい、この作品世界に浸りたいと思わせる一本でした。そういう意味では誠実な続編だったと言えますね。回収されなかった設定を基にすればこの先の話も描けるのかもしれない。でもセカイの行く末ではなくあくまで一人の男のドラマを描いたのがこの2作の特徴。悲劇的結末とはいえ、今作もきちんと語りきった一本でした。

走ることは祝宴だった話【感想・青島太平洋マラソン2017】

左膝が痛い。かばって歩くので今じゃ右膝も痛くなってきました。

2017年12月10日、宮崎市であった「第31回青島太平洋マラソン」10キロの部にエントリー、無事完走しました。

中学生の時、市主催の大会に(部活動の一環で)参加したことはあったけど、市民マラソン大会に参加したのは初めて。数日前走った際、左膝を痛めたので当日は大股走りを控え、スピードも超遅め。1キロ経たないうちから膝が疼き始めたのだけど、ごまかしごまかし、途中3ヶ所ある給水所では完全に止まってドリンクをごくごく飲み、日向夏やミカン、バナナをしっかり食べるというタイム無視のランでした。

先頭の人は本当にすごいスピードで走って行ったけど、中には早い段階で歩いている人もいたわけで参加者は様々でしたね。そんな中、最後まで同じペースで走ったのは自分でもよくやったと思います。スピードは早歩き並みだと思うけど。

で、自分のようなスローランナーでも沿道の高校生ボランティアや一般の観客は声援をくれるわけです。

写真を撮る余裕もあったりしてw

そこで気付いたのは「声援」が走る側の気持ちをアゲるってこと。ただ走っているだけなのに自分が何かの主役になったかのような気分になる。非日常のお祭り空間の中にいるような気がしてくるわけです。

「東京マラソン」など市民マラソン大会はあちこちで開かれていて、大勢の人が走っている。また「青島太平洋マラソン」も当初のルートは海沿いのバイパス道を走るものだったのを市街地を走るルートに変えたら参加者が増えたとも聞いた。ただ走るだけでなく、声援を受ける「祝祭空間」も必要なのです。

今回プレイリストを作って音楽を聴きながら走ったのですが、練習時に聞いたときは「テンションが上がりすぎてむしろ邪魔」と思っていたのに本番では超気持ちいい。非日常な空間にぴったりでした。

ゴール後の今は膝が痛むとはいえ、自分の走るペースがちょうどよかったのもあったからか、ゴールに着くときには「あぁもう終わるのか」と残念な気持ちにさえなる始末。この祝祭空間を長く味わうには長く走るしかない。10キロ以上走るしかない。そうなると次は…?いやいやまず膝の痛みを解消しなくてはねー。

異なる層の面白さは両立しづらい話【鑑賞「マイティ・ソー バトルロイヤル」】

シリーズ第3弾、としての面白みはあまりなかったような。

【作品紹介】
誰にも止められない!限界突破のバトル・アクション・エンターテイメント。今、新『アベンジャーズ』へのカウントダウンが始まる!
【ストーリー】
アベンジャーズの一員ソーの前に<死の女神・ヘラ>が現れた。復讐と野望に燃えるヘラは、ソーの故郷へ攻撃をはじめる。故郷を奪われたソーは、この最強の敵を倒すため盟友ハルク、宿敵ロキらと型破りのチーム“リベンジャーズ”を組み極限バトルに挑む。 果たして、ソーたちは史上最強の敵からこの世界を守ることができるのか?死の女神・ヘラの復讐の目的は!?そこには、ソーの運命を変える秘密が隠されていたー。

公式ホームページより)

「原題が(北欧神話の終末の日を意味する)『ラグナロク』なのに『バトルロイヤル』なんていうありきたりな邦題がついちゃった」という評判をネットで見ていたものの、作品を見てみると「バトルロイヤル」という邦題は実はあながち外してない。予告編でもあった通り、ソーとハルクの激突が今作の見せ場なので。むしろ「ラグナロク」の描かれ方ってあっさりしてましたよね。

敵役「ヘラ」が強いのは仕方ないけど中盤に登場する「グランドマスター」も敵役的なので敵が二人別々に登場するのもどうかなーと思ったのでした。

ユーモアがシリーズ前2作より多め、なのはその通り。特にシリーズ前2作と「アベンジャーズ」で悪役だったソーの義弟・ロキがいい味を出していた。世界観を同じくする一連の「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」の中で、善か悪か立場がはっきりせず笑いも取れるキャラクターってロキくらいではないか。

今作はシリーズ第3弾というより作品紹介にある通り「新アベンジャーズへのカウントダウン」という位置付けにあったよう。前2作の設定が今作でほぼなかったことになってしまったので。前2作の主要キャラクターも今作でかなり退場。浅野忠信には見せ場はあったけど。生き残ったキャラクターたちは来年春に前後編の前編が公開される予定の「アベンジャーズ/インフィニティウォー」に登場するらしい。序盤にドクター・ストレンジが登場しておっ!と思ったけど序盤だけだったなぁ…。

何より、ソーたちの暮らす世界「アスガルド」と地球(ミッドガルド)の関係も設定が変わったよね?二つの世界を結ぶ「虹の橋」って「スター・トレック」に登場する転送装置と同じだったんだね?場所を移動するだけ、ってことだったのね?単なる場所でなく「異世界」を結ぶのが虹の橋だと思っていたんだけど。ソーは地球人の理解や常識が及ばない「異世界の人」だから地球人とは違う特殊能力を持っている、と理解していたのに、アスガルドの人々はただの宇宙人になってしまった。個人的にはそこが一番残念なところ。

MCUは「アベンジャーズ/インフィニティウォー」でこれまでのキャストを一区切りするというニュースがネットに流れている。そのために「マイティ・ソー」シリーズもまとめにかかったな、というのが今作の印象です。ただ、「マイティ・ソー」シリーズより大きなMCUという作品世界を一旦区切る方を優先したためか、シリーズ完結編としての面白みは格段に薄かった。

作品単体、前作を踏まえたシリーズ、関連作を含めた世界。三つのレベルでの面白さを同時に維持するのはやはり難しい。「アベンジャーズ/インフィニティウォー」が面白ければ今作の残念さも払拭されるはずだが、さて。

情報への魅力を取り戻す話

2017年12月3日まで鹿児島県湧水町・霧島アートの森で開催中の「ナムジュン・パイク展」を見てきました。

どこか愛らしい「ボイス」

ナムジュン・パイク(1932-2006)は韓国ソウル生まれ。朝鮮戦争勃発後日本に移住し東大文学部を卒業。現代音楽を学ぶためドイツに渡り、1961年に世界初のビデオアートを発表。メディアやテクノロジーに関する先鋭的な作品を発表し続けた人。その活動には日本のアーティストやテクノロジーも関わっているわけです。

ブラウン管モニターを組み合わせて作った巨大な人型立体作品「ボイス」やアップライトピアノにブラウン管モニターを埋め込んだ「世界で最も有名なへぼピアニスト」、木々の間にブラウン管モニターが浮かぶ「ケージの森/森の啓示」などなど、映像という掴めないものを形にしようとした試みが興味深い。発表当時は最先端だったのかもしれないが、今となっては何処かレトロな趣なのも惹かれるところ。

また映像を全世界に同時配信するという当時としては最先端のアイデア「サテライト・アート」の模様もビデオで紹介。最新の技術は世界中の人々をつなげ、全体主義的な社会に別れを告げると訴えた。

映像、転じてメディアといってもいいだろう。ナムジュン・パイクの思想にはメディアへのポジティブな信頼とメディアには「形」が必要という二つの意味があると思ったのです。

今回は6冊購入…

今はブラウン管モニターはなくなった。テレビ画面は薄い液晶になり、人々はテレビ以外にパーソナルコンピュータやスマートフォンなどもっと手軽なサイズのスクリーンを持ち歩く。デジタルなら「いいね!」やシェアという形で内容を共有できる。共有の数がどれほどかもわかる。

でもそこに表示される内容には「モノ」としての魅力がなくなった。いまこそ情報にモノとしての魅力を取り戻すべきなのかもしれない。

佐賀のギャラリーオーナー、北島敬明さんの話が興味深かった

と、そんなことは別のイベントでも感じたのです。宮崎市で2017年11月23日にあった、手作り雑誌の展示販売イベント「Zine It! Vol.8」と書店・書籍・読書に関するイベント「Bookmark Miyazaki」の2つ。作り手の思いを紙に記すことで、手に取れないはずの作り手の思いが形になり、モノとしての魅力が発生することが分かる。

ただ雑誌やアートというフォームと異なり、産業としてのメディアは定期的に発信する必要がある。今日は伝えるべきことが少ないので放送しません、出版しません、発行しませんとはいかない。発信には多くの人が携わるのでスタイルは前例踏襲的になりがち…。

そんな現状を踏まえて、できることから何か手をつけられんか。そんなことを考えたイベント各種でした。

酒場では粋に振舞いたい話【書評「日本の夜の公共圏」】

「サードプレイス」って、日本にはその言葉が入ってくる前からとっくにあったんですね。

【内容紹介】
サントリー文化財団が奇妙な団体に助成金を出したと話題になっている。その名も「スナック研究会」。研究題目は「日本の夜の公共圏――郊外化と人口縮減の中の社交のゆくえ」という。
スナ研のHPによると、「日本に十万軒以上もあると言われる「スナック」について、学術的な研究がまったく存在しないことに憤り」を感じて決起したという。目指す到達点は以下になる。
〈スナックは、全国津々浦々どこにでもあるが、その起源・成り立ちから現状に至るまで、およそ「研究の対象」とされたことは、いまだかつて、ただの一度もない。本研究では、社会的にはおよそ真面目な検討の対象とはされて来なかった、このスナックという「夜の公共圏」・「やわらかい公共圏」に光を当てることで、日本社会の「郊外/共同体」と「社交」のあり方を逆照射することを目指すものである。〉
調べた結果は仰天するものばかり。人工衛星による夜間平均光量データまで駆使して出てきた統計結果にメンバーも困惑するしかない…。

Amazonの著書紹介ページより)

酒は好きだし独身時代は週末いつも歓楽街に繰り出していたものです。とはいえスナックは縁遠い存在。「オジサンの行く店」という印象がある。年齢的にオジサンと化した今では飲みに出る機会も減り、ますますスナックは縁遠い。

また飲みに行きたくなったなぁ。

とはいえこの本で語られる「様々な地位・年齢の人びととの交流によって、『社会人としての嗜み、人間関係のさばき』が身につく」場としてのスナックは、自分が飲みに行く場が持つ機能とほぼ同じ(カラオケはないけれど)。会社や同じ組織のメンバー同士でのアルコールを介したコミュニケーション(飲みニュケーション)とはまた違う個人の楽しみなんですよね。

またスナックが人々が文化・社会的討議をする場だった18世紀イギリスの「コーヒーハウス」とも異なり、人情を理解し「是非を厳しく論ずることなどせず、『なるほど、そういう場面・立場では、そのように思うものだな』と店の会話に加わるのが、スナックの楽しみ方」なのも納得。語るのではなく聞き役に回るのが粋です。

この本では複数の執筆者がスナックについて様々な角度から論じている。法規制だったり文化史だったり刑法犯認知件数との比較だったり。中には読み慣れないカタカナ語を並べた賢しらな論もあるのだけど、座談会もあって軽くも重くもスナックについて語っている。総じて普段語られることの少なかった「スナック」について色々な見識が得られます。女性が酒をサービスするスナックの前身とも言える(明治時代の)カフェーでは女中の人気投票があったりとか(!)。

まぁこの本に書いてあったことをスナックのカウンターで披露しても野暮なだけでしょうけどね。そもそも「今まで会ったかたたちでも、志に燃えてスナックを開店したなんて人は一人もいない」のだし。その場に合わせて酒を楽しめばいいのです。

ただ、人がふらりと飲みに行くのにはその人自身だけでなく、ひろく社会全般にも意味があるというのが分かる、面白い本でした。

日本の夜の公共圏:スナック研究序説
谷口 功一 スナック研究会
白水社
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関係が創造を生み出す話【書評「POWERS OF TWO 二人で一人の天才」】

様々なエピソードを紹介しながら人間関係と創造力についてまとめ上げた本でした。

【内容紹介(「BOOK」データベースより)】
一人では何もできない。二人なら何でもできる。アップルもグーグルもソニーも、なぜ二人で起業?あらゆるイノベーションは、二人組から生まれる?クリエイティブ・ペアに学ぶ、創造性のシンプルな本質。
【著者について】
ジョシュア・ウルフ・シェンク Joshua WolfShenk
キュレーター、エッセイスト、作家。精神衛生、歴史、現代政治・文化、創造性をテーマに講演・執筆。ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーカー、GQなどに寄稿。一般の人々が体験談を語るストーリーテリングのイベント「モス」に立ち上げから関わる。また、心理学から創造性を研究する「アーツ・イン・マインド」を主宰。著書『リンカーン』(明石書店)は、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストの年間ベストブックにノミネートされた。ロサンゼルス在住。

Amazonの著書紹介ページより)

紹介されるペアはポール・マッカートニーとジョン・レノン、投資持ち株会社を経営する著名投資家ウォーレン・バフェットと副会長のチャーリー・マンガー、バスケットボール選手のマジック・ジョンソンとラリー・バード…などなど。振り付け師とダンサーのような役割分担が明確なペアもあれば、一方が影のように公の場では目立たないペア、あるいはライバル関係もペアとして紹介される。

交わると予想以上の変化が起きる、のでしょう。

創造は一人でするもの、という定説に著者は別の見方を示す。「英雄個人ではなく、英雄を生む文化──16世紀のフィレンツェの宮廷、啓蒙時代のロンドンのコーヒーハウス、ピクサーのスタジオ──が主役なのだ」。ペアの誕生(出会い)から互いを理解し、距離を深め、自然と役割分担をするようになる。高め合う関係が最高のパフォーマンスを生む。そのパフォーマンスが生む影響力はペアにも及び、ペアのバランスが崩れることもある。仲違いし、分裂する。しかしペアは壊れても、ペアだった相手のことは心の中で生き続け、影響力を与え続ける。ペアが生む全てがこの本には描かれている。

一方で読み進めるうちに、自分とは縁遠い世界のようにも思えてくる。創造性を発揮してる!って自覚がないのはまだしも「この人と自分はペアだ」と思える人がいないんだなぁ。

でも最後、著者が自身に引き寄せて書いたあとがきがその答えになった。

挑戦するためには、助けを求めよう。
自分より大きな何かに身を委ね、自分より大きな何かに導こうとする内なる流れに身を委ねる。そのような出会いを受け入れよう。
受け入れたら、次は自分の役割を演じる。

自分の創造力を広げる機会は、あなたが持っているのかもしれません。

POWERS OF TWO 二人で一人の天才
ジョシュア・ウルフ・シェンク Joshua Wolf Shenk
英治出版 (2017-04-15)
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好奇心が組織をちょこっと変える話【書評「ある日うっかりPTA」】

軽く読ませながらも、社会活動への関わり方を考えさせられた本でした。

【内容紹介】
金髪、ヒゲ、サングラスのフリーライターがひょんなことから、息子が通う公立小学校のPTA会長に就任!自分には無関係な存在として大した関わりも持ってこなかったPTA。三年の任期を経て今、感じることとは―。PTA会長になるのは簡単だ。(中略)なぜならば公立小学校の場合、自分からPTA会長をやりますなんて言い出す人間はほぼ皆無だからである。PTA会長に大事な資質。それは、おっちょこちょいであることだ。はい、おっちょこちょいです。私、自分でもおっちょこちょいだと思います。そうじゃなかったら、PTA会長になんてなるわけがないじゃないですか――。(本文より)

Amazonの著書紹介ページより)

著者は自分を「おっちょこちょい」と評しているが、実際に動かしてきたのは好奇心だと思う。

断らなければその先がある。自分の知らなかったことをいろいろ教えてもらえる。思ってもみなかった世界が、すぐ前に開けているのかもしれない。それを知らずに済ませるのは、もったいなさすぎるんじゃないか。

というのがとても腑に落ちる。個人的にも様々な役職を引き受ける際に、似たようなことを思ったのだ。この本はPTAについて書かれているが、個人と組織の関わり方ってPTAに限らず自治会や労働組合など、どこも似たり寄ったりな気がする。

この風貌で会長を務めたのもスゴイ(笑)

「がんばらない、をがんばろう」を合言葉に旧態依然に見える業務は改善する。当初は存在意義がわからなかった上部団体については「よそのPTAはどうしてるんだ?」という情報交換の場と解釈し、仲間もできる。でも人間関係がこじれてしまうこともある。そして雰囲気になじめないなら距離を置く。団体行動が苦手というフリーライターの著者と、前例だらけのガチガチ組織の関わり方は意外に自然だった。パートナーである校長先生との関係が良かったのもあるかもしれないが、先述した著者の「好奇心」も良かったとのだと思う。

対象に好奇心を発揮する時って、まずは対象の有り様をきちんと知ることから始まるわけで謙虚な姿勢から始まらざるを得ない。自身の勝手な思い込みだけで対象をいじることはない。まず知った上で、問題があれば自分一人ではなく仲間とともに変える(ココ大事)。なんだったら組織外の人も巻き込む。この本の中でもそんな例が出てきた。「PTAはここがヘン!」と言い立てて終わるだけでなく、きちんと関わって結果も出した著者はオトナなのである。

そのときそのときを一所懸命にやって、時期が来たら後の人に譲って去る。(中略)関わる人それぞれがが限られた時間の中で最善を尽くせばいい。

著者が3年間の小学校PTA会長活動で得たのはたまに飲みに行ける地元の友達がけっこうできただけ、と謙遜するが、地元に仲間をつくれるって実際はとても有意義なのではないか、とも思う。温泉旅行、楽しそうだもの。

ある日うっかりPTA

ある日うっかりPTA

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杉江 松恋
KADOKAWA (2017-04-28)
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猿の生き様を見届けた話【観賞「猿の惑星 聖戦記」】

男一匹、よくぞ生き切った。一個のキャラクターに焦点をしぼりつつ、知性の意味についても考えさせられた話でした。

【作品紹介】
ウイルスによる突然変異によって高度な知能を得た猿達の反乱、人類が築き上げた文明社会の崩壊、猿と人類の戦争の勃発という衝撃的なストーリーを描き、全世界を震撼させた『猿の惑星』シリーズ。2011年の「創世記(ジェネシス)」2014年の「新世紀(ライジング)」に続き、「聖戦記(グレート・ウォー)」と題された最新作では、ついに地球の歴史が塗りかえられ、新たな支配者が決する激動のドラマと圧倒的なスケール感みなぎる壮絶なアクション・バトルが繰り広げられていく。
【ストーリー】
猿と人類の全面戦争が勃発してから2年後。シーザー率いる猿の群れは森の奥深くに秘密の砦を築き、身を潜めていた。そんなある夜、奇襲を受けたシーザーは妻と年長の息子の命を奪われ、悲しみのどん底に突き落とされる。軍隊を統率する敵のリーダー、大佐への憎悪にかられたシーザーは大勢の仲間を新たな隠れ場所へと向かわせ、自らは復讐の旅に出る。シーザーは大佐のアジトである巨大な要塞にたどり着くが、復讐心に支配され冷静な判断力を失ったシーザーは大佐に捕獲されてしまう。しかも新天地に向かったはずの仲間の猿たちも皆、この施設に監禁され重労働を強いられていた。リーダーとしての重大な責任を痛感したシーザーは仲間たちを“希望の地”へ導くため命がけの行動に打って出る…。

公式サイトより)

今作を劇場で見るために未見だった旧シリーズ5本、前々作「創世記」と前作「新世紀」も追いかけましたよ。わずかな仕草と服から出ている部分だけが猿っぽかった旧シリーズと比べ、この3部作は(旧シリーズと同じように)猿を人が演じているにも関わらず立ち居振る舞いが圧倒的にリアル猿。なおかつシーザーの表情などは本物のチンパンジーのそれではなく明らかに表情が読み取れる意匠が施されている。深く感情移入ができるんです。リアルとフィクションの絶妙な配合。CGの進化は素晴らしいなぁ。

旧シリーズで描かれた「猿の惑星」が誕生する契機となるであろう出来事を、現代を舞台に描いた「創世記」、人類と猿達の抗争勃発を描いた「新世紀」。両作で問いかけたのは「知性とは何か」と理解しました。薬物投与で人間の言葉が理解できるようになった猿、というのはフィクションとしてのきっかけで、真の知性とは他者を受け入れることではないのか、という問いかけが両作ではなされました。猿が知的で人が獣的、という単純な入れ替えではない。猿でも人でも他者を受け入れられない者はいる。それが知性の影の面、ということを特に前作「新世紀」では描いていた。

旧シリーズに心憎い目配せもしたシリーズでした

で、3部作の完結とされる今作「聖戦記」。局地戦とはいえ異種間の闘争勃発を描いた前作からすると話のスケールは小さくなった。妻子を殺されたシーザーの復讐が物語の中心で、シーザー率いる猿達は防衛に徹し人の手の及ばないところへ逃げようとするだけ。異種間闘争の決着は描かれない。まぁこれは、猿と人が直接争わなくてもウイルスで人がどんどん減り異常化もしていくので自然に決着はついてしまうのですよね。

でも過去2作の魅力だった知性への問いかけは今作でも描かれている。今回のテーマはさしずめ「団結と分裂」か。困難な時に知性はどう使われるべきか、が描かれていると思ったのです。異常化していく自身に耐えられず殺しあったり自ら命も絶ったりと知性の無駄遣いをする愚かな人間どもに対し、我らが猿達はこう誓うんですよ。「Apes Together Strong」と。Together Strong!Together Strong!(劇中のポーズ参照)

この3部作で観客が人間側でなく猿側、とくに猿のリーダー・シーザーに惹かれてしまうのはシーザーが最後まで知性を正しく使おうとしつづけたからでした。あるべき姿を貫き通した一匹の猿の生き様は最後まで眩しかったぜ…!

御大の言葉をかみしめた話【書評「富野に訊け!!」】

アマゾンの電子書籍「KINDLE」5周年セールで買った1冊。思いの外、読み応えがありました。

【内容紹介】
『機動戦士ガンダム』監督による破格の人生相談がついに電子書籍になりました! 対人関係から勉強、仕事、恋愛、生と死の深淵まで、富野監督が人生の大疑問に全力で答えます。「どうすれば、他人に優しくなれるのか?」「異性と普通に話ができるようになりたい」「仕事にやりがいが見いだせない……」。多くの人が抱える悩みに対して、時に厳しく、時に優しく語られる言葉の数々は、人生に惑うあなたにきっと一条の光を与えてくれるはず。今日厳しく感じられる言葉も、十年後には正しいアドバイスだったと実感します。人生に迷ったときは、富野に訊け!! (月刊「アニメージュ」連載・アニメージュ文庫『富野に訊け!!』を電子書籍化)。
【著者略歴】
富野由悠季
1941年神奈川県生まれ。アニメーション監督、小説家。64年に日本大学芸術学部映画学科卒、虫プロダクションに入社しテレビアニメ『鉄腕アトム』のスタッフとなる。67年に退社後、CMディレクターを経てフリーの演出家に。72年に『海のトリトン』で実質的に初のチーフディレクターを務め、79年に『機動戦士ガンダム』の原作・総監督となり、のちに世の中にガンダム・ブームを呼び起こす。以後、現在まで多数のオリジナルテレビアニメの原作・監督を務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

(Amazonの書籍紹介ページより)

作品自体は見たことがなくても「ガンダム」というアニメ作品の存在は広く知られているはず。「ガンダム」のほかにも著者はテレビ向けに数々のロボットアニメを制作してきました。作品に出てくる登場人物に共通の芝居掛かった独特の台詞回しや、あまりに個性的な著者自身の存在も話題なのです。

骨太オヤジっていつの時代にも求められるのです。

同じアニメ監督としてテレビに登場する人では、宮崎駿もなかなか口の悪いヒトでしたが、この著者は宮崎駿以上の毒を吐く。しかも表現がややこしいw。なおかつ自分のコンプレックス、妬みを臆面もなく晒す。下で働くのはまず間違いなく大変な人です。

しかしこの人には目を離せない魅力がある。先述した自分のダメなところも晒しながら周囲を批評しまくるので、強い部分と弱い部分がないまぜになる姿が正直でもあるし、主張に説得力を持たせているのです。

この本はアニメ雑誌「アニメージュ」に2002年から2009年にかけて連載された、読者からの人生相談。一番痛烈なのは「仕事にやりがいを見出せない」という質問への回答か。著者はこの質問者の手紙が読ませ方、見せ方についてまるで考えていない、質問者は社会人としての立ち居振る舞いが身についていないと批判した上で「治療法はない」「アニメ雑誌なんかにこういう質問を持ってくるのは甘え。もっと上等な雑誌に持っていくはず」と、けんもほろろ。掲載誌までとばっちりを食う始末。

でも質問者本人にとっては気の毒だけど回答の最後「ちょっとした文章だけでも人の品位や性格は伝わってしまう」という著者の言葉にはハッとさせられる。まずそういうところから鍛え直せ、ってことだろう。文面に書かれている以上のものを読み取ろうとするのが興味深い。

「アニメ監督になるには?」という高校生の質問への回答は内容が面白いように二転三転。「(著者自身が)高校生の時は絵や小説をどんどん書いていた。何もしてないなら君は普通の人。以上です。」とあっさり結論を下した上で「貴方がなぜアニメに簡単に興味を持ったか」に問いを変え、答えもくれる。それはアニメ雑誌を迂闊に読んだから。つまり…

あなたが世間に溢れかえった情報をそのまま受け止めてその情報を「良い」と判断してしまうのは、あくまであなたが受け止めているその情報の「量」が多いだけの話なのです。

この後の著者の真の結論は、だから若いあなたは色々な体験をして自分のやりたいことを探してください…となるのだけど、抜き出したこの部分、タコツボ化した今のネット社会への警告にもなっていないか。いろいろに読み取れる楽しさがあちこちにあるのです。

創作の世界に憧れた若者が就職難の中、当時は社会的に目立たない産業だったテレビアニメ制作プロダクションに入社し、いつか実写映画を撮る日の為にとアニメ監督の仕事を続け、実写の仕事はこないけれどアニメ監督として名をあげた。そんな自分に忸怩たる面もあるが悪くないとも思っている−。欲望と諦観を重ね持つ先達の姿はハードボイルド。人生の全てを体現しているような著者は、ファンが呼ぶ通り、まさしく「御大」なのです。

富野に訊け!! (アニメージュ文庫)
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ちなみにテレビアニメ「機動戦士ガンダム」の制作から打ち切り、その後の再評価の顛末はこのマンガで描かれています(キャラクター描写は誇張されてるけど)。

「ガンダム」を創った男たち。上巻 (角川コミックス・エース)
KADOKAWA / 角川書店 (2014-08-11)
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「ガンダム」を創った男たち。下巻 (角川コミックス・エース)
KADOKAWA / 角川書店 (2014-08-11)
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奪い奪われ与える話【観賞「散歩する侵略者」】

日常が静かに終わる異常な感じを堪能しました。

【イントロダクション】
国内外で常に注目を集める黒沢清監督が劇作家・前川知大氏率いる劇団「イキウメ」の人気舞台「散歩する侵略者」を映画化。数日間の行方不明の後、夫が「侵略者」に乗っ取られて帰ってくる、という大胆なアイディアをもとに、誰も見たことがない、新たなエンターテインメントが誕生しました。侵略者たちは会話をした相手から、その人が大切にしている《概念》を奪っていく。そして奪われた人からは、その《概念》が永遠に失われてしまう。「家族」「仕事」「所有」「自分」…次々と「失われる」ことで世界は静かに終わりに向かいます。もし愛する人が侵略者に乗っ取られてしまったら。もし《概念》が奪われてしまったら。あなたにとって一番大切なものは何ですか?
【ストーリー】
数日間の行方不明の後、不仲だった夫がまるで別人のようになって帰ってきた。急に穏やかで優しくなった夫に戸惑う加瀬鳴海。夫・真治は会社を辞め、毎日散歩に出かけていく。一体何をしているのか…?
その頃、町では一家惨殺事件が発生し、奇妙な現象が頻発する。ジャーナリストの桜井は取材中、天野という謎の若者に出会い、二人は事件の鍵を握る女子高校生・立花あきらの行方を探し始める。
やがて町は静かに不穏な世界へと姿を変え、事態は思わぬ方向へと動く。「地球を侵略しに来た」真治から衝撃の告白を受ける鳴海。当たり前の日常は、ある日突然終わりを告げる。

公式サイトより)

黒沢清の作品は最近見てなかった。「CURE」や、特に「回路」がこんな雰囲気の話だったかなー、と記憶しています。

宇宙人が(宇宙人として)登場しないSF映画ですね。静かに侵略を始める宇宙人たち、それを察知し対抗を始める人類(のリーダーたち)。一般人類は何も知らない。全体がおぼろげながらも見えているのは鳴海や桜井(と観客)くらい。

長澤まさみがよかったですねー。

この「全体がおぼろげに見える」感じが絶妙にコワイ。鳴海や桜井の後ろを普通に歩いている一般人たちが宇宙人に見えてくる。この作品、登場人物が街を歩く場面が何度かあるのだけど、後ろに写っている人たちが普通の映画より明らかに多い。意図的に人が配置されている感じもして、気味の悪さを増幅させている。

「概念を奪う」という宇宙人の特殊能力が発揮される場面もヒヤリとする。奪われた人間がへたり込むあの瞬間。薄気味悪かったですねー。

いっぽうで鳴海のエピソードと桜井のエピソードが分離しすぎてたかな、という気はします。桜井側の宇宙人2人がもっと鳴海側に執着するのかと思ったらそうでもなかった。両者が出会ってもさして何も起こらなかったのが残念なところ。

エピローグでの鳴海も、その直前までの描写と違いすぎてた気が。へたり込むことなく「何も変わらないけど?」と言ってたのになんでああなったのかな。中盤で神父が愛の定義を語る場面があるのだけど、今作での「愛」という概念が、そこで神父が語る愛と同じものであるなら、ああいう結末にはならないのではないかな。やはり愛も概念の一つであるならば、奪われたら尽きてしまうってことではあるんだろうけど。

ともあれ、「愛」の概念がカギだというのはメロドラマ的要素を強めてて、話を盛り上げたのは間違いない。そう考えるとひたすら暴力描写でひっぱっていた桜井側のエピソードも最後には愛があったと解釈できる気がしてきた。桜井も鳴海も最後は自分を捨てたのだから。

奪う者と奪われる者のドラマで最後に姿を見せる「与える者」。彼らこそ最も不可解で、それゆえに魅力的な存在でした。もらった側が「なるほど」で済ませず、ずっと影響を与え続けるのが愛、と言えるでしょうか。