世界の分岐点は今だった話【書評「イスラーム国の衝撃」】

イスラム世界について理解を深められた本でした
イスラム世界について理解を深められた本でした

日本人2人殺害などで急速に国内でも関心が高まっているISIL(イスラム国)について分かりやすくコンパクトにまとまった本。これぞ新書!(Kindleで読んだけど)。おすすめです。

…で終わってはアレなので、印象に残った箇所を取り上げますと、ISILの主張はイスラム教の正当な大義や理念にある程度合致しており、現状、イスラム世界の中で適切に論破できないのだそうだ。宗教規範の人間主義的な立場からの批判的検討…すなわち宗教改革…が求められる、という著者の主張が重い。

宗教改革って他の主要宗教では行われてきた過程で、少なくとも現代では歴史上の出来事になっている。だからこそ主要宗教では規範を基にした過激派が仮に現れてもそれが広く支持されることはないのだ。しかしアラブを中心としたイスラム世界では過激思考を一定程度受け入れる思想がまだ残っており、これからそれを排除する試みが起こってもらう必要があるのだ。もちろんこれは内部から自発的に発生しないといけないわけで、そもそもそんな自己改革が起こるかどうかもわからん…。

これまでISILのような過激派を抑えてきたのは各国の独裁政権だった。しかしその統治の不正義が過激派を生む土壌にもなってきた。このジレンマにアラブ世界は疲れている。さらに民主化運動「アラブの春」によって独裁政権の足場が弱まり、過激派の抑制も困難になってきている。米国の覇権も希薄化し、新たな秩序を描く主体も国際的にも存在しないのが現状なのだとか…厳しいなぁ。

今は国際社会の分岐点に差し掛かっていると改めてわかった本でした。繰り返し読むことになりそう。

最初の一歩は結局自分で踏み出す話【書評・自分でつくるセーフティネット】

表紙は紙版のほうがよかったなぁ
表紙は紙版のほうがよかったなぁ

ネットの力を肯定的に論じた「レイヤー化する社会」をふまえての本、といえるだろうか。社会がグローバル化しブログやSNSが広まる現代をどう生きるかを考察した内容になっている。

平たく言うと、農村や会社といった強いきずなでつながった社会がすべてだったこれまでの生き方はもうできない。これからはプライバシーなどあまり気にせずネットで自分を発信して見知らぬ他人とつながっていけば、我々は新しいつながりを手に入れられる-というところだろうか。

ネットで見知らぬ他人とつながれば、新しい情報が手に入りやすいという「ウィークタイズ(弱いつながり)理論」を鍵に、他人とつながるにはオープンに構えて他人を信用する善人であれ、ネットでは善人でないと他人の信頼は得られない、と説く。

今の自分からすると「当たり前のことしか書いてない」…という感じなのだが、むしろこの本はネットとの向き合い方がわからない、ネットに自分をさらすのが(何となく)怖い、という人向けの本だったのかも、と思い直した。何しろ副題が「生存戦略としてのIT入門」なので。

そう、ネットは別に怖くない<場>なんですよね。あなたが善人であるなら。善人として振る舞えば自然にいい反応が返ってくるようになる、はず。

ただ「そうは言っても…」とたじろぐ人をさらに一押しするような論はない。たとえばプライバシーについて古代ローマや中世ヨーロッパ、江戸時代の暮らしを紹介した上で「そんなのこの半世紀ぐらいのあいだにようやく認知されただけの権利じゃん、とわたしは思う」で済ませている。国家による監視についても「アメリカのNSAが日本に住んでるわたしのメールを傍受したからといって、だからどうした? という感じ」。ネット社会の良い点だけ紹介して、懸念される点はあからさまに避けている感じがして若干粗雑と言わざるを得ない。

それ以外にも時代を表現するのに映画のストーリーや一般的なサラリーマンの「イメージ」を用い、何らかのデータや詳細な史実を紹介するわけではない。読み直すと著者の言う話の前提は、日本人読者にはぼんやりと共有できるものでしかない。変に砕けた言葉は使わず、理論のバックグラウンドをきちんと説明すれば説得力がさらに増したのではないかと思うと残念ではある。

ネット社会に至る時代の変化について詳しく知り考察を深めるには前回紹介した「パブリック」のほうがいいかな。

足りない部分はあるけれど間違ったことを書いているのではもちろんないので、ネットに少しでも良い印象を持っているけどSNSとかあまりやってないんだよねどうしようかな…って人には向いている本ではないかと思う。

一点だけ、企業と個人情報(ビッグデータ)の関係について「個人情報がたくさん集められると監視社会ではなく、企業から無視され、黙殺される社会になる」という著者の指摘は留意しておきたい。

「オープン」を再定義する話(書評「パブリック」)

読ませる本でしたよ!
読ませる本でしたよ!

ネットがもつ情報を公にしうる力を「パブリック(公共性)」をつくる力と捉え、プライバシーをなるべく排除し情報が広まる社会を極めてポジティブに捉えた本。パブリックとプライベートの線引きが国や文化によって異なることを紹介し、メディアは、個人は、政府はどうあるべきかまで幅広く洞察した内容だった。

しかし決して無制限なネット翼賛でもなく、著者が考える原則を提示し、より良い社会を築くためには一人ひとりの努力が必要とも説く。

本文最後に提示される<パブリックの原則>は以下のものだ。この原則を守るため我々は行動すべきだと著者は言う。

1 僕らには接続する権利がある
2 僕らには言論の自由がある
3 僕らには集会と行動の自由がある
4 プライバシーとは「知る」倫理だ
5 パブリックとは「シェアする」倫理だ
6 僕らの組織の情報は「原則公開」、「必要に応じて非公開」だ。
7 パブリックなものとはみんなにとっていいことだ
8 すべての情報は平等だ
9 インターネットは開かれ、広く行き渡り続けるべきだ

仕事柄、とくに著者の「パブリック」とジャーナリズムについての下記のような考察は耳が痛いものだった。

一九世紀の初頭、新聞は政党とその利益のための機関紙だったが、その後広告の援助によって政党の所有から経済的に独立することができた。するとジャーナリストは自分たちをパブリックの代表、市民と国家の間の架け橋だと勝手に思い込むようになった。ハーバーマスの公共圏の理想がシューっと音を立ててしぼんだのはその時だった。人々は自分たちの声をなくした。語りかけられるだけの存在になったのだ。

僕自身、ジャーナリストの仕事が市民の会話を育て、集め、広めることだとは教わらなかった。ジャーナリストの役目は市民に情報を与えることだと教わった。それは、市民は無知だと暗に意味していた。ジャーナリストは、自分たちをパブリックの上位におき、パブリックから離れることで、報道の対象である政治家や奉仕の対象である市民よりも、自分たちが客観的で、中立的で純粋だと思い込むようになった。

EUを中心に最近提唱されている「忘れられる権利」にも著者は否定的だ。言論の自由と衝突しかねないという。著者の考える「パブリック」は場であり、個人一人ひとりに権力を抑制する力を与えるツールでもあるのだ。一方で「パブリック」の概念はテクノロジーの進化を受けて常に変わっていく。「プライバシー」という権利が提唱されたのも著者によると、写真技術の進歩によるものだった。

思うに、ひと昔前の世代は、テレビや電話、映画、ラジオ、自動車、自転車、印刷、車輪の発明という激動のなかで生きなければならなかった。だが、私たちはその経験から学べるかもしれない。つまり、
1 生まれた時すでにこの世に存在したものはすべて、当たり前である。
2 三〇歳までに発明されたものはすべて、ありえないほどエキサイティングでクリエイティブであり、運が良ければそれを仕事にできる。
3 三〇歳以降に発明されたものはすべて、自然の摂理に反する、文明の終わりの始まりである。本当に問題ないことが次第にわかってくるまでに、だいたい一〇年くらいかかるからだ。

…なんていうテクノロジーと人間の理解に関する考察も的を得ていると思う。

人間には公と私を併せ持つ存在。「パブリック」の意味を今こそ問い直し、最適なバランスを様々な階層で問い直す時期に来ている。著者が引用した「ルネッサンスはめったにあることではないのだから、その過程を楽しむべきです」という前向きさが世界を変えていくのかもしれない。

パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ
ジェフ・ジャービス
NHK出版
売り上げランキング: 57,894

選んだ言葉から自分が見える話【書評「ぼくの好きなコロッケ。」】

表紙の紙やページの角落としなどにこだわるのが電子版では出来ない技ですね
表紙の紙やページの角落としなどにこだわるのが電子版では出来ない技ですね

あけましておめでとうございます。

2014年、最後に読んだのは糸井重里の「僕の好きなコロッケ」でした。2013年に糸井重里が書いた原稿やツイートからの抜粋本の最新版。2007年から続いているそうですね。知らなんだ。最新2巻を買おうと思って、この本ともう一冊「小さい言葉を歌う場所」を選んだのですが、「小さい言葉を歌う場所」は一番古いもの(2007年)でしたw。

いわば糸井重里の箴言集なわけですが、こんな本の中からどんなコトバを選ぶかで、自分の今の気分が見えてくるのかもしれません。

というわけで、2015年に向けて選び出したのは以下のコトバたち。

「どこにも場所が空いてない」ということは、
いつも、新しい何かの出発であった。(P27)

では、どういう人と「対談」するのがおもしろいのか?「こういうことかな?」と考えついたのは、話していて「じぶんが変わることを怖れてない人」。ことばのキャッチボールをしているうちに、「変わってもいい」と思っている人とだと、話がたのしく転がるんですよね。(P40)

おそらく「集中して死ぬほど考える」ということよりも、
「しっかり感じる。そして毎日休みなく考える」ことのほうが、
難しい問題を解決に近づけてくれる。(P69)

「好きになってもらう方法」について考えはじめたら、
それはもう、えんえん救われない道に迷いこむと思うんだ。(P69)

「だれかの力になりたいと思ったときに、
自分に力がなかったら、とても残念だろう?」
ということは、今でも思う。(P120)

光の側を見ることを、能天気だと思う人もいるでしょう。
影を語るほうが、真剣で深いことに見えたりもします。
でもね、光の側を見ている人、そうそうバカでもないし、
影ばかり語る人、さほど優れているということでもない。(P156)

できることなら、あらゆる人が
「じぶんって変わるものだ」と思っててくれたらなぁ。
「変わる」ことを怖れない人どうしだったら、
人に会うことは、たいていたのしいと思うんです。(P163)

倫理や高潔に期待するものは、たいてい知恵と寛容を忘れている。(P167)

気に病んでいるだけなのは、祈ってるとは言わない。
心配しているだけなのは、考えてるとは言わない。(P168)

「じゃあお前がやってみろ!」とは言わないが、
「じゃあお前は何をやってるんだ?」は言う。(P169)

新聞の一面に出ているようなことについて、
あれこれ語っていると、なんだか
むつかしそうで高級そうなのだけれど、
考えようによっては、誰にでもできる簡単なことだ。
家のことやら、近所の問題があったとき、
しっかりと解決することは、実にたいしたことである。(P170)

ぼくは、自分が参考にする意見としては、
「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。
「より脅かしてないほう」を選びます。
「より正義を語らないほう」を選びます。
「より失礼でないほう」を選びます。
そして、「よりユーモアのあるほう」を選びます。(P172)

じぶんが、上手になること、
じぶんが、もっとできるようになること、
それについての期待や希望がさ、
誰かに期待したり頼んだりすることよりも、
先にあるべきなんだと、ぼくは思っている。(P177)

だいたい「エロチックサスペンス」って、
カツカレーみたいにおトク過ぎるよなぁ。(P200)

とっさの「じぶん」が、じぶんの育てた「じぶん」だよな。(P218)

本気に対して、本気じゃない者は謙虚であれ。(P222)

先に空にするってことが、大事なんだよなぁ。「ふ~~っ」と、息を吐き出すだろ。その吐き終わってできた空間を、新しいなにやらが急いで埋めようとするんだよ、きっと。(P237)

どういうものが理想なのかを誤ったままに、技術やら環境が整って、それが実現したとしても、あんまり意味ないと思うんです。「いままでなかったけれど、こんなのがあったらなぁ」という理想が見えること、それこそが大事なんです。(P238)

力というのは、必ず、とてもおもしろくて危うい。そういう「過剰さ」を感じながら扱わないと、いけないんだよなぁと、思うのであります。(P239)

「薬味は、どれくらい入れたらいいんですか?」などと野暮な質問をぶつけられても、もう大丈夫。「嫌じゃない程度に」と答えればいいのだ。この「薬味理論」は、まだ生まれたばかりだけれど、なんかものすごく応用が利くと思うよー。人生に「薬味みたいなもの」、いっぱいあるもの。(P240)

ばいばい鹿児島。
なんか、傷もなかったのに
癒えてる気がする。(P258)

「絶望は愚者の結論である。」とかいう
「名言」だって知っているけれど、
ぼくらは、いつでも「希望」を手放しやすいものだ。
その「希望」の手を放してしまうことの快感さえも、
僕らは経験してもいる。
「絶望」って、たぶん、一時的な解放感があって、
気持ちがいいように感じられるものなんだよね。(P308)

ああすればいいこうすればいいは言えなくても、
未来から見て「あきらめなかった」人間に、
こころからなりたいと思う。(P308)

終わりとか、別れとかのなかには、
もれなく、ハードボイルドなメッセージが込められているのです。
「さらば…」そして、
「おまえは、これからどうする?」です。(P311)

…やはり今の自分、変身願望wがあるようです。あとニヒリズムは苦手。地に足つけて、バランスよく、2015年も行って見て考えたことを記録していきたいと思うのであります。

知の力で社会は変わる話【書評「天地明察」】

電子版は合本版も出てます
電子版は合本版も出てます

目の付け所がいいよね映画見たいねと思ったまま見逃していた一作。原作を先に読んでしまいました。江戸時代初期、天体の動きと全くあっていなかった中国でつくられた暦「宣明暦」をつくり変える使命を担い、幕府初代天文方(天体研究機関)となった渋川春海(しぶかわ・はるみ)の生涯を描いた時代小説です。

史実に基づいた話とあってチャンバラシーンなどはない。しかしこの作品の舞台は江戸幕府の発足間もなく、武士たちが力ではなく文化を用いて治める、社会の転換期として描かれる。暦の改定も同じ。800年にわたって使われた「伝統」を理の力で葬った出来事として描かれる。

不満な点もないわけではない。エピローグが春海夫婦の往生なのだが、そこまで描く必要があったろうか。改暦を帝が認められるか否か、で始まるプロローグと比べ、ちょっと技がない。印象的な場面で締めくくってくれた方が小説の余韻を感じられた気がする。

また春海の描かれ方も終盤になって急に変わったように感じられた。話のクライマックス近くまで何かと狼狽する若者のように描かれていたのに、終盤で急に、先を見越して有力者への事前の根回しを上手くするなど、一気に大人になってしまった。で、プロローグで一気に老いて往生する…。

春海の周りには算術や天体観測に長けた先達、春海に使命を与える幕府の実力者などがいるのだけど、春海は囲碁の達人でもあったけれど、彼に世間知を示すような立場の人物がいると春海の成長が感じられたのではないか。

とは言うものの、旧態依然とした社会に対峙し、武力ではなく知力で社会を変えるため星々の動きを明らかにするという「天への真剣勝負」に挑み、見事読み切って「天地明察」に至った春海は、まちがいなく時代を超えるヒーローなのだった。

SF小説を書く人の作だけあって、人間ドラマだけでなく、算術(数学)や天体など科学の魅力と、科学を社会に広める意義-暴力ではなく文化の力が天下泰平につながる-も感じさせた一冊でした。

天地明察(特別合本版) (角川文庫)
KADOKAWA / 角川書店 (2014-06-20)
売り上げランキング: 7,832

日本の未来が見えてくる話【書評・なぜローカル経済から日本は甦るのか】

GとLが対立概念でないのがポイントでしょうね。
GとLが対立概念でないのがポイントでしょうね。

こちらの本の方が「里山資本主義」よりは考えさせ、読み応えもあった本でした。

経済を大きく「グローバル経済圏」「ローカル経済圏」の二つに分け、それぞれに応じた生存戦略を考えた本。
「グローバル経済圏」「ローカル経済圏」の関連は薄くなっている一方、日本のGDPの7割を占める「ローカル経済圏」の再生を訴え、特に「ローカル経済圏」では働く人が多くなるサービス産業が多いので労働生産性を上げることが大事と説く。

著者は産業再生機構で地方のバス会社や温泉などローカル企業の再生に取り組んだほか、グローバル企業オムロンの社外取締役なども務めているという。グローバルとローカル、どちらの面にも携わっているわけだ。

グローバル経済圏における望ましい環境というのは、昨今言われているような内容が中心だった。ただ、グローバル経済圏で闘うのが大企業、ローカル経済圏は中小企業、ではないのがポイントか。中小企業でもグローバル経済圏に出ることもあるし、全国に店を持つ巨大サービス企業はローカル経済圏で勝負しているのだ。そしてグローバル経済圏では「分野は小さくても世界一」という企業が望ましいのだとか。

日本再生のポイントは「ローカル経済圏」のあり方。グローバル経済圏の様な規模の拡大が効果的ではなく、「地域における密度の集約」がカギなのだという。「現実のビジネスの世界ではほとんどの産業で密度の経済性が効く」と断言している。

ただし対面で人がサービスを提供する産業が多いので、なんでもできる人が求められる。結果、特殊な技能を持つ人が必要とされないので賃金が上がりにくい。競争も不完全、という問題もある。著者は最低賃金を上げて企業の生産性を上げる、上げられない企業は救済せず、優良企業への労働移動を促進させることを説く。そして優良企業が腐敗しないよう、非営利ホールディングカンパニーによる経営モデルを構想している。また地方社会の集約化ーコンパクトシティも説いている。

「里山資本主義」より後に出た本なので「里山資本主義」にも触れているが、この本ではグローバルか里山かという視点には立っていない。グローバル経済圏で頑張る企業のために国内の競争環境を整える一方、日本は人口減社会なので里山にもマネー資本主義的な生産性の向上も必要だと著者は言う。いっぽうで「里山資本主義」では里山に暮らす人は一人何役もこなす、とさらっと書いているが(「だから経済学者リカードの比較優位論は成り立たない」とまでいうのは妙だけど)、地方に住む人が何でもするようになる理由もこの本ではきちんと裏付けている。

こういうバランス感覚のある主張は実に腑に落ちるなぁ。

経営者の視点で書かれた本なので、読み手側が労働者の立場から視点を変えない限り「自分には無関係の処方箋だ」と思うかもしれないが、あるべき社会を予想してそこで必要とされる人であるにはこんな本を読む必要もあると思うのです。

肩の力は抜いたほうがいい話【書評「里山資本主義」】

「里山資本主義」表紙
「はじめに」からイヤな予感はしたんですがね…

「主義」にしてしまったのが一番の問題だったか。肩肘張りすぎて論調が大きく狂っているのが痛い本だった。

グローバルな経済システムからなるべく独立し、地域社会を中心にした独自の経済圏をつくろうという主張自体、決して古いものではない。そこに「里山」という郷愁を誘うキーワードを振ったのが話題になった理由ではないか。

NHK広島と日本総合研究所主席研究員の藻谷浩介氏の共著という形のこの本、NHK広島のスタッフによるルポと藻谷氏の解説という構成なのだが、読んでいて冷めてしまったのが「驚くなかれ」とか「なんと」などルポ中に頻発する前のめり表現だ。伝えられる地域社会の実態もデータ不足で、雇用がどれくらい増えたかなどのデータはない。

そもそもエネルギーや食料を自給する里山のルポの視点が「日本全体の需要はまかなえないだろうが、今の常識は疑ってみる必要がある」ではダメだよな。「日本全体の需要がまかなえるかも」ってとこまでいかないと、疑う必要がないでしょうに。スマートシティも研究段階なんだし。「里山資本主義はマネー資本主義のいいとこどり、サブシステム」と逃げを打ちつつ「経済100年の常識破り」って自賛してはシラケるだけである。

NHK取材陣はリーマンショックを機に発生した経済危機の実態を取材して「マネー資本主義」なる言葉をつくり今の世界経済を「やくざな経済」「マッチョな経済」と評している。けれど、「マネー資本主義」(正確に言うと株主資本主義だろうけど)は、加熱した面は修正されこそすれ、なくなることはないだろう。それをいくら貶しても意味がない。

著者らが紹介した事例を「主義」にしてしまうからおかしくなったのではないか。都会から地方へのライフスタイルの変化、でいいのだと思う。人との絆を大事にするスタイルは里山に限らず、都会でも広がっている。SNSなど普及したのもそれでしょ。それがあたかも世界を変える「思想」のように評するからおかしくなる。

余談だけど先日、藻谷氏の講演を聞く機会があった。そこでも当然、「里山資本主義」について触れていたのだが、そこでは「外貨を稼ぎつつ、エネルギーや食料などなるべく自給して金を地域で回すシステム」と紹介していた。

しかし…地域内に金を溜め込むような思想って「自分たちだけよければいい」という発想であって、現実的とは思えませんでしたね。ちょっと驚くくらいぞんざいな物の言い方に面食らったこともあり、この「主義」にはあまり良い印象を持てませんでした。

ただ「里山資本主義は一人でなんでもやる、一人多役の世界」という分析だけは、同じようにグローバル経済と地方のあり方を論じた本と通じる面がありましたので、次はその本の紹介です。

勇気で全てが始まる話【書評・嫌われる勇気】

「嫌われる勇気」表紙
勇気を持つのも簡単ではないんですがね

フロイト、ユングと並ぶ「心理学の三大巨頭」アルフレッド・アドラーの思想を青年と哲人の対話形式でまとめた本。三大巨頭でありながら日本でほとんど知られていないのだけど、この本以降、関連本が目につくようになった気がする。

アドラー心理学では「原因」ではなく「目的」に注目する。過去に原因を求めず、「トラウマ」を否定する。人は過去の原因に突き動かされる存在ではなく、なにかしらの目的を達成するために動いていると定義する。その目的とは「わたしは誰かの役に立てている」と思えること。主観的な感覚でかまわない。なぜなら自分が本当に役に立てているかについて他者がどんな評価を下すかは、他者の課題であって、自分にはどうにもできないのだから。つまり他者に「嫌われる勇気」を持って周りの人に積極的に関わっていこう…要約するとこんな感じでしょうか。

この本の中でも触れているが、スティーブン・コヴィー「七つの習慣」の「第一の習慣:主体性を発揮する」に似た内容でもあり、既視感のある内容ではあった。

アドラー本人の著書や専門家による解説書を読んでいないのだけど、この本で紹介されている限りでは、アドラー心理学は比較的易しいキーワードで説明できる考え方のよう。また、アドラー心理学は「どうするか(How)」に回答するもので、心理「学」全般にある「なぜか(Why)」に力点を置いていない。なので「学」のジャンルを超えて自己啓発に近い内容になっている。

つまりアドラー心理学は、知った後に行動に移さないと意味がない思想なのだ。「勇気」を持って一人一人が行動する思想といえそうだ。

いくつか気になる点もある。この本が哲人と青年の対話形式なのはソクラテス以来の哲学の伝統を踏まえているのだという。ソクラテスと対話をする青年はソクラテスの言葉に最初から納得はせず、徹底的に反駁する。その形式をなぞったのだという。

でも正直、最初は若者の「キャラクター設定」に辟易したのも事実。やけに短気で怒りっぽい。初対面の哲人に失礼じゃね?とか、こんだけ長く話をしてきてまだそんなにカッとなるの?と本筋以外の部分が非常に気になった。読み続けるのに勇気がいりましたよ。読み返すのも意外としんどい。対話形式というスタイル、今なら「マンガ形式」になるんだろうな。

またアドラー心理学は個人に向けた思想なので、この本の中でも少し出てきた「公憤」、社会の矛盾や不正に対する憤りをどう扱うかがよくわからなかった。「公憤と私憤は違う」だけで済ませているのだけどメディアやネットが普及し、様々な社会の話題に個々人が容易に意思表示しやすくなった現代では公憤と私憤が混ざってしまいがちな気もする。まぁこれはアドラーがいた頃とは社会が変わってしまったのだから、アドラー心理学を知った我々が勇気を持って行動して解決するべき課題なのでしょう。

先述の通り読むのはなかなか大変だけど、読み出すと重要なフレーズがそこかしこにあります。平易な言葉で深く考えさせる思想の本でした。

人は走るから人だった話【書評・Born to Run】

あらゆる角度から「走る」ことを伝えた本でした。
あらゆる角度から「走る」ことを伝えた本でした。

最近のジムには「エリプティカル(だ円形)トレーナー」という、足を空中で走るようにだ円状に動かす運動器具がある。ソレで運動しながら読んだのがこの本。ヒトが走る理由を精神、肉体、民族、さらに著者の体験も含め描き切った力作でした。

【紹介】メキシコの山岳地帯に「カバーヨ・ブランコ(白馬)」と呼ばれる謎の米国人がいる。彼は現地にひっそりと暮らす史上最強の長距離ランナー民族「タラウマラ族」と交流を持つ唯一の部外者なのだ。なぜ著者は彼を探したのか。カバーヨの正体、タラウマラ族の実態とは。そして彼らとアメリカ最強のウルトラランナーたちがメキシコの山中で対決するとき、人が長距離を走る肉体的、精神的理由、人の走る能力の極限が現れる…。

海外の著者による本だけあって、話の展開が独特ではある。カバーヨや現在のタラウマラ族の話が続いたと思ったらタラウマラ族の歴史、スポーツ医学の話、アメリカのウルトラレースで活躍するランナーたちの話…。登場人物が多く気がつくと違う話になっていたりして面食らうこともあった。

しかし「走る」行為をありとあらゆる角度から描きつつ、カバーヨが再び企画するタラウマラ族とアメリカ人ウルトラランナーのレースに参加するアメリカ人たちの生き様が実に個性的。社会常識が少々欠けているくせにアレン・ギンズバーグの詩「吠える」を叫びながら走るジェンとビリーの「バカップル」がとくに最高。本の中で何度か描かれるレースも迫力があった。

とまぁ、登場するランナーたちはいろいろな意味で凄い連中なので、長距離を走れるのはそんな選ばれた人間だけと思いたくなる。がしかし、そこでスポーツ医学、生物学的エピソードが意味を持ってくる。この本では「ジョギングで足を痛めるのはなぜか」「高機能ランニングシューズは怪我の予防に役立たないのではないか」「裸足で走れば怪我のリスクが減るのではないか」などの疑問に切り込んでいく。

そして、「人間はなぜ『弱い生き物』に進化したのか。人間の遺伝上の優位性は何か?」という根源的な問いにも到達する。むろん答えは「走る能力」。人間には走る能力—具体的には「遠くまで行く能力」—がある!そしてウルトラランナーたちの見ている世界を追体験すれば、走る喜びも理解できるはず。

この章のあと、タラウラマ族とアメリカ人ウルトラランナーたちのレースがクライマックスになるのだけど、ここまで読むと体を動かさずにはいられなくなる。ウルトラランナーにはなれなくても、走る力、走る喜びは誰にでもあるのだから。

個人的にはあとは体を直すだけかな。実は今、朝起きたら足の裏が痛む「足底筋膜炎」に軽く悩んでおります(苦笑)。「エリプティカルトレーナー」は足底に負担かかからないからいいんだよねぇ(駄目過ぎ)。

人を殺し、生かす話【感想・かもめのジョナサン完全版】

Kindle版の表紙は味気ないなぁ
Kindle版の表紙は味気ないなぁ

軽い気持ちで読み始めたら、前回同様、あっという間に読了した。

まぁ…完全版になっても短いですからねw。

従来版の感想は五木寛之の1974年版あとがきに酷似している。五木寛之と同じく、ジョナサンの生活感の無さに違和感を覚えた。

【あらすじ】ただ飛ぶだけでなく、「早く」飛ぶことに夢中になるカモメのジョナサン。飛ぶことは生活の一手段でしかない群れの中で彼は孤立し、追い出される。そこで自分と同じように飛ぶことにこだわって生きているカモメたちと出会い、遂に飛ぶ技とその意味を極める。ジョナサンは自分の技を伝えようと再び群れに戻り、若いカモメに自分の教えを伝え、姿を消すのだが…

完全版で追加されたPart4ではジョナサンが消えた後のカモメたちが描かれる。その姿は自分たちで考え、自由を追求しようとする個人たちの集まりではなく、ジョナサンの存在だけを神秘化し、表面的な答えが与えられた世界に安住する怠惰な者たちの群れだった。

逝きし世の面影」でも書いたが、近代は個が尊重された時代だった。個人の生き方を追い求めるのが善。

Part3まではそんな考えを突き詰めたような作品だった。しかし五木寛之が当初のあとがきで書いたように、 個人主義を礼賛するあまりPart3まででは社会に背を向けたような個人主義のいかがわしさも感じさせた。

Part4では個人の可能性を見たはずの組織の変容が描かれる。ジョナサンを学ぶのではなく崇拝に「逃げる」カモメたちが、やはり個人の自由な生き方を殺す。組織の形骸化という形で殺す。

組織がなぜ硬直化してしまうのか、非常にリアルな回答がPart4にはあった。

しかし組織を硬直化させるのが個人なら、それを破るのも個人の力なのだった。

結局、組織より個人の考え、生き方を大事にしろというテーマ自体は変わっていない。しかし個人と組織(社会)の関係は完全版になって深まったのではないか。完全版になって評価は正反対になったかな。

かもめのジョナサン完成版
新潮社 (2014-07-09)
売り上げランキング: 5,850