スポーツの形を考えた話

W杯日本代表、残念でした。「攻めて結果を出す」ことはできなかった。でも「自分たちの型を世界で試す」ことの繰り返しが長い目で見たら日本サッカーを強くしていくんじゃないだろうか。

ところで、学校での授業でしかサッカーをしていない自分でもW杯が気になったのはなぜだろう、と自問しています。

というのも、先頃終わったTVドラマ「ルーズヴェルト・ゲーム」にある種の違和感が残っているからです。

ドラマ終盤、主人公が経営する「青島製作所」の野球チームが都市対抗野球予選の敗者復活戦決勝に臨みます。試合は追いつ追われつの展開で、応援する主人公(社長)や野球好きの会長、実は元野球部長だった専務らが肩を組んで歌を歌って野球部を鼓舞する場面があるのだけど、何というか、見ていて「この応援の輪の中に自分はいないなぁ」という疎外感を感じたわけです。

野球部員たちのストーリーもあったので視聴者も青島製作所野球部に肩入れするようにドラマの構造はできているのですが…ノレなかった。野球を扱った映画「メジャー・リーグ」などでは主人公たちのチームが勝つと我々観客も爽快感があったのになぁ。

きっと、ドラマで描かれたスポーツ(野球)が企業の所有物でしかなかったからではないか。日本のプロ野球も親会社はあるけれど、親会社の関係者だけが応援しているんじゃない。ファンに向けて開かれてはいる。実業団野球って結局、応援するのは関係者だけなんだなぁ…と思ってしまったのかも。

でも、例えばサッカーW杯でイタリアやイングランドの予選敗退など、自国代表以外のチームの勝敗も気になるのはなぜだろう…とも考えるわけです。自分に何の関係もないのに。メディアで大きく取り上げられるから?

そもそも実在のチームとフィクションのチームを混同してはいけないのかもしれないが、自分が応援・関心を持つ範囲の線引きがよく分からない。自分が思っている以上にスポーツ(この場合、見るスポーツ、応援するスポーツ)にはいろいろな形がある、のか?

成長しながら結果も欲しい話【鑑賞「日本代表“新戦法”への挑戦」】

サッカー日本代表が戦術を確立しようとする姿を描いたNHKスペシャル「攻め抜いて勝つ~日本代表 “新戦法”への挑戦~」は、色々考えさせられる内容でした。

イタリア人監督ザッケローニ率いるサッカー日本代表。目指す戦術はフォワードからディフェンスまでのラインをコンパクトに保ち、攻撃に人数をかけるというものだ。しかし攻撃力は増したものの、ディフェンスラインの裏をかかれると一転してピンチになるという欠点も突かれる。親善試合で失点が減らない現状に選手たちが出した結論は…

人間の思考態度には、自分の成長を自分自身で邪魔してしまう「固定された思考態度」と「成長する思考態度」がある、とネットで見た。

それによると、「固定された思考態度」は根本に「自分をよく見せたい」という欲求があるため、失敗する可能性がある挑戦を避けたがる。一方「成長する思考態度」は「学びたい」という欲求から始まるため、挑戦を喜んで受け止め高い成功レベルへと到達できる—のだそうだ。

先述した番組内での選手たちの話し合いの中で、失点を減らしたくて「守備にも人を割くべきだ」というディフェンス陣に対して、攻撃陣は「日本の闘い方をここで変えては今後に何も残らない」と目先の結果にこだわらないよう訴えたのが印象に残った。

日本代表も「固定された思考態度」と「成長する思考態度」の間で揺れたんだろうな。

番組放送日にはブラジルW杯前、最後の強化試合があった。4−3で勝ってもメディアは「守りが不安定」と評価していたが、番組を見たあとでは「今の日本代表の戦術では『守りが不安定』なのはリスクとして当然なの!」と思ってしまう。今の日本代表はもっと目標を高いところに置いてるの!

…がしかし、世の中には「ここは絶対結果を出したい」という場面もある。戦術を貫いても結果が伴うとは限らない。「日本代表は自分たちの闘い方を貫いたんだから予選敗退でも仕方ない」ともならないだろうし。勝ってこそ「日本の闘い方はこれだ」となるわけで。

番組では前回南アフリカ大会で本番直前に守備重視の戦術に切り替えたことに「自分たちのスタイルを貫けなかった」と選手たちの間に忸怩たる想いが残ったことも伝えていた。守って負けないチームではなく、攻めて結果を出すチームになれるか。これ、サッカーに限らず、すべての組織に求められることだと思うんです。

日本代表の初戦は15日。果たして…

 

喰えない老人は二度涙を流す話【鑑賞・オシム 73歳の闘い】

「なぜ体調が悪いのに祖国のサッカー界統一のために頑張ったのですか」と記者に言われて、こんな小話で煙に巻くご老人をあなたはどう思うだろうか。

「ある笑い話がある。人でいっぱいの橋に男が差し掛かった。男の目の前で子供が落ちた。男は飛び込みその子を助けた。その男に記者が聞いた。『あなたは英雄ですね。これから何をしたいですか?』男は答えた。『俺を突き落とした奴を探すよ』」

…自分の手柄じゃないってことをなんでこんなに回りくどく言うんだろうかイビチャ・オシムという人はorz。面白いけど。

前回W杯前に書かれた本を読んでいたところ、今年のW杯にオシムの祖国ボスニア・ヘルツェゴビナが出場することになったドキュメンタリー「オシム 73歳の闘い」をNHKBSでやっていた。

国内に3つの民族が暮し、内戦で三つ巴の殺し合いをしたボスニア・ヘルツェゴビナ。内戦終結後も民族対立は解消せず、サッカー協会には各民族の代表3人が並ぶ有様だった。組織を一本化しないとW杯予選出場を認めないと国際サッカー協会は決め、一本化のための委員会も作る。委員長に指名されたのは日本代表監督就任後病に倒れ、祖国に帰国していたオシムだった…。

肝心の一本化の苦労ってのがほとんど出てこなかったんだけど、オシムは旧ユーゴの代表監督も務めたボスニアの伝説的存在でもあるので、彼が一本化のため立ち上がっただけで成功の確率は高かったのかもしれない。

オシムが今でも国内で民族の壁を越えて慕われるのは、どこの民族の代表でもなかったからなのだとか。コスモポリタンを名乗り、「俺はサラエボっ子だ」と言い、一本化交渉の席でもユーモアを忘れなかったそうだ。

旧ユーゴ代表監督時代に内戦が勃発、サラエボ攻撃が始まるとオシムは代表監督を辞めた。会見で「辞める理由はわかるでしょう」と言って彼は泣いた。

そして昨年秋、協会を統一させW杯予選に出場したボスニア代表がブラジル行きを決めた時、彼はまた人前で泣いた。その後の第一声は「日本とW杯で闘えるといいな」だったという(T ^ T)

「サッカーには人々に誇りを取り戻させる力がある。今のボスニアにはそれが必要なんだ」とオシムは言う。ボスニア代表を応援しようと世界中に散ったボスニア国民が会場に集まり、代表の活躍に歓喜した。

一方、民族間の対立は今も残り、民族同士のチームが戦う国内サッカーリーグではサポーターのちょっと度が超えた応援活動も相手を刺激するとの理由で厳禁。違反したサポーターはスタジアムのある町(スタジアムではない!)から退去させられる。

番組はオシムの個人的魅力を伝える一方、ナショナリズムの意味も問いかける。

3つの民族が今も緊張関係にある国にあって、一国民であるオシムが「私に民族の壁はない」という立場を取ることは相当の覚悟がいる。でありながら、祖国のサッカー界のために病を押してオシムは奮闘した。

ナショナリズムについては日本でも色々な思想の立場から議論になる。番組を見ているとナショナリズムについてあーだこーだ言う人に「貴方が言うほどナショナリズムは善くない」「貴方が言うほどナショナリズムは悪くない」と言いたくなる思いがする。扱いは難しいが手放せないものでもあるのだ。以下、この番組よりオシムの言葉。

「みんながサッカーを愛する必要はないが、勝利を祝う姿を見るだけでも国民には喜びとなる。その気持ちが大事なんだ。自分は何かの一部だと感じ、人々と共に道に出て共に歌い踊る。生活や仕事に希望が戻り、国が再び歩み始めるんだ」

オシムが流した二度の涙はナショナリズムの光と影を映していたようだった。