編集についての本。以前読んだ「僕たちは編集しながら生きている」にも通じる内容で、メソポタミアの壁画から雑誌、ウェブ、選挙候補者といった個人まで対象として俯瞰しながら編集についての概論や編集で用いる素材の扱い方、編集という思考法の活かし方などが書かれている。
SNSなどが普及した現在、編集は個々人の生活をも可能にするという考え方は二冊に共通するのだけれど、「はじめての編集」の方が後に出版された分、アーティストと作品の比較で
現在はアーティストの作品が、その人自身のアウトプットの小さなひとつにすぎないのではないかと思うのです。(中略)情報の流通量が少ない時代においては、作品というのはクリエイターよりもはるかに大きい存在でした。しかし今は違います。人生の方がはるかに情報化されて、伝わっているわけです。ということは高く評価されるクリエイターになるには、評価される人生を送るしかありません。(P230−231)
それはつまり「人生の作品化」です。(P235)
と(楽しいかどうかに関わらず)人生の編集化は避けられない…ともとれる内容になっているのが興味深い。
無限の選択肢のなかから、自分で可能な範囲で選んでカスタマイズして人は生きているわけです。言い換えれば、人は常に「人生を編集している」のです。(P235−236)
とも著者は書く。大量消費社会と言われる現在、消費することも(見方を変えれば)編集だったのだ。そして、そう意識した上で“編集物”を世間に発信していくことも出来るようになっている(SNSなどで)。
こうなってくると「人生の作品化」は「セルフプロデュース」とほぼ同義となり、下手をすると「リア充」などと僻まれたり「必死だなw」と蔑まれたりしかねない…気もする。
概念として「人生の編集」は理解できても、具体的に行動するのは容易ではない。以前、SNSを使った活動で評判になった人が「自分の印象をよくするにはオフィスの住所にもこだわりましょう」といった内容のことを書いていて目が点になったのを思い出した。
そこでこの本に戻ると、「はじめての編集」では
編集者は、自分よりもずっとうまく写真を撮れる人、自分よりもうまく原稿を書ける人、自分よりもうまくデザインのできる人などを集め、彼らの特性を生かしたディレクションをすることによって、自分のアイデアを、当初考えていたもの以上にすることができるのです。(P80)
と、周囲とのコラボレーションが編集に不可欠と説く。「僕たちは編集しながら生きている」でも編集について
編集の醍醐味は、「せまい自分」を確立することではないと僕は思っています。常に未来に対し開かれたスタンスであり続けること。いかに「可能性」の高い人生を送るか、それが問題です。(「僕たちは編集しながら生きている」P4)
と言っていた。
つまり、たとえ「人生の作品化」がセルフプロデュースと同義であっても自分一人ではできないということ、だろうか。
もちろん周囲を(一方的に)利用するのではなく(そんなことをしても長続きしないしね)、「この人とコラボしたい」と思われ、周囲に使われるくらいの才能は持ちたいところだ。「企業が『帝国化』する」の書評でも書いたが、学ぶのは自分だけが生き残るのでなく、周囲に役立つ存在でいたいから(=そういう形で生き残りたい)ということかな。