王が帰還した話【鑑賞・Godzilla ゴジラ】

キング・イズ・バァァァック!(歓喜)昨年公開のパシフィック・リムもイケイケで燃える楽しい映画でしたけど、すみません「怪獣映画」度ではこちらが明らかに上でした。

今作を見たのが奇しくも(劇中でも触れられていた)8月6日だったってのも何か因縁づいていました。

【あらすじ】日本の原発で起こった原因不明の事故とフィリピンの鉱山で見つかった生物らしき痕跡。その正体が明らかになったとき、ごくわずかの人類しか存在を知り得ていなかった「生物界の頂点に立つ者」が姿を見せる。人間になす術はあるのか…?

何と言ってもゴジラの描写が最高。体の一部しか見せないショットが笑っちゃう&嬉し泣きさせるほどの巨大感を演出する。クライマックスで放つ例の技のかっこよさはマジで泣いちゃう5秒前。心の中で「兄貴!Gの兄貴ィ!」と叫ばずにはいられません。

冷静になって考えると、多少のアラもないわけじゃない。たとえば、今作は事前情報ではあまり取り上げられていなかったが「バーサス」ものだったわけですが、相手怪獣の名称はパンフによると略称だったとのこと。だったらGの兄貴の名称も存在も何かの略称でなければ作中上の辻褄が合わない気がする。

また渡辺謙演じる芹沢博士がGの兄貴を日本語風に呼ぶ(作中での)意味もよく考えると、ない。だって作中の世界では、Gの兄貴は日本に来たことにはなっていないはずなんで。日本とGの兄貴の直接の関係はない。

そうはいっても、話を俯瞰してみると、怪獣の行動原理に原発事故を絡めたり怪獣出現に伴う周辺の状況描写が津波やビル破壊を伴うなど、911や311といった昨今の社会事象を取り込み、怪獣を単なる巨大生物と扱わなかったのが素晴らしい。日本版をリスペクトした製作陣の矜持を感じさせる。前回のリメイク作とか昨年夏のパシフィック・リムでも、人間に対峙するのは巨大生物、でしたものね。「キング・オブ・モンスター」とよばれるGの兄貴(しつこい)ですが、「モンスター」と「カイジュウ」は別物、ってことですよ。

登場する人間も怪獣に対しほとんど無力で、究極の兵器を用いても(だからこの作品を8月6日に見たっていうのがですね!)、ほとんど有効な対策を打てていない。使っちゃった描写は見たくなかった気もするが、描写自体は控えめだし、その後の展開から改めてGの兄貴の偉大さ(人間の矮小さの裏返し)を伝えることにもなっていた。

ところで怪獣映画ファンならすぐ気づくだろうけど、今作の構成は、怪獣映画史に燦然と輝く「守護神G」3部作と極めて似ている。まぁこれはパクったっていうより、怪獣というキャラクターを単なる巨大生物としないで、真面目に突き詰めると結局こうなるってことではあるまいか。

ただ次回作も決定していて、今度はあのみんな大好き黄金3頭龍が出るとなると…。あれは日本版でも宇宙から来たり未来から来たりと、リアリティが薄い存在なのだから、安易に扱うとますます守護神Gシリーズと似てきやしないかと不安ではあります。

っていうか改めて思うに守護神G…平成ガメラ3部作は傑作ですよマジで。とくに第3作は怪獣映画の概念を突き破った唯一無二の傑作だと今でも信じているので(公開初日に渋谷で鑑賞できた至福!)、Gの兄貴の次回作がどこまで迫るか、はたまた別方向に行くか、楽しみであります。とにかくまた帰って来てくれ、Gの兄貴ィ!

二度あることは三度はないんじゃないかという話【鑑賞・マレフィセント】

 

単独で見たら力作なのかもしれんけど、大ヒット作「アナと雪の女王」に続くディズニー作品という点を気にしてしまうと、評価を一瞬、保留したくなる作品。アクションシーンの迫力や主演アンジェリーナ・ジョリーのなりきりっぷりなど悪くない出来だとは思うんだが(たまたまかぶったんだろうけど)「アナ雪」の二番煎じ感はどうしても否めない。

もちろん「アナ雪」と作品上のつながりはないのだが、「アナ雪」は「雪の女王」、今作は「眠れる森の美女」と有名な童話を現代風に再解釈するという試みが同じなら…再解釈した結果まで同じだったってのはやはり大きなマイナスではないだろうか。

人間の国と魔法の国が隣り合う世界。魔法の国の最強の妖精マレフィセントは、人間の国に生まれた王女オーロラに呪いをかける。「16歳の誕生日の日没までにこの子は永遠の眠りに落ちる。目覚めさせるのは真実の愛のキスだけ」。しかしその呪いはオーロラだけでなくマレフィセント自身も苦しめることになる…彼女が呪いをかけた理由とは?

↑見てない人のためにあらすじの書き方がこんな風になりましたが、実際は「呪いをかけた理由」はマレフィセントの生い立ちと絡めて描かれるので、そこが話のポイントではないんですスミマセン。むしろ呪いをかけてからが面白くなる。今作は原作「眠れる森の美女」をマレフィセントの側から描いたような「新訳版」的な位置づけになるのでしょうか。

その結果、キャラクターの行動に一貫性がなくなっている面はある。原作では悪役だったマレフィセントが今作では悩み、迷う存在になっているのはそれがいい方に出たところ。マレフィセントを演じるアンジェリーナ・ジョリーの「アニメのまんまやんけ!」と言わずにはいられないなりきりっぷり。このキャラもいずれディズニーランドのエレクトリカル何ちゃらに出ること間違いなし。このキャスティングが成立した時点で今作の成功は見えていたんでしょうねー。「ルパン三世」はどうかなー(汗)

ただ原作を意識しすぎたのか、その矛盾が一気に出ているのが、原作でも今作でも見せ場のオーロラ姫の誕生を祝う場面。妖精たちがオーロラ姫に幸せの魔法をかけるのだが、今作では妖精たちの住む魔法の国と人間の国は対立している。そんな「敵国」で3人の妖精がフツーに来賓扱いされてるのはなぜ?魔法の国のリーダー的存在のマレフィセントと妖精たちの関係性も分からないし。

また祝いの場にマレフィセントも現れオーロラ姫に呪いをかけるのだが、今作ではこの登場場面、原作以上に大変な意味が生じているはずなのだが、誰もそれを指摘しない。この場面以降、王の立場がまったく危うくならないのもおかしいところ。

まぁ今作はこの場面以降、話の本筋はオーロラ姫とマレフィセントの関係に移り、その描写は役者の演技力で説得力を持たせた(アンジェリーナの目!)ので、観客は楽しめるんですが…先述しましたが主題の新解釈がね。古い話に新しい命を吹き込もうとするディズニーの意気込み、脇役キャラを魅力的な主人公に描き直す力量は感じたけれど、解釈のありかたはそろそろ工夫しないと、いくらディズニーでもさすがに飽きられるかもなぁ。

アメコミも日本の漫画に似てきた話【鑑賞・アメイジング・スパイダーマン2】

アメコミ「スパイダーマン」の新シリーズ第2作。前作を見てシリーズを再スタートする意味があまり分からなかったのだが、今作を見てますます分かんなくなった微妙な作品でした。

今回のメーンの悪役は電気人間「エレクトロ」。前3部作でも出た「グリーン・ゴブリン」も登場。一方、スパイダーマンとしてニューヨークを守るピーターは恋人グウェンの父と最期に交わした「娘を巻き込むな」という約束に苦しむ。それを知らないグウェンはピーターの煮え切らない態度に迷いを持ち、自分の夢だったイギリス留学を優先しようと決心するが…

…というあらすじ以外にもですね、前作でにおわせたピーターの両親失踪にまつわる謎、第3の怪人「ライノ」の登場などはっきりいって盛り込み過ぎ。とくにピーターの両親の謎が本作で明らかになるんだけど、意味付けが「スパイダーマンになれるのはピーターだけ」でしかなかったのに愕然。その秘密を知ったピーターがするのは恋人グウェンへの愛の告白ってどういうこと?オズコープ社への復讐を誓ったりしないの?

アクションシーンは見応えがありましたよ。3Dで見ましたがスローモーションや「マトリックス」でおなじみ(懐かし?)タイム・スライス(場面が止まって視点がぐるんぐるん回るやつ)ショットが絶妙に使われて飽きなかった。スパイダーマンも消防士のヘルメットをかぶったり風邪を引いている時に変身しなくてはいけなくなってニットキャップやダウンベストを着たまま悪人を退治するなど、キャラとして楽しませる工夫はあった。

だけど話が微妙に暗いし、主演のアンドリュー・ガーフィールドも悩める青年って印象なので、(そういう設定とはいえ)スパイダーマンに変身した途端「ヒャッハー!!!」みたいなアゲアゲイケイケになるとは思えん。前3部作のトビー・マクガイアなら説得力があったんだけどね。

そして何より結末ですよ。何だか前向き感を微妙に出した終わらせ方だなぁと思ったら…気がつきました。

週刊漫画雑誌での打ち切り漫画の終わり方なんだ今回は。「闘いはこれからだ!」ってことだもの。

前3部作との違いは両親にまつわる秘密だと思っていたのに、今作で全部ご開帳してしまうし、前作から引っ張ってきた設定をほとんど使い切っちゃってる。こりゃあ今シリーズはここまでだなお疲れさまでした…と思ったのですが、あと2本作るって本当ですかまた3Dでお願いしますそしてまた新作が公開されるあのシリーズとつながるんですか見ておいた方がいいんですか期待していいんですか?

古典の誕生を目撃した話【鑑賞・アナと雪の女王】

 

今作の白眉、日本語版では松たか子が歌う「ありのままで」の場面を見て、今年の冬の東京ディズニーランドのエレクトリカルなんちゃらにエルザとアナと脇役の男2人がいる姿がはっきり見えましたよ。

そして数年後には観客に吹雪が吹いてくる「ミッキーのフィルハーマジック」みたいなアトラクションまでできて、自分が行列に並んでいる姿まで見えました。

それくらい(?)今作の完成度は圧倒的。ディズニーアニメの新しいクラシックが誕生した瞬間に立ち会えた。

王家の姉妹、姉のエルザと妹のアナ。エルザには触れるものを凍らせる“魔法の力”があった。制御できない魔法の力を見せないよう人目を避けて来たエルザだったが、戴冠式の日、エルザは力を制御できなくなり国中を凍りつかせてしまう。エルザは山へ逃げ出し、アナは凍った国と姉を救うため、姉の後を追う…。

思い出してみると細かい部分で省かれている描写もある。エルザが魔法を使えるという記憶を消されたはずのアナが、エルザの魔法を見て大して驚いていない点とか。前半に登場する悪役が後半になると影が薄くなるとか。

しかし、ストーリーの骨格は二人のヒロインをうまく使い、古典的な「王子と王女が結ばれてめでたしめでたし」的な結末になるのか…とみせかけつつ「これしかない」という結末に導いたのが見事。エルザの“魔法の力”の解決方法も悪くない。力を手放すのが答えじゃないんだよね。

思えばディズニーのミュージカルアニメってまともに見たのは初めてだった気がする。圧倒的な完成度の今作を見て、過去作は何故見ていなかったのか思い出したぞ。

「美女と野獣」「アラジン」など過去のディズニーアニメも面白そうだったけど、有名な作品をそのままアニメにした(印象)があったんだった。どうせ「王子と王女が結ばれてめでたしめでたし」的な話なんでしょ、と今でも思っているんです(見てないけど)。

その点今作は万人受けする古風な素材を扱いつつ、今の観客を飽きさせないよう結末は古風にしない。よくできた話でした。

鑑賞したのは吹き替え版だったのだが、単純に声だけ差し替えたような「吹き替え版」ではなかった。あたかも外国産のパソコンソフトを日本人でも扱えるようにした「日本語ローカライズ版」のように、「最初からこのキャラの声はこうだった」と思わせる出来。

何と言っても松たか子…もなのだが、それ以上に神田沙也加とピエール瀧!二人とも歌も声の演技もうまかった。言われなきゃ当人たちと分からない。ピエール瀧の歌はミュージカルの定番、上品なメロディーのコミックソングなのだがキャラのなり切りぶりが完璧。「生まれてはじめて」「雪だるまつくろう」などでの神田沙也加の歌は「e」の音を伸ばし方がお母さんにそっくりなのが微笑ましかった。親の七光りじゃないな、ミュージカルスターですよ。もちろん松たか子の「ありのままで」も言うことなし。

「ありのままで」という歌自体、エルザがようやく得た自由への喜びと、とうとうたどり着いてしまった孤独への絶望がない混じりになった印象的な場面でありました。

アニメとしてももちろん楽しめた。オープニングやエンディングで氷や雪の結晶のイメージが音楽に合わせぱっと広がるのだが、それだけでグッときてしまう。このヤラレっぷり何なんでしょうか。ミュージカルという芸術の魔力でしょうか。これだけのレベルの作品を特定の個人に頼らず集団体制でつくっちゃうんだからディズニー恐るべし。

3D版も見たかったが、4月末から一部劇場では、アメリカでは実施済みの「歌詞字幕付き版」が公開されるとか。一緒に歌うのは恥ずかしくてもコンサートのような雰囲気が楽しめるのかな。こういう映画は繰り返し上映してもいい。見れば見るほど楽しみ方が変わってきそうだ。もう一度劇場で見たら曲に拍手を送ってしまいそう。うーんもう一回見るか?(はまり過ぎ)

物語を語り、人を語ること【映画「永遠の0」】

見てもいないうちから「特攻賛美の映画」とか見た上でも「やっぱり特攻賛美の映画」とか言う人もいるようだけど、全くそんなことはなくて、人を死に追い込む戦争というシステムの恐ろしさとその中でも個人として最善を尽くした人の物語でした。

死んだ祖母が実は再婚だったことを知った孫たちが、祖母の最初の夫はどんな人物だったのか知ろうとする。祖母の最初の夫—宮部久蔵は優秀なゼロ戦パイロットで当時では臆病者ともとられかねない「生きて家族の元に戻る」という心情の持ち主だった。しかし最後は自ら特攻に志願していた。なぜ宮部は特攻を志願したのか?

この物語の最大の謎「家族想いの男が特攻を志願した理由」は、作中、台詞など明確な形では回答が示されない。しかし、観客には分かるんですね。「生きて帰る」のが心情だった宮部は部下にも無駄死にを許さなかった。当然特攻作戦にも(自分のできる範囲で)反対した。しかし、そんな想いが周囲に伝わると「宮部を死なせてはいけない」と、周囲が逆に自身の命をかけてまでも宮部を救おうとしてしまう。それに宮部は耐えられなかった(…のではないかな?)。

自分の思いとは逆のことが起こる理不尽さ。さらに戦争では、個人への尊敬さえも人を死なせる装置として発動してしまう。宮部と同じように特攻に反対していた古参パイロットが「宮部が特攻に行くなら俺は命をかけて送り届ける」と決意してしまうのにゾッとしましたね。もうそれ、自身が特攻に行くのと大差ないから!

とまぁ、生前の宮部が登場する戦中編は登場人物たちの心理描写、戦闘シーンの迫力など見応えがありました。その分、宮部の孫たちが中心になる現代編がねぇ。物語の構造上、どうしても単調な会話劇になってしまうわけですよ。

まず孫たち、カンが働かなすぎ。宮部が特攻出撃の直前に機体を変えた訳はすぐ分かるでしょう。「変えなければ助かったのに!」じゃないよなぁ。

最大の問題点は、最後にすべてを明らかにする生存者の存在。いや普通、死んだ最初の祖父のことを調べるなら、まず初めに話を聞くべき人でしょその人。なんでまわり回って最後に話を聞いているのだ?彼に聞けば生前の宮部がどんな人物だったか、ほぼ分かったよ。

過去の出来事をミステリー仕立てで解明しようとするこの映画の現代編は、全体構造を作っている部分なので(その割に場面自体はどれも単調になりがち)、ストーリー全体を盛り上げようとして無理な構造にした感があったなぁ。

まぁそうはいっても変化を付けようとした箇所もありましたけど。田中泯演じたおっかない男性がすべてを話した後、宮部の孫にした行動とか。あの後の台詞も「あなた、ソッチ系?」と変に思わせるもので良かったですよね。

この作品のテーマの一つに「物語を語っていくことの大切さ」があるようなんだけど(クライマックスで現代編の語り手たちや戦中編の宮部の妻まで(!)カメラ目線になって訴える)、結果として、宮部の孫たちは察することを禁じられてしまっていた。終止聞き役だったので、見終わって考えると、頭の悪い探偵みたいな存在になったのが惜しいところ。ミステリー仕立てで始まった話なので、現代編の最後は孫たちが宮部の思いに気付き「!」となったところで終わってアレが飛んでくると映画の満足感がもっと出たように思うけど。映画としての面白さよりテーマへの誠実さをとったのかな…。

と思って見ていたこの映画、戦中編で描かれる内容は、すべてを現代編の登場人物が知っている訳ではない構造になっている(宮部の一時帰宅の場面など)中で、最後の最後に映画でしか表現できない謎を観客にだけ残して終わってみせた。あぁ岡田君最高。素晴らしい演技でした。さっき書いたのとは別の形で、映画への満足感を与えてくれたんですね。それは「『物語』を語ることはできても、それをもって『人』を語ったことにはならないかもしれないよ」ということ。人間はもっと複雑だよ、ということ。

だからこそ生きている我々はもっと知ろうとしないといけないのかもしれない。分かったつもりにならないでね…。

人生と旅の共通点【映画「ゼロ・グラビティ」】

中身は予告や事前の情報通り。それ以上のことは何も起こらない。だけど見終わったとき、感動し興奮している自分に驚かされる一作。

無重力の宇宙空間で突然起こった事故。助かった宇宙飛行士は地上とも連絡が取れない状況の中、地球への帰還を目指す、という話。

こんなあらすじなので当然帰還できるに決まっているわけだし(全員死んで終わったら意味がない!)、舞台も現代なので宇宙飛行士が突然超能力に目覚めるだの異星人に会うだのと観客の予想を裏切ることも起こらない。こうなるだろうなということがそのまま起こり、それを切り抜けて飛行士は帰還する。

それでもこの映画が観客を捉えて離さないのは、圧倒的な映像美と音楽、登場人物の心理描写が巧みだから。この映画はストーリーでは勝負していないのだ。冒頭、画面の奥の点がシャトルと宇宙飛行士になり、事故発生まで一連の長回しの緊迫感!映像、音楽、演技と映画はストーリー以外にもこんなに観客に訴える要素があるのか、と再認識させられた。

ストーリーは単純だけど、いっぽうで話の構造は、中盤で地球までの脱出ルートが提示される(結末の提示)、一度はくじけ死を覚悟した飛行士が再び立ち上がる(王道的展開)などあって、取っ付きにくい作品にもしていない。わかりやすさも組み込んでいる巧みな作品だった。

(まだ一度しか見ていないのでちょっとあやふやだけど)ついに大気圏に突入する飛行士が「人生は旅だ!この旅に私は後悔していない!」と叫ぶのには、人生を書道に例えた本を読み直したばかりでもあって一度きりの人生を生き切る大切さを感じグッと来ましたね。そしてついに自分の足で大地を踏みしめ立ち上がったときに画面いっぱいに出る「GRAVITY」(重力)という原題。

邦題は「ゼロ・グラビティ」。無重力空間でのサバイバルを描いた映画なのでこれでも間違いではないんだけど、なぜ原題は「重力」なのか—。思うに、この映画が描きたかったのは「重力のある世界に『帰る』」話かな、と。

登場人物も二人だけ。文章で読んだら面白くもないような単純なストーリー(構造は巧みだけど)。それでもきっちり作れば勝負できると踏んだこの映画の関係者たちはすごい。映画の可能性を広げた作品だと思いました。

さて次回は、この映画の劇場観賞後も余韻を味わいたくて自宅のテレビで米版予告編を見ながら考えたことについてです。

哀しみも見える面白さとは【映画「清須会議」】

三谷幸喜、やればできるじゃん(←激烈上から目線)と思わされた一作。やはり力のある人だと再認識させられた。

今回は監督作としては初の時代劇。戦国時代、織田信長(とその長男)が本能寺の変で殺されたことから、織田家の家督を決める柴田勝家、羽柴秀吉ら家臣たちの話し合いが描かれる。

正直、見る前は気乗りしなかった。時代劇と言ってもフィクションではなく史実にもとづいた話なので、史実の一部だけ切り出されても「結末知ってるし」、というのが一点。それに何より、前作「ステキな金縛り」があまりにひどすぎた。

今作は笑わそうという場面はほとんどない。登場人物たちが現代語をしゃべるくらいか。しかし登場人物たちが皆魅力的なので「秀吉が『ぶっちゃけると~…』なんて言う訳ねーだろ」と思うよりも、「『この』秀吉なら言いそうだ」と思わせてしまう。言い回しや振る舞いは絶対現代風の脚色がされていると分かっていても「でもこの作品世界ならありだな」という説得力があった。声が出るわけじゃなかったがそんな場面が十分面白いのだ。そういう意味ではキャスティングがばっちりだったと思う。織田家の家督を決める会議にそろった4人が四者四様。

前作の感想で「次作はもう少し『縛り』のある作品でお願いします」って書いてたら、ほんとにそんな作品だった。変えられない史実を基にした作品で主な登場人物も一人を除いて(西田敏行…!)実在の人物。前述した「結末は分かっている」点も、見終わったときには登場人物たちの今後が分かっているだけにむしろ余韻となって機能した。

強いて言うなら、音楽の使い方か。冒頭、ずーっと伴奏が鳴りっぱなし。しかも軽い。ちゃらけた印象を持たせたので「また前作みたいなドタバタか?」と不安を感じさせた。後半になるとそんな印象は薄れたので、使う場面をもう少し控えるとか、曲調の軽さを控えるとかすればさらに重厚な面白さが出たんじゃないか。

ともあれ「ラヂオの時間」と並ぶ三谷映画の傑作ではないかと思いました。