「オープン」を再定義する話(書評「パブリック」)

読ませる本でしたよ!
読ませる本でしたよ!

ネットがもつ情報を公にしうる力を「パブリック(公共性)」をつくる力と捉え、プライバシーをなるべく排除し情報が広まる社会を極めてポジティブに捉えた本。パブリックとプライベートの線引きが国や文化によって異なることを紹介し、メディアは、個人は、政府はどうあるべきかまで幅広く洞察した内容だった。

しかし決して無制限なネット翼賛でもなく、著者が考える原則を提示し、より良い社会を築くためには一人ひとりの努力が必要とも説く。

本文最後に提示される<パブリックの原則>は以下のものだ。この原則を守るため我々は行動すべきだと著者は言う。

1 僕らには接続する権利がある
2 僕らには言論の自由がある
3 僕らには集会と行動の自由がある
4 プライバシーとは「知る」倫理だ
5 パブリックとは「シェアする」倫理だ
6 僕らの組織の情報は「原則公開」、「必要に応じて非公開」だ。
7 パブリックなものとはみんなにとっていいことだ
8 すべての情報は平等だ
9 インターネットは開かれ、広く行き渡り続けるべきだ

仕事柄、とくに著者の「パブリック」とジャーナリズムについての下記のような考察は耳が痛いものだった。

一九世紀の初頭、新聞は政党とその利益のための機関紙だったが、その後広告の援助によって政党の所有から経済的に独立することができた。するとジャーナリストは自分たちをパブリックの代表、市民と国家の間の架け橋だと勝手に思い込むようになった。ハーバーマスの公共圏の理想がシューっと音を立ててしぼんだのはその時だった。人々は自分たちの声をなくした。語りかけられるだけの存在になったのだ。

僕自身、ジャーナリストの仕事が市民の会話を育て、集め、広めることだとは教わらなかった。ジャーナリストの役目は市民に情報を与えることだと教わった。それは、市民は無知だと暗に意味していた。ジャーナリストは、自分たちをパブリックの上位におき、パブリックから離れることで、報道の対象である政治家や奉仕の対象である市民よりも、自分たちが客観的で、中立的で純粋だと思い込むようになった。

EUを中心に最近提唱されている「忘れられる権利」にも著者は否定的だ。言論の自由と衝突しかねないという。著者の考える「パブリック」は場であり、個人一人ひとりに権力を抑制する力を与えるツールでもあるのだ。一方で「パブリック」の概念はテクノロジーの進化を受けて常に変わっていく。「プライバシー」という権利が提唱されたのも著者によると、写真技術の進歩によるものだった。

思うに、ひと昔前の世代は、テレビや電話、映画、ラジオ、自動車、自転車、印刷、車輪の発明という激動のなかで生きなければならなかった。だが、私たちはその経験から学べるかもしれない。つまり、
1 生まれた時すでにこの世に存在したものはすべて、当たり前である。
2 三〇歳までに発明されたものはすべて、ありえないほどエキサイティングでクリエイティブであり、運が良ければそれを仕事にできる。
3 三〇歳以降に発明されたものはすべて、自然の摂理に反する、文明の終わりの始まりである。本当に問題ないことが次第にわかってくるまでに、だいたい一〇年くらいかかるからだ。

…なんていうテクノロジーと人間の理解に関する考察も的を得ていると思う。

人間には公と私を併せ持つ存在。「パブリック」の意味を今こそ問い直し、最適なバランスを様々な階層で問い直す時期に来ている。著者が引用した「ルネッサンスはめったにあることではないのだから、その過程を楽しむべきです」という前向きさが世界を変えていくのかもしれない。

パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ
ジェフ・ジャービス
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