自慢されたい過去には(多分)戻れない話【書評・逝きし世の面影】

一度読んではいたけれどKindle版が出ていたので購入。書籍版では文庫本でも2、3冊並みの分厚さなので、場所を取らない電子書籍はつくづくありがたいですね。

51MQ9F98Q6Lその分厚さと、書かれている中身から昔の日本を礼賛するのがこの本の主題のように思えるかもしない。しかし、著者が描きたかったのは「近代以前の文明」の姿。文献が残っているのが幕末〜明治の日本だったということだ。

幕末から明治にかけて日本に訪れた外国人たち。彼らが見た日本の姿を、彼らの手記から探っていく大著であります。

当時の外国人にとって日本は、人々が人なつこく、シンプルに暮らし身近な自然を愛する、非常に心奪われる国だったようだ。開国以降現代に至るまで、江戸時代の暮らしは古く遅れたものだった、という解釈が日本人(知識層)の間でなされてきがちだったが、著者はそれも否定し、質素だが魅力的な過去の日本を蘇らせる。

しかし読み直してみると、もはやこの本で描かれた日本には戻れない、ことも見えてくる。

例えば労働。著者によると江戸時代は働くときは働き、休みたいときは休んでいたそうだが、これは計測された時間と引き換えに働く近代の労働のスタイルではない「前近代の労働」だったと指摘し、明治期に矯正される運命だったと論じる。

著者が最終章で指摘する「(当時の日本人に)確たる個がない」は現代の目から見て当時の日本に明らかに欠けていた点かもしれない。

江戸時代というと身分制度が厳しく、庶民はいくら働いても貧しいまま…という印象があるが、社会制度として個人を抑圧していない、そもそも「個人」という概念がない社会だったのだ。

江戸時代末期に日本を訪れた外国人には、当時の日本人は誰にでも屈託がなく、性におおらかで、子供も大人と同様に扱っていた(子供は純真な存在と考えなかった)。著者によればそんな当時の日本人には、人間性への寛容があったといえるが、別の見方をするとある種のニヒリズム…「人間という存在の自分勝手さへのおかしみ、互いにそういう存在であるという寛容さ」に帰結するとも言う。男も女も子供も大人もみんな同じさという明るいニヒリズムは個人の尊厳を最初から考慮していない社会だった。例えばこんなブログを書いて考えをひとり深めるような、そんなことをする人はほとんどいなかったのだ。

今の日本では、むしろ個人主義が行きすぎて、この本が描いた近代化以前の日本を再評価する雰囲気もある。だけど当時の日本の「いいとこ取り」は難しいのではないか。せめて自分自身の中に残っているものを大事にしたい。さて、何が残っていましたっけ…

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
渡辺 京二
平凡社
売り上げランキング: 2,198