でかい夢を小さく伝えた話【鑑賞・WE ARE Perfume】

2014年10月から4カ国で行なわれた、テクノポップ・アイドル Perfume3度目のワールド・ツアードキュメント。彼女たちの来歴にも触れつつ、最終ニューヨーク公演まで密着する。

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視聴環境の違いって予想以上に大きいのです。

次はもっとよりよいライブにしようと、終演後も話し合うPerfumeの3人やスタッフ達の努力が印象的。特に終演後の3人は毎回、足や首を冷やしている。昨年、福岡でライブを見た際「すっげー細いピンヒール履いて踊ってるなぁ」と思っていたので、やはり体への負担は相当なものなんですね。

NY公演ヘのあこがれ、成功しての安堵。「次はマジソン・スクウェア・ガーデンだぁ!」と言い切ったあーちゃんは、まさにリーダーの器。途中何回か差し挟まれる3人のインタビューを通して、Perfumeは3人が絶妙のバランスで成り立っていることも伝わってきた。

アジアから欧米まで、ファンの熱狂っぷりも見ていて楽しい。シンガポールのライブに年配の白人カップルが見に来てたり、黒人の女の子が涙ぐみながらPerfumeへの思いを語る様など、彼女たちの人気は国籍を越えて広がっているのだ。

と、3人を中心にスタッフ、ファンをも含めた(つまり今作を鑑賞した我々も!)「WE ARE Perfume」なのだ…という内容にグッと来た一方、今作を「劇場作品」と位置付けると残念な点も少なくないのです。

まずは真っ暗な中での大画面&大音響で見る体験が生かされないこと。せっかくいい視聴環境でPerfumeを鑑賞できるのだから、もっと曲を聴きたかった。オープニングのSXSW(アメリカテキサス州で毎年3月行なわれる、音楽祭・映画祭・インタラクティブフェスティバルなどを組み合わせた大規模イベント)でのパフォーマンスはデジタル合成もしたいい感じの映像だったので、これは本編も期待できる!と思ったのだけど。NY公演がソフト化されているとはいえ、フルコーラスで聴けたのは各地のライブのラストで歌われた曲1曲だけなのは余りにもったいない。

決定的に残念なのは作品の雰囲気がどうもテレビっぽいこと。全体に緊張感が不足しているのだ。

この作品はテレビで「放映」されるのではなく、音響の良い暗い部屋にあるスクリーンに「上映」される。スクリーンを凝視しているこちら側は、ある程度の緊張感を持ちながら対峙することになる。

なのに各地の公演を紹介するのに毎回空港到着シーンから始まるのが非常に冗長なのだ。その土地土地を紹介するようなショットが続くのも毎回同じ。公演直前、3人が手を取り合って集中し、ステージに上がる→ライブ開幕、観客熱狂…というシーンも繰り返される。3人が集中する場面だけならまだしも、その後のライブ開幕シーンまで繰り返す必要はあっただろうか。

彼女たちは今回のツアー最終公演、ニューヨークに並々ならぬ思いがあった様子。ならば単純にツアーに同行した様子を続けるだけでなく、ニューヨークへ向けて緊張感を高めていく構成にできなかったか。(ハリセンボン近藤春菜はかなりの腕前だったが)ナレーションや各公演を繋ぐCGを使わず、最低限のテロップだけにしたら雰囲気が引き締まったかもしれない。観光シーンを挟む程度はアリかもしれないが…。

と映像作品としては劇場公開のスケールに届いていないのだが、Perfumeの奮闘っぷりは十分伝わる一作でした。最後に最新曲「STAR TRAIN」が流れるとツンとは来る。ファンは見とくべし。またライブ行きたくなるので!

新たなヒーローを見た話【鑑賞「アントマン」】

んもうなんだよこれ、面白いじゃん!

「アイアンマン」「ソー」「キャプテン・アメリカ」などマーベルヒーローたちと世界観を同じにする「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」シリーズの最新作。身長を自由に縮められ、アリを操るヒーロー「アントマン」の活躍を描いた作品。すでに単独の続編の製作も決まったそうです。だろうね〜

【あらすじ】服役を終えたアダム・スコットは、仕事も家庭も失い絶体絶命。まっとうな人生を歩もうとするが前科者に世間の風は冷たい。やむなく昔の悪友たちの誘いに乗り、とある屋敷に忍び込み金庫を華麗に開けてみせるが、金庫の中には奇妙なスーツとヘルメットがあるだけだった。とりあえず盗み出し着てみると、急に身長がアリ並みに縮んでしまった!そしてヘルメット越しに話しかける謎の男の導きで窮地を脱したものの、その男はスコットが忍び込んだ家の主人ハンク・ピム博士だった。彼はスコットに、驚異の“スーツ”を着用し、想像を絶する特殊能力を持つ“アントマン”となるよう依頼する。最愛の娘のために<猛特訓を開始した彼は、本当のヒーローとなれるのか?

ラテンっぽい曲が映画全体に「あっ軽い」雰囲気を出してました。
ラテンっぽい曲が映画全体に「あっ軽い」雰囲気を出してました。

とはいえアナタ、よりによって名前が「アリ人間」ですよ(失笑)。見た目も正直古臭い。普通っぽいライダースーツにヘルメットはグロ気味だし。本当に面白いのか?…と思ってたんですよ。まぁ映画を見るまでは酷い名前だと思っていた(けど映画を見たらファンになった)「鉄人間(アイアンマン)」の例はありましたがねぇ…と思ってたんですよ。

いやぁ面白かったねぇ〜次回作が楽しみだこりゃ!

金持ちでもない天才でもない急に能力が身についたわけでもない、普通の人間(結構身は軽いし電子工学もかじっているけれど)が努力してヒーローになるのは、確かにMCUでは新機軸。主人公の取り巻きがオバカなのも変化が付いているし、なによりアントマンの戦いにかっこよさとバカっぽさが同居しているのが映画として素晴らしい。

身長1.5センチの超人2人が子供部屋で戦うクライマックスはハラハラ&爆笑。普通だったら「ここでドカーン!(大爆発)」「ここでバシャーン!(大飛沫)」という見せ場になるシーンが、この映画ではそうならず、むしろ真逆の爆笑シーンになってしまうのが実に実に素晴らしい。

主人公スコットと行動を共にする取り巻きたちも、オバカではあるが憎めないキャラクターなのも楽しい。演出と演技の妙ですね。敵アジトに忍び込むため気絶させた相手を最後には助けちゃうし、なによりスコット自身、スーツの力に驚いて一度は返そうとするイイ奴(小心者?)なのが素晴らしい。

MCUというシリーズに含まれることを生かして他の映画に登場したヒーローがゲスト出演してくれたり、次回作への引きもしっかり組み込んでいたり、かつ、ヒーロー映画では珍しい(漫画ではあるけど)主人公が「2代目」という設定も目新しくて素晴らしい。

そしてエピローグ、ダメ人間だったスコットが娘や前妻、前妻の新しい夫などといい関係になっているのもほっとさせられる(えげつないペットが1匹増えていたけれど)。

映画を見ている途中から「今度実際にアリを見たら、背中にアントマンが乗っていないか確かめねば!」なんて思わせてくれたりもして。そういう現実との地続き感はほかのMCU作品にはちょっとない。いやあ実に楽しい作品でした。

「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」では作品自体は楽しめたものの、MCUについていくのも大変だと思っていたけれど、また追う気が出てきましたよ。MCU侮りがたし…。

終わらせるのは簡単じゃない話【鑑賞「進撃の巨人 エンド・オブ・ワールド」】

頑張ったとは思うんです。連載中の原作マンガを映画化するにあたり、何とか「完結感」を出そうと苦心した跡は伺えるんです…。

壁で囲った世界で100年以上暮らしてきた人類は、再び巨人たちの襲撃を受ける。破壊された壁を修復するため、エレンたちは巨人に立ち向かう。が、巨人に喰われたエレン自身が巨人に変貌、他の巨人を撃退する。拘束され追及を受けるエレン。その場に突然、巨人が現れ、エレンを奪い姿を消す。エレンは敵か味方か、そして壁の修復は成功するのか…。

完結編である本作では、基本的に「人が変貌する巨人」しか出てこないのが好印象。主な巨人に「キャラ」があるわけです。前編のようなキモいんだが没個性な巨人は平原を徘徊してるだけ。巨人が人を喰う場面は回想としてしかなかったかな。変化が付けられていて良かったと思います。

アクションシーンは良かったんですよ…
アクションシーンは良かったんですよ…

ただ、登場人物たちの行動原理に首をひねる場面はやっぱり残ってしまった。「自分は生き残るぞ」と言ってた人物が(無駄に)命を賭けてみたり、対立してた相手を突然助けてみたり。

しかし最大の問題は、物語上倒すべきなのが巨人なのか壁なのか(!)分からなくなってしまったこと。

今作における巨人の設定まではまだいい。しかし壁を「支配の象徴」と設定したのは余りに安易、ベタ、お約束ではなかったか。そんなありがちな見方が逆転して「安全の象徴」になっていたのが原作の基本世界観の一番魅力的な点ではなかったか。

その支配者像もどうも説得力がない。大衆の支配を維持するため巨人を意図的に呼び込んで(支配者に対立しかねない)血気盛んな若者を減らす、って…。人口減らして大衆の意欲も減らして、国が成り立つか?

だからといって支配者を守る壁を壊してリセットしようぜと言われてもね…。

真の敵は身内にいた、というお約束は、この世界観では効果的とは思えない。説明的だったり芝居がかったりしたセリフは前編同様、多かったし。アクションの見せ方はよかったのだから、作品世界の骨格もセリフ以外の手法で伝えてほしかった。中盤の「白い部屋」はナシですよやっぱり。

終盤で超大型巨人をぶっ飛ばしてみせても満足感は少なかった。なにしろクライマックスの舞台・壁の中段に、途中で退場したと思われた登場人物たちが突然再登場するので、壁を壊せるかというドキドキよりも「こいついつの間にこんな高いところにまで上って来たの?」というご都合主義を先に感じてしまった。

今作は、前編からの話を終わらせるためだけの内容だった感は否めない。「終わり良ければすべて良し」とは言うけれど、「終わり『良ければ』」ってのは結構高いハードルなのでありました。

期待はもたせてくれた話【鑑賞「進撃の巨人 Attack on Titan」】

とりあえず、後編も見とこうかなとは思える内容でした。

諫山創原作のコミックの実写化。人間を食う巨人が支配する異世界。人類は巨大な街の周囲に巨大な壁を築き、100年の平和をとりあえず維持していた。壁の向こうを知りたいと思う人間も現れる中、突如、壁は巨人によって破られる。壁を再び修復し巨人を駆逐するため、人類の戦いが始まる。

連載中のコミックの映画化なので、完結させるには何らかのオリジナル要素を入れる必要はあるのだろう。でも(序盤しか読んでいないのだけど)原作中には大々的に登場しない内燃機関(エンジン)と原作で大々的に登場する立体機動装置が同居する世界に少し違和感がありました。しかもヘリコプターの残骸も出てくるわけで。

役者陣は総じて頑張っていたと思うんです。
役者陣は総じて頑張っていたと思うんです。

そこらへんの理由はセリフでちらりと語られるのだけど「技術が発達しすぎたので過去に大戦争があったから…」的なもの。ふむ、そうなると今作の真の敵は巨人ではなく人類になるのかな?と後編に向けてイヤな予感もしないではないのです。

また、映画全体のスピード感も良くはなかった。アクションシーンと会話シーンがはっきり分断されているように感じて、会話シーンになると話全体が進んでいないように感じたのだ。

思い出すと、会話のシーンは説明っぽい感じになっていた気がする。前述の世界観の説明もそうだし、登場人物の特徴、今から行うミッション、登場人物間のつながり…。巨人が登場して100年の平和が破られるまでの時点(つまり冒頭)なら、そんな説明に違和感はないんだけど、主役の3人とソウダ以外の登場人物は冒頭の大破壊以後、まとめて出てくるので説明が必要になる→全体の話が止まる、わけで。フェンス越しに次々に登場人物の背景を説明するのだけど、正直、長かった…。中盤、巨人と2回目のバトルがあった後もまた世界観の話や登場人物間の関係の説明があってですね。うーん…。

しかしそんな不満はとりあえず、巨人対人間のバトルで解消はされるのです。原作にそんなに思い入れはないので、オリジナルキャラクター達にも違和感は感じませんでした。シキシマ、いいじゃないですか。原作と比較して前編のクライマックスはココだろうなぁと思っていたところがやっぱりそうで、盛り上がりましたね。アルミンが巨人に捕まる瞬間はひやっとしました〜。

今作もそうだけど完結編の評価もネットで見る限り、そんなに高くはなさそう。うーん、でも、見には行きますよ。次作への引きをちゃんと作っただけでも、今作は及第点ではないでしょうか。

観客は身勝手と自覚した話【鑑賞「バケモノの子」】

あらすじを知って、前作「おおかみこどもの雨と雪」をどうしても思い出してしまった。前作が母性の話なら、今作は父性の話かな、と。おおむね予想通りでした。

人間界とは別の、バケモノたちが住む世界「渋天街(じゅうてんがい)」。渋天街に紛れ込んだ人間の少年・蓮はバケモノ「熊徹」と出会う。蓮は「九太」と名付けられ、熊徹の弟子になる。粗野な熊徹と共同生活をするうちに親子のようなきずなが生まれる二人。成長した蓮は人間界と行き来するようになり、自分が本当に進む道を考え始める。そんな中、渋天街を揺るがす大事件が起こる…

人間界で行われるラストバトルには若干物足りなさが残る。鯨をモチーフにしたのは正直詰め込みすぎではないのか(「白鯨」のエピソードはなくても良かったのではないか)。(結局そうはならなかったとはいえ)敵の倒し方を蓮が知っていたのはなぜか。敵の前に立ちふさがって「私だって闇を持っている!」というヒロイン・楓は正直ウザくないか…とかですね。

キャラクター総登場のキービジュアルもお馴染みですねぇ
キャラクター総登場のキービジュアルもお馴染みですねぇ

でもそこで蓮を助けるために現れる熊徹が良かったのですよ。父性とはこうあってほしい、という作り手の思いが見事に形になっている。

バケモノの世界「渋天街」は、外見が動物人間なだけの連中が現代のトルコかモロッコのような街でふつうに暮らしていてあまり異世界観がない。長老級になると超能力が使え「転生」もできるらしい、人間の心の闇を恐れている、などの設定はせりふで説明される。

渋天街やバケモノたちに必要以上の特殊能力を持たせていないので話がご都合主義になっていない。日常とは違う「だけ」の場所になっていて、今作で語るテーマに普遍性を持たせていると思います。

そんな中、長老以外で超能力(念動力)が使えるのは人間だけ、という設定はキャラクターの行動のみで表現しているのが巧い。ファンタジー、アクションとしての面白味をちゃんと入れているんですね。

で、その「父性」ですが。前作が母親ひとりで子供2人を育てる話だったのに対し、今作は子供1人を男3人で育てる話になっているのが興味深い。その3人がそれぞれの役割を担っている。たとえるなら人としての熱さ、知性、冷静さ、か。

中盤から登場する蓮の実の父も興味深い。成長した蓮にこれまでの話を根ほり葉ほり聞こうとはしない。蓮の自主性に任せている。成長した子供にはこう接してほしい、ということかなー。

かたや敵になる存在の生まれた理由ー育てられ方の違いーもさらりと描写され、蓮との違いを示した。秘密はいつか、きちんと打ち明けなくてはいけないんですよね…。

前作の感想で、2人の「おおかみこども」を育てる花と正反対の行動をとる母親(子供の進路に口出しするような母)なんてのを出して対比されたら最悪だった…と書いていた。

今作では対比する存在を出してきながらもその相手、その周囲の人々も赦されて終わる。存在するすべての者に優しい視点を貫いた、安心のクオリティでした。

しかし…極めて高いレベルで万人受けするような作品だからこそ、観客側からのないものねだり、欲張りだとわかっていても、もっと何か惹きつける、忘れられないシーンが欲しかった。

良いエンターテイメントを意味する「期待に応えて予想を裏切る」という言葉を耳にしたことがある。今作は、期待には十二分に応えてくれたけど予想を裏切るまでには至らなかった。ええそうですよ、こっちの期待値がそれだけ上がってしまってたんだなぁスミマセンモウシワケアリマセン。

というわけで、次作はちょっとくらい設定や物語に矛盾や一見して不明な点があってもそれをぶっ飛ばすような物語世界を見せてほしい。そんなことが許されるアニメ監督ってもう細田監督しかいないんで…。

 

魅力的なのは人間か恐竜か?な話【鑑賞「ジュラシック・ワールド」】

ラプトール!!!!レェェェェックス!!!!(歓喜の叫び)

遺伝子操作で現代に甦った恐竜たちが人間たちを蹂躙する「ジュラシック・パーク」22年ぶりのシリーズ最新作。今回は今まで以上に恐竜の魅力たっぷりの作品になっておりました。

初期のトラブルを乗り越えついに開場した恐竜テーマパーク「ジュラシック・ワールド」。そこでは見物客の興味をさらに引こうと恐竜の遺伝子操作を繰り返し、対人兵器への応用も密かに計画されていた。そんな中、遺伝子操作で生まれた最強恐竜「インドミナス・レックス」が脱走。パークを大混乱に陥れる…!

正直、ツッコミどころは多いです。登場人物に「プロの矜持」を持った者がいないのが何より惜しい。生で見る恐竜にテンションバカ上がりなのになぜか1シーンだけ「パパとママが離婚しちゃうかも…」と泣いている弟グレイ。恐竜には無関心だったのにパークに非常事態がアナウンスされているにも関わらず「おまえ恐竜見たかったんだろ。パークを楽しもうぜ」とコースをそれて恐竜見物を始めインドミナス・レックスに弟ともども襲われる兄ザック。パークの現場責任者ということで通常時は兄弟の扱いを秘書任せにしてたくせに緊急事態になって2人が行方不明になると職場をほっぽりだして探しに行く兄弟の叔母クレア。ラプトルを手なずけつつあったとはいえパークの混乱が収まらないからラプトルを恐竜退治に使おうとすると怒り出す大局観のない、クレアのモトカレで元軍人のオーウェン。

「ジュラシック・ワールド」パンフ
あのテーマ曲も流れて感涙なんだけど、場面とフィットしてないんだよなぁ!

オーウェンくらいかな「恐竜を人間がコントロールするなんてできない」的なことを言ってたのは。それでもオイ!とつっこみたくなったのは上記の場面。オーウェンにラプトル使用を言うのは今作の悪役的立場の人間なんだけど、この場面だけは「こいつの言うことが正しいわ」と思ってしまいました。

人間が管理していた恐竜たちが暴れ出す話なので、ワルい奴ズルい奴ダメな奴はいてもいいけど、プロもいてほしかったのですよ(結局恐竜に負けてしまうとしても)。第1作にはいたんだよねー。

話が進めば進むほど、登場人物のほとんどに魅力を感じなくなっていくのでした。都合良くトランシーバーが通じなかったり、ヘリコプターのパイロットが足りなかったりと不自然な点も多いしなー。

しかしその中で、反比例的に恐竜たちが面白くなってくるのが今作の特徴。インドミナス・レックスが恐竜をただ殺す、という場面は他の恐竜とインドミナス・レックスに一線を引き、インドミナス・レックスを純粋な敵へ仕立て上げる、いい伏線でしたよ。

小型肉食恐竜ヴェロキラプトルに知能があって、人間とも意思の交換ができるかも、という設定は前作で提示されていたもの。それを生かしてラプトルとオーウェン、インドミナス・レックスがぶつかり合うラストバトルも泣ける。

そしてインドミナス・レックスを倒すため解放されるあの恐竜!遺伝子操作の化け物に対峙する「ジ・オリジン」(仮名)!ですよ。大スターが満を持しての登場!中盤ではちらっと姿を見せてただけの演出がここで利く!アオり気味のカメラアングルと相まって非常にアガッてグッとくる名場面!

とこのように、もうクライマックスは完全に恐竜が主役。何なら足下にいる人間たちを2、3人踏んづけてもいいぞとか思ってしまったw。しかしそんなことは起こらず(残念)、パーク内に去っていくラプトルと頂で雄叫びを挙げる「ジ・オリジン」(仮名)に胸を熱くして映画は終わるのでした。

思い返すとこの映画、研究室で恐竜(たぶんラプトル)が誕生するシーンから始まった。なのでラプトルの立場で話を追うと…

人間の都合で生を受け人間と仲間になろうとしていたが真の仲間は誰かを知り、裏切られたとばかりに暴れるがオーウェンだけはやっぱり別…と思っていたけどおいインドミナス・レックス何すんだ貴様ぁ!(以下略)…

と、完全にラプトルが主役。人間は脇役。そう思って見ると倍楽しめるはずですw。

人間も恐竜も本能の赴くままなんだけど、恐竜の方が魅力的なのはなんででしょう~

感情はどれも必要な話【鑑賞「インサイド・ヘッド」】

喜び、悲しみ、怒りなど人の主な感情それ自体を個別のキャラクターにして話をつくったピクサーの意欲作。すべてにおいて成功している、とまでは言いにくいが、なかなかのレベルにまで達しているような作品でした。

両親と幸せに暮らす少女ライリーの心の中には「司令室」があり、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリといった感情たちが住んでいる。彼らはライリーの幸せのため協力しあっているのだ。しかしある日、家族は大都会サンフランシスコへ引っ越すことに。慣れない環境の中、ふとしたきっかけでヨロコビ、カナシミの二人が「司令室」からはじき出されてしまう。ライリーの心から明るい性格や過去の懐かしい思い出が失われ、ライリーは次第に暗く沈んでいく。ライリーを元通りにすることはできるのか?

(イメージソングではなく)テーマ曲が印象的でした
(イメージソングではなく)テーマ曲が印象的でした

夏休みとあって子供たちが結構見に来ていたのだけど、隠喩だらけのこの映画、世界観のすべてを理解するのは骨が折れるかもしれない。

この世界で描かれる心の中の世界は、感情ごとに個別のキャラクターが存在して人間の行動を制御する一方で、記憶や思い出の扱い方は割と機械的、官僚的、システマチックにできている。

その結果、心の中には表面上様々なキャラクターが登場するのだけど、ヨロコビやカナシミなどそれこそ感情的に動くキャラクターがいる一方で、記憶を消去したり夢をつくるキャラクターたちの魅力が足りないのは残念なところ。

いっぽうで他の登場人物の心の中の描写もあり、他の人たちの心の中ではリーダーになる感情キャラはそれぞれ違っている、という設定は心憎い。仲むつまじい両親でも父親はイカリ、母親はカナシミがリーダー。基本的な性格は違っている、というわかりやすい表現ですね。

さて見る前から懸念に思っていたのが「感情を代表するキャラクターたちが中心になるならば、彼らはその設定上、成長・変化はしないのではないか?」という点。彼らは登場した時点で成長の余地のない完成しているキャラクターで、お互い対等な立場のはず。そこから話をつくることはできるのか疑問だった。

まぁそこはやはり話を展開させるためか、ライリーの心の中ではヨロコビがカナシミを邪険に扱っていて、ヨロコビがカナシミの必要性に気づくのがクライマックスになっているのだった。

感情のバランスが取れるのが成長の証と考えれば、ライリーの感情キャラ間で力関係がゆがんでいるのは子供ならでは、とも説明できる。カナシミだけでなくイカリ、ビビリなどネガティブな感情も必要なのだ、というテーマはクライマックスにおける記憶との関係やエピローグの描写を見ても説得力がある。記憶の球の変化にちょっとグッと来たのも事実です。

しかし、テーマは巧く語れているとは思うものの、感情キャラの設定がぶれてしまったのはやはり残念な点だ。ヨロコビが泣いちゃだめだと思うのだ。キャラクターの設定より話の面白さを肝心なところで優先させてしまったなぁ。

一つの感情キャラの変化がその人自身の変化、成長に結びつけきっていないのが詰めの甘さになっていた気がする。作中での「成長」は「司令室」のバージョンアップになっていたけれど、「こうなったら人は成長したことになる」というこの作品上でのゴールが事前に示されていると良かったのではないか?

隠喩の多い設定をなんとか生かしてドラマにしようとした意欲作ではあります。面白い部分もあっただけに「惜しいなぁ」という思いも残る作品でした。

人は崖っぷちを目指す話【鑑賞「セッション」】

才能を活かす。野心を成就させる。人の根源的欲望をガチで叶えようとするとどうなるかを描いたコワいけれど魅力的な話でした。

音楽関係者の方からは「こんな教育法はない」「音楽の魅力を伝えてない」て感じで批判されているようだけど、この話の「音楽」は物語上の素材であって、音楽関係者の方が求める「音楽のリアル」は最初から描く気がなかったのではないか。最初に書いたけど今作では音楽に代表される「才能」と「野心」を描いた話だと思う。

名門音楽大学に入学したニーマンはフレッチャーのバンドにスカウトされる。成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然だが、待ち受けていたのは完璧を求めるフレッチャーの狂気のレッスンだった。恋人や家族の理解をもなげうち、フレッチャーが目指す極みへ這い上がろうともがくニーマンだが…。

甘い言葉をかけておいていざ練習の場になると、ビンタはかますわ本人どころか親まで罵倒するわと、フレッチャーの指導は容赦がない。あげくクライマックスでは事実上、怨恨でしかない仕打ちをニーマンに下す。指導者として明らかにダメな人間としてフレッチャーは描かれている。

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邦題はこの作品の本質を掴みきっていない気がします。

だが一方で、フレッチャーに対峙するニーマンも純粋な人間とは描かれない。親戚の前で野心をあらわにしたり交通事故で血まみれになってもステージに上がろうとしたりと、指導を受ける彼自身も狂気を持った人間なのだった。

教える者と学ぶ者、偉大な才能とは何かという理解も相通じていたがために、クライマックスは二人だけの世界に突入していく。ついにわかり合った二人、という甘美さ、いっぽうで最後まで息子ニーマンに優しかった父を突き放すという、狂気じみた努力が失わせるものも最後はほのめかしている。ニーマンとフレッチャー、二人の今後は決して明るくないように思えるのだ。しかし、しかし…。

何か大きなものを得ようとすると失うものもまた大きい。しかし求めずにはいられない。そんなスレスレの世界を描いたスリリングな作品でした。

(作品)世界は戸惑うほど広かった話【鑑賞「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」】

うーむ、マーベルシネマティックユニバースについていけるか、ちと心配になってきた。

アイアンマン、キャプテン・アメリカ、マイティ・ソー、ハルクといった(マーベルコミックの)ヒーロー達が一堂に会した「アベンジャーズ」シリーズ第2弾。暴走した人工知能ウルトロンとアベンジャーズ達の戦いが描かれる。

シリーズ第2弾なので主要キャラクターの紹介は省いてもそりゃ構わない、のだけど、冒頭繰り広げられるアベンジャーズ達のバトルの理由がよくわからなかった。どうやらこれは前作「アベンジャーズ」後に公開された「キャプテン・アメリカ」シリーズ第2弾「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」から続く話だったんですね。

アベンジャーズを支援する秘密組織シールドの長官ニック・フューリーが中盤思わせぶりに登場するのも「ウィンター・ソルジャー」で組織が崩壊していたから。「ウィンター・ソルジャー」ってそんな話らしかったですね見ようかと思ってたけど見てませんでした。

何気に強力な新キャラ登場してるのも見逃せない!
何気に強力な新キャラ登場してるのも見逃せない!

今作の敵ウルトロンは、宇宙からの敵に襲われるトラウマを持っていたアイアンマンが生み出してしまう。このアイアンマンのトラウマってのも、前作「アベンジャーズ」後に公開された「アイアンマン3」で描かれてはいた。

でも「アイアンマン3」は今作の正当な続編ではない…。

なので、わーい「アベンジャーズ」の続編だーと思って今作を見に行き、前日譚があったことに上映後気づいたときのプチ残念感たるや。「ウィンター・ソルジャー」見てたらもっとアガったんだろうなぁ。

というわけで「アイアンマン」「キャプテン・アメリカ」など各ヒーロー単独のシリーズとヒーロー大集合「アベンジャーズ」シリーズのつながり方がよくわからなかったのが残念ではありました。別々の作品を少しずつ繋げて世界観を深めていくというのは挑戦的な試みではあるけれど、「これ見るなら事前にこれ見とけよー」的な、何か事前に告知していただく方法はなかったのかしら。関連作は全部チェックしとけってことなのかしら。

しかし本作の中の話が進み出すと集中して見ていられるのがこの作品のよくできているところ。ヒーロー達と一緒に戦う一般人・ホークアイが深く描かれているのがよかったですね。ウルトロンにだまされてアベンジャーズと戦うことになる超能力兄妹が登場するんですが、真相を知り戦いの最中にもかかわらず某然とする妹にホークアイがかける一言は今思い出してもグッとくる。ヒーロー爆誕の瞬間ってアガるぜ!なんで日本語版予告編でそこを使うかな!!!(怒)見てなくてホントよかった…。

いっぽうで自分の能力に苦しめられるハルクの姿もまた印象に残ったのでした。対ハルク用のスーツを着たアイアンマンとのバトルも迫力あったし。個性的なキャラクターにそれぞれ見せ場をもたせているなかなかのバランス作でありました。エピローグがちょっと苦いのもいかにもシリーズ第2作な感じ(SW「帝国の逆襲」参照w)。最後にでる「アベンジャーズはまた帰ってくる」というテロップを信じたいところであります。

であればこそ、今作の話の続きが「アベンジャーズ3」で描かれるとは限らないと勉強したのでマーベルシリーズをもう少し詳しくチェックしないといけないなと思いました。でもちょっと面倒臭いかも…

ネットは広く、作品世界は狭まる話【鑑賞「攻殻機動隊 新劇場版」】

このシリーズも閉じてきたなぁ。ネットは広大なのに。

士郎正宗原作のSFコミック「攻殻機動隊」の新シリーズアニメーション。主人公・草薙素子をリーダーとする「公安9課」配下の攻性独立部隊が発足するまでを描く。

サブタイトルは本当、考えてほしかった…
サブタイトルは本当、考えてほしかった…

全4作のアニメシリーズ「攻殻機動隊ARIZE」、それをテレビ版に置き換え、今回の劇場版につながる新エピソードを追加した「攻殻機動隊ARIZE ALTERNATIVE ARCHITECTURE」を経ての今作。制作を聞いたときは「『新劇場版』ってのは仮題なんだろうな」と思っていたら、まさかそのままのタイトルで公開されておりました。うーむ、そこはちゃんとネーミングをしてほしかった。やっつけ感が拭えません。

原作コミックのテーマに向き合った、押井守監督の劇場版アニメーション2作、原作コミックの世界観に薬害問題、移民と戦争、高齢者問題などを混ぜたテレビシリーズ「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」3部作を経て、今回「ARIZE」はキャラクターに向き合ったシリーズにした…と制作者側は考えたよう。

しかし「ARIZE」でやっていることはこれまで同様、電脳犯罪の捜査だし、キャラクター描写もこれまでとそう変わらない。主人公・素子の髪が短いくらい。

もともと「始まりの物語」といっても、登場する主要キャラクターはみないい年した大人でプロフェッショナルぞろい。あまり成長や心境の変化はないし、「ARIZE」シリーズを通じて素子は仲間を増やしていくんだけど、仲間になった連中は「ほとんど」裏切らないので(それっぽい場面はあったけど)、話が進むにつれこれまでのシリーズとの違いがわからなくなった。

で、新劇場版はエピローグでまさかの原作コミック冒頭の某場面をやってみせるんですが、違和感が半端ない…。

原作コミックでは素子やバトーが変顔をするところもあるんだけど、それは漫画としてのデフォルメ表現でありコミック世界の中でちゃんと統一性があった(そう考えると原作コミックの表現の幅広さはすごいな)。新劇場版の話を見た後では、素子が、原作コミックのように出動命令を拒否しても「?」という感じ。

「ARIZE」は原作コミックの中でアニメ化していない部分を探してきた、という感じで、この世界観を使って何か普遍的なものを描こうっていう志を感じなかったなぁ。個人的には、そここそがこのシリーズの魅力だったんで。