日本は昔から変わってない話【書評「外交感覚」】

辞書みたいに分厚く、ページ内も上下2段組と大変なボリュームなんだけど、頷ける点が多い一冊でした。

【内容紹介】
1996年の逝去した国際政治学者・高坂正堯が残した時評集を集成。中国、米国、国際社会、そして日本政治や外交に向けられた鋭い視線は、21世紀の日本を見通すかのような寸鉄が散りばめられている。
【著者紹介】
高坂正堯
国際政治学者、法学博士。1934年京都市生まれ。1957年京都大学法学部卒業後、同助手に採用され、1959年同助教授、1971年教授に昇進。専門は国際政治学、ヨーロッパ外交史。1978年『古典外交の成熟と崩壊』で第一三回吉野作造賞を受賞。国際戦略研究所理事、財団法人平和・安全保障研究所理事長などを歴任するも1996年急逝。

(アマゾンの著書紹介ページより)

立ちますからね、この本。

1977年から1995年にかけ中日新聞、東京新聞に掲載された時論を中心にまとめた、1985年出版「外交感覚」、90年出版「時代の終わりのとき」、95年「長い始まりの時代」3冊の合本版。現実を見据えた提言を続けた人で、一度ちゃんと評論を読んでみたいと思っていた。げっぷが出るくらいの大盛り本から手をつけてしまいましたが。新書もあるのに。

とはいえ、中身は先述の通り新聞掲載の時論が主なので、一つ一つの評論は読みやすく、短い。しかし寸鉄人を刺す名言があちこちに散りばめられている。

1977年から1995年というと、日本とソ連(!)の漁業交渉に始まりイラン革命、ソ連のアフガニスタン侵攻、イラン・イラク戦争、新冷戦の激化と集結、湾岸戦争などがあった期間。しかし起こったことは過去のことでも、日本が向き合った課題は当時も今も変わらないことに愕然とする。

例えば先述の日本とソ連の漁業交渉。高坂は交渉の基本としてこんなことを書いた。

ソ連は日本の弱みにつけ込もうとした。それをわれわれが怒ることは無意味である。ソ連はその程度がひどいとはいえ、それが外交の常なのである。したがって外交において成功するためには、弱みを作らないことが第一の条件となる。
備えのない国の外交は、必ず失敗し、国益を守ることができない。その備えとは軍事力を持つことだけではないし、広義の力を持つことにもつきない。必要な制度的変更を国内において行い、外国に無理をいうとか、頼み込まなくてはならないようなことを作らないことも重要なのである。
それを抜きにして外国の強引さを非難するのは、甘えん坊のすることであり、それを抜きにして政府の無策だけをそしるのは、無責任者のすることである。

一読して通底しているのは、経済大国となった日本は「主体的に」国際社会で役割を果たすべき、という高坂の主張。

日本はこれまで慎重さゆえか、あるいは利己主義のためか、協議に加わると引きずられるとして一歩離れた態度をとって来た。しかし、それは典型的な小国の態度であり、世界を相手に広く貿易している日本として、もはや継続しえないものである。それは、世界政治のシステムだけを利用し、その維持のためのコストを払わないとみなされるであろう。協議に積極的に加わり、発言し、行動することによって、その自立性と利益を守ることができるし、それが現在における唯一有効な方法であるというヨーロッパ人の考えから、学ぶべきところは多い。
ここまで大きくなった日本は、世界の秩序の形成と維持にかかわらざるをえないのだが、秩序の維持は基本的に力の問題だからである。そして、相当部分が軍事力(それが使われる場合と使われない場合を含めて)の問題であるのだから、それとは一切無関係という立場は成立しない。
しかし、日本人はこれまでの考え方を変えたくはなかったし、政治を指導する立場にある人のかなりもそうだった。その根本的な原因は、日本人が世界秩序を自分たちの問題とは考えず、良かれ悪しかれ、だれかが与えてくれるものとみなす態度にある。
積極的に行動することは反発を招き、疑惑を生み、かつ失敗する危険を伴っている。しかし、大きな国力を持つ国が消極的であることは、不気味なものである。積極的に行動し、それが無法でも愚かなものでもなく、国際社会のルールにのっとったもので、有用なものであることを示して信頼を獲ち得なくてはならない。それ以外に信頼を獲ち得る方法はないし、信頼を得ることなしに大国は生きていけないのである。

国際社会の信用を得るためには日本から行動を起こす必要があり、それは国内的な制度変更をも含むのだ、という指摘は通商、防衛の観点から残念ながら今も有効なのだ。でも「今も有効」というより、絶えず見直さなくてはいけない点なのかもしれない。国外の問題に対処することを「巻き込まれる」と受け止める発想や、何かを「しない」だけでは国際社会での信用は得られないのでしょう。

また戦争を中心に人間の業に目を背けない姿勢も印象に残った。そして目を背けがちな日本社会に警告を発し続けた。

戦う必要のない戦争を戦ったことが事実であるなら、そこには人間の誤りが存在したはずなのであり、そうした誤りはわれわれとも無関係ではないからである。戦争が起こると、あるいは「侵略戦争」として非難し、あるいは「無益な戦争」としてからかうのが日本人の通例だが、それは自分たちと関係がないと考えている点で無責任でもあるし、また傲慢でもある。自分たちも犯しうる過ちをそこに見て、そこから学ばなくてはならない。
言論、報道の自由がなく、エリートがしっかりとまとまって統治しているという国は、われわれの目から見て好ましくないが、しかし、そうした体制は安定している。悪いものが早くだめになり、よいものが長続きするということはいえないのである。その逆もかなりおこる。
闘争もやむをえないということはできないが、しかし、そうした攻撃性向がわれわれのなかに存在していることを認めなければ、闘争を制御することはできないのである。
国家は自国を有利な立場に置こうとして軍備を行うのだが、それは軍備縮小に際しても変わらない。できるだけ有利な形で軍備縮小を行おうとして、知恵をしぼり、駆け引きを行うのである。それが軍縮に関する常識なのだが、平和の構築といった美名のため、この厳しい現実を忘れてしまうことがどれだけ多いことか。
破局の可能性を減らすことは、たしかに文明的である。しかし、人間の不完全性を考えるとき、破局の可能性がはっきりしている方が、人間の自制を生みやすいことも残念ながら事実である。
人間社会は、秩序を守るために力を用いる覚悟と、最悪の場合にはそれを使うことによって保たれうるのだし、それによって人間は人間たりうる、それは嫌な論理だが、人間という存在の根本に関わる心理である。そうした真実を直視せず、悩みもせず決断もしないで暮らすとき、人間は必ず腐敗する。そして、豊かであればあるほどその腐敗は激しい。

引用した部分、現実と理想の間で揺れる著者の思考が現れているように思う。現実を無視して理想に逃げ、キレイゴトを述べて満足する人はまだまだ多い。理想に逃げない姿勢はオトナだなぁと思うわけです。

人間は愚かであるという言葉は、決して、他人を批判、非難するときに使われてはならない。それは他人を許し、自らを戒めるための言葉である。

苦味ある大人な姿勢こそが「外交感覚」なのでしょうね。

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり
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