激烈!単純!しかし細心な話【鑑賞「マッドマックス 怒りのデス・ロード」】

80年代に一世を風靡した伝説のシリーズ「マッドマックス」がグレードアップして帰ってきたぜヒャッハー!!!

最終戦争後の荒廃した世界をひとり生きているマックスは、カリスマ的独裁者イモータン・ジョー率いる武装集団に襲われ、囚われの身になる。折しもイモータン・ジョーの本拠地では、女大隊長フュリオサが若い5人の女たちを引き連れ脱走する。フュリオサを追うイモータン・ジョーたち。共に連れ出されたマックスはフュリオサ追撃の中イモータン・ジョーの一団から脱出し、フュリオサと合流。共に「緑の大地」を目指す…。

パンフレットも気合入ってるぜヒャッハー!
パンフレットも気合入ってるぜヒャッハー!

絶賛の声が多い作品ですが、気になったのは主人公マックスが実は目立たないこと。マックスは主人公というより観客の立場に近い。この点に納得できるか否かは結構大きい気がする。キメてくれるのはマックスの周囲にいるキャラクターで、マックスの視点を通じて観客はこの激烈な映画世界を体験するのだ。

そう激烈。美しく激烈。暴力と破壊の美をこの映画では嫌というほど堪能できる。マックスが囚われ、フュリオサを追うカーチェイスに連れ出され、追い追われる一団が砂嵐に突っ込むまでの序盤でもうお腹いっぱい。文字通り「痛車」と化したトゲだらけの特攻車や改造を施されまくったトラックが砂漠のど真ん中を爆走する。

なんといっても車たちの白眉はネックから火を吹くギターを前面に構えたドラムワゴン。この映画のリアリズムのラインを規定していると言っても過言ではない。ホントに砂漠でサバイバルするなら車を魔改造する必要はないわけで(ISを見よ)、こういった魔改造車を楽しむのが今作の映画的お楽しみなんである。長い棒の上から棒をしならせて襲うなんてもはや曲芸だっての!しかしそれが最高!そしてショットガン婆さんがスーパークールだったということも特筆しておきたい!

ストーリー全体も単純。でありながら、キャラクターの特徴を外見や行動、セリフの端々で手際よく済ませているのは大事なところ。話に無駄がなく、キャラクターの行動に無理がないのだ。

過去作からのビジュアル面でのグレードアップは言うに及ばず、ストーリーも主張・説明しすぎない。映画の醍醐味、面白さをきちんと伝えた快作でした。

人は丁寧に生きていく話【鑑賞「海街diary」】

是枝裕和監督の作品を全部見ていないのに言うけど、これがベストかなぁ。観客も多かった…!

原作は漫画家・吉田秋生の「海街diary」。鎌倉で暮らす3姉妹が、死んだ父の腹違いの娘・すずを引き取ることに。父親に捨てられた3姉妹と、彼女たちに対し密かに自分を責めるすず。互いのふとした言動に戸惑いながらも静かに心を通わせていく話でした。

これでいいのだ、という世界でした
これでいいのだ、という世界でした

説明的なセリフが極力省かれ、かつ、3姉妹が父の死を知ってすずを鎌倉に呼ぶまでが割とあっという間に描かれるので、最初は登場人物の関係や心理状態を掴むのがちょっと苦労する感じ。3姉妹の真ん中・佳乃(長澤まさみ)が恋人と別れた理由もよくわからなかったし(本筋とはあまり関係はないけど)。

しかし、すずが鎌倉で過ごし始めてからは、急に描写がじっくりとした感じになる。自宅の古い日本家屋で梅酒を作る、縁側で涼む、カレーを作る。近所の馴染みの定食屋に行く。サッカークラブでボールを追う。仕事に打ち込む。桜道を自転車で駆ける。花火を見る。友達の家の仕事を手伝う。法事に出る。葬式に出る。墓参りをする。そして海辺を歩いていく。

大きなドラマやキャラクターの感情の爆発などは起こらない(ちょっとした口喧嘩はあるけど)。なんということもない日々の暮らしを断片的につづりながら、4人姉妹を中心に人々の丁寧な暮らしを描いた作品でした。

「丁寧な暮らし」というと、こざっぱりした家でナチュラル&スロー&オーガニック…みたいな、雑誌で描かれるようなライフスタイルのイメージが(身勝手に)あるんだけど、もう少し、地に足をつけた丁寧さってこの映画で描かれている世界かな、と思ったのでした。

印象的だったのは長女・幸(綾瀬はるか)が再会した母にちょっと冷たく当たりながらも、別れ際に母に自家製梅酒を持たせる場面。床下に置いている大瓶から梅酒を小分けするショットが丁寧さを印象付けたんですよねー。

もちろん映画の世界だから現実よりちょっと綺麗に描いている面はある、でしょう。パンフレットにある是枝監督のコメントの中で印象的だったのは、4姉妹が自宅2階の窓から外を見る場面で「自然にはこんなふうに並ばない」と言っていること。フィクションとしての心地よさがさりげなく計算されてはいるのだ。

しかし、だからこそ、見終わった時に、観客一人一人の生活だって客観的に見ればこの映画のように輝いているのでは、と思わせてくれる。

物語終盤、4姉妹の父の生前の様子を知っている喫茶店のマスター(リリー・フランキー)が、すずにぽそっとかける一言が良かった。離れた場所から見守る大人ってカッコいいものです。

変化は静かに進む話【鑑賞「チャッピー」】

人工知能やらロボットやらSF好きには既知のガジェットが頻出しながらも、ひねりのある話が出来てました。

治安維持のため人型ロボットが導入された2016年(!)の南アフリカ・ヨハネスブルグ。ロボットの発明者ディオンはさらに人工知能プログラムの開発にも成功するが、会社からは研究を止められる。諦めきれないディオンは廃棄寸前のロボットに密かに人工知能を導入しようとするが街のチンピラ達に襲われ、人工知能プログラムをインストールしたロボットを奪われる。何も知らない子どものように振る舞うロボットはチンピラ達に「チャッピー」と名付けられ、言葉とともに生死が隣り合わせの社会の厳しい現実、そして自分のバッテリーが尽きかけていることも知って…。

人工知能が空っぽの状態のロボットがチンピラ達と出会う、というのが本作の一つのキモかな、と。人工知能プログラムがインストールされてから急に生々しく動く「チャッピー」が実に印象的。スラングやギャング的振る舞いを知るだけでなく、元が警察ロボットなので街の真ん中に放り出され、他の不良達に「いじめられる」という見ていてキツイ場面もあります。

フィギュア出ないかなぁ…
フィギュア出ないかなぁ…

この作中、倫理的に振舞おうとするキャラクターはロボットのチャッピーくらい。チャッピーの「想像主」ディオンも社のルールに違反してロボットのプログラム更新に必要なUSBメモリを持ち出しているので、完全な善人ではない。いっぽうでチャッピーを利用するチンピラ達も敵に襲われた時は自身を犠牲にして仲間を逃がそうとするなど、完全な「悪」とは描かれない。

チンピラの親玉は出てくるけど、荒廃した街で金と力を独占しようとする「あるある」的キャラクターだし、チャッピーを破壊しようとするディオンと同じ社のライバルも、やったことはいけないんだが「人工知能は危険だ」と考える存在なのである程度の説得力がある。

ロボットに人工知能がインストールされてチャッピーが誕生するまではちょっと退屈な展開(正直「ロボコップ」風なんだよなぁ)だったのだが、個々人が勝手な振る舞いを取った結果として結末になだれ込むので、クライマックスがどうなるか見えにくい面白さがあった。この監督のメジャー第1作「第9地区」もそんな感じだったな。

そういう意味では「面白い!」と思った後のエピローグが若干冗長だった気もする。あそこまで描く必要はあったのかな…匂わせるくらいでちょうどよかった気もする。

今作では「人工知能が限りなく人間に近づいたらどうなる?」という問いかけに一つの回答を描いている。今作を見ている間は「そんなテーマ、日本なら「攻殻機動隊」シリーズ(もうすぐ新劇場版公開!)などで繰り返しやっとるわ」と斜に構えていたのだが、(ほぼ)現代を舞台にしたことで、今作の着地点がかなり違っている…端的に言うとマイノリティーになってしまった点…のが印象に残った。

社会は先進的技術をなかなか受け入れないものだけど、変化は少数者から生まれる。現実から目をそらさずに変化への胎動を感じさせ話でした。

勇気は身近なところにあった話【鑑賞・シンデレラ】

公開から結構経ってしまったので弱干興味が薄まりつつ、いざ見てみたら、なかなか面白かった作品。

おとぎ話の古典「シンデレラ」の実写映画化。ディズニーが手掛けたこともあり、最近の「アナと雪の女王」「マレフィセント」を思い出すと、何か余計な手を加えてないかと多少訝りながら見ました。

いい意味でディズニーらしい映画でした。
いい意味でディズニーらしい映画でした。

ちょっとニュアンスを加えている程度の、上品な実写化でしたね。良い作品でしたよ。

良かったのは、結婚相手を「『小国』の王子」として、王子や王様が国力維持のため政略結婚を考えざるをえない立場に置いたこと。シンデレラをいじめる継母にコンプレックスを忍ばせたこと。

主役以外に「弱さ」を持たせたので、物語に深みが気がします。

余談ですが「ガラスの靴」ってディズニーの創作だったんですね。

「本当の魔法は、あなたの勇気」という惹句も、今回は的を射ていたと思う。シンデレラという話で何故勇気が出てくるのかと思ったけど、今作で描かれる勇気は、強大な敵に立ち向かう類いのものでなく、耐えるとか許すとか、相手が雲の上の存在でもちょっと声をかけるとか、そんな身近な勇気だったように思う。

折角なんだから、最後に二人が式を挙げるのは、「あの城だったら完璧だったかも。冒頭にあの城が出た時は「ディズニーだから当たり前」と特に気にならなかったんだけど…。

過去は肯定するがましという話【鑑賞・バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】

さぁこのエンディングはどう解釈すればいいのだろう。あまりに気になるのでネットを散策してみたが、ポジティブに取る人ネガティブに取る人、解釈はいろいろでありました。自分としてはポジティブな側に立ちたいかな。

映画俳優リーガンは、かつてヒーロー映画「バードマン」で一世を風靡したがそれ以降ヒットには恵まれていない。再起をかけ、自身の脚色・演出・主演でブロードウェイの舞台に立とうとしていたが、付き人を任せた実の娘はクスリを止められず急遽採用した代役は実力はあるものの身勝手な男でプレビュー公演をめちゃくちゃにするし映画人が嫌いなベテラン演劇批評家からは最初から相手にされない。苦悩するリーガンの耳元では決別したはずの「バードマン」が度々現れ「もうやめちまえ」とささやく…果たして公演は成功するのか?

音楽もかっこよかった!
音楽もイカしてた!

特徴的なのが(ほぼ)長回しのショット。映画冒頭からクライマックスまでほぼ1ショットでカメラが回る。途中つながりが若干不自然な箇所もあったけど。演劇が本作では重要な要素になっているからか、場面が切り替わらない一連のショットは演劇的でもあった。楽屋から舞台へ視点が流れていくのも現実と虚構がつなぎ目なく繋がっているかのようでもありました。

パンフレットではこの映画を「ファンタジー」と評していたけれど、個人的にはブラックコメディと感じましたね。非現実的な場面もあったけれど、公演を成功させようと四苦八苦するリーガンの様子、プレビュー公演でリーガン自身の不注意で起こしたトラブルとその顛末などネット社会の今への皮肉も聞いていた。

で、ポスターや予告編でも紹介されたクライマックスの場面。結局これもリーガンが見ていた幻想ではあるんだけど、身投げ未遂から一転、「バードマン」だった過去の自分と現在の折り合いをつけた良い場面でした。

そんな風にある種別の次元に行ってしまったリーガンがどうなったか、を語ったエンディング。なぜリーガンの娘サムは窓から外を見上げ微笑んだのか。

…自分は娘が父親(リーガン)を本当に理解した場面、と受け取りました。この作品中では何度か異常なことが起こるけれど、それはリーガンの幻想=リーガンにしか見えていない世界だった。映画最後のショット、幻想が娘のサムにも見えたかのような描写は、娘が父親を理解したのではないかなと(若干無理筋かもしれないが)ポジティブに解釈したい。

この場面で起こったと思われる出来事をそのまま受け取ったのではブラックすぎる気がするんだよなぁ。

こういう、いろいろに解釈できる話って嫌いじゃないんですね。大人な映画でした。

楽しいのがちょっと楽しめなかった話【鑑賞・ベイマックス】

中身ふわふわのコロッケを口に入れたつもりが肉汁たっぷりのトンカツだったよ若干腑に落ちないが旨かったね!…とこの映画を評したら、見た人にはわかってもらえるのだろうか…。

「アナと雪の女王」以来の、2014年冬公開のディズニーアニメ映画。見終わっての感想は「『面白い』じゃないか!」でした。

【あらすじ】マイクロロボットを一人で発明した天才少年ヒロは、同じく介護ロボットを開発している大学生の兄を不慮の事故で亡くしてしまう。ふさぎ込む彼の前に現れたのは兄が開発していたロボット「ベイマックス」。ベイマックスによって癒されたヒロは、自分が開発したマイクロロボットが何者かに悪用されようとしていることを知り、ベイマックスとともに真相を探ろうとする。事件の真相、そしてベイマックスに託されていた兄の思いとは…。

ええ、娯楽作品としてきちんと楽しめる作品でしたよ。冬休み中に見たので客席の子供たちはベイマックスのグータッチに爆笑するなどいい雰囲気。白煙を吹き出しながらサンフラントウキョウの空を飛ぶベイマックスのアクションは目を見張った。事件の黒幕も(お約束かもしれないが)意外性を持たせ、残酷さを持たせず解決する。そしてディズニーアニメには珍しく「これは続編の可能性ビンビンにあるな…!」と思わせて終わる。方位的に「楽しませよう」という配慮があった作品でした。

そんな作品な分、日本国内でのこの作品の宣伝の方向性に納得がいかなかったわけで。兄弟愛がメーンのような宣伝だったでしょ。でも明らかにこの映画は(原作通り)ヒーロー誕生譚なわけですよ。スパイダーマンやアイアンマンといったマーベルコミックの流れを汲んだ作品なわけですよ。作品の持っているカラー通り、アクション映画として宣伝しても全く問題ない気がしたんだけど。米国版の宣伝ポスターも検索すればいっぱい出てきますけど、あきらかに「ソッチ方面」だったのに、予告編やNHKのドキュメンタリーを見た限りでは泣かせる系って感じのアピールだった。

確かにじーんとさせる場面もあるんだけど、本編の作り手たちが「ディズニーアニメの新しい可能性を見せたぜ!」って思ってるのかもしれんのに、作り手でない人たちが「ディズニー=感動、泣かせる」とか決めつけてない?見終わって「面白かったんだけど、何か騙された気がする…」というのが正直な感想でした。まぁ次作はさすがに見る側もアクション映画という前提で見るでしょうけど。

ちなみに泣かせるというなら、同時上映の短編「愛犬とごちそう」がガチですw。3Dの体に2D風のテクスチャで描かれる子犬が愛らしいことこの上ない…!

弱い力が人をつなぐ話【鑑賞「インターステラー」】

久しぶりの骨太SFキターッ!な一作。科学的にあり得るぎりぎりの線とフィクションを高いレベルですりあわせた充実の作品となっております。

【あらすじ】植物が次々に枯れ、人類が住めなくなりつつある地球。人類は移住できる他の星を探すため密かに探索を開始していた。あるきっかけで探索チームに加わった元宇宙パイロットの男は「行かないで」という娘の願いを振り切り、時間と空間を越えて星々の中へ飛び立つが…。

「2001年宇宙の旅」「コンタクト」などにつながる、最新科学考証をできうる限り盛り込み、エンターテイメントとして見せる「ハードSF」映画。スター・ウォーズのような「スペース・オペラ」とは違い、作品世界は現在考え得る物理法則、宇宙科学に支配されているのです。

空間をつなぐ「ワームホール」の説明などは作品内でもあったけれど、最新の宇宙物理学を解説する、リサ・ランドール「ワープする宇宙」を偶然にも読んでいるので「時間と空間のゆがみ」という概念がうっすら頭に入っていたのが助かった。主人公の家で起こっていた“ポルターガイスト現象”の種をあかすクライマックスでは「その“概念”を映像化してくれたか!」と涙が出そうになりました。本を読んでもわかるようでわかりにくい部分なんだよねー。

頭使うのが楽しい映画でした
頭使うのが楽しい映画でした

先述した2作と比べると、人間ドラマに比重が置かれているのもポイントか。父と娘の心のつながりを描くのに重力を用いるというアカデミックさ!重力って科学者の間では自然界にある4つの力のうち、非常に弱い力とされているそうなのだが(詳しくは検索してください)、その弱い重力と親子「愛」という、これまた強さがあやふやな力が組み合わさって大きな奇跡を成し遂げるのが実にドラマチックでした。

けれど、作品の核となる概念、いわゆる「ウラシマ効果」はどこまで知られているんだろう。知らない人からすると、「星の上での1時間が7年って?」となりそう。

そして「2001年」「コンタクト」同様、この作品でも、作劇上避けられないのかもしれないが、登場人物間の対立が描かれてしまう。特に今作では人類救済計画としてA案、B案が提示され、A案を成立させる候補に3つの星がある…という前提でさらにそれを転換させていくのでややこしい。なおかつそれを主人公のいる宇宙と主人公の娘がいる地球の話を交互に描きながらすすめるので、「この人はなぜ反対しているの?」と少々混乱してしまう。

まぁ今考え直すと、今作で描かれる対立とは「未来を信じるか否か、人間の力を信じるか否か」に帰結するように解釈できますが。その視点でクライマックスは、科学で解明できうる世界から一気にフィクションの世界へ飛び込むわけです。しかしそんなフィクションの世界で効果的に使うツールが先述の「重力」なわけで。この使い分けが実に絶妙で「ハードSFだなぁ!」と思うわけですよ。

そしてエピローグ。劇中で繰り返される詩の一節が実に胸に迫るのです。進め、進もう。科学の面白さをもう一度思い出し、未知の世界へ。SF(サイエンス・フィクション)という、よく考えると矛盾しているこの言葉の意味がよくわかる作品でした。

静かなだけでは物足りない話【鑑賞・蜩ノ記】

うーむ、この作品で伝えたかった「武士道」はわかったけどなぁ。ベタな演出まではいらないんだけど、もう少し盛り上げて欲しかった作品でした。

【あらすじ】側室と不義密通し小姓を斬り捨てた罪で切腹を命じられた郡奉行の戸田秋谷(とだ・しゅうこく)。しかし藩の歴史書「家譜」編纂の命もあり、切腹は十年後となった。残り三年となったころ、監視役として檀野庄三郎(だんの・しょうざぶろう)が秋谷の元にやってくる。切腹の日が近づく中、淡々と家譜の編纂に励む秋谷に庄三郎は次第に感銘を受け、秋谷が切腹に追い込まれた事件の真相を探り始める…。

「蜩ノ記」パンフレット
堀北真希ちゃんがちょっと現代顔で浮いてたかな…

この秋谷、予想通り無実の罪を着せられているわけですが最期まで泰然としている。それは事の次第をあらかた知っていながら亡くなった先代の殿様の思い…事件が表沙汰になって藩を潰すわけにはいかない…に応えるためで、それがこの作品で描かれる「武士道」。滅私奉公の極みですね。

だけど覚悟をしたからには、のこる人たちはちゃんと暮らしてほしい、という思いも秋谷にはあった。それがあらわになるのがクライマックスだったのですが。

秋谷の無実の罪を晴らす勧善懲悪な展開にしてしまうと武士道と対立してしまう、…という訳ではないだろうけど、後半は秋谷の息子・郁太郎が作中の敵役に会おうとし、庄三郎もそれに加担してしまう。しかも郁太郎の理由が「死んだ友の無念を晴らす」って事になっているのがうむむ、となってしまう。

個人的な思いを果たしたい郁太郎に対し、秋谷や庄三郎は敵役に「善政をなせ」という叱責の思いからの行動…とも取れる。でも事が済んだ後でも秋谷は郁太郎に「真の武士道」を伝えるべきではなかったかな。死んだ郁太郎の友人こそ、農民とはいえ郁太郎より侍らしいので、郁太郎の行動はいくら少年とはいえ、この作品で語られる武士道には反しているように思える。

どうせなら郁太郎をはさまずに、秋谷がいきなり行動すれば「切腹の覚悟を固めていたのになぜ?」と思えてその後の展開も盛り上がったのではないか。

また秋谷たちの行動を受けて敵役が綺麗に説明口調で改心してしまうのもどうでしょうか…。

なんだか、登場人物たちが心情を丁寧に述べすぎていた気がする。状況を説明するときなどは時代劇っぽい、一聴しただけでは分かりづらい単語や語尾を使っていたので、ギャップを感じてしまった。

あとカメラワークですかね。「ワーク」と言っても実際はほとんど動かず、カメラの中の人物はだいたい、胸から上を全部撮る「バストショット」で正直、単調でした。アクションシーンではさすがに横移動したりするんだけど。逆に会話のシーンで急にズームしたので「?」と思ったことも記しておきます。

小泉監督の作品を見たのは「博士の愛した数式」と、これ。「博士…」ではあまりカメラワークに違和感は感じなかったんだけどなぁ。

ひょっとしたらもっとオトナになって、組織のために(切腹という意味でなく)自分を殺すようなことでもあるとこの作品の評価も変わるのかもしれない。そう思いたくなるくらい、かっちりと作ろうとしている一本ではあったが…。作品を見たこちら側が「作り手たちは“黒澤明の後継者”」って部分に構えてしまったか。でもあらすじ自体にサスペンス的要素もあるのだから、黒澤明だったらもっとメリハリを付けてくれたのでは?

もっとノッていただきたかった話【鑑賞「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」】

主要キャラクターの魅力で乗り切った感じの作品。でも…もっとうまくできたんじゃないかなぁ。

何者かによって宇宙にさらわれた地球の少年、ピーター・クイル。成長した彼は宇宙をかけるとレジャーハンターになっていた。彼は謎の球体「オーブ」を盗み出したのを機にアライグマ型クリーチャー・ロケットと樹木型ヒューマノイド・グルートの賞金稼ぎペア、さらに謎の暗殺者ガモーラに襲われ、彼ら共々宇宙刑務所に投獄される。「オーブ」の正体を知るべく、4人は刑務所一凶暴な囚人・ドラックスと組み脱獄。「オーブ」の秘密を知った5人は銀河を滅亡させようとする闇の存在と闘うことに…という話。

残念だったのは主人公・ピーターにもう一つ感情移入できなかった点。母が死んだ直後に宇宙人にさらわれる、というオープニングから一気に26年後、母の形見のミックステープを聴きながら軽〜い感じでお宝探しという現在に飛んでしまう。大人になった性格もどっちかというと「イイやつ」。でも両親がいないからってそんなに異世界になじんじゃうわけ?

その分、他の4人は話の合間合間に自身の経歴や思いが分かってくるので、感情移入は比較的しやすい。とくにドラックスは感情移入しやすいキャラクターで、今思い出すと、話を引っ張っていたのは彼ではないかという気もしないではない。中盤で敵の親玉と一戦交え敗れるけど終盤で再挑戦、という役なので。

何より5人ともそんなに「ダメ」でもなければ「悪党」でもない…と書いてきて、日本の漫画「OnePiece」にキャラクターの雰囲気が似てる気がしてきたぞ。普段はボンクラでチグハグだけどここ一番では決める。メンバーに動物がいるのまで一緒やんけ。

そんな連中がクライマックスで手をつなぐ場面。ここはちょっとグッときましたね。会話でなく行動で「仲間」になったのがいい。劇中頻繁に流れる70年代〜80年代ヒット曲も最後でようやくはまった気がする。ラスト2曲の選曲は良かったですね。あと脇役ですが、ピーターの育ての親・盗賊ヨンドゥもいい味を出していました。

先述したピーターに感情移入しにくかった面は、(制作決定している)次作に持ち越しのよう。第1部としては平均点って感じかなぁ。主要キャラの説明はもう終わったのだから次回作は(ドラックス以外の)内面をもっと描いてほしいものです。

消えたあの人が偉大だった話【鑑賞 トランスフォーマー/ロストエイジ】

エピローグでようやく「次回はこれまでと違う展開になるのか?」と思わせる、「シリーズ再構築ってことらしかったけど大して変わってなかったやん」な一作。むしろ、前3作から失われたものの大きさにも気付いてしまいました。

前作「ダークサイド・ムーン」で描かれたシカゴでのトランスフォーマーたちの闘いから3年。オプティマス・プライムら正義のオートボットたちは人類から敵視されるようになり、姿を潜ませていた。いっぽうCIAは謎の大企業や第3勢力のトランスフォーマー、ロックダウンと共謀し秘密の計画を企てていた。身を隠していたオプティマス・プライムは一人娘と暮らす貧乏な発明家のケイドに買われ、再起を図る。が、CIAの「オートボット狩り」の手が迫る…

パンフレットによると前作までの監督マイケル・ベイは3作までで降板するつもりだったがスタジオ側がシリーズ続行を決定したことで結局再登板したそう。なので今作では第3作まで登場していた人間側のキャラクターを一新、シリーズ再構築のような雰囲気になっている。

…なのに人間たちに全く魅力がないのはなんででしょう。いや、もともと旧3作に出てくる人間たちも大して魅力はありませんでしたよ。でもねぇ。

旧3作、見ている間は「見たいのはオプティマス・プライム様だから人間キャラなんかどうでもいいわい」と思っていたけれど、いざいなくなるとその存在の大きさに気付いたのです。とくに主人公の「サム」ですね。

とくに第1作で顕著だったわけですが、サムは自分が買った車が突然変形する機械生命だったのに驚き、そしてその機械生命・バンブルビーと友情を深めていく。サムは我々観客とトランスフォーマーたちを結ぶ存在として機能していた。

でも彼が登場しない今作では、正義のトランスフォーマー「オートボット」たちと人間たちの交流が印象に残らなかった。クライマックスでの「共闘」はあったけどね。サムが消えたせいか、バンブルビーも何だかやんちゃなだけのキャラクターになっていて、前作までで見せていた「かわいさ」がなくなった。俺の知ってるバンちゃんはどこにいったんだぁ!

「悪」の側の人間とトランスフォーマーが共謀するなど今作から取り入れた設定上の新機軸もある。でも基本的な構成は前3作とまだ同じ。トランスフォーマーたちがドンパチやっている真下で、人間たちが、自分たちが持てるサイズのものを持って右往左往する。前作が2時間半、今作が2時間45分(!)だったけど、正直長過ぎた。その割りに第3勢力「ロックダウン」の正体もよく分からなかったし、恐竜に変身するトランスフォーマー「ダイノボット」たちも終盤突如現れるので説明不足だし。

で、エピローグですよ。オプティマス・プライムが決着を付けるべく旅立っていくんですが、そんなことができるならその能力、もっと早いうちから使えばよかったんじゃないの?と思わずにはいられません。第2作で同じようなシーンを見た時には気持ちがアガッたんだけどなぁ。

これまで以上に明らかに次を意識した終わり方だったし、本当に次回作がこの話を受け継ぐ形で描かれるなら、作品世界がいよいよ広まるのは間違いないんだけど、そうなると今作以上に話が訳分からなくなりそうな気も。シリーズを続ける限界も見えてきた気がしますが、果たして。