文もまた「力」だった話【書評「光圀伝」】

「光圀伝」表紙
なるほど「虎」のような人物でした。

テレビの中でカッカッカッと笑ってた好々爺のような様は、最後まで出てきませんでした(助さん格さんは出てくるけど)。むしろ冒頭で家臣を刺し殺してるし。

時代劇にもなった「水戸黄門」こと水戸光圀の生涯を描いた、「天地明察」に次ぐ冲方丁の時代小説。「天地明察」にもちらりと光圀は登場するのだけど、そこで描かれるのは、幕府に巨大な影響力を持ち文武に長けた、あまりに強大な存在としての光圀像。しかしそこに至るまでには苦難の過程があったのだ。

兄がいながら水戸藩を継ぐことを命じられた光圀。「なぜ自分が?」「自分がなすべきことは?」苦悩する光圀は酒場に入り浸るいっぽう、詩歌に救いを求めていく。「詩歌で天下を取る」と豪語する光圀の前に現れる、鼻っ柱の強い儒学者・読耕斎や、自分の苦悩を心の底から理解してくれる妻・泰姫。彼らとの出会いや別れ、江戸を襲い全ての書を灰にした大火を経て、光圀は歴史書の編纂という事業を持って、戦国の世から学問の世に移そうとしていく。しかしその意思を汲み間違うものが現れて…

史実の光圀は時代劇のように諸国を漫遊していないこと、歴史書「大日本史」編纂を手がけたこと…は知っていたけれど、ここで描かれる光圀像は豪胆でありながら迷い、悩む存在。心を通わせた人たちにも次々と先立たれ、自分の「義」ーなすべき事ーを実際に起こす時、そばには読耕斎も泰姫もいなかった。しかし生前の彼らに「自分の信じた通りにやればいい」と励まされていた事が最後まで光圀を動かした。

しかしその先にあったのは苦い現実。戦国の世でなくなったことを実感するのは、将軍が愚鈍でも幕府が揺るがなくなったからであり、世を安定させるために史書編纂を推奨したら、光圀からすると絶対認められない大義を編み出す家臣が現れる。冒頭の処刑が再び描かれるクライマックスは胸が痛む。

この時、家臣が光圀に言う「大義」。作者の創作だろうけど、それを言わせたことで現代人である我々からすると、「うむむ…!」と唸ってしまうんである。時代を越える学びの力と、学びの力が呼ぶ死の匂い。

武だけでなく文もまた、力になる。世に平定を与えるには「力」をどう使うか。そこに「義」もあるのでした。若輩、立つべし!