友達があなたのメールにしばらく返信してこなかったとき、あなたは友達に嫌われたのだろうか?そう考える仮説と証拠の関係は?
この本では私たちが情報を受け取る際に用いるべき「作法」について、様々な角度から検証が行われる。
著者は経済学者。この本では一人一人の意志決定の質を高めるため、情報の収集、選別、分析はいかにすべきか、誰の意見に耳を傾けるべきか、異なる意見をどう比較評価するかなどについて論考している。
現代はインターネットを通じて大量の情報が氾濫している。価値ある情報は偽情報に紛れ、ひっきりなしに届く情報は私たちの集中力、思考力を妨害する。でありながら、私たちはメールチェックなど情報への接触をやめられず、一種の中毒になっている。
さらに、情報化の進んだ現在では社会全体の構造ー既成の秩序ーが崩壊しつつある。これまで信じてきた過去が未来の道しるべにならない。
…といった著者の時代定義に対して、結論はやや凡庸かもしれない。正直、読み終わるとちょっと肩透かしな印象もあった。
「過去の成功や失敗に固執しすぎて、まともな思考ができなくなったり、偏見のない客観的な心で現在の問題を評価できなくなってはいけない。私たちの環境とそれがもたらす結果の相互作用は絶え間なく変化するということを、強く意識しておこう」
こんな感じ。しかし別の見方をすれば、上記のような内容は普遍的な主張、ともとれる。
著者は進化する技術に目を奪われて、情報を極端に受け入れたり拒絶したりするのは否定する。この主張に従えば中庸でありつづけることができそうだ。今はそれが難しいのだ。熊本地震でツイッターなどに川内原発に関するデマが出回ったことは記憶に新しい(本書ではネットに飛び交う情報の真贋に関して、受け手である自分に問うべき項目もある)。
しかし一番印象に残ったのは、先述した「友人からメールの返事がこない場合」を例に問われる「仮説と証拠の関係」だ。
「友人から嫌われている」という仮説を起点にしたら「メールがこない」事実に説得力があるように思える。しかし「メールがこない」事実を起点に考えたら「友人から嫌われている」仮説は説得力を持つだろうか?ほかの可能性もあるのではないか?
この仮説と事実に関する自身の思いこみを再確認させる指摘と、リスクに関する指摘(「絶対リスク」と「相対リスク」)は本書の重要な箇所だと思う。
変化のスピードが速い現代社会では先述の通りネットの情報も正しいとはいえず、かといって専門家も当てにならなくなってきた(「政治の動向をぴたりと予想する人は非常に謙虚であることを、数々の研究が示している」と著者はいう。至言ですね)。
著者は最後にこういっている。
「この世界をあいまいになるほど簡略化しようとしたり、情報を楽に受け入れられるように誰かにかみ砕いてもらおうとしたりする自身の欲望に立ち向かわなければならない。」
「混沌を受け入れるとは、今日の正しい決断が、明日には正しい決断でなくなっているかもしれないことを認識することだ。」
思い込みは自分自身にも生じがち。まずできることは、絶えず自分自身を疑うこと、かもしれない。