来なかった未来を見た話【書評「超発明 創造力への挑戦」】

現在入手できるSF小説の古典「レンズマン」シリーズ(E.E.スミス)の表紙絵は生賴範義氏なのだが、実は個人的には、レンズマンの表紙絵は生賴氏ではなくこの人、真鍋博で印象づけられている。一般的には星新一のショートショートの表紙絵、挿絵で有名でしょうか。線がシャープでヒトの顔はちょっと子供の落書きっぽくてシュールな雰囲気。シンプルな描き方が逆にレトロな感じを出している絵です。

51hxgcDhG1Lその真鍋博の著作がこの本。雑誌「Wired」で紹介されていたので読んでみました。真鍋博の空想と風刺の翼を広げて思いついた「超発明」が約120個収録されています。

生賴範義氏と比べると、生賴氏はイラストレーターとしてSF的センスがあったけど、真鍋博はイラストだけでなく発想そのものもSF的だったのが印象的です。

1971年に出た本なので、今では実現してしまっている「超発明」があるのが興味深い。たとえば「音声標識」はカーナビ、指紋に同調する「パーソナル把手」は指紋認証、1つのレコードに何億曲も収録できる「球体レコード」はiPod、描いたものが立体化する「三次元鉛筆」は3Dペン、「自在光軸写真機」はシータ。道端ですれ違った人の顔まで記録する「ダイアリー・メモランダム」も実用化された

実現した「超発明」を挙げてみると、デジタル技術の発展が凄まじいことがわかる。逆に言うと、真鍋の考えた未来の発想が何となく、アナログっぽい。今のところ実現していない「超発想」までみてみると、この本では良くも悪くも「モノ」で世界を変える/世界が変わるという発想が下敷きになっている。

でも今の暮らしを見てみると、デジタルを生かした「サービス」ばかり、という気がしてくる。こんなブログ然り、SNS然り。アナログというともっと極端に「自然回帰」に近くなっているかな。若者がIターンして農業、とか。

そう考えると、描かれた絵のどこか懐かしい雰囲気と合わせると、この本には「来なかった未来」が詰まっていました。副題「創造力への挑戦」が何だか重く響くなぁ。

超発明: 創造力への挑戦 (ちくま文庫)
真鍋 博
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自慢されたい過去には(多分)戻れない話【書評・逝きし世の面影】

一度読んではいたけれどKindle版が出ていたので購入。書籍版では文庫本でも2、3冊並みの分厚さなので、場所を取らない電子書籍はつくづくありがたいですね。

51MQ9F98Q6Lその分厚さと、書かれている中身から昔の日本を礼賛するのがこの本の主題のように思えるかもしない。しかし、著者が描きたかったのは「近代以前の文明」の姿。文献が残っているのが幕末〜明治の日本だったということだ。

幕末から明治にかけて日本に訪れた外国人たち。彼らが見た日本の姿を、彼らの手記から探っていく大著であります。

当時の外国人にとって日本は、人々が人なつこく、シンプルに暮らし身近な自然を愛する、非常に心奪われる国だったようだ。開国以降現代に至るまで、江戸時代の暮らしは古く遅れたものだった、という解釈が日本人(知識層)の間でなされてきがちだったが、著者はそれも否定し、質素だが魅力的な過去の日本を蘇らせる。

しかし読み直してみると、もはやこの本で描かれた日本には戻れない、ことも見えてくる。

例えば労働。著者によると江戸時代は働くときは働き、休みたいときは休んでいたそうだが、これは計測された時間と引き換えに働く近代の労働のスタイルではない「前近代の労働」だったと指摘し、明治期に矯正される運命だったと論じる。

著者が最終章で指摘する「(当時の日本人に)確たる個がない」は現代の目から見て当時の日本に明らかに欠けていた点かもしれない。

江戸時代というと身分制度が厳しく、庶民はいくら働いても貧しいまま…という印象があるが、社会制度として個人を抑圧していない、そもそも「個人」という概念がない社会だったのだ。

江戸時代末期に日本を訪れた外国人には、当時の日本人は誰にでも屈託がなく、性におおらかで、子供も大人と同様に扱っていた(子供は純真な存在と考えなかった)。著者によればそんな当時の日本人には、人間性への寛容があったといえるが、別の見方をするとある種のニヒリズム…「人間という存在の自分勝手さへのおかしみ、互いにそういう存在であるという寛容さ」に帰結するとも言う。男も女も子供も大人もみんな同じさという明るいニヒリズムは個人の尊厳を最初から考慮していない社会だった。例えばこんなブログを書いて考えをひとり深めるような、そんなことをする人はほとんどいなかったのだ。

今の日本では、むしろ個人主義が行きすぎて、この本が描いた近代化以前の日本を再評価する雰囲気もある。だけど当時の日本の「いいとこ取り」は難しいのではないか。せめて自分自身の中に残っているものを大事にしたい。さて、何が残っていましたっけ…

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
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人生は肯定したがマシという話【書評・四畳半神話体系】

51SBa3cat3L人生も編集だ」という本にもちょっと通じるところもあるこの小説。人は大なり小なりの岐路で選択を繰り返す(人生を編集する)のだけど、選択をやり直せたら人生はどう変わるのか…?という話です。

バカバカしいほどに自意識過剰だけど根は気弱で真面目な「私」は京都の大学生。ボロボロの四畳半アパートで悪友・小津や階上に住む謎の先輩の襲来を受けながら「私の夢見たキャンパスライフはこんなんではなかった…」「1回生の春、違うサークルに入っていたら黒髪の乙女と付き合って一点の曇りもない学生生活を満喫していたはず…orz」と妄想しがちな日々。3回生になったある日、街角の占い婆さんにふらっと見てもらったら好機を捕まえるヒントを教えられ…

日を分けて読んでいったのだが、改めて読むと「乱丁か?」と思うほど同じ表現の箇所が続出する。前後を読み直して、やっとそれが作者の意図的なものとわかる。

なんだかツンときた登場人物たちのセリフもあったので挙げていくと…

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々が持つ可能性ではなく、我々が持つ不可能性である 」

「腰の据わっていない秀才よりも、腰の座っている阿保の方が、結局は人生を有意義に過ごすものだよ」
「本当にそうでしょうか」
「うむ…まあ、なにごとにも例外はあるさ」

少々選択が違ったからといって人の運命はそうそう変わらない…身も蓋も希望もないような結末かもしれないが、憎めない悪友や妖しげな年長者、普段はクールだけど意外な弱点を持ってる異性に囲まれた「私」の3回生の暮らしはどう転んでもちょっと面白くちょっとロマンチック。

最終章で「私」がたどりついたように、自分のこれまでとこれからを、とりあえず大目にみてやるにやぶさかではない…そう思いたくなる楽しい話でした。この作者の他の小説も読んで見ることにしよう…!

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思考力は2種類あった話【書評「評価経済社会」】

51LJYadud2L発想は面白く、論の雑さは極めて残念。これからの社会は貨幣を交換する「貨幣経済社会」から、評価と影響を交換し合う「評価経済社会」に移行する、と考察した本。

将来のことはわからないんで著者の主張を無下に否定するのもなんなんですが、過去はともかく、前提条件となる現在社会の認識が極めて雑なので「そんなカンタンに貨幣経済がなくなるわけない」と思ってしまう。

どう雑なのかというと、具体的なデータを提示することなく「今の社会はこうだ」「今の若者たちはこう考えている」としてしまうから。一箇所でも著者の主張に「そうだっけ?」と思ったが最後、もうその先は読めなくなってしまう。前提が納得できないのだから、結論に納得できないのも当然でしょ?

著者は、オカルト番組を見る「私たち」はインチキなら科学の力で暴けとか考えず、「ふぅーん、そんなこともあるかもしれない」と考えながら見ているのだ…というけれど、この本全体が「ふぅーん、そんなこともあるかもしれない」程度の議論でしかない。この本の表現からまた借りれば「本質ではなく著者自身の気持ちでのみ値打ちを計ろう」としている。

「いつまでもデブと思うなよ」は著者自身の体験を元にした本だったし、最初に読んだ「オタク学入門」は斬新だった。だけど、今にして思えば「オタク学入門」は著者の視点や発想が面白いだけで済んでいた。未来予測に論の中心を移した時点で、視点や発想と言った瞬発力的思考でなく自説の正しさをどう証明するかという持久力的思考も必要になる。

扱う語の定義もきちんとしてほしいし。著者が「科学主義は死んだ」というときの「科学主義」とは「民主主義、資本主義、西欧合理主義、個人主義と言った価値観を含む一つの世界観のこと」なのだそうだ。それ曖昧過ぎて何を指してるかわかんないんですけど!orz

未来予測」も結論はトンデモナイところまで行ってしまっていたが、著者の逡巡まで含まれていた分、読者には誠実さを与えた。

この本の結論は頭の片隅に置いておくとして、個人的な感想は「頭の良さにもいろいろある」ってところでしょうか。

評価経済社会・電子版プラス
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普段からの取り組みが大事な話【書評「Googleの72時間」】

W杯、日本代表苦戦してますね…。オシムの言う「判断と行動のサイクルを早くする」ってのは練習しててもなかなか発揮できないもんだなぁ。

51jc1jtR9ZLところで、社会的に「判断と行動のサイクルを早くする」必要性が最近もっとも問われたのは東日本大震災だった。この本は震災時に「私設帝国企業」Googleが日本でどんな震災対応をしたかを振り返ったもの。Yahoo!の震災対応やGoogleらの震災対応サービスが被災地でどう使われたかまで、IT技術が震災時にどう生かされたかを幅広く取り上げている。

Googleには米本社に常設の災害対応チームがあり、東日本大震災発生から1時間46分後には特設サイト「クライシスレスポンス」を立ち上げ、被災者検索サービス「パーソンファインダー」をスタートさせた。日本側スタッフは日本語化や携帯電話への対応、入力件数を増やすためボランティアに避難所の名簿を撮影してもらい「パーソンファインダー」への入力を依頼。また被災地の衛星写真の公開やニュース番組のネット配信、避難所情報の地図へのマッピング、義援金呼びかけなどを次々に行った。

これらのサービスは社員の誰かが勝手に着手し協力者を社内に呼びかけて始まった一方(この辺がいかにもGoogleらしい)、内容が社内外でかぶったり優先順位などに問題がないかなど「交通整理役」も社内に設けていたそうだ。

正しいかどうかでなく、統一した見解を誰かが出す」ことで全体のスピードも上がったのだ。

また緊急時とはいえ、Google米本社との承認プロセスに懸念が残るまま走り出したサービスもあった。その際、判断を求められたGoogleの日本側法務担当は「僕の判断でOKだ」と言い切った—というエピソードがちょっとグッときましたね。

こうして取り組んだ各種のサービスの中には他社、公共団体などと連繋しないといけないものもあり、Googleと相手との「スピード感」に違いが生じた例も紹介されている。そんな件について著者らは、スピード感があったGoogle側の肩を一方的に持つのではなく「相手側は『Google側の連絡が途絶えた』という認識だった」と平等な視点で取り上げ、なおかつGoogle側の反省点として「平常時からの必要情報の洗い出しと事前のプロセス策定が重要」という言質を引き出している。取材対象に肩入れしすぎない著者らの絶妙のバランスを感じた部分だ。

そうはいっても、Googleによる取り組み—災害時の情報提供プラットフォームの構築—はボランティアを含めた自発的な支援活動を呼んだことは間違いない。この本の中ではYahoo!の取り組みも紹介されている。Yahoo!では災害発生時、当時の社長がメールで社員全員にこう伝え士気を高めた。

「今こそ、ライフエンジンとしての力を発揮する時だ」

…この「ライフエンジン」という言葉にもグッときた。Yahoo!、Googleに限らず今やIT技術自体が『ライフエンジン』なのだなとも思わされた。

さてそんな様々のサービスだが、著者らの調べでは必ずしも被災地で活用されたとは言いがたかった。電力や通信インフラが途絶したのもあるが、とくに高齢者にはIT技術に長けた人のサポートがないと利用できなかったようだ。今後はそういったリテラシーの差が大きくなる一方、ボランティアには高齢者を精神的にケアするため普段からの信頼関係構築も必要なのだそうだ。

その他、一般ユーザーは信頼できる情報源を見極めること、情報を扱う企業は多様なメディアを連携させること(パソコンで読み取りやすい書式で情報をやり取りすること)などを挙げている。

著者が結論として述べる「いざという時は普段やっていることしかできない」は重い指摘だ。災害対応サービスをGoogleが次々に手掛けられたのも普段の積み上げによるものだし、Twitterで震災直後おかしなデマが飛び交ったのも(広めてしまった利用者は)SNSをその程度しか使えていなかったからだ。

日程が決まっているスポーツの試合でも「普段できていること」を発揮するのが簡単ではない。ましてや、いつ来るか分からない非常時では?

企業から個人のレベルまで、災害時に何ができるか、普段からどう対処すべきかまで取り上げた労作でした。

Googleの72時間 東日本大震災と情報、インターネット (角川書店単行本)
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早くするのは何かという話【書評「考えよ!」】

51Yj6L--MBL2014年ブラジルW杯の日本代表メンバーが間もなく発表になる今、元サッカー日本代表監督の本を読んでみました。前回2010年南アフリカ大会の直前に出た本なので情報として新しくはないし(そりゃそうだ)、「(敵チームには弱点もあるのに)相手を脅威に感じ過ぎる」など、サッカーから見る日本人像ももっともな点。

スターに敬意を表し過ぎる」なんて言い回しは、いかにもこの著者らしい。

そんな中、印象的な指摘だったのが

私が訴える「スピード」とは、素早く考えどのような局面に置かれても、動きながら瞬時にして判断する「スピード」である。

日本人は責任を他人に投げてしまうことに慣れすぎている」という別の指摘ともあわせると、日本人が今後目指す方向が見えてくるのではないだろうか。

前回紹介した「無印良品は、仕組みが9割」でも

改革にはスピード感が重要で、戦略が間違っていても、実行力があれば軌道修正ができます。

 

実行してみて、結果が出ないのであればまた改善するという繰り返しで、組織は骨組みをしっかりと固めていけます。

と実行することの重要性を説いていた。

話はズレるけど、ここら辺の指摘を受けて、日本人が好きな話って「逆転サヨナラ勝ち」なんじゃないかと思った。危機的状況に追いつめられた人たちが一発逆転で成功を収める話。ナレーションは田口トモロヲで、テーマ曲は中島みゆき。

まぁそれで成功することもあるだろうけど、社会を持続的に変える「アニマルスピリット」を出すには、追いつめられて破れかぶれで行動するのではなく、リーダーが責任を持って判断と行動のサイクルを早くする社会にする必要があるんだろうな、と考えたのでした。

考えよ! ――なぜ日本人はリスクを冒さないのか? (角川oneテーマ21)
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発想を転換する話【書評「無印良品は、仕組みが9割」】

51LneCdUKkL企業が帝国化する」でも仕組みを作る側になることの重要性に触れられていたけれど、実際に仕組みをつくる側になるためのヒントになりそうな本。一時の低迷からV字回復を成し遂げた無印良品(良品計画)の会長が「マニュアルの重要性」を説く。

無印良品には店舗で使う「MUJIGRAM」、本部の業務用の「業務基準書」の2種類のマニュアルがあり、売り場の商品陳列から接客、商品開発、出店の判断などの経営までマニュアル化されている。「MUJIGRAM」はなんと2000ページ。いずれも「個人の経験や勘に頼っていた業務を仕組化する」ためなのだそうだ。

新規出店の際、応援に駆けつけたベテラン店長たちが、各々勝手に「これじゃ『無印らしさ』がない」といって商品を並び替えていくので開店準備がちっとも終わらなかった―というエピソードを著者は紹介しているが、確かにこれは「業務が個人の経験や勘に頼っている」例だろう。

著者はマニュアルを「守ること」の重要性を説くのではなく(いやもちろん守らないといけないのは当然として)、「つくる人になる」重要性を訴える。マニュアルを作り、マニュアル通りに実行しながら、絶えずマニュアルを磨き上げていく組織が著者の理想だ。著者にとってマニュアルとは「仕事の最高到達点」でもあるのだ。

その対極が「上司の背中を見て育つ文化」なのだという。

背中を見せるのが上司の仕事ではなく、マニュアルを作り、改善し続けるには全員で問題点を見つけ定期的、かつリアルタイムに改善する必要があるのだから、様々な意見を検証してまとめるのがリーダーの役割なのだそうだ。

またマニュアルからは離れるが、会社を強くするために必要なことに「ヒントは他社から借りる」を挙げ、その理由を「同質の人間同士が議論をしても新しい知恵は出ない」と言い切ったのも印象的だった。閉塞感を打破する当たり前のことですよねこれ。

仕事に徹底的にマニュアルを取り入れるという、ともすれば一番閉塞的な手法が実は会社を活性化させうるという、一見矛盾を感じさせる著者の主張は興味深かった。

ただ、あまりページを割かれてはいないのだが、著者自身は結構「実行力」のあるタイプのよう。

売れ残った商品はアウトレットなどにせず社員の目の前で焼却してみせて在庫管理を徹底させるよう仕向けたり、それでも在庫管理に失敗すると在庫管理を現場から本社に強制的に移す。「MUJIGRAM」作成に反対する社員を「MUJIGRAM」作成委員に任命してやる気を出させる一方、なかなか「MUJIGRAM」に従わない店長には「多少の強制力」を発揮した—とさらっと書いているのがちょっとコワい。

いずれにしろ「マニュアル」はリーダーの指導力、実行力を適切に促し、かつ、部下の意見を吸い上げる仕組みでもあるということで、双方にやりがいを生じさせる仕組みなのだ。発想の転換が興味深い本だった。

協働って面白そうという話【書評・はじめての編集】

31uXbXQPiRL編集についての本。以前読んだ「僕たちは編集しながら生きている」にも通じる内容で、メソポタミアの壁画から雑誌、ウェブ、選挙候補者といった個人まで対象として俯瞰しながら編集についての概論や編集で用いる素材の扱い方、編集という思考法の活かし方などが書かれている。

SNSなどが普及した現在、編集は個々人の生活をも可能にするという考え方は二冊に共通するのだけれど、「はじめての編集」の方が後に出版された分、アーティストと作品の比較で

現在はアーティストの作品が、その人自身のアウトプットの小さなひとつにすぎないのではないかと思うのです。(中略)情報の流通量が少ない時代においては、作品というのはクリエイターよりもはるかに大きい存在でした。しかし今は違います。人生の方がはるかに情報化されて、伝わっているわけです。ということは高く評価されるクリエイターになるには、評価される人生を送るしかありません。(P230−231)

 

それはつまり「人生の作品化」です。(P235)

と(楽しいかどうかに関わらず)人生の編集化は避けられない…ともとれる内容になっているのが興味深い。

無限の選択肢のなかから、自分で可能な範囲で選んでカスタマイズして人は生きているわけです。言い換えれば、人は常に「人生を編集している」のです。(P235−236)

とも著者は書く。大量消費社会と言われる現在、消費することも(見方を変えれば)編集だったのだ。そして、そう意識した上で“編集物”を世間に発信していくことも出来るようになっている(SNSなどで)。

こうなってくると「人生の作品化」は「セルフプロデュース」とほぼ同義となり、下手をすると「リア充」などと僻まれたり「必死だなw」と蔑まれたりしかねない…気もする。

概念として「人生の編集」は理解できても、具体的に行動するのは容易ではない。以前、SNSを使った活動で評判になった人が「自分の印象をよくするにはオフィスの住所にもこだわりましょう」といった内容のことを書いていて目が点になったのを思い出した。

そこでこの本に戻ると、「はじめての編集」では

編集者は、自分よりもずっとうまく写真を撮れる人、自分よりもうまく原稿を書ける人、自分よりもうまくデザインのできる人などを集め、彼らの特性を生かしたディレクションをすることによって、自分のアイデアを、当初考えていたもの以上にすることができるのです。(P80)

と、周囲とのコラボレーションが編集に不可欠と説く。「僕たちは編集しながら生きている」でも編集について

編集の醍醐味は、「せまい自分」を確立することではないと僕は思っています。常に未来に対し開かれたスタンスであり続けること。いかに「可能性」の高い人生を送るか、それが問題です。(「僕たちは編集しながら生きている」P4)

と言っていた。

つまり、たとえ「人生の作品化」がセルフプロデュースと同義であっても自分一人ではできないということ、だろうか。

もちろん周囲を(一方的に)利用するのではなく(そんなことをしても長続きしないしね)、「この人とコラボしたい」と思われ、周囲に使われるくらいの才能は持ちたいところだ。「企業が『帝国化』する」の書評でも書いたが、学ぶのは自分だけが生き残るのでなく、周囲に役立つ存在でいたいから(=そういう形で生き残りたい)ということかな。

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学びの理由を考えた話【書評・企業が「帝国化」する】

41Epgl4y3OLレイヤー化する社会」でも参考文献に挙げられていた一冊。アップル米本社で働いた経験がある著者が、アップルに代表される「私設帝国」企業の実態とそんな帝国が存在する社会での生き残り方法を提言する。

「レイヤー化する社会」では、アップルやGoogleなど国家を超える財政規模や影響力を持った「帝国化」した企業について、負の側面をあまり書いていなかったように思う。この本でも「帝国の「打倒」なんてことは訴えず、そんな帝国のような企業が存在し続けるのが前提ということで結論に至っているのだが、「レイヤー化する社会」よりは帝国化する企業が社会に与える負の側面をしっかり書いている。

大事な点は「私設帝国」企業はネット関連だけでなく食やエネルギーの分野にも存在し、我々の健康や環境に悪影響「も」もたらしているという点だ。著者は様々な事例を紹介してその実態を伝える。

アップルの米国本社で働いた著者が明かす「私設帝国」内の働きぶりも凄まじい。朝6時からメールチェック、社内の政治闘争も激しいのだという。著者自身、そんな環境に疲れてしまい退職してしまったのだとか。

また、GoogleやFacebookなどのユーザーは「客」ではない、という指摘も重い。ユーザの個人情報や(検索などで)分析された行動が商品となって企業の広告出稿に使われているのだから。

そんな「私設帝国」企業とどう付き合えばいいのか。著者が提示するのが私設帝国企業は『イメージ』を気にするという点。評判が悪くなることを「私設帝国」企業は恐れ、下請けの業務改善や製品の販売中止にも繋がっているのだという。確かに企業は国家と違って複数の関係者の利害を調整しなくていいから決断が早くなる。また「私設帝国」企業の下請けで働く人々についても触れ、劣悪な環境であっても住んでいた故郷での暮らしよりはよっぽどまし、という例もあげる。

欠点があるとはいっても「私設帝国」企業がなくなることはないだろう。それは国家の力が弱くなっていくことの裏返しでもある。ならば我々は「私設帝国」企業と賢く付き合い、絶えず学んで自分を高め、仲間をつくり助けあっていこう。著者はそう説いている。

…と、概略だけで結構な量になってしまったが、結論としては「レイヤー化する社会」とあまり変わらないかな。バランスの取れた記述で、世界的に有名な企業の概要を知ることはできた。

ただこの本の中でも取り上げられている、エネルギー関係の「私設帝国」企業はやはり用心したい気がする。アップルやGoogle、マクドナルドなどは代わりがありそうだけど、エクソンなどエネルギー関連の企業は(石油採掘など)専門的な技術を持っているので代替がききにくいのではないかな。評判が少々悪くなっても結構平気な気がする。

また、これからの生き方として、仲間を作ることに触れつつも、「天は自ら助くる者を助く」として語学や専門的な技能など個人のスキルを高めることや「持ち家が自由を奪う」「移住を考える」など固定資産を持たないことに主眼が置かれているのも気になった。

ここ最近、東日本大震災を振り返る番組を見ていて思ったのだが、著者のように土地や家に思い入れの少ない人ばかりではないんだよねぇ。

また、著者が考える仲間づくりも、まずは自身のスキルアップありきで仲間づくりはその次、といった印象がある。「自分を高めてくれる環境に身を置く」という発想なんかその典型か。

環境や健康に害を及ぼす面もある「私設帝国」企業を、著者は

「帝国」を批判するのは簡単ですが、「帝国」を興してきたひとたちもまた、さまざまな体験を積み、常識にとらわれない新しいモノの見方、考え方といったものをつかみ、そこから湧き出てくるイメージやアイデアを形にしてきました。

と内部の人たちを見据えた上で肯定的にみる面もある。この視点は決して間違っていないとは思う。だからこそ

今後は「周囲と同じように振る舞う」といった行動様式ではなく、自分がどんな人生を歩んでいきたいのか、自分なりの考えを持つことが非常に重要になります。

と個人で考え、行動することを説く。

そう考えると、著者の考えるこれからの生き方とは、自分が生き残るのが目的で、今自分の周りにいる人たちと共生する感覚が乏しいように思う。

英語やプレゼン、コンピュータ、議論など著者が紹介している、これからのために必要なスキルの一つ一つは非常に説得力を感じさせるのだが、個々人がそんなスキルを身につけた先の社会像に血が通っているようには見えなかった。最終章に納得されつつも何か残念だったのはそこかなぁ。

何のために専門技能を身につけるのか、学び続けるのか。「私設帝国」企業と共存が不可欠な社会の中で、単に社会で生き残るためではない目的を見つけたいものです。

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地方都市の理想を見た話【書評「別府」】

416ZnjhqZJL小説のようでもありエッセイのようでもあり。この本は、何と呼べばいいのだろう。

著者は様々なアートイベントを手がけた人物。大分県別府市で過去2回開かれた国際的アートイベント「混浴温泉世界」でも総合ディレクターを務めた。この本は1回目の「混浴温泉世界」後に書かれた様子。著者が2回目の「混浴温泉世界」へのヒントを求め、大阪からフェリーで別府に入り、別府の街を放浪しながら様々に思いも放浪させていく。

著者が今まで見た映画、小説、1回目の「混浴温泉世界」での海外アーティストとの思い出。そして温泉街・別府で遭遇する市井の人々、湯けむりの中、夢のように出会った双子の女性との混浴…。著者の思いはあちこちに飛び、虚実入り乱れていく。それは別府という港街が持つ「魔術的な魅力」に他ならない。

おんぼろのアーケードや一目して分かる老舗の商店。空き地もあちこちにある、古びた温泉街。でもその古さ、混沌さが「彩り」となっている街。著者にとっては忘れ得ぬ数々の映画を思い出させる街。そしてアートディレクターとして「肉体のすべてをもって感じるなにか」を生み出し「心にトリックをかけて」、「目の暴走」に歯止めをかけようと決意して大阪へ帰って行く。

別府には過去3度訪れたことがある。最後に来た時にちょうど、第2回の「混浴温泉世界」が開かれており、古びた街並みの中に国内外、有名無名の芸術家の作品が展示されていた。この本はその時、市内に常設されたアートスペースで買ったのだった。

別府の街を歩き回る著者が様々な思いを巡らせる様子は、別府という街がそれだけインスピレーションを与える場所であることを繰り返し表している。この本は別府という街や地方とアートのつながりなどについて論じてはいないのだが(触れてはいる)、港のある温泉地として人が通り抜けていく別府の魅力、地方都市の一つの理想形を抽出しているように思う。

別府に限らず、全ての地方に「魔術的魅力」はあるだろうか。あって欲しいのだけれど。

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別府現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」実行委員会
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