猿の生き様を見届けた話【観賞「猿の惑星 聖戦記」】

男一匹、よくぞ生き切った。一個のキャラクターに焦点をしぼりつつ、知性の意味についても考えさせられた話でした。

【作品紹介】
ウイルスによる突然変異によって高度な知能を得た猿達の反乱、人類が築き上げた文明社会の崩壊、猿と人類の戦争の勃発という衝撃的なストーリーを描き、全世界を震撼させた『猿の惑星』シリーズ。2011年の「創世記(ジェネシス)」2014年の「新世紀(ライジング)」に続き、「聖戦記(グレート・ウォー)」と題された最新作では、ついに地球の歴史が塗りかえられ、新たな支配者が決する激動のドラマと圧倒的なスケール感みなぎる壮絶なアクション・バトルが繰り広げられていく。
【ストーリー】
猿と人類の全面戦争が勃発してから2年後。シーザー率いる猿の群れは森の奥深くに秘密の砦を築き、身を潜めていた。そんなある夜、奇襲を受けたシーザーは妻と年長の息子の命を奪われ、悲しみのどん底に突き落とされる。軍隊を統率する敵のリーダー、大佐への憎悪にかられたシーザーは大勢の仲間を新たな隠れ場所へと向かわせ、自らは復讐の旅に出る。シーザーは大佐のアジトである巨大な要塞にたどり着くが、復讐心に支配され冷静な判断力を失ったシーザーは大佐に捕獲されてしまう。しかも新天地に向かったはずの仲間の猿たちも皆、この施設に監禁され重労働を強いられていた。リーダーとしての重大な責任を痛感したシーザーは仲間たちを“希望の地”へ導くため命がけの行動に打って出る…。

公式サイトより)

今作を劇場で見るために未見だった旧シリーズ5本、前々作「創世記」と前作「新世紀」も追いかけましたよ。わずかな仕草と服から出ている部分だけが猿っぽかった旧シリーズと比べ、この3部作は(旧シリーズと同じように)猿を人が演じているにも関わらず立ち居振る舞いが圧倒的にリアル猿。なおかつシーザーの表情などは本物のチンパンジーのそれではなく明らかに表情が読み取れる意匠が施されている。深く感情移入ができるんです。リアルとフィクションの絶妙な配合。CGの進化は素晴らしいなぁ。

旧シリーズで描かれた「猿の惑星」が誕生する契機となるであろう出来事を、現代を舞台に描いた「創世記」、人類と猿達の抗争勃発を描いた「新世紀」。両作で問いかけたのは「知性とは何か」と理解しました。薬物投与で人間の言葉が理解できるようになった猿、というのはフィクションとしてのきっかけで、真の知性とは他者を受け入れることではないのか、という問いかけが両作ではなされました。猿が知的で人が獣的、という単純な入れ替えではない。猿でも人でも他者を受け入れられない者はいる。それが知性の影の面、ということを特に前作「新世紀」では描いていた。

旧シリーズに心憎い目配せもしたシリーズでした

で、3部作の完結とされる今作「聖戦記」。局地戦とはいえ異種間の闘争勃発を描いた前作からすると話のスケールは小さくなった。妻子を殺されたシーザーの復讐が物語の中心で、シーザー率いる猿達は防衛に徹し人の手の及ばないところへ逃げようとするだけ。異種間闘争の決着は描かれない。まぁこれは、猿と人が直接争わなくてもウイルスで人がどんどん減り異常化もしていくので自然に決着はついてしまうのですよね。

でも過去2作の魅力だった知性への問いかけは今作でも描かれている。今回のテーマはさしずめ「団結と分裂」か。困難な時に知性はどう使われるべきか、が描かれていると思ったのです。異常化していく自身に耐えられず殺しあったり自ら命も絶ったりと知性の無駄遣いをする愚かな人間どもに対し、我らが猿達はこう誓うんですよ。「Apes Together Strong」と。Together Strong!Together Strong!(劇中のポーズ参照)

この3部作で観客が人間側でなく猿側、とくに猿のリーダー・シーザーに惹かれてしまうのはシーザーが最後まで知性を正しく使おうとしつづけたからでした。あるべき姿を貫き通した一匹の猿の生き様は最後まで眩しかったぜ…!

奪い奪われ与える話【観賞「散歩する侵略者」】

日常が静かに終わる異常な感じを堪能しました。

【イントロダクション】
国内外で常に注目を集める黒沢清監督が劇作家・前川知大氏率いる劇団「イキウメ」の人気舞台「散歩する侵略者」を映画化。数日間の行方不明の後、夫が「侵略者」に乗っ取られて帰ってくる、という大胆なアイディアをもとに、誰も見たことがない、新たなエンターテインメントが誕生しました。侵略者たちは会話をした相手から、その人が大切にしている《概念》を奪っていく。そして奪われた人からは、その《概念》が永遠に失われてしまう。「家族」「仕事」「所有」「自分」…次々と「失われる」ことで世界は静かに終わりに向かいます。もし愛する人が侵略者に乗っ取られてしまったら。もし《概念》が奪われてしまったら。あなたにとって一番大切なものは何ですか?
【ストーリー】
数日間の行方不明の後、不仲だった夫がまるで別人のようになって帰ってきた。急に穏やかで優しくなった夫に戸惑う加瀬鳴海。夫・真治は会社を辞め、毎日散歩に出かけていく。一体何をしているのか…?
その頃、町では一家惨殺事件が発生し、奇妙な現象が頻発する。ジャーナリストの桜井は取材中、天野という謎の若者に出会い、二人は事件の鍵を握る女子高校生・立花あきらの行方を探し始める。
やがて町は静かに不穏な世界へと姿を変え、事態は思わぬ方向へと動く。「地球を侵略しに来た」真治から衝撃の告白を受ける鳴海。当たり前の日常は、ある日突然終わりを告げる。

公式サイトより)

黒沢清の作品は最近見てなかった。「CURE」や、特に「回路」がこんな雰囲気の話だったかなー、と記憶しています。

宇宙人が(宇宙人として)登場しないSF映画ですね。静かに侵略を始める宇宙人たち、それを察知し対抗を始める人類(のリーダーたち)。一般人類は何も知らない。全体がおぼろげながらも見えているのは鳴海や桜井(と観客)くらい。

長澤まさみがよかったですねー。

この「全体がおぼろげに見える」感じが絶妙にコワイ。鳴海や桜井の後ろを普通に歩いている一般人たちが宇宙人に見えてくる。この作品、登場人物が街を歩く場面が何度かあるのだけど、後ろに写っている人たちが普通の映画より明らかに多い。意図的に人が配置されている感じもして、気味の悪さを増幅させている。

「概念を奪う」という宇宙人の特殊能力が発揮される場面もヒヤリとする。奪われた人間がへたり込むあの瞬間。薄気味悪かったですねー。

いっぽうで鳴海のエピソードと桜井のエピソードが分離しすぎてたかな、という気はします。桜井側の宇宙人2人がもっと鳴海側に執着するのかと思ったらそうでもなかった。両者が出会ってもさして何も起こらなかったのが残念なところ。

エピローグでの鳴海も、その直前までの描写と違いすぎてた気が。へたり込むことなく「何も変わらないけど?」と言ってたのになんでああなったのかな。中盤で神父が愛の定義を語る場面があるのだけど、今作での「愛」という概念が、そこで神父が語る愛と同じものであるなら、ああいう結末にはならないのではないかな。やはり愛も概念の一つであるならば、奪われたら尽きてしまうってことではあるんだろうけど。

ともあれ、「愛」の概念がカギだというのはメロドラマ的要素を強めてて、話を盛り上げたのは間違いない。そう考えるとひたすら暴力描写でひっぱっていた桜井側のエピソードも最後には愛があったと解釈できる気がしてきた。桜井も鳴海も最後は自分を捨てたのだから。

奪う者と奪われる者のドラマで最後に姿を見せる「与える者」。彼らこそ最も不可解で、それゆえに魅力的な存在でした。もらった側が「なるほど」で済ませず、ずっと影響を与え続けるのが愛、と言えるでしょうか。

気持ちのやり場がどこにもない話【観賞「エイリアン:コヴェナント」】

「つまらないですよ」「面白いらしいよ」と真逆の評価を聞いたので前作「プロメテウス」を鑑賞した上で臨んだのですが…うーむ。

【イントロダクション】
メガヒット・シリーズ「エイリアン」の創造主である巨匠リドリー・スコットが直々にメガホンを執った待望の最新作「エイリアン:コヴェナント」は、これまで謎のベールに覆われてきた“エイリアン誕生の秘密”を解き明かす物語だ。その背景となるのは第1作「エイリアン」の20年前にあたる時代。シリーズの原点に回帰し極限の緊張感とバイオレントなショック描写の演出に腕をふるったリドリー・スコット監督は、息もつかせぬストーリー展開の果てに「誰がエイリアンを創造したのか?」という大いなる疑問の答えを提示していく。
【ストーリー】
人類の植民地となる惑星オリガエ6への移住計画のために、2000人の男女を乗せて地球を旅立った移住船コヴェナント号が、航海中に宇宙空間で大事故に見舞われる。修復作業中に奇妙な電波を受信したクルーは、発信元の惑星を調査することに。やがて事故で夫を亡くした女性乗組員ダニエルズやアンドロイドのウォルターらが降り立ったその惑星は、自然環境が地球と極めて似通っていた。しかし美しい“宇宙の楽園”のように思われた未知の惑星には、あの凶暴な生命体エイリアンをめぐる恐るべき秘密が隠されていた…。

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前作がヒットしたので続編、また続編…と統一感なく増築を繰り返すシリーズ映画の中で、前作「プロメテウス」はエイリアンの起源に迫ろうという話でした。とはいっても公開時は見逃したわけですが。公開時の宣伝がどっちつかずだった印象があるんですね。新シリーズ起動!とか打ち出すこともなく、エイリアンの前日譚らしい、と噂が広まっていたんで、よく分からなかった。

で、「プロメテウス」と「エイリアン:コヴェナント」ですが。確かに「エイリアン:コヴェナント」は「プロメテウス」続編で「エイリアン」シリーズの最新作です。増築し尽くした本館の隣に別館が建ち始めた趣。この2作は創造主と創造物の関係を色々な層で提示しているので、ドラマとして一つの筋が立ってはいる。人間がエイリアン化する、エイリアンに襲われる、などの映画的お楽しみもある。

表紙を飾るべきだったのはマイケル・ファスベンダーでは。

でも肝心の「創造主と創造物の物語」が今ひとつ面白くない。創造物だったアイツが創造主になったら面白いでしょ?という程度でしかない。偉大なる創造主という一神教的世界観を逆手に取ったのだろうけど、過去一連のシリーズで語られた顛末のきっかけは、コイツ一人に集約されるの?という点に説得力を感じられなかった。彼の創造への欲望は伝わるんだけども。

エイリアンの起源という点では、前作「プロメテウス」でほぼ語られているし、今作でエイリアンの創造主(人類の創造主でもある)種族「エンジニア」があっという間に丸ごと退場してしまったのももったいない。コヴェナント号のクルー達もとてもプロフェッショナルとはいえない。とくに序盤、着陸艇を失くしてしまう顛末はお粗末の一言。結果、どの登場人物にも感情移入しにくいのですよ。勝手にやってれば、という感じ。

ただ今作は明らかに次回作を意識した宙ぶらりんな形で終わるので、次回作できっちりケリをつけてほしい。創造主が創造物から逆襲される結末がないと落ち着かんぞ。次回作はひょっとしたらエイリアンに感情移入する作品になるのかもしれません。

謎が人をつなぎとめる話【鑑賞「三度目の殺人」】

宣伝上「サスペンス映画」と謳ってはいますが、実際はサスペンス映画でも社会派映画でもサイコ映画でもない、なんとも言いようのない作品でした。

【イントロダクション】
カンヌ国際映画祭・審査員賞受賞から全世界へと広がった「そして父になる」の熱狂から4年。是枝裕和監督×福山雅治主演というタッグに加え、名優・役所広司が是枝組に初参加。さらに「海街diary」に続き是枝組2度目の出演となる広瀬すずを加え、日本を代表する豪華キャストの共演が実現した。弁護士が覗いた容疑者の深い闇。その先に浮かび上がる、慟哭の〈真実〉とは。心震える心理サスペンスが完成した。
【ストーリー】
それは、ありふれた裁判のはずだった。殺人の前科がある三隅が、解雇された工場の社長を殺し、火をつけた容疑で起訴された。犯行も自供し死刑はほぼ確実。しかし弁護を担当することになった重盛はなんとか無期懲役に持ち込むため調査を始める。調査を進めるにつれ重盛の中で違和感が生まれていく。三隅の供述が会うたびに変わるのだ。金目当ての私欲な殺人のはずが週刊誌の取材では被害者の妻に頼まれたと答え、動機さえも二転三転していく。さらには被害者の娘と三隅の接点も浮かび上がる。得体の知れない三隅の闇に呑み込まれていく重盛。弁護に必ずしも真実は必要ない、そう信じていた弁護士が初めて心の底から知りたいと願う。その先に待ち受ける真実とは?

公式サイトより)

観客の「こういう話だろうなー」という甘い期待を最後まで裏切り続ける話です。人によっては「これで終わり?」と思うでしょう。結局何?何が言いたかったの?って。観客に対し不親切な一本だなぁとは思います。

福山雅治の困惑する様が今回も見所ですね

最初に「サスペンス映画でも社会派映画でもサイコ映画でもない」と書きましたが、gむしろそれらの要素が全部入っている、とも言えるのです。とくにタイトル「三度目の殺人」が象徴するのは、殺した動機が曖昧なまま下される三隅への判決なのでしょうから。その点から司法制度への疑問を投げかける社会派作品、と言えなくもない。裁判官、弁護士、検察の公判前整理手続きとか出てくるし。広瀬すず演じる被害者の娘の告白もそう。

いっぽうで小鳥のエピソードを留置所で話す三隅の様子にはサイコ映画の香りも濃厚。話している時の役所広司のあの手!怖かったですねー。

でも、特に三隅と重盛の留置所のシーンで顕著なのですが、三隅をあたかも聖者のように明るく映したり三隅と重盛が同じような存在かのように重ね合わせて映したりと、被告人・三隅の描き方は非常に凝っている。もちろんストーリー上も殺人の動機について周囲の発言はおろか三隅本人もコロコロ変えていく。変えていく理由もはっきりしない。あげく最後には…とこれ以上書くのは野暮か。

ただ三隅最後の告白が観客側からすると「はぁ?!」と困惑してしまうのは避けられない。なおかつその告白に重盛が乗ってしまうのもますます困惑させられた。被告にとって最大限の利益を引き出さればオッケーという立場だった弁護士が、そんな告白に乗ったら裁判上圧倒的に不利だってのは一般人でも予想がつきそうなものだけど。で、実際その通りになってしまう。重盛が三隅に強く影響を受けたのだろうな、とは察せられるのだけど違和感がかなり残りました。この辺、人を選ぶだろうなー。

鑑賞後に解放感を味わえる作品ではありません。困惑させられたまま放り出されてしまいます。でもこれって是枝監督の本を読んだ後の印象にも繋がるのです。「これが答えだ」と示されないのは監督の考える現実観の反映か。それを示してしまうことこそが「三度目の殺人」になるのか。もやもやとしたものを引きずっていくことで三隅は重盛や観客の中で生き続けるのでしょう。

撤退戦でも勝利をめざす話【鑑賞「ダンケルク」】

撤退戦でもエンターテイメントになる、と踏んだところが慧眼でした。

【イントロダクション】
『ダークナイト』『インセプション』『インターステラー』と、新作ごとに圧倒的な映像表現と斬新な世界観で、観る者を驚愕させてきた天才クリストファー・ノーラン監督。彼が、初めて実話に挑んだ本作は、これまでの戦争映画の常識を覆す、まったく新たな究極の映像体験を突きつける。
史実をもとに描かれるのは、相手を打ち負かす「戦い」ではなく、生き残りをかけた「撤退」。絶体絶命の地ダンケルクから生きて帰れるか、というシンプルで普遍的なストーリーを、まるで自分が映画の中の戦場に立っているような緊迫感と臨場感で、体感させる。開始早々からエンドロールまで、映像と音響がカラダを丸ごと包み込み、我々観客を超絶体験へといざなう。
そして上映開始とともに動き出す時計の針のカウントダウン。陸海空それぞれ異なる時間軸の出来事が、一つの物語として同時進行。目くるめくスピードで3視点が切り替わる。これぞノーランの真骨頂!99分間ずっと360度神経を研ぎ澄まさないと生き残れない、一瞬先が読めない緊張状態が続くタイムサスペンス。

【ストーリー】
フランス北端ダンケルクに追い詰められた英仏連合軍40万人の兵士。背後は海。陸・空からは敵――そんな逃げ場なしの状況でも、生き抜くことを諦めないトミーとその仲間ら、若き兵士たち。
一方、母国イギリスでは海を隔てた対岸の仲間を助けようと、民間船までもが動員された救出作戦が動き出そうとしていた。民間の船長は息子らと共に危険を顧みずダンケルクへと向かう。
英空軍のパイロットも、数において形勢不利ながら出撃。命をかけた史上最大の救出作戦が始まった。果たしてトミーと仲間たちは生き抜けるのか。勇気ある人々の作戦の行方は!?

公式サイトより)

このあと独軍に勝利するとわかってても今作は爽快感のある話ではありません。最後にトミーが新聞に掲載されたチャーチル英首相の演説を読みあげる場面があるのだけど、そこでようやく奮い立たされる。今作は戦いを中心とした戦争ものというより危機的な状況からの脱出もの、の映画なのでしょう。昔ありましたね、高層ビル火災を描いた「タワーリング・インフェルノ」とか。だからこそ敵側である独軍の姿ははっきりと描かれない。空中戦で登場する飛行機程度。

冒頭の簡単なテロップで状況を説明した後は細かいリズムを繰り返し刻む劇伴音楽で緊迫感を常にあおっていたのも、舞台であるダンケルクの海岸に独軍が迫っている描写を省く効果があったと解釈しました。独軍兵が姿を見せるのも本当に最後の最後だったし。

生き残るだけで勝利なのです。

と考えると、今作が防波堤、海、空という3つの話を同時進行させるのは、過去のパニック映画であった複数のエピソードを並行して描くパターンをなぞっている、といえる。ただ今作は、防波堤の1週間、海の1日、空の1時間という時間軸が全く違う3つの話をクライマックスで合わせるという構成がキモでした。

でもまぁ思い出してみると、各エピソードの冒頭に「1週間」「1日」「1時間」とテロップは出ていたけれど、時間軸の違いにそんなに違和感がなかったというか気にならなかったというか。むしろ「1週間」「1日」「1時間」というテロップの意味がわかりにくいというか。見終わった時に「3つのエピソードの時間軸って全然違うよね?」と言われる前に先手を打ったというか。3つのエピソードをそれだけうまく編集できていたわけで、玄人はうなるかもしれんが素人は気づかない編集かもしれませんねー。

印象に残ったのは「防波堤」のトミー。普通に順番を待っていたら脱出できるのは最後になってしまうとばかりにあの手この手で早く逃げ出そうとして、その度に失敗する様が辛い。海岸で独軍機から爆撃を受け画面奥から手前へ向けて爆発が続く場面、病院船が魚雷を受け沈没する場面など、ビジュアル的には見ごたえのある場面が多かった。内容的には辛いけど。

で、その辛さを少しでも解消するのが「空」の話。最後の敵機を落とすクライマックスはちょっと出来すぎとは思うけど、ドラマ的にはそんな爽快感が必要なんですよね。その後は辛い結末だけど。

「海」の話は不幸な形で犠牲を出してしまったのが「防波堤」とは別の辛さを感じさせる。戦場の辛さを想像できるが故に罪を咎められない民間人の辛さ。軍人には従わなければならない弱い民間人、とは違うのがまたやりきれない。美談にする(おそらく船内で実際に起こったことは描かれない)ことで救われるのが印象に残りました。

…こう振り返ると、どのエピソードも結局辛い。帰り着いたトミーたちが街で大歓迎されることでようやく爽快感が湧いたかな。こんな「負け戦」でも次を見据えてまずは無事を喜ぶ様子に、撤退を転進と言い換え続けた某国を思い出しそりゃ戦争に負けるわなと考えたわけです。今作で描かれた撤退戦、英国は「ダイナモ作戦」と呼称までしていたそう。現実を見据えその中で最善を尽くすのって大事なことです。苦いけどね。

戦う女性は美しい話【鑑賞「ワンダーウーマン」】

女性が主役のスーパーヒーロー映画として十分楽しめる一本でした。

【イントロダクション】
1941年、DCコミックスに初登場した、一人の女性ヒーロー、ワンダーウーマン。アメコミ史上初となる女性キャラクターであり、その後75年以上も不動の人気を誇る彼女のストーリーが超・待望の実写化。昨年公開の「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」では2大ヒーローを圧倒するパワーを披露したワンダーウーマン。今作では最強&華麗なアクションに加えて、女性だけの島で育った彼女が外の世界を一切知らず、男性を見たことすらない、天然の魅力も発揮し、その圧倒的美貌、強さとのギャップで観る者を魅了する!

【ストーリー】
ワンダーウーマンことダイアナが生まれたのは女性だけが暮らすパラダイス島。彼女は島のプリンセスだった。ある日、不時着したアメリカ人パイロットを助けたことから外の世界で戦争が起きていることを知る。彼女は自身の力で「世界を救いたい」と強く願い、二度と戻れないと知りながら故郷をあとにする。そんな彼女は初めての世界で何を見て、何のために戦い、そしてなぜ美女戦士へとなったのか?

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DCコミックスのキャラクターってほんと、スーパーマンとバットマンくらいしか知らない。ワンダーウーマンは名前と外観を知っていた程度で、「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」に突然登場した時も気づくのに一瞬時間がかかってしまった。なので単独作となる今作は楽しみでした。予告編で印象的に流れるエレキギターのフレーズも格好良い。

ガル・ガドットのキャスティングが完璧すぎでした

今作の肝はやはりキャスティング。美しさと強さだけでなく純粋さ(ロンドンの百貨店の場面は白眉)を主役のガル・ガドットが非常に高いレベルで兼ね備えているのが素晴らしい。一方で悪役側の博士役、出番は少ないけれどコメディリリーフとして印象的な秘書役にも女性が配置されるのも新鮮でした。主要なポジションをさりげなく女性が占めているのが特徴でしょうか(ちなみに監督も女性)。第1次大戦のヨーロッパが舞台なので全般的に画面が暗めなのも大人な雰囲気を出していました。

いっぽうでクライマックスのバトルが「バットマンvsスーパーマン」と似ていたのが残念なところ。夜、だだっ広いところで敵に猛スピードで突撃したり光線合戦になったりと、すでに予告編が見られる「ジャスティス・リーグ」ともそっくりなのが気にかかる。

日本版のウェブサイトが原色を多用したポップすぎるデザインで、作品の雰囲気と全くあっていないのも解せない。日本版予告編も途中に差し込まれるテロップがポップすぎ(なのでリンクは米国版にしました)。「バットマンvsスーパーマン」は黒を基調にしたデザインで作品の雰囲気を壊していなかったのに。ワンダーウーマンのデザイン自体、原色や星のマークを使った初期のものから変わったんですよね。そこに追いついていないんじゃないかなー。

スーパーマンもバットマンも、そして予告編を見る限り「ジャスティス・リーグ」から登場するアクアマンもサイボーグもフラッシュも、DCEUに登場する男性キャラクターはクセが強すぎな感がある。その中でワンダーウーマンはヒーロー映画に不可欠な正義感を絶妙なバランスで体現できる存在になりそう。スーパーマンがヒーローの基本形なように、ワンダーウーマンも女性ヒーローの基本形。「ジャスティス・リーグ」にも期待です。

ヒーローは隣にいる話【鑑賞「スパイダーマン:ホームカミング」】

これまでの作品と比べもっともこぢんまりした話なのですが、なかなか楽しめたのです。

【イントロダクション】
「スパイダーマン:ホームカミング」の主人公は、スパイダーマンこと15歳の高校生ピーター・パーカー。ピーターが憧れのアイアンマンに導かれ真のヒーローになるまでの葛藤と成長を描きつつ、一人の高校生としての青春、恋愛、友情が瑞々しく描かれている。圧倒的スケールのアクションとドラマが展開する、この夏最高のヒーローアクション超大作!
【ストーリー】
ベルリンでのアベンジャーズの戦いに参加し、キャプテン・アメリカからシールドを奪って大興奮していたスパイダーマン=ピーター・パーカー。昼間は15歳の普通の高校生としてスクールライフをエンジョイし、放課後は憧れのトニー・スターク=アイアンマンから貰った特製スーツに身を包み、NYの街を救うべく、ご近所パトロールの日々。そんなピーターの目標はアベンジャーズの仲間入りをし、一人前の<ヒーロー>として認められること。ある日、スタークに恨みを抱く宿敵“バルチャー”が巨大な翼を装着しNYを危機に陥れる。アベンジャーズに任せておけと言うスタークの忠告も聞かずに、ピーターはたった一人、戦いに挑むが…。

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スパイダーマン単独作としては「アメイジング・スパイダーマン2」が前作となるわけですが、「アメイジング」は2で製作終了したとのこと。まぁ鑑賞してそう思いました。やっぱちょっと暗かったんだよねー。

そこで今作。当時から噂されていたマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)とつながる形になりました。結果、「スパイダーマン誕生の秘密」はバッサリカット。ピーターがなぜ叔母と二人暮らしなのかも説明なし。初心者には敷居の高い構成になっていますが、この辺は仕方ないかと。「アメイジング」だけでなくその前の3部作もまだまだ新鮮な作品ですからね。

つまり今作は過去の単独作になかった視点、解釈をどう持ち込むかがキモ。その意味ではかなり成功していると思うのです。

スパイダーマンの絶妙な弱さが魅力的でした

今作の特徴はピーターが高校生であること。過去作だとピーターのハイスクール・ライフってあまりよくは描かれていないのです。蜘蛛の特殊能力を身につけた冴えない男子高校生がちょっかいを出してくる体育会系バカ男子をぶっ飛ばす(そして自分に備わった力におののく)だけ。その後すぐ卒業してしまう。

今作のピーターも非体育会系なのだけど頭はいいし気の合う友人にも恵まれている。レゴの人形を持って「放課後はレゴで(スター・ウォーズの)デススターを一緒に作るのだ〜」とピーターに迫ってくる親友ネッド(太めオタク系)最高。ピーターとネッドにツッコミを入れながらもなぜかいつもそばにいるツンデレ女子ミシェルも良い。彼らが所属するサークルの他の仲間たちもいい。ピーターとネッドをからかう役回りの生徒もいるのだけど単純ないじめっ子でもなく、同じサークルの席にしれっと座っていたりする。このハイスクール・ライフだけでも見ていて楽しい。

いっぽうでスパイダーマンとしての活躍は実は今ひとつ。敵と戦って周囲に予想外の被害を広げるのはまだしも、過去作では糸を使って華麗に敵を追う様な場面が、今作では郊外の家を何かと壊しながら必死に追いかける。予告編でも描かれるフェリー崩壊の場面もアイアンマンに格の違いを見せつけられるエピソードになっていた。

今作のスパイダーマンは予告編(「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」でも)でトニーから呼ばれた様に「新人」なのですね。映画のキャラクターとしてはアイアンマンよりベテランなんだけどw。

そんな新人ヒーローが一人で戦うと決めたとき、見ている観客もグッとくるのです。その前触れとなる車内の会話シーンの緊張感も良い。そして全てが終わった後、自分の立ち位置を決める決断をしたピーターに成長を見るのです。その決断に影でうろたえるトニーも愛らしい。

今作は英語版で見たのだけど、ピーターの決断をトニーが「Working Class Hero」(労働者階級のヒーロー)と呼んだのが印象に残った。もちろん彼なりの皮肉ではあるんだけど、今作のスパイダーマンはいわばニューヨークの「ご当地ヒーロー」。今回はたまたま強力な敵と戦うことになったけど、ピーターはあくまでNYの「親愛なる隣人」。新聞の一面に載るような活躍はアベンジャーズたちで、自分の活躍はいわば社会面のベタ記事のようなもの、かな。それでも自分を必要とする人はいる、というピーターの確信がいいんですよ。

MCUの中では小さいスケールの話ではあるんだけど、それがこれまでの映画化で伝えきっていなかった「隣のスーパーヒーロー」感を伝える一作となっていました。で、こんなスーパーヒーローのまた違う一面をシリーズに組み込んでしまうMCUの全体構成の巧みさにもうなってしまうのでした。

衝動は理屈じゃない話【鑑賞「夜明け告げるルーのうた」】

全国公開時は見られなかったのだけど再上映の機会がありようやく見ることができました。楽しい作品でしたねー。

【作品紹介】
ポップなキャラクターと、ビビッドな色彩感覚。観客の酩酊を招く独特のパースどり(遠近図法)や、美しく揺れる描線。シンプルな“動く”喜びに満ちたアニメーションの数々。文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞した『マインド・ゲーム』(04年)で長編監督デビュー以降、鬼才・湯浅政明の圧倒的な独創性は、国内外のファンを魅了してきた。そんな湯浅が満を持して放つ、はじめての完全オリジナル劇場用新作。それが『夜明け告げるルーのうた』である。
「心から好きなものを、口に出して『好き』と言えているか?」同調圧力が蔓延する現代、湯浅が抱いたこの疑問がこの物語の出発点だった。
少年と人魚の少女の出会いと別れを丁寧な生活描写と繊細な心理描写で綴りながら、“湯浅節”とも呼ぶべき、疾走感と躍動感に溢れるアニメーションが炸裂する。1999年に発表された斉藤和義の名曲「歌うたいのバラッド」に乗せ、湯浅政明がほんとうに描きたかった物語が今、ここに誕生する。
【ストーリー】
寂れた漁港の町・日無町(ひなしちょう)に住む中学生の少年・カイは、父親と日傘職人の祖父との3人で暮らしている。もともとは東京に住んでいたが、両親の離婚によって父と母の故郷である日無町に居を移したのだ。父や母に対する複雑な想いを口にできず、鬱屈した気持ちを抱えたまま学校生活にも後ろ向きのカイ。唯一の心の拠り所は、自ら作曲した音楽をネットにアップすることだった。
ある日、クラスメイトの国夫と遊歩に、彼らが組んでいるバンド「セイレーン」に入らないかと誘われる。しぶしぶ練習場所である人魚島に行くと、人魚の少女・ルーが3人の前に現れた。楽しそうに歌い、無邪気に踊るルー。カイは、そんなルーと日々行動を共にすることで、少しずつ自分の気持ちを口に出せるようになっていく。
しかし、古来より日無町では、人魚は災いをもたらす存在。ふとしたことから、ルーと町の住人たちとの間に大きな溝が生まれてしまう。そして訪れる町の危機。カイは心からの叫びで町を救うことができるのだろうか?

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まず印象に残ったのは音楽。映画はカイがサンプラーで作曲する場面から始まるのだけど、その曲がいい。この作品が音楽(リズム)を鍵にした内容だと印象付ける。

そしてカイも含めルーの歌を聞いた人々が足からリズムをとる様の不思議さ。足と頭が切り離されたかのように足が勝手にリズムを刻みだし、全身をぐにゃぐにゃにして踊りだす。ここが中盤の見せ場でしたね。

キャラのデフォルメもカワいくないのがよかったですね。

監督の作品ではテレビアニメ「四畳半神話大系」を見ました。文系ネクラ男子大学生の妄想と日常が暴走する様を主人公の高速ナレーションと極端に遠近感をつけた構図で描いており、非常にインパクトがありました。今作の主人公カイも根暗な男の子なのですが、クラさがユーモアにつながっていた「四畳半神話大系」と比べると正真正銘暗い。カイは周囲の人々と良好な関係を結べていないんですね。

そんな中、友人たちからバンドに誘われ、人魚のルーに出会う。友人たちの常識的な好意に加え、ルーも「好き!」と思いを真っ正直にカイに伝える。紆余曲折がありながらもカイが気持ちを込めた歌を歌うのがクライマックスになるわけです。

この「紆余曲折」が今作のちょっと弱いところかもしれません。何がどうなったかちょっとわかりにくい部分が散見される。大筋としてのストーリーは語られても細かい箇所で「?」となる部分があるんです。中盤登場するルーのお父さんがあんなにあっけなく受け入れられるの変じゃない?とか、ある場面でふさぎこんでた登場人物が次の場面でけろっとしている様に見えるんだけど?とか。人魚と人間たちが対立するきっかけになる事件の描写があっさりしすぎてないか?とか、終盤で舞台の日無町にだけ起こる事象の説明ってありましたっけ?とか。

それでもキャラクターだけでなく背景もぐるんぐるん動かして観客を掴みラストまで持っていくダイナミックな力量にやられます。細かい部分の整合性より勢いで勝負、という感じでしょうか。ルーたち人魚と人間の関係の顛末も驚くくらいさらっと済ませる。そこじっくり描けば泣ける場面になりそうなのに。でも描きたいのは顛末ではなくカイの成長なんですね。全てが終わり町が(文字通り)明るくなったのは、カイの心境ともシンクロしている様でもありました。

一方で思い返すと人魚と人間の間には死の影が付きまとっているのも忘れがたい。あくまで「影」。超えられない壁として、死に似た「影」。人魚と人間の関係を別のものにも置き換えられそうでもあり余韻を残します。

原作のないオリジナルストーリーでキャラクターデザインも少し幼い雰囲気。劇中の場面のショットなどを見る限り子供向けの地味な映画と思っていたのですがとんでもない。老若男女全ての人を捕まえて離さない快作でした。

味わいは複雑な話【鑑賞「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」】

一筋縄ではいかない厳しいビジネスの世界を垣間見る話でした。

【作品紹介】
世界最大級のファーストフードチェーンを作り上げたレイ・クロック。日本国内でも多くの起業家たちに、今なお絶大な影響を与え続けている。50代でマック&ディック兄弟が経営する<マクドナルド>と出会ったレイが、その革新的なシステムに勝機を見出し、手段を選ばず資本主義経済や競争社会の中でのし上がっていく姿は、まさにアメリカン・ドリームの象徴だ。手段を選ばず資本主義経済や競争社会の中でのし上がっていくレイと、兄弟の対立が決定的になる過程は、どこか後ろめたさを感じながらも、スリルと羨望、反発と共感といった相反する複雑な感情を観る者に沸き起こすに違いない。
熱い情熱で挑戦を続け、世界有数の巨大企業を築き上げた彼は英雄なのか。それとも、欲望を満たす為にすべてを飲み込む冷酷な怪物なのか。野心と胃袋を刺激する物語。

【ストーリー】
1954年アメリカ。52歳のレイ・クロックは、シェイクミキサーのセールスマンとして中西部を回っていた。ある日、ドライブインレストランから8台ものオーダーが入る。どんな店なのか興味を抱き向かうと、そこにはディック&マック兄弟が経営するハンバーガー店<マクドナルド>があった。合理的な流れ作業の“スピード・サービス・システム”や、コスト削減・高品質という革新的なコンセプトに勝機を見出したレイは、壮大なフランチャイズビジネスを思いつき、兄弟を説得し、契約を交わす。次々にフランチャイズ化を成功させていくが、利益を追求するレイと、兄弟との関係は急速に悪化。やがてレイは、自分だけのハンバーガー帝国を創るために、兄弟との全面対決へと突き進んでいくー。

公式サイトより)

印象に残っているのは冒頭、レイが車にサンプルを積み、一人アメリカ大陸を駆け抜けて一軒一軒のドライブインでミキサー機を売る様子。またマクドナルドのフランチャイズを始めるにあたり、自身が加入していたゴルフ倶楽部の会員たちに投資を持ちかけたものの、会員たちが経営する店はレイの理想と程遠いものだったため彼らと決別し一人でフランチャイズ事業を進めるエピソードも忘れがたい。

平凡なセールスマン、事業家とは違うレイのガッツを感じさせる。理想のビジネスを実現するには従来の人間関係を断ち切っても構わない(「新しい友人を作ればいい」といったセリフがあったな確か)、変化を恐れない姿がある。

人間として全否定できにくいのが悩ましい。

だからこそマクドナルド兄弟やレイの妻の顛末はやるせない。マクドナルド兄弟は事業を考案したにもかかわらず「マクドナルド」という店の名前まで奪われてしまう。レイの妻は事業の助けになればと彼を倶楽部に誘いテーブルトークで売り込みのタイミングをさりげなく促すなどしたのに捨てられてしまう。

ではマクドナルド兄弟は愚鈍なのか。そうは思わせないのが今作の憎いところ。変化を恐れなかったのは彼らもそうだったのだ。映画産業に携わり映画館事業につまづいた後に新しい形態のハンバーガービジネスを考案し、実店舗として成功させる。マクドナルド兄弟がレイに語るこれまでの歩みは、それだけでも立派なアメリカン・ドリーム、成功譚なのだ。

だが兄弟の夢の本当の可能性を、兄弟より気づいていたのがレイだった。レイとマクドナルド兄弟、根本では同じ気質があったのだ。しかし描いた夢の大きさは決定的に違っていた。

またビジネスで巨大な成功を収めたレイが金にだらしない男としては描かれないのも興味深い。レイが妻と別れ、ビジネスパートナーの男性の妻を横取りして再婚するエピソードはあるのだが、それはレイが女にだらしない、のではなく、仕事を広げていく上での考え方の違いとして描かれる。レイはあくまでビジネスの規模を拡大することだけに長けている人間なのだ。その結果、彼についていけない人は振り落とされてしまう。

ビジネスにおける発明家と事業家の違いを考えさせられる。自分のアイデアを大事にする発明家、アイデアを広げることを大事にする事業家。アイデアの核は何か、という点を突き詰めておけばレイとマクドナルド兄弟の決裂はなかったかもしれない。レイはビジネス界のヒーローかもしれないし、人を蹴落として成功を掴んだワルかもしれない。自分はレイによりそうのか、マクドナルド兄弟によりそうのか。人によって見方は変わる、複雑な味わいの一本でした。

英雄は日常の中にいる話【鑑賞「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」】

文化が違えばヒーロー誕生譚も描き方も違う。相違点と共通点が印象に残りました。

【作品紹介】
75年に日本で放送開始、79年にイタリアでも放送されて大人気を呼んだ永井豪原作によるアニメ「鋼鉄ジーグ」。本作は、少年時代から日本アニメの大ファンだったガブリエーレ・マイネッティ監督が、40年近く経った今もなお、イタリア人の心の中に深く刻まれるその「鋼鉄ジーグ」を重要なモチーフにして生み出した、イタリア映画初の本格的ダークヒーロー・エンタテインメントだ。
【ストーリー】
舞台は、テロの脅威に晒される現代のローマ郊外。裏街道を歩く孤独なチンピラ エンツォはふとしたきっかけで超人的なパワーを得てしまう。始めは私利私欲のためにその力を使っていたエンツォだったが、世話になっていた“オヤジ”を闇取引の最中に殺され、遺された娘アレッシアの面倒を見る羽目になったことから、彼女を守るために正義に目覚めていくことになる。アレッシアはアニメ「鋼鉄ジーグ」のDVDを片時も離さない熱狂的なファン。怪力を得たエンツォを、アニメの主人公 司馬宙(シバヒロシ)と同一視して慕う。そんな二人の前に、悪の組織のリーダー ジンガロが立ち塞がる…。

公式サイトより)

Youtubeで第1話が公式配信されてました。

改めて当時のアニメを見るとちょっと怖い。絵の拙さもあるのかもしれないけど、洗練されてしまった今の作品より怪奇さ、荒々しさがありますね。「鋼鉄ジーグ」をモチーフにした今作もその荒々しさが印象に残ります。ハリウッドのヒーロー映画にはない側面ですね。

コスチュームを纏わないのがイタリア流でしょうか。

先述した通り、基本的な話の流れはなじみあるものです。主人公が正義に目覚めるために犠牲が生じたり、敵役がヒーローと同等の力を持ったりするのもお馴染みのパターン。でも暴力や恋愛の描写は日米のヒーロー映画よりぐーっと「大人」。子供は見ちゃいけません。最近ではX-MENのスピンオフ「LOGAN/ローガン」も過激な暴力描写が話題になりましたが、正直「LOGAN/ローガン」より大人向け。

ヒーロー映画が大人向けになったのが「LOGAN/ローガン」で、大人向け映画の中にヒーローが現れたのが今作「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」という感じです。

ということは、今作の「特殊能力」は拳銃などの武器に置き換えても話が成立する、といえる。でもそこで「ヒーロー映画」にしかない特徴が際立つ。

ヒーロー映画には自分の力を社会のため正義のために使う、と「決心する」場面が必ずある。日常ではあり得ない超能力と我々観客の日常が結びつく瞬間ともいえる。その日常が今作では本当に我々と地続きの日常のように見えたことが素晴らしい。これまでのヒーロー映画における日常とは、単にヒーローが活躍する舞台でしかなかったのではないか、とまで思えてくる。

ヒーローの誕生がこうして何度も語られるのは「社会を救う存在が現れてほしい」という願いもあるでしょうが「人は皆、自分の能力を社会に還元するべきだ」という願いも込められているのではないか。「能力を還元しなくてはいけない社会」は空想の社会ではなく、もっと身近なのかもしれません。