撤退戦でも勝利をめざす話【鑑賞「ダンケルク」】

撤退戦でもエンターテイメントになる、と踏んだところが慧眼でした。

【イントロダクション】
『ダークナイト』『インセプション』『インターステラー』と、新作ごとに圧倒的な映像表現と斬新な世界観で、観る者を驚愕させてきた天才クリストファー・ノーラン監督。彼が、初めて実話に挑んだ本作は、これまでの戦争映画の常識を覆す、まったく新たな究極の映像体験を突きつける。
史実をもとに描かれるのは、相手を打ち負かす「戦い」ではなく、生き残りをかけた「撤退」。絶体絶命の地ダンケルクから生きて帰れるか、というシンプルで普遍的なストーリーを、まるで自分が映画の中の戦場に立っているような緊迫感と臨場感で、体感させる。開始早々からエンドロールまで、映像と音響がカラダを丸ごと包み込み、我々観客を超絶体験へといざなう。
そして上映開始とともに動き出す時計の針のカウントダウン。陸海空それぞれ異なる時間軸の出来事が、一つの物語として同時進行。目くるめくスピードで3視点が切り替わる。これぞノーランの真骨頂!99分間ずっと360度神経を研ぎ澄まさないと生き残れない、一瞬先が読めない緊張状態が続くタイムサスペンス。

【ストーリー】
フランス北端ダンケルクに追い詰められた英仏連合軍40万人の兵士。背後は海。陸・空からは敵――そんな逃げ場なしの状況でも、生き抜くことを諦めないトミーとその仲間ら、若き兵士たち。
一方、母国イギリスでは海を隔てた対岸の仲間を助けようと、民間船までもが動員された救出作戦が動き出そうとしていた。民間の船長は息子らと共に危険を顧みずダンケルクへと向かう。
英空軍のパイロットも、数において形勢不利ながら出撃。命をかけた史上最大の救出作戦が始まった。果たしてトミーと仲間たちは生き抜けるのか。勇気ある人々の作戦の行方は!?

公式サイトより)

このあと独軍に勝利するとわかってても今作は爽快感のある話ではありません。最後にトミーが新聞に掲載されたチャーチル英首相の演説を読みあげる場面があるのだけど、そこでようやく奮い立たされる。今作は戦いを中心とした戦争ものというより危機的な状況からの脱出もの、の映画なのでしょう。昔ありましたね、高層ビル火災を描いた「タワーリング・インフェルノ」とか。だからこそ敵側である独軍の姿ははっきりと描かれない。空中戦で登場する飛行機程度。

冒頭の簡単なテロップで状況を説明した後は細かいリズムを繰り返し刻む劇伴音楽で緊迫感を常にあおっていたのも、舞台であるダンケルクの海岸に独軍が迫っている描写を省く効果があったと解釈しました。独軍兵が姿を見せるのも本当に最後の最後だったし。

生き残るだけで勝利なのです。

と考えると、今作が防波堤、海、空という3つの話を同時進行させるのは、過去のパニック映画であった複数のエピソードを並行して描くパターンをなぞっている、といえる。ただ今作は、防波堤の1週間、海の1日、空の1時間という時間軸が全く違う3つの話をクライマックスで合わせるという構成がキモでした。

でもまぁ思い出してみると、各エピソードの冒頭に「1週間」「1日」「1時間」とテロップは出ていたけれど、時間軸の違いにそんなに違和感がなかったというか気にならなかったというか。むしろ「1週間」「1日」「1時間」というテロップの意味がわかりにくいというか。見終わった時に「3つのエピソードの時間軸って全然違うよね?」と言われる前に先手を打ったというか。3つのエピソードをそれだけうまく編集できていたわけで、玄人はうなるかもしれんが素人は気づかない編集かもしれませんねー。

印象に残ったのは「防波堤」のトミー。普通に順番を待っていたら脱出できるのは最後になってしまうとばかりにあの手この手で早く逃げ出そうとして、その度に失敗する様が辛い。海岸で独軍機から爆撃を受け画面奥から手前へ向けて爆発が続く場面、病院船が魚雷を受け沈没する場面など、ビジュアル的には見ごたえのある場面が多かった。内容的には辛いけど。

で、その辛さを少しでも解消するのが「空」の話。最後の敵機を落とすクライマックスはちょっと出来すぎとは思うけど、ドラマ的にはそんな爽快感が必要なんですよね。その後は辛い結末だけど。

「海」の話は不幸な形で犠牲を出してしまったのが「防波堤」とは別の辛さを感じさせる。戦場の辛さを想像できるが故に罪を咎められない民間人の辛さ。軍人には従わなければならない弱い民間人、とは違うのがまたやりきれない。美談にする(おそらく船内で実際に起こったことは描かれない)ことで救われるのが印象に残りました。

…こう振り返ると、どのエピソードも結局辛い。帰り着いたトミーたちが街で大歓迎されることでようやく爽快感が湧いたかな。こんな「負け戦」でも次を見据えてまずは無事を喜ぶ様子に、撤退を転進と言い換え続けた某国を思い出しそりゃ戦争に負けるわなと考えたわけです。今作で描かれた撤退戦、英国は「ダイナモ作戦」と呼称までしていたそう。現実を見据えその中で最善を尽くすのって大事なことです。苦いけどね。

戦う女性は美しい話【鑑賞「ワンダーウーマン」】

女性が主役のスーパーヒーロー映画として十分楽しめる一本でした。

【イントロダクション】
1941年、DCコミックスに初登場した、一人の女性ヒーロー、ワンダーウーマン。アメコミ史上初となる女性キャラクターであり、その後75年以上も不動の人気を誇る彼女のストーリーが超・待望の実写化。昨年公開の「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」では2大ヒーローを圧倒するパワーを披露したワンダーウーマン。今作では最強&華麗なアクションに加えて、女性だけの島で育った彼女が外の世界を一切知らず、男性を見たことすらない、天然の魅力も発揮し、その圧倒的美貌、強さとのギャップで観る者を魅了する!

【ストーリー】
ワンダーウーマンことダイアナが生まれたのは女性だけが暮らすパラダイス島。彼女は島のプリンセスだった。ある日、不時着したアメリカ人パイロットを助けたことから外の世界で戦争が起きていることを知る。彼女は自身の力で「世界を救いたい」と強く願い、二度と戻れないと知りながら故郷をあとにする。そんな彼女は初めての世界で何を見て、何のために戦い、そしてなぜ美女戦士へとなったのか?

公式サイトより)

DCコミックスのキャラクターってほんと、スーパーマンとバットマンくらいしか知らない。ワンダーウーマンは名前と外観を知っていた程度で、「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」に突然登場した時も気づくのに一瞬時間がかかってしまった。なので単独作となる今作は楽しみでした。予告編で印象的に流れるエレキギターのフレーズも格好良い。

ガル・ガドットのキャスティングが完璧すぎでした

今作の肝はやはりキャスティング。美しさと強さだけでなく純粋さ(ロンドンの百貨店の場面は白眉)を主役のガル・ガドットが非常に高いレベルで兼ね備えているのが素晴らしい。一方で悪役側の博士役、出番は少ないけれどコメディリリーフとして印象的な秘書役にも女性が配置されるのも新鮮でした。主要なポジションをさりげなく女性が占めているのが特徴でしょうか(ちなみに監督も女性)。第1次大戦のヨーロッパが舞台なので全般的に画面が暗めなのも大人な雰囲気を出していました。

いっぽうでクライマックスのバトルが「バットマンvsスーパーマン」と似ていたのが残念なところ。夜、だだっ広いところで敵に猛スピードで突撃したり光線合戦になったりと、すでに予告編が見られる「ジャスティス・リーグ」ともそっくりなのが気にかかる。

日本版のウェブサイトが原色を多用したポップすぎるデザインで、作品の雰囲気と全くあっていないのも解せない。日本版予告編も途中に差し込まれるテロップがポップすぎ(なのでリンクは米国版にしました)。「バットマンvsスーパーマン」は黒を基調にしたデザインで作品の雰囲気を壊していなかったのに。ワンダーウーマンのデザイン自体、原色や星のマークを使った初期のものから変わったんですよね。そこに追いついていないんじゃないかなー。

スーパーマンもバットマンも、そして予告編を見る限り「ジャスティス・リーグ」から登場するアクアマンもサイボーグもフラッシュも、DCEUに登場する男性キャラクターはクセが強すぎな感がある。その中でワンダーウーマンはヒーロー映画に不可欠な正義感を絶妙なバランスで体現できる存在になりそう。スーパーマンがヒーローの基本形なように、ワンダーウーマンも女性ヒーローの基本形。「ジャスティス・リーグ」にも期待です。

不安から逃げない話【書評「不完全な時代」】

今を生きる意味を考えたエッセイ集でした。

【内容紹介】
ますます複雑化し肥大する現代の情報化社会を私たちが生き抜くために必要な力とは何か? 変革せねばならないことは何か? ユビキタス・コンピューティングの新概念で世界を変えた著者が綴る提言エッセイ。
【著者について】
東京大学大学院情報学環教授。1951年東京生まれ。 専攻は電脳建築学。工学博士。TRONプロジェクトのリーダーとして新概念によるコンピュータ体系を構築。2003年紫綬褒章

(アマゾンの著書紹介ページより)

最初の方で示される「人工の自然」という考え方に興味を持った。著者は便利な機能が盛りだくさんの日本のトイレ事情を例に、トイレにどんな自動機能がついているか(蓋の開閉、洗浄など)見極める力が必要になってきているという。それは環境に注意を求める意味で人間の退化を防ぐのであって、頭の形で毒ヘビを見分けるような自然の中で暮らすための知識となんら変わらない。「人工の自然」を生きるための科学技術の教養なのだそうだ。

生き抜くための姿勢はあっても処方箋はないんですね。

著者は、科学技術の進歩で便利になることを安易に「人間の退化」とはしない。だって人間の歴史はどんな時代でもその前の時代から進歩しているのだから。安易に昔を懐かしむのではなく「どうしてそうなるのか」という技術の原理に興味を持ち技術の限界もわかる教養を身につけるべきだという。

激動の時代には「(成功者を生む)反骨と(成功者に求められる)教養を同時に身につけた人が必要」という指摘も重い。今の日本人には技術はあっても反骨、教養がない。しかし戦国武将や明治初期には両方を兼ね備えた人はいた、と書く。その頃の話ってよく日曜夜8時にドラマでやってますねそういえば。今の日本にないもの、と理解されているのでしょう。

一貫して著者が述べるのは「自分で考えることの重要性」と思った。高齢者のような情報弱者へのフォローも大事と述べつつ、閉塞感のある日本を変えるには「難しいことは偉い人が決めて」と任せきりにしてはいけない。そんな任せきりにできる人はいないし、これが正しいという判断もない。だからこそ、判断の結果を皆が引き受けるのが民主主義。

人々が正しく情報を得て、さらに正しい情報が常に得られるわけではないという不安にも向き合いながら、その中で最も確からしい判断をする。そして、その結果について諦観する。

著者が言う「不完全な時代に向き合う姿勢」はこういったものだ。まぁ考えてみれば「完全な時代」は永遠に来ませんからね。科学に政治、経済、感情と社会を構成するものはいろいろあるけれど、合理的に判断するのが大事ですね。

不完全な時代 科学と感情の間で (角川oneテーマ21)
坂村 健
角川書店(角川グループパブリッシング)
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ヒーローは隣にいる話【鑑賞「スパイダーマン:ホームカミング」】

これまでの作品と比べもっともこぢんまりした話なのですが、なかなか楽しめたのです。

【イントロダクション】
「スパイダーマン:ホームカミング」の主人公は、スパイダーマンこと15歳の高校生ピーター・パーカー。ピーターが憧れのアイアンマンに導かれ真のヒーローになるまでの葛藤と成長を描きつつ、一人の高校生としての青春、恋愛、友情が瑞々しく描かれている。圧倒的スケールのアクションとドラマが展開する、この夏最高のヒーローアクション超大作!
【ストーリー】
ベルリンでのアベンジャーズの戦いに参加し、キャプテン・アメリカからシールドを奪って大興奮していたスパイダーマン=ピーター・パーカー。昼間は15歳の普通の高校生としてスクールライフをエンジョイし、放課後は憧れのトニー・スターク=アイアンマンから貰った特製スーツに身を包み、NYの街を救うべく、ご近所パトロールの日々。そんなピーターの目標はアベンジャーズの仲間入りをし、一人前の<ヒーロー>として認められること。ある日、スタークに恨みを抱く宿敵“バルチャー”が巨大な翼を装着しNYを危機に陥れる。アベンジャーズに任せておけと言うスタークの忠告も聞かずに、ピーターはたった一人、戦いに挑むが…。

公式サイトより)

スパイダーマン単独作としては「アメイジング・スパイダーマン2」が前作となるわけですが、「アメイジング」は2で製作終了したとのこと。まぁ鑑賞してそう思いました。やっぱちょっと暗かったんだよねー。

そこで今作。当時から噂されていたマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)とつながる形になりました。結果、「スパイダーマン誕生の秘密」はバッサリカット。ピーターがなぜ叔母と二人暮らしなのかも説明なし。初心者には敷居の高い構成になっていますが、この辺は仕方ないかと。「アメイジング」だけでなくその前の3部作もまだまだ新鮮な作品ですからね。

つまり今作は過去の単独作になかった視点、解釈をどう持ち込むかがキモ。その意味ではかなり成功していると思うのです。

スパイダーマンの絶妙な弱さが魅力的でした

今作の特徴はピーターが高校生であること。過去作だとピーターのハイスクール・ライフってあまりよくは描かれていないのです。蜘蛛の特殊能力を身につけた冴えない男子高校生がちょっかいを出してくる体育会系バカ男子をぶっ飛ばす(そして自分に備わった力におののく)だけ。その後すぐ卒業してしまう。

今作のピーターも非体育会系なのだけど頭はいいし気の合う友人にも恵まれている。レゴの人形を持って「放課後はレゴで(スター・ウォーズの)デススターを一緒に作るのだ〜」とピーターに迫ってくる親友ネッド(太めオタク系)最高。ピーターとネッドにツッコミを入れながらもなぜかいつもそばにいるツンデレ女子ミシェルも良い。彼らが所属するサークルの他の仲間たちもいい。ピーターとネッドをからかう役回りの生徒もいるのだけど単純ないじめっ子でもなく、同じサークルの席にしれっと座っていたりする。このハイスクール・ライフだけでも見ていて楽しい。

いっぽうでスパイダーマンとしての活躍は実は今ひとつ。敵と戦って周囲に予想外の被害を広げるのはまだしも、過去作では糸を使って華麗に敵を追う様な場面が、今作では郊外の家を何かと壊しながら必死に追いかける。予告編でも描かれるフェリー崩壊の場面もアイアンマンに格の違いを見せつけられるエピソードになっていた。

今作のスパイダーマンは予告編(「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」でも)でトニーから呼ばれた様に「新人」なのですね。映画のキャラクターとしてはアイアンマンよりベテランなんだけどw。

そんな新人ヒーローが一人で戦うと決めたとき、見ている観客もグッとくるのです。その前触れとなる車内の会話シーンの緊張感も良い。そして全てが終わった後、自分の立ち位置を決める決断をしたピーターに成長を見るのです。その決断に影でうろたえるトニーも愛らしい。

今作は英語版で見たのだけど、ピーターの決断をトニーが「Working Class Hero」(労働者階級のヒーロー)と呼んだのが印象に残った。もちろん彼なりの皮肉ではあるんだけど、今作のスパイダーマンはいわばニューヨークの「ご当地ヒーロー」。今回はたまたま強力な敵と戦うことになったけど、ピーターはあくまでNYの「親愛なる隣人」。新聞の一面に載るような活躍はアベンジャーズたちで、自分の活躍はいわば社会面のベタ記事のようなもの、かな。それでも自分を必要とする人はいる、というピーターの確信がいいんですよ。

MCUの中では小さいスケールの話ではあるんだけど、それがこれまでの映画化で伝えきっていなかった「隣のスーパーヒーロー」感を伝える一作となっていました。で、こんなスーパーヒーローのまた違う一面をシリーズに組み込んでしまうMCUの全体構成の巧みさにもうなってしまうのでした。

ないはずの絵心を刺激された話【鑑賞「クレパス画と巨匠たち展」】

高鍋町美術館で2017年9月3日まで開催中の「クレパス画と巨匠たち展」を見てきました。株式会社サクラクレパスが所蔵する作品約100点を展示。色々な表現形態に驚かされました。

そもそもクレパスって1925(大正14)年に日本で開発された画材ってことすら知らなんだ。クレヨンのちょっと柔らかい版、程度の認識しかなかった。開発当初は寒い冬でも描きやすい「冬用」、夏の暑さでも溶けない「夏用」があり、冬に夏用を使うとカチカチ夏に冬用を使うとドロドロ、という苦労もあったそうで。でも3年後には統一化に成功し「ほんとのクレパス」と銘うって仕切り直したそうで。こんな解説を見るだけでも「へぇー」ボタンが欲しいところです(古い)。

「クレパス」は商標で一般的にはオイルパステルと呼ぶそうです。

学校の図工の時間ではクレヨンもクレパスも同じような扱いでしかなかった。だからできた絵も大差ないものだった。でもクレパスはクレヨンと違って色を混ぜられる特徴があるのだ(それも知らなかったぞ!)。その結果、会場に展示されているのは油絵に似た「これがクレパス画?」という物が目立つのだ。後日検索してみたらオイルでこすったりペインティングナイフで削ったりとクレパス画の技法にはいろいろある様子。実際に油絵っぽいですね。そういった技法まで学校で学んでたらなー。

そんな中、印象に残ったのは山本鼎「江の浦風景」(1934)。油絵にも似ているが油絵ほど重みがなく軽やかな発色がいい。こんな絵を描いてみたい、と思わされた。

この「自分でも描けないかなー」と思わされるのが本展覧会の特徴。一般的な展覧会では作品世界が別次元すぎて「描いてみたい」とは決して思わない。油絵も描いたことないので画材に馴染みがない。絵を本格的にやる人が使うのが油絵、というイメージ。

しかしクレパスは違う。クレヨンと大差ないもの、という認識(実際は先述の通り違うのだけど)があるので馴染みがある。あの画材でこんな絵が描けるならちょっともう一回…とくすぐられるのだ。脳トレにも効果ありそうだし。

なので、会場の販売コーナーで作品の絵葉書や画集などといっしょにならんでいる「ほんとのクレパス復刻版」や「クレパス誕生90年記念90色セット」(15000円)にむむっ…となったのはここだけの話。今まで気にもとめてなかった「大人の塗り絵」も興味が湧いてきた。「クーピーペンシル」も懐かしい…!と変に刺激されてしまったのでした。基本的な絵の描き方からわかってないので結局買わなかったけど。でも「クーピーペンシル30 カラーオンカラー」はどうしようかなー。

衝動は理屈じゃない話【鑑賞「夜明け告げるルーのうた」】

全国公開時は見られなかったのだけど再上映の機会がありようやく見ることができました。楽しい作品でしたねー。

【作品紹介】
ポップなキャラクターと、ビビッドな色彩感覚。観客の酩酊を招く独特のパースどり(遠近図法)や、美しく揺れる描線。シンプルな“動く”喜びに満ちたアニメーションの数々。文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞した『マインド・ゲーム』(04年)で長編監督デビュー以降、鬼才・湯浅政明の圧倒的な独創性は、国内外のファンを魅了してきた。そんな湯浅が満を持して放つ、はじめての完全オリジナル劇場用新作。それが『夜明け告げるルーのうた』である。
「心から好きなものを、口に出して『好き』と言えているか?」同調圧力が蔓延する現代、湯浅が抱いたこの疑問がこの物語の出発点だった。
少年と人魚の少女の出会いと別れを丁寧な生活描写と繊細な心理描写で綴りながら、“湯浅節”とも呼ぶべき、疾走感と躍動感に溢れるアニメーションが炸裂する。1999年に発表された斉藤和義の名曲「歌うたいのバラッド」に乗せ、湯浅政明がほんとうに描きたかった物語が今、ここに誕生する。
【ストーリー】
寂れた漁港の町・日無町(ひなしちょう)に住む中学生の少年・カイは、父親と日傘職人の祖父との3人で暮らしている。もともとは東京に住んでいたが、両親の離婚によって父と母の故郷である日無町に居を移したのだ。父や母に対する複雑な想いを口にできず、鬱屈した気持ちを抱えたまま学校生活にも後ろ向きのカイ。唯一の心の拠り所は、自ら作曲した音楽をネットにアップすることだった。
ある日、クラスメイトの国夫と遊歩に、彼らが組んでいるバンド「セイレーン」に入らないかと誘われる。しぶしぶ練習場所である人魚島に行くと、人魚の少女・ルーが3人の前に現れた。楽しそうに歌い、無邪気に踊るルー。カイは、そんなルーと日々行動を共にすることで、少しずつ自分の気持ちを口に出せるようになっていく。
しかし、古来より日無町では、人魚は災いをもたらす存在。ふとしたことから、ルーと町の住人たちとの間に大きな溝が生まれてしまう。そして訪れる町の危機。カイは心からの叫びで町を救うことができるのだろうか?

公式サイトより)

まず印象に残ったのは音楽。映画はカイがサンプラーで作曲する場面から始まるのだけど、その曲がいい。この作品が音楽(リズム)を鍵にした内容だと印象付ける。

そしてカイも含めルーの歌を聞いた人々が足からリズムをとる様の不思議さ。足と頭が切り離されたかのように足が勝手にリズムを刻みだし、全身をぐにゃぐにゃにして踊りだす。ここが中盤の見せ場でしたね。

キャラのデフォルメもカワいくないのがよかったですね。

監督の作品ではテレビアニメ「四畳半神話大系」を見ました。文系ネクラ男子大学生の妄想と日常が暴走する様を主人公の高速ナレーションと極端に遠近感をつけた構図で描いており、非常にインパクトがありました。今作の主人公カイも根暗な男の子なのですが、クラさがユーモアにつながっていた「四畳半神話大系」と比べると正真正銘暗い。カイは周囲の人々と良好な関係を結べていないんですね。

そんな中、友人たちからバンドに誘われ、人魚のルーに出会う。友人たちの常識的な好意に加え、ルーも「好き!」と思いを真っ正直にカイに伝える。紆余曲折がありながらもカイが気持ちを込めた歌を歌うのがクライマックスになるわけです。

この「紆余曲折」が今作のちょっと弱いところかもしれません。何がどうなったかちょっとわかりにくい部分が散見される。大筋としてのストーリーは語られても細かい箇所で「?」となる部分があるんです。中盤登場するルーのお父さんがあんなにあっけなく受け入れられるの変じゃない?とか、ある場面でふさぎこんでた登場人物が次の場面でけろっとしている様に見えるんだけど?とか。人魚と人間たちが対立するきっかけになる事件の描写があっさりしすぎてないか?とか、終盤で舞台の日無町にだけ起こる事象の説明ってありましたっけ?とか。

それでもキャラクターだけでなく背景もぐるんぐるん動かして観客を掴みラストまで持っていくダイナミックな力量にやられます。細かい部分の整合性より勢いで勝負、という感じでしょうか。ルーたち人魚と人間の関係の顛末も驚くくらいさらっと済ませる。そこじっくり描けば泣ける場面になりそうなのに。でも描きたいのは顛末ではなくカイの成長なんですね。全てが終わり町が(文字通り)明るくなったのは、カイの心境ともシンクロしている様でもありました。

一方で思い返すと人魚と人間の間には死の影が付きまとっているのも忘れがたい。あくまで「影」。超えられない壁として、死に似た「影」。人魚と人間の関係を別のものにも置き換えられそうでもあり余韻を残します。

原作のないオリジナルストーリーでキャラクターデザインも少し幼い雰囲気。劇中の場面のショットなどを見る限り子供向けの地味な映画と思っていたのですがとんでもない。老若男女全ての人を捕まえて離さない快作でした。

味わいは複雑な話【鑑賞「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」】

一筋縄ではいかない厳しいビジネスの世界を垣間見る話でした。

【作品紹介】
世界最大級のファーストフードチェーンを作り上げたレイ・クロック。日本国内でも多くの起業家たちに、今なお絶大な影響を与え続けている。50代でマック&ディック兄弟が経営する<マクドナルド>と出会ったレイが、その革新的なシステムに勝機を見出し、手段を選ばず資本主義経済や競争社会の中でのし上がっていく姿は、まさにアメリカン・ドリームの象徴だ。手段を選ばず資本主義経済や競争社会の中でのし上がっていくレイと、兄弟の対立が決定的になる過程は、どこか後ろめたさを感じながらも、スリルと羨望、反発と共感といった相反する複雑な感情を観る者に沸き起こすに違いない。
熱い情熱で挑戦を続け、世界有数の巨大企業を築き上げた彼は英雄なのか。それとも、欲望を満たす為にすべてを飲み込む冷酷な怪物なのか。野心と胃袋を刺激する物語。

【ストーリー】
1954年アメリカ。52歳のレイ・クロックは、シェイクミキサーのセールスマンとして中西部を回っていた。ある日、ドライブインレストランから8台ものオーダーが入る。どんな店なのか興味を抱き向かうと、そこにはディック&マック兄弟が経営するハンバーガー店<マクドナルド>があった。合理的な流れ作業の“スピード・サービス・システム”や、コスト削減・高品質という革新的なコンセプトに勝機を見出したレイは、壮大なフランチャイズビジネスを思いつき、兄弟を説得し、契約を交わす。次々にフランチャイズ化を成功させていくが、利益を追求するレイと、兄弟との関係は急速に悪化。やがてレイは、自分だけのハンバーガー帝国を創るために、兄弟との全面対決へと突き進んでいくー。

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印象に残っているのは冒頭、レイが車にサンプルを積み、一人アメリカ大陸を駆け抜けて一軒一軒のドライブインでミキサー機を売る様子。またマクドナルドのフランチャイズを始めるにあたり、自身が加入していたゴルフ倶楽部の会員たちに投資を持ちかけたものの、会員たちが経営する店はレイの理想と程遠いものだったため彼らと決別し一人でフランチャイズ事業を進めるエピソードも忘れがたい。

平凡なセールスマン、事業家とは違うレイのガッツを感じさせる。理想のビジネスを実現するには従来の人間関係を断ち切っても構わない(「新しい友人を作ればいい」といったセリフがあったな確か)、変化を恐れない姿がある。

人間として全否定できにくいのが悩ましい。

だからこそマクドナルド兄弟やレイの妻の顛末はやるせない。マクドナルド兄弟は事業を考案したにもかかわらず「マクドナルド」という店の名前まで奪われてしまう。レイの妻は事業の助けになればと彼を倶楽部に誘いテーブルトークで売り込みのタイミングをさりげなく促すなどしたのに捨てられてしまう。

ではマクドナルド兄弟は愚鈍なのか。そうは思わせないのが今作の憎いところ。変化を恐れなかったのは彼らもそうだったのだ。映画産業に携わり映画館事業につまづいた後に新しい形態のハンバーガービジネスを考案し、実店舗として成功させる。マクドナルド兄弟がレイに語るこれまでの歩みは、それだけでも立派なアメリカン・ドリーム、成功譚なのだ。

だが兄弟の夢の本当の可能性を、兄弟より気づいていたのがレイだった。レイとマクドナルド兄弟、根本では同じ気質があったのだ。しかし描いた夢の大きさは決定的に違っていた。

またビジネスで巨大な成功を収めたレイが金にだらしない男としては描かれないのも興味深い。レイが妻と別れ、ビジネスパートナーの男性の妻を横取りして再婚するエピソードはあるのだが、それはレイが女にだらしない、のではなく、仕事を広げていく上での考え方の違いとして描かれる。レイはあくまでビジネスの規模を拡大することだけに長けている人間なのだ。その結果、彼についていけない人は振り落とされてしまう。

ビジネスにおける発明家と事業家の違いを考えさせられる。自分のアイデアを大事にする発明家、アイデアを広げることを大事にする事業家。アイデアの核は何か、という点を突き詰めておけばレイとマクドナルド兄弟の決裂はなかったかもしれない。レイはビジネス界のヒーローかもしれないし、人を蹴落として成功を掴んだワルかもしれない。自分はレイによりそうのか、マクドナルド兄弟によりそうのか。人によって見方は変わる、複雑な味わいの一本でした。

英雄は日常の中にいる話【鑑賞「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」】

文化が違えばヒーロー誕生譚も描き方も違う。相違点と共通点が印象に残りました。

【作品紹介】
75年に日本で放送開始、79年にイタリアでも放送されて大人気を呼んだ永井豪原作によるアニメ「鋼鉄ジーグ」。本作は、少年時代から日本アニメの大ファンだったガブリエーレ・マイネッティ監督が、40年近く経った今もなお、イタリア人の心の中に深く刻まれるその「鋼鉄ジーグ」を重要なモチーフにして生み出した、イタリア映画初の本格的ダークヒーロー・エンタテインメントだ。
【ストーリー】
舞台は、テロの脅威に晒される現代のローマ郊外。裏街道を歩く孤独なチンピラ エンツォはふとしたきっかけで超人的なパワーを得てしまう。始めは私利私欲のためにその力を使っていたエンツォだったが、世話になっていた“オヤジ”を闇取引の最中に殺され、遺された娘アレッシアの面倒を見る羽目になったことから、彼女を守るために正義に目覚めていくことになる。アレッシアはアニメ「鋼鉄ジーグ」のDVDを片時も離さない熱狂的なファン。怪力を得たエンツォを、アニメの主人公 司馬宙(シバヒロシ)と同一視して慕う。そんな二人の前に、悪の組織のリーダー ジンガロが立ち塞がる…。

公式サイトより)

Youtubeで第1話が公式配信されてました。

改めて当時のアニメを見るとちょっと怖い。絵の拙さもあるのかもしれないけど、洗練されてしまった今の作品より怪奇さ、荒々しさがありますね。「鋼鉄ジーグ」をモチーフにした今作もその荒々しさが印象に残ります。ハリウッドのヒーロー映画にはない側面ですね。

コスチュームを纏わないのがイタリア流でしょうか。

先述した通り、基本的な話の流れはなじみあるものです。主人公が正義に目覚めるために犠牲が生じたり、敵役がヒーローと同等の力を持ったりするのもお馴染みのパターン。でも暴力や恋愛の描写は日米のヒーロー映画よりぐーっと「大人」。子供は見ちゃいけません。最近ではX-MENのスピンオフ「LOGAN/ローガン」も過激な暴力描写が話題になりましたが、正直「LOGAN/ローガン」より大人向け。

ヒーロー映画が大人向けになったのが「LOGAN/ローガン」で、大人向け映画の中にヒーローが現れたのが今作「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」という感じです。

ということは、今作の「特殊能力」は拳銃などの武器に置き換えても話が成立する、といえる。でもそこで「ヒーロー映画」にしかない特徴が際立つ。

ヒーロー映画には自分の力を社会のため正義のために使う、と「決心する」場面が必ずある。日常ではあり得ない超能力と我々観客の日常が結びつく瞬間ともいえる。その日常が今作では本当に我々と地続きの日常のように見えたことが素晴らしい。これまでのヒーロー映画における日常とは、単にヒーローが活躍する舞台でしかなかったのではないか、とまで思えてくる。

ヒーローの誕生がこうして何度も語られるのは「社会を救う存在が現れてほしい」という願いもあるでしょうが「人は皆、自分の能力を社会に還元するべきだ」という願いも込められているのではないか。「能力を還元しなくてはいけない社会」は空想の社会ではなく、もっと身近なのかもしれません。

成熟するのも楽じゃない話【書評「あなたの人生の意味」】

非常に自己抑制的な生き方を理想とするよう説く一冊。前回紹介した「ヒルビリー・エレジー」と合わせて考えると、ちょっと理想主義的すぎるのかなぁ。

内容(「BOOK」データベースより)
人間には2種類の美徳がある。「履歴書向きの美徳」と「追悼文向きの美徳」だ。つまり、履歴書に書ける経歴と、葬儀で偲ばれる故人の人柄。生きる上ではどちらも大切だが、私たちはつい、前者ばかりを考えて生きてはいないだろうか?ベストセラー『あなたの人生の科学』で知られる『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニストが、アイゼンハワーからモンテーニュまで、さまざまな人生を歩んだ10人の生涯を通じて、現代人が忘れている内的成熟の価値と「生きる意味」を根源から問い直す。『エコノミスト』などのメディアで大きな反響を呼び、ビル・ゲイツら多くの識者が深く共鳴したベストセラー。
著者について
《ニューヨーク・タイムズ》のop-ed(署名入り論説)コラムニスト。シカゴ大学卒業。《ウォール・ストリート・ジャーナル》、《ザ・ウィークリー・スタンダード》、《ニューズウィーク》の記者・編集者などをへて、2003年より現職。PBS、NPR、NBCなどのテレビやラジオ・コメンテーターとしても知られ、イェール大学でも教鞭を執る。アメリカ芸術科学アカデミー会員。本書(2015年)は《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラーリスト(ノンフィクション部門)で1位を記録し、さまざまなメディアで反響を呼ぶ。ほかの著書に、同じく《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラー1位となった『あなたの人生の科学』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、On Paradise Drive、『アメリカ新上流階級ボボズ』など。

(アマゾンの著書紹介ページより)

紹介されている10人は米大統領アイゼンハワーやルネサンス期の哲学者モンテーニュは日本でも知られているだろうけど、他はローマ時代の哲学者アウグスティヌスとかアメリカの公民権運動活動家や米国初の女性閣僚とか、ピンとこない人が多い。欧米人なら名前を聞いただけですぐわかるんだろうけど、各章を読み進んでも「この人は結局何をした人なのか」が曖昧な印象が残る。

ただ「何をした人か」というのは著者の言う「履歴書向きの美徳」なのだろう。著者が伝えたいのは彼らが何かをなすまでにどれだけ苦労したかと言うこと。堕落した生き方から再生したり愛を求め続けたり常に自分を自制し続けたり。偉大な生き方とはそういうものでしょ?と著者は繰り返し問いかける。

平凡で単調な人生で良ければ、それで自分は満足だというのなら、道徳的であろうとして闘い、もがき苦しむ必要はないかもしれない。だが、より良く生きたいと望むのであれば、そうはいかない。より良く生きようとすれば、人生の多くの時間は闘いになるし、拷問にかけられているような苦しみを味わうことになる。常に道徳的であるためには大変な勇気が必要になる。行く手を阻む者、嘲笑う者も大勢いるに違いない。だが、それでも、最後は単に快楽のみを追い求めた人間よりも、はるかに幸福になれるはずだ。
人となりは、その人の努力の賜物、その人の作品のようなものということだ。そちらの方が「本当の私」であり、生まれた時の「ありのままの私」と同じではないことになる。
人が未来のことを思う時には、幸せに生きている自分の姿を思い描くのが常である。ところが面白いのは、人が過去を振り返って何が今の自分を作ったかを考える時に思い出すのは、たいていは何か辛い出来事である。
自分の人生を一つの道徳的な物語ととらえ、苦難もその物語の一部とみなすべきということだ。良くない出来事に出会ったら、それを何か神聖なものに転換しなくてはならない。
私たちは皆、「失敗する人」である。だが、人生の意味は、失敗の中にある。人生の美もそこにある。失敗することで何かを学び、年を追うごとに成長する、そこにこそ意義があるのだ

などなど印象的な一節をあげてみました。いいことを書いているとは思う。けど道徳の教科書を読んでいるような窮屈感は最後まで拭えなかった。

「マジメか!」と言いたくなる衝動が湧くんですよねー

前回紹介した「ヒルビリー・エレジー」の著者の半生も、この本で紹介されてもおかしくないような偉大な生き方の物語だった。でもこの本では(社会活動に尽力した人物を紹介した章もあるとはいえ)偉大な人生は個人の努力で得られる、という考え方が基本にある。自己向上という意味の中には独善的に陥らないよう中庸の大切さも説く面や、現在の個人主義は経済的な向上を求めるだけで精神の向上を求めていないと説く面もある。正しい個人主義ではない、と言いたいのでしょうね。

それは決して間違ってはいない。しかしこの本のメッセージが届かない人もいるだろうな、という疑念は残った。「ヒルビリー・エレジー」で描かれたような、向上する生き方を考えることすらできない人もいる、という視点が足りないようにも思う。この本の原著が出版されたのは2015年。米大統領選でトランプ旋風が吹き荒れる前だった。著者は今、今のアメリカをどう見ているのかな。

あなたの人生の意味――先人に学ぶ「惜しまれる生き方」
デイヴィッド・ブルックス
早川書房
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アメリカは希望の国ではなくなった話【書評「ヒルビリー・エレジー」】

アメリカの白人労働者層のあまりに厳しい暮らしぶり。その責任は自らにある、とする結論もまた苦い。

【内容紹介】
無名の31歳の弁護士が書いた回想録が、2016年6月以降、アメリカで売れ続けている。著者は、「ラストベルト」(錆ついた工業地帯)と呼ばれる、オハイオ州の出身。貧しい白人労働者の家に生まれ育った。回想録は、かつて鉄鋼業などで栄えた地域の荒廃、自分の家族も含めた貧しい白人労働者階級の独特の文化、悲惨な日常を描いている。ただ、著者自身は、様々な幸運が重なり、また、本人の努力の甲斐もあり、海兵隊→オハイオ州立大学→イェール大学ロースクールへと進み、アメリカのエリートとなった。今やほんのわずかな可能性しかない、アメリカンドリームの体現者だ。そんな彼の目から見た、白人労働者階級の現状と問題点とは? 勉学に励むこと、大学に進むこと自体を忌避する、独特の文化とは? アメリカの行く末、いや世界の行く末を握ることになってしまった、貧しい白人労働者階級を深く知るための一冊。

(アマゾンの書籍紹介ページより)

大学を卒業しない労働者階級の白人アメリカ人は「ヒルビリー(田舎者)」と呼ばれているそうだ。著者の母親は結婚と離婚と薬物依存を繰り返す。著者に平穏をもたらしたのは祖父母と姉、そのほかの一族たち。著者はなんとか貧困から抜け出し弁護士になるが「あとがき」に記す彼の見た夢は、自身に今も残る粗暴さにおののく姿を描いていて、苦い。

ヒルビリーを断罪せず寄り添う筆致が切ないのです。

今の貧しい生活から抜け出すことすら考えられない絶望と、家族を侮辱するものには激しい怒りを示す親愛が共存するヒルビリーの複雑な社会。自分の人生は自分で切り開く、公の支援を受けるのは恥、という意識があるいっぽうで、よりよい暮らしを求めて勉学に励むことは「女々しい」と忌避する。古い「男らしさ」が残っているようだ。結果、自身の真の姿を直視できない人が多いというのだ。

著者の絶望のピークは高校生の時。薬物から抜け出せない母親が抜き打ち薬物検査を逃れるため、著者に「きれいな尿を欲しい」と懇願した時だ。著者はこの出来事を機に結婚と離婚を繰り返す母から離れ、祖父母の元で高校に通う。生活が安定した著者は成績が向上、進学を考える。しかし進学資金の不足、大学の自由な生活が自身を(母のように)堕落させるのではないかという不安から海兵隊に入り、社会常識を身につけた上で進学していく。

著者を最後まで支える祖母が涙ぐましい。実の子(著者の母親)はまともな人間にはならなかったが、祖母は著者にこう教える。

楽をして生きていたら、神から与えられた才能を無駄にしてしまう、だから一生懸命働かないといけない。クリスチャンたるもの、家族の面倒を見なくてはならない。母のためだけでなく、自分のためにも、母のことを許さなければならない。神の思し召しがあるのだから、けっして絶望してはいけない。

真面目に生きろ、家族を大事にしろ。言っていることは何も間違っていないし、ヒルビリーと呼ばれる人たちもそのつもりで生きているはずだ。しかし実際は貧困の真っ直中にあり、そこから抜け出せない。成功するのは才能のある人間だけと思い込み、努力の意味を考えられない。

本文中にドナルド・トランプの名前は出てこない。オバマの名は出てくるが、著者のような人々にとってオバマのような完璧な学歴を持ち大都会で暮らす人は別世界の人間なのだそうだ。その後の大統領選で後継のクリントンが敗れ、トランプが勝利したのはヒルビリーに着目したから。ヒルビリーはアメリカ社会にそれだけ影響力を持つ程の存在になっていたのだ。

でも本当は彼らの生活を向上させるにはトランプに一票を投じるだけでなく、著者のように自ら生活を変えないといけないのだ。経済学ではブルーカラー(肉体労働者)からホワイトカラー(知的労働者)に社会構造が変われば労働者もそれに合わせ変わるもの、と聞いた覚えがあるが、変化は簡単ではないようだ。

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

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