人生は肯定したがマシという話【書評・四畳半神話体系】

51SBa3cat3L人生も編集だ」という本にもちょっと通じるところもあるこの小説。人は大なり小なりの岐路で選択を繰り返す(人生を編集する)のだけど、選択をやり直せたら人生はどう変わるのか…?という話です。

バカバカしいほどに自意識過剰だけど根は気弱で真面目な「私」は京都の大学生。ボロボロの四畳半アパートで悪友・小津や階上に住む謎の先輩の襲来を受けながら「私の夢見たキャンパスライフはこんなんではなかった…」「1回生の春、違うサークルに入っていたら黒髪の乙女と付き合って一点の曇りもない学生生活を満喫していたはず…orz」と妄想しがちな日々。3回生になったある日、街角の占い婆さんにふらっと見てもらったら好機を捕まえるヒントを教えられ…

日を分けて読んでいったのだが、改めて読むと「乱丁か?」と思うほど同じ表現の箇所が続出する。前後を読み直して、やっとそれが作者の意図的なものとわかる。

なんだかツンときた登場人物たちのセリフもあったので挙げていくと…

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々が持つ可能性ではなく、我々が持つ不可能性である 」

「腰の据わっていない秀才よりも、腰の座っている阿保の方が、結局は人生を有意義に過ごすものだよ」
「本当にそうでしょうか」
「うむ…まあ、なにごとにも例外はあるさ」

少々選択が違ったからといって人の運命はそうそう変わらない…身も蓋も希望もないような結末かもしれないが、憎めない悪友や妖しげな年長者、普段はクールだけど意外な弱点を持ってる異性に囲まれた「私」の3回生の暮らしはどう転んでもちょっと面白くちょっとロマンチック。

最終章で「私」がたどりついたように、自分のこれまでとこれからを、とりあえず大目にみてやるにやぶさかではない…そう思いたくなる楽しい話でした。この作者の他の小説も読んで見ることにしよう…!

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二度あることは三度はないんじゃないかという話【鑑賞・マレフィセント】

 

単独で見たら力作なのかもしれんけど、大ヒット作「アナと雪の女王」に続くディズニー作品という点を気にしてしまうと、評価を一瞬、保留したくなる作品。アクションシーンの迫力や主演アンジェリーナ・ジョリーのなりきりっぷりなど悪くない出来だとは思うんだが(たまたまかぶったんだろうけど)「アナ雪」の二番煎じ感はどうしても否めない。

もちろん「アナ雪」と作品上のつながりはないのだが、「アナ雪」は「雪の女王」、今作は「眠れる森の美女」と有名な童話を現代風に再解釈するという試みが同じなら…再解釈した結果まで同じだったってのはやはり大きなマイナスではないだろうか。

人間の国と魔法の国が隣り合う世界。魔法の国の最強の妖精マレフィセントは、人間の国に生まれた王女オーロラに呪いをかける。「16歳の誕生日の日没までにこの子は永遠の眠りに落ちる。目覚めさせるのは真実の愛のキスだけ」。しかしその呪いはオーロラだけでなくマレフィセント自身も苦しめることになる…彼女が呪いをかけた理由とは?

↑見てない人のためにあらすじの書き方がこんな風になりましたが、実際は「呪いをかけた理由」はマレフィセントの生い立ちと絡めて描かれるので、そこが話のポイントではないんですスミマセン。むしろ呪いをかけてからが面白くなる。今作は原作「眠れる森の美女」をマレフィセントの側から描いたような「新訳版」的な位置づけになるのでしょうか。

その結果、キャラクターの行動に一貫性がなくなっている面はある。原作では悪役だったマレフィセントが今作では悩み、迷う存在になっているのはそれがいい方に出たところ。マレフィセントを演じるアンジェリーナ・ジョリーの「アニメのまんまやんけ!」と言わずにはいられないなりきりっぷり。このキャラもいずれディズニーランドのエレクトリカル何ちゃらに出ること間違いなし。このキャスティングが成立した時点で今作の成功は見えていたんでしょうねー。「ルパン三世」はどうかなー(汗)

ただ原作を意識しすぎたのか、その矛盾が一気に出ているのが、原作でも今作でも見せ場のオーロラ姫の誕生を祝う場面。妖精たちがオーロラ姫に幸せの魔法をかけるのだが、今作では妖精たちの住む魔法の国と人間の国は対立している。そんな「敵国」で3人の妖精がフツーに来賓扱いされてるのはなぜ?魔法の国のリーダー的存在のマレフィセントと妖精たちの関係性も分からないし。

また祝いの場にマレフィセントも現れオーロラ姫に呪いをかけるのだが、今作ではこの登場場面、原作以上に大変な意味が生じているはずなのだが、誰もそれを指摘しない。この場面以降、王の立場がまったく危うくならないのもおかしいところ。

まぁ今作はこの場面以降、話の本筋はオーロラ姫とマレフィセントの関係に移り、その描写は役者の演技力で説得力を持たせた(アンジェリーナの目!)ので、観客は楽しめるんですが…先述しましたが主題の新解釈がね。古い話に新しい命を吹き込もうとするディズニーの意気込み、脇役キャラを魅力的な主人公に描き直す力量は感じたけれど、解釈のありかたはそろそろ工夫しないと、いくらディズニーでもさすがに飽きられるかもなぁ。

思考力は2種類あった話【書評「評価経済社会」】

51LJYadud2L発想は面白く、論の雑さは極めて残念。これからの社会は貨幣を交換する「貨幣経済社会」から、評価と影響を交換し合う「評価経済社会」に移行する、と考察した本。

将来のことはわからないんで著者の主張を無下に否定するのもなんなんですが、過去はともかく、前提条件となる現在社会の認識が極めて雑なので「そんなカンタンに貨幣経済がなくなるわけない」と思ってしまう。

どう雑なのかというと、具体的なデータを提示することなく「今の社会はこうだ」「今の若者たちはこう考えている」としてしまうから。一箇所でも著者の主張に「そうだっけ?」と思ったが最後、もうその先は読めなくなってしまう。前提が納得できないのだから、結論に納得できないのも当然でしょ?

著者は、オカルト番組を見る「私たち」はインチキなら科学の力で暴けとか考えず、「ふぅーん、そんなこともあるかもしれない」と考えながら見ているのだ…というけれど、この本全体が「ふぅーん、そんなこともあるかもしれない」程度の議論でしかない。この本の表現からまた借りれば「本質ではなく著者自身の気持ちでのみ値打ちを計ろう」としている。

「いつまでもデブと思うなよ」は著者自身の体験を元にした本だったし、最初に読んだ「オタク学入門」は斬新だった。だけど、今にして思えば「オタク学入門」は著者の視点や発想が面白いだけで済んでいた。未来予測に論の中心を移した時点で、視点や発想と言った瞬発力的思考でなく自説の正しさをどう証明するかという持久力的思考も必要になる。

扱う語の定義もきちんとしてほしいし。著者が「科学主義は死んだ」というときの「科学主義」とは「民主主義、資本主義、西欧合理主義、個人主義と言った価値観を含む一つの世界観のこと」なのだそうだ。それ曖昧過ぎて何を指してるかわかんないんですけど!orz

未来予測」も結論はトンデモナイところまで行ってしまっていたが、著者の逡巡まで含まれていた分、読者には誠実さを与えた。

この本の結論は頭の片隅に置いておくとして、個人的な感想は「頭の良さにもいろいろある」ってところでしょうか。

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スポーツの影響力を考えた話【鑑賞・民族共存へのキックオフ】

以前紹介したイビチャ・オシムの祖国ボスニア・ヘルツェゴビナに関するドキュメンタリー。テーマは同じ、っていうかオシムへのインタビューなど取材素材も同じ…なのだが、もう少し一般的にわかりやすくなっていた。

ボスニア内戦のあらましと現在のボスニア・ヘルツェゴビナ代表チームの主要選手の紹介…異なる民族から構成されていることや、選手たちが内戦を体験して来たこと。そして何より、オシムが旧ユーゴ代表監督を務めていたころから民族間の対立は始まっていたこと(このとき、ストイコビッチも代表選手でいたんですね、知らなんだ…)。

今のボスニア・ヘルツェゴビナ代表に対しても、別の民族と同じチームにいることで選手を裏切り者呼ばわりする人も残る。内戦の傷は深いが、選手たちは「民族を超えて一つになることが僕たちを成功に導く」と考えW杯に挑む。

ドラマ「ルーズヴェルト・ゲーム」でもスポーツを素材に団結を訴えていたけど、ボスニア・ヘルツェゴビナの場合、団結を失うと国の存続、人の生命にも関わる。もっとシビアな状況だ。いっぽうで、スポーツの持つ人々を結びつける力は民族の壁すら超える可能性を示している。

前回書いた「ルーズヴェルト・ゲーム」への違和感は、スポーツがもつ人をつなげる力の描かれ方が、会社内にとどまっていたからかもしれない。

番組はボスニア代表がアルゼンチン戦で敗れはしたものの歴史的な初得点を決めた場面がクライマックス。試合を観戦していたオシムはその瞬間、目を潤ませていた。イラン戦を前にした放送だったので初勝利の瞬間は記録されていないが、きっと人前で3度目の涙を見せたんじゃなかろうか。

スポーツの形を考えた話

W杯日本代表、残念でした。「攻めて結果を出す」ことはできなかった。でも「自分たちの型を世界で試す」ことの繰り返しが長い目で見たら日本サッカーを強くしていくんじゃないだろうか。

ところで、学校での授業でしかサッカーをしていない自分でもW杯が気になったのはなぜだろう、と自問しています。

というのも、先頃終わったTVドラマ「ルーズヴェルト・ゲーム」にある種の違和感が残っているからです。

ドラマ終盤、主人公が経営する「青島製作所」の野球チームが都市対抗野球予選の敗者復活戦決勝に臨みます。試合は追いつ追われつの展開で、応援する主人公(社長)や野球好きの会長、実は元野球部長だった専務らが肩を組んで歌を歌って野球部を鼓舞する場面があるのだけど、何というか、見ていて「この応援の輪の中に自分はいないなぁ」という疎外感を感じたわけです。

野球部員たちのストーリーもあったので視聴者も青島製作所野球部に肩入れするようにドラマの構造はできているのですが…ノレなかった。野球を扱った映画「メジャー・リーグ」などでは主人公たちのチームが勝つと我々観客も爽快感があったのになぁ。

きっと、ドラマで描かれたスポーツ(野球)が企業の所有物でしかなかったからではないか。日本のプロ野球も親会社はあるけれど、親会社の関係者だけが応援しているんじゃない。ファンに向けて開かれてはいる。実業団野球って結局、応援するのは関係者だけなんだなぁ…と思ってしまったのかも。

でも、例えばサッカーW杯でイタリアやイングランドの予選敗退など、自国代表以外のチームの勝敗も気になるのはなぜだろう…とも考えるわけです。自分に何の関係もないのに。メディアで大きく取り上げられるから?

そもそも実在のチームとフィクションのチームを混同してはいけないのかもしれないが、自分が応援・関心を持つ範囲の線引きがよく分からない。自分が思っている以上にスポーツ(この場合、見るスポーツ、応援するスポーツ)にはいろいろな形がある、のか?

普段からの取り組みが大事な話【書評「Googleの72時間」】

W杯、日本代表苦戦してますね…。オシムの言う「判断と行動のサイクルを早くする」ってのは練習しててもなかなか発揮できないもんだなぁ。

51jc1jtR9ZLところで、社会的に「判断と行動のサイクルを早くする」必要性が最近もっとも問われたのは東日本大震災だった。この本は震災時に「私設帝国企業」Googleが日本でどんな震災対応をしたかを振り返ったもの。Yahoo!の震災対応やGoogleらの震災対応サービスが被災地でどう使われたかまで、IT技術が震災時にどう生かされたかを幅広く取り上げている。

Googleには米本社に常設の災害対応チームがあり、東日本大震災発生から1時間46分後には特設サイト「クライシスレスポンス」を立ち上げ、被災者検索サービス「パーソンファインダー」をスタートさせた。日本側スタッフは日本語化や携帯電話への対応、入力件数を増やすためボランティアに避難所の名簿を撮影してもらい「パーソンファインダー」への入力を依頼。また被災地の衛星写真の公開やニュース番組のネット配信、避難所情報の地図へのマッピング、義援金呼びかけなどを次々に行った。

これらのサービスは社員の誰かが勝手に着手し協力者を社内に呼びかけて始まった一方(この辺がいかにもGoogleらしい)、内容が社内外でかぶったり優先順位などに問題がないかなど「交通整理役」も社内に設けていたそうだ。

正しいかどうかでなく、統一した見解を誰かが出す」ことで全体のスピードも上がったのだ。

また緊急時とはいえ、Google米本社との承認プロセスに懸念が残るまま走り出したサービスもあった。その際、判断を求められたGoogleの日本側法務担当は「僕の判断でOKだ」と言い切った—というエピソードがちょっとグッときましたね。

こうして取り組んだ各種のサービスの中には他社、公共団体などと連繋しないといけないものもあり、Googleと相手との「スピード感」に違いが生じた例も紹介されている。そんな件について著者らは、スピード感があったGoogle側の肩を一方的に持つのではなく「相手側は『Google側の連絡が途絶えた』という認識だった」と平等な視点で取り上げ、なおかつGoogle側の反省点として「平常時からの必要情報の洗い出しと事前のプロセス策定が重要」という言質を引き出している。取材対象に肩入れしすぎない著者らの絶妙のバランスを感じた部分だ。

そうはいっても、Googleによる取り組み—災害時の情報提供プラットフォームの構築—はボランティアを含めた自発的な支援活動を呼んだことは間違いない。この本の中ではYahoo!の取り組みも紹介されている。Yahoo!では災害発生時、当時の社長がメールで社員全員にこう伝え士気を高めた。

「今こそ、ライフエンジンとしての力を発揮する時だ」

…この「ライフエンジン」という言葉にもグッときた。Yahoo!、Googleに限らず今やIT技術自体が『ライフエンジン』なのだなとも思わされた。

さてそんな様々のサービスだが、著者らの調べでは必ずしも被災地で活用されたとは言いがたかった。電力や通信インフラが途絶したのもあるが、とくに高齢者にはIT技術に長けた人のサポートがないと利用できなかったようだ。今後はそういったリテラシーの差が大きくなる一方、ボランティアには高齢者を精神的にケアするため普段からの信頼関係構築も必要なのだそうだ。

その他、一般ユーザーは信頼できる情報源を見極めること、情報を扱う企業は多様なメディアを連携させること(パソコンで読み取りやすい書式で情報をやり取りすること)などを挙げている。

著者が結論として述べる「いざという時は普段やっていることしかできない」は重い指摘だ。災害対応サービスをGoogleが次々に手掛けられたのも普段の積み上げによるものだし、Twitterで震災直後おかしなデマが飛び交ったのも(広めてしまった利用者は)SNSをその程度しか使えていなかったからだ。

日程が決まっているスポーツの試合でも「普段できていること」を発揮するのが簡単ではない。ましてや、いつ来るか分からない非常時では?

企業から個人のレベルまで、災害時に何ができるか、普段からどう対処すべきかまで取り上げた労作でした。

Googleの72時間 東日本大震災と情報、インターネット (角川書店単行本)
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終わらせたからわかる話

今回は自分への覚書に近い話です。

写真 2014-05-30 14 12 14梅雨入りする前に自宅2階ベランダの床部分を塗り直しました。

洗濯物を干している合間にデッキブラシで床を洗い始め、乾いた洗濯物と物干し竿、物干し台を中に取り込んで、玄関口にある水道からホースを回して水を巻いて床洗いを終わらせ、使い捨てエプロンと腕カバー、靴カバー、手袋をはめて油性塗料を塗り(1度目)、足りなかったので買い足しに行き続きを塗り、乾くまで約2時間休憩し、2度目を塗って終了。半日がかりの作業でした。

以下、いろいろ考えたこと。

1)思ったより早く終わった。終わらなかったら翌日もするつもりだったが…。日程に余裕を持たせたのが良かった。

写真 2014-05-30 14 39 362)2度塗りしても色が薄いなぁと思っていたが、乾燥したらそうでもなくなった。塗料の取説にそこまで書いているわけではないし(そりゃそうだ)、やってみないとわからないことはあるものだ。

3)エアコン室外機の下や床板のサイドなど、もう少し塗ればよかった箇所もある。しかしなにしろ初めてのことなので、今回は終わらせることが重要だった。作業時間がどれくらいかかるか分からんかったし。そんな箇所はまた次回、塗ることにしましょう。

作業時間が分からない場合はゆとりを持って計画すること、とりあえずのゴールを決めておくこと、そして何より、終わらせないと分からないことがあること。「Just Do It」って意味を考えた体験でした。

成長しながら結果も欲しい話【鑑賞「日本代表“新戦法”への挑戦」】

サッカー日本代表が戦術を確立しようとする姿を描いたNHKスペシャル「攻め抜いて勝つ~日本代表 “新戦法”への挑戦~」は、色々考えさせられる内容でした。

イタリア人監督ザッケローニ率いるサッカー日本代表。目指す戦術はフォワードからディフェンスまでのラインをコンパクトに保ち、攻撃に人数をかけるというものだ。しかし攻撃力は増したものの、ディフェンスラインの裏をかかれると一転してピンチになるという欠点も突かれる。親善試合で失点が減らない現状に選手たちが出した結論は…

人間の思考態度には、自分の成長を自分自身で邪魔してしまう「固定された思考態度」と「成長する思考態度」がある、とネットで見た。

それによると、「固定された思考態度」は根本に「自分をよく見せたい」という欲求があるため、失敗する可能性がある挑戦を避けたがる。一方「成長する思考態度」は「学びたい」という欲求から始まるため、挑戦を喜んで受け止め高い成功レベルへと到達できる—のだそうだ。

先述した番組内での選手たちの話し合いの中で、失点を減らしたくて「守備にも人を割くべきだ」というディフェンス陣に対して、攻撃陣は「日本の闘い方をここで変えては今後に何も残らない」と目先の結果にこだわらないよう訴えたのが印象に残った。

日本代表も「固定された思考態度」と「成長する思考態度」の間で揺れたんだろうな。

番組放送日にはブラジルW杯前、最後の強化試合があった。4−3で勝ってもメディアは「守りが不安定」と評価していたが、番組を見たあとでは「今の日本代表の戦術では『守りが不安定』なのはリスクとして当然なの!」と思ってしまう。今の日本代表はもっと目標を高いところに置いてるの!

…がしかし、世の中には「ここは絶対結果を出したい」という場面もある。戦術を貫いても結果が伴うとは限らない。「日本代表は自分たちの闘い方を貫いたんだから予選敗退でも仕方ない」ともならないだろうし。勝ってこそ「日本の闘い方はこれだ」となるわけで。

番組では前回南アフリカ大会で本番直前に守備重視の戦術に切り替えたことに「自分たちのスタイルを貫けなかった」と選手たちの間に忸怩たる想いが残ったことも伝えていた。守って負けないチームではなく、攻めて結果を出すチームになれるか。これ、サッカーに限らず、すべての組織に求められることだと思うんです。

日本代表の初戦は15日。果たして…

 

新しい市民モデルを考えた話

写真 2014-05-31 15 08 22毎月購読している雑誌「Voice」2014年6月号でちょっと覚えておきたい論考があったので、メモ。

東大社会科学研究所の宇野重規教授、同じく東大大学院の谷口将紀教授、ウシオ電機の牛尾治朗会長の共著「中核層の時代に向けて 自らの人生と社会を選び取る人びと」。

日本の将来像を見据える必要があるとして、これまでの「キャッチアップ」型近代化から、新たな社会像を「信頼社会」と定義しそれを担う「中核層」という概念を提示する論考だ。

今までの日本は一般的な社会的信頼が低いため、特定の組織(会社など)や関係(家族など)への関与を深めていた。しかし今や、大企業に就職しても定年までの雇用が保証されるとは期待していない。しかし組織の外に出るのもリスクが高い。結果、安定的な組織への参入競争が激しくなる一方、組織に残る人間も不満があっても外に出られない。

そこで真の意味での「信頼社会」実現のため、集団を超えた人と人のつながりを築かなくてはいけない。一人一人は生涯にわたって学び信頼を構築し続け、組織は主体的な人材によって自らを再編していき、グローバル社会での競争力を強化していく。そんな「信頼社会」で自らの生き方を主体的に選択し、それゆえに積極的に社会を支えようとする自負と責任感を持った人間を「中核層」とこの論考では定義した。

「中核層」は組織を上から指導するエリートとは違い、現場でイノベーションを実現する人々。また、イノベーションを起こすような人々を結ぶ人々、個人を支える医療、介護、教育者などをイメージしているという。

そして人と情報が集積する都市の発展が地域全体の発展につながるとするいっぽう、多様な個性と伝統を持つ地方の魅力を高め、都市と有効な相互補完関係を生むのが望ましい、と結んでいる。

長い論考ではないのだが、日本社会の今の問題点を端的にまとめ、目指す社会モデルを提示している。個人が目指すイメージ、社会として目指すモデルも自分の今の考えにかなりあっていた。

「中核層」たる個人をどう生み出し、育てるかがカギですかね。まずはどんな形であれ「自分の足で立っている」という自覚を持つ人々が増えることかな…

そこでもう一つ連想したのが、雑誌「The21」2014年4月号での日本中央競馬会・土川健之理事長のインタビュー。「運はどうすればつくのでしょうか」という問いに「自分に嘘をつかないこと」と土川氏は答える。

自分に嘘をつくのをやめて自分がやりたいことをやりたいようにやる。全て自己責任でやるようにすれば、結果はすべて自己の糧になりますから、アンラッキーということ自体存在しなくなるのです。

自らの生き方を主体的に選択するヒントがあるように思う。自分の生き方への肯定感をどこまで持てるか。ちょっと間違えると独善的になってしまいそうでもあるから、その点は要注意、要注意。

 

喰えない老人は二度涙を流す話【鑑賞・オシム 73歳の闘い】

「なぜ体調が悪いのに祖国のサッカー界統一のために頑張ったのですか」と記者に言われて、こんな小話で煙に巻くご老人をあなたはどう思うだろうか。

「ある笑い話がある。人でいっぱいの橋に男が差し掛かった。男の目の前で子供が落ちた。男は飛び込みその子を助けた。その男に記者が聞いた。『あなたは英雄ですね。これから何をしたいですか?』男は答えた。『俺を突き落とした奴を探すよ』」

…自分の手柄じゃないってことをなんでこんなに回りくどく言うんだろうかイビチャ・オシムという人はorz。面白いけど。

前回W杯前に書かれた本を読んでいたところ、今年のW杯にオシムの祖国ボスニア・ヘルツェゴビナが出場することになったドキュメンタリー「オシム 73歳の闘い」をNHKBSでやっていた。

国内に3つの民族が暮し、内戦で三つ巴の殺し合いをしたボスニア・ヘルツェゴビナ。内戦終結後も民族対立は解消せず、サッカー協会には各民族の代表3人が並ぶ有様だった。組織を一本化しないとW杯予選出場を認めないと国際サッカー協会は決め、一本化のための委員会も作る。委員長に指名されたのは日本代表監督就任後病に倒れ、祖国に帰国していたオシムだった…。

肝心の一本化の苦労ってのがほとんど出てこなかったんだけど、オシムは旧ユーゴの代表監督も務めたボスニアの伝説的存在でもあるので、彼が一本化のため立ち上がっただけで成功の確率は高かったのかもしれない。

オシムが今でも国内で民族の壁を越えて慕われるのは、どこの民族の代表でもなかったからなのだとか。コスモポリタンを名乗り、「俺はサラエボっ子だ」と言い、一本化交渉の席でもユーモアを忘れなかったそうだ。

旧ユーゴ代表監督時代に内戦が勃発、サラエボ攻撃が始まるとオシムは代表監督を辞めた。会見で「辞める理由はわかるでしょう」と言って彼は泣いた。

そして昨年秋、協会を統一させW杯予選に出場したボスニア代表がブラジル行きを決めた時、彼はまた人前で泣いた。その後の第一声は「日本とW杯で闘えるといいな」だったという(T ^ T)

「サッカーには人々に誇りを取り戻させる力がある。今のボスニアにはそれが必要なんだ」とオシムは言う。ボスニア代表を応援しようと世界中に散ったボスニア国民が会場に集まり、代表の活躍に歓喜した。

一方、民族間の対立は今も残り、民族同士のチームが戦う国内サッカーリーグではサポーターのちょっと度が超えた応援活動も相手を刺激するとの理由で厳禁。違反したサポーターはスタジアムのある町(スタジアムではない!)から退去させられる。

番組はオシムの個人的魅力を伝える一方、ナショナリズムの意味も問いかける。

3つの民族が今も緊張関係にある国にあって、一国民であるオシムが「私に民族の壁はない」という立場を取ることは相当の覚悟がいる。でありながら、祖国のサッカー界のために病を押してオシムは奮闘した。

ナショナリズムについては日本でも色々な思想の立場から議論になる。番組を見ているとナショナリズムについてあーだこーだ言う人に「貴方が言うほどナショナリズムは善くない」「貴方が言うほどナショナリズムは悪くない」と言いたくなる思いがする。扱いは難しいが手放せないものでもあるのだ。以下、この番組よりオシムの言葉。

「みんながサッカーを愛する必要はないが、勝利を祝う姿を見るだけでも国民には喜びとなる。その気持ちが大事なんだ。自分は何かの一部だと感じ、人々と共に道に出て共に歌い踊る。生活や仕事に希望が戻り、国が再び歩み始めるんだ」

オシムが流した二度の涙はナショナリズムの光と影を映していたようだった。