感情はどれも必要な話【鑑賞「インサイド・ヘッド」】

喜び、悲しみ、怒りなど人の主な感情それ自体を個別のキャラクターにして話をつくったピクサーの意欲作。すべてにおいて成功している、とまでは言いにくいが、なかなかのレベルにまで達しているような作品でした。

両親と幸せに暮らす少女ライリーの心の中には「司令室」があり、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリといった感情たちが住んでいる。彼らはライリーの幸せのため協力しあっているのだ。しかしある日、家族は大都会サンフランシスコへ引っ越すことに。慣れない環境の中、ふとしたきっかけでヨロコビ、カナシミの二人が「司令室」からはじき出されてしまう。ライリーの心から明るい性格や過去の懐かしい思い出が失われ、ライリーは次第に暗く沈んでいく。ライリーを元通りにすることはできるのか?

(イメージソングではなく)テーマ曲が印象的でした
(イメージソングではなく)テーマ曲が印象的でした

夏休みとあって子供たちが結構見に来ていたのだけど、隠喩だらけのこの映画、世界観のすべてを理解するのは骨が折れるかもしれない。

この世界で描かれる心の中の世界は、感情ごとに個別のキャラクターが存在して人間の行動を制御する一方で、記憶や思い出の扱い方は割と機械的、官僚的、システマチックにできている。

その結果、心の中には表面上様々なキャラクターが登場するのだけど、ヨロコビやカナシミなどそれこそ感情的に動くキャラクターがいる一方で、記憶を消去したり夢をつくるキャラクターたちの魅力が足りないのは残念なところ。

いっぽうで他の登場人物の心の中の描写もあり、他の人たちの心の中ではリーダーになる感情キャラはそれぞれ違っている、という設定は心憎い。仲むつまじい両親でも父親はイカリ、母親はカナシミがリーダー。基本的な性格は違っている、というわかりやすい表現ですね。

さて見る前から懸念に思っていたのが「感情を代表するキャラクターたちが中心になるならば、彼らはその設定上、成長・変化はしないのではないか?」という点。彼らは登場した時点で成長の余地のない完成しているキャラクターで、お互い対等な立場のはず。そこから話をつくることはできるのか疑問だった。

まぁそこはやはり話を展開させるためか、ライリーの心の中ではヨロコビがカナシミを邪険に扱っていて、ヨロコビがカナシミの必要性に気づくのがクライマックスになっているのだった。

感情のバランスが取れるのが成長の証と考えれば、ライリーの感情キャラ間で力関係がゆがんでいるのは子供ならでは、とも説明できる。カナシミだけでなくイカリ、ビビリなどネガティブな感情も必要なのだ、というテーマはクライマックスにおける記憶との関係やエピローグの描写を見ても説得力がある。記憶の球の変化にちょっとグッと来たのも事実です。

しかし、テーマは巧く語れているとは思うものの、感情キャラの設定がぶれてしまったのはやはり残念な点だ。ヨロコビが泣いちゃだめだと思うのだ。キャラクターの設定より話の面白さを肝心なところで優先させてしまったなぁ。

一つの感情キャラの変化がその人自身の変化、成長に結びつけきっていないのが詰めの甘さになっていた気がする。作中での「成長」は「司令室」のバージョンアップになっていたけれど、「こうなったら人は成長したことになる」というこの作品上でのゴールが事前に示されていると良かったのではないか?

隠喩の多い設定をなんとか生かしてドラマにしようとした意欲作ではあります。面白い部分もあっただけに「惜しいなぁ」という思いも残る作品でした。