地方都市の理想を見た話【書評「別府」】

416ZnjhqZJL小説のようでもありエッセイのようでもあり。この本は、何と呼べばいいのだろう。

著者は様々なアートイベントを手がけた人物。大分県別府市で過去2回開かれた国際的アートイベント「混浴温泉世界」でも総合ディレクターを務めた。この本は1回目の「混浴温泉世界」後に書かれた様子。著者が2回目の「混浴温泉世界」へのヒントを求め、大阪からフェリーで別府に入り、別府の街を放浪しながら様々に思いも放浪させていく。

著者が今まで見た映画、小説、1回目の「混浴温泉世界」での海外アーティストとの思い出。そして温泉街・別府で遭遇する市井の人々、湯けむりの中、夢のように出会った双子の女性との混浴…。著者の思いはあちこちに飛び、虚実入り乱れていく。それは別府という港街が持つ「魔術的な魅力」に他ならない。

おんぼろのアーケードや一目して分かる老舗の商店。空き地もあちこちにある、古びた温泉街。でもその古さ、混沌さが「彩り」となっている街。著者にとっては忘れ得ぬ数々の映画を思い出させる街。そしてアートディレクターとして「肉体のすべてをもって感じるなにか」を生み出し「心にトリックをかけて」、「目の暴走」に歯止めをかけようと決意して大阪へ帰って行く。

別府には過去3度訪れたことがある。最後に来た時にちょうど、第2回の「混浴温泉世界」が開かれており、古びた街並みの中に国内外、有名無名の芸術家の作品が展示されていた。この本はその時、市内に常設されたアートスペースで買ったのだった。

別府の街を歩き回る著者が様々な思いを巡らせる様子は、別府という街がそれだけインスピレーションを与える場所であることを繰り返し表している。この本は別府という街や地方とアートのつながりなどについて論じてはいないのだが(触れてはいる)、港のある温泉地として人が通り抜けていく別府の魅力、地方都市の一つの理想形を抽出しているように思う。

別府に限らず、全ての地方に「魔術的魅力」はあるだろうか。あって欲しいのだけれど。

別府

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芹沢高志
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理解者は必ず(どこかに)いる話【書評・エンダーのゲーム】

51sR7HQZm9L._SL160_ガイド本などでは必ず紹介される傑作の部類に入るSF小説、なのだが、あらすじを読む限り全く興味がわかなかった。

今冬に映画化されたのを機に「じゃあ読んでやるか」と重い腰を上げたら「なるほど面白い!」と思ったものの時すでに遅く、肝心の映画は公開終了(涙)。AppleTVで見ることにしましょうかね…。

異星人バガーに襲われた人類は逆襲の機会を狙っていた。頼みの綱は才能のある子供達。艦隊司令を発掘するバトル・スクールで今日も子供たちは激しい訓練を行っていた。そんなスクールに入隊した少年エンダー。とびきりの才能があると大人たちに見込まれ、少年たちにはいじめられながらも、優秀な成績をあげていく。そして運命の最終試験…。

気弱な少年が訓練を通じ成長していくような話で正直新鮮味がなさそうな気はしていた。主人公は結局のところ天才だし、なーんかガンダムとかエヴァっぽいし。

そうはいっても少年の成長譚って読ませますよね。ライバルたちからねたまれながらも辛抱強く生きていく(時には逆襲する)エンダーの姿は最後まで目が離せない。

なおかつこの話は、先述したあらすじの先から大きく方向が変わるんですよ。ガンダムやエヴァと比べると主人公が「司令官」なのがミソかな。これ以上書くと結末、オチを語ることになりますが(勘の鋭い人は分かるのかも)、安直そうなスペースオペラがぐーっとヘアピンカーブを曲がって壮大かつ静謐な物語になり、深い感動を残して話は終わります。

スケールの大きな話を味わえるのはSF小説の醍醐味ですよねぇ。

どうやら映画版も結構原作に忠実だったらしいし(制作に原作者が関与したとか)映画館で確認したかったなぁ。

 

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時代を超えるものという話【鑑賞・大浮世絵展、大友克洋ポスター展】

IMG_0994上京話の続きです。滞在2日目は2つの展覧会を見て参りました。

一つは江戸東京博物館でこの日が最終日だった「大浮世絵展」、もう一つは恵比寿で今月16日まで開催中の大友克洋のポスター展。

「大浮世絵展」は浮世絵の誕生から発展(昭和の錦絵まで)を紹介、大友克洋ポスター展は特殊印刷で作られた作品を中心に展示。時代こそ違え、どちらも一般向けに広まったアートという面では共通してました。

で、あと一つ共通していたのが、絵と一緒に書かれた言葉の「古さ」でした。浮世絵に書かれた言葉が読めないのは時代が違い過ぎるからだけど、大友克洋のポスターの中にも「これは…」と苦笑してしまったキャッチフレーズがあった。絵自体は今でも鑑賞に堪えるのに。

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絵より言葉が表現力として劣る、と比較するのはそもそもナンセンスだし、(小説とかならいざ知らず)言葉もまずは、同じ時代を生きている人にちゃんと届かなくてはいけない。浮世絵もポスターもメーンは絵の方で、同じ紙に書かれた言葉は添え物なのだろうし。でもなぁ…。

「(小説とかならいざ知らず)」と先述しましたが、言葉は時代が経つとどんどん変わっていき意味が通じなくなる。現代語に翻訳しつづけないと意味が伝わらない。絵も(大浮世絵展で見せてくれたように)時代によって表現方法は変わっていくし、描かれた背景を理解するには言葉が必要なんだけど、絵の方が時代を超えて伝わる力があるのかな。そんな表現の特性について考えた2つの展覧会でした。

 

つながりは大事にしたいという話

3月1、2日と上京しておりました。大学時代のゼミのOB会に出席するためです。毎年この時期の恒例行事。昨年は体調不良で欠席されたゼミの教授もお元気な姿を見せてくださいました。

それにしても師と生徒という関係、大学時代の先輩後輩という関係は年を経るごとに貴重さを感じてしまうのです。毎年1回、元気に顔を合わせて近況を知り合うだけで充実した気持ちになる。普段の人間関係とは関連がほとんどない「つながり」なのだけど、そんな関係を保てていると、暮らしが豊かになっている感じがする。

また、「師と生徒」という関係は上司と部下、年長者と若輩者などの関係とはまた違う、独特の緊張感もある。今回、教授と話をしたのはわずかな時間だったのだけど、忘れられない時間になりました。

再会した人たちと何を話したか、というのは酒もはいったのであまり覚えていない(苦笑)のだけど、大事なのは交わした言葉の量ではないのかも。今はSNSがあるけれど「直に会う」のも大事なことですね。また1年頑張れる気がする。来年も参加しますよ!

依頼に応えつづけた凄みを体感した話【鑑賞・生賴範義展】

IMG_0967  開催の報を聞いた時に「これは勝ったな(何にかわからんけど)」と思った企画。宮崎市在住のイラストレーター、生賴範義(おうらい・のりよし)氏の回顧展が宮崎市のみやざきアートセンターで開催中であります。さっそく行ってまいりました。

開催まで2年かかったというこの展示会、様々なジャンルの絵を一人で描いたとはとても思えない圧巻の内容でありました。

スターウォーズやゴジラなどに代表されるド迫力の映画ポスター。小松左京の小説の表紙では星々の大海と筋肉隆々の人間を対比させ、吉川英治「宮本武蔵」挿絵では点描で野性味溢れる武蔵を描写。同じ点描画で近・現代の著名人を描いたシリーズもあったかと思えば重厚な戦記物、広告担当者が写真と勘違いしたというクールにタバコを吹かす若者の絵まで。

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過去から現代、未来まで。西洋から東洋、異世界まで。描いた世界の幅広さに感嘆しかでなかった。

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本人は職人的に、依頼に可能な限り応えてきた日々だったと語っているそうだ。しかし、誠実に応えようと自宅には資料として女性の服や靴など何百点と集めたり、筋肉隆々の人間を描くのにミケランジェロの作品を参考にするなど、かけた努力も相当なものだったそうだ。

何よりイラストを依頼した映画制作者たちが生賴氏の絵から得たイメージを作品に反映させようとする(依頼は映画完成前だから)程の、生賴氏の表現力、空想力の凄み!

そう考えると、作品の多くが装丁やポスター、パッケージ画など、見た人に「読みたい」「観たい」「遊びたい」…ぶっちゃけちゃうと「金を出させる」衝動を呼び起こすためのものだったことに気付く。アートとして「いい絵だ」で終わっては駄目で、商品の売り上げに結びつかないといけない厳しい世界。生賴氏はそんな世界の第一線を走り続けた人なのだなぁ。

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こんな凄い人が宮崎にいるのが(身勝手ながら)誇らしい。実力があれば地方からでもこれだけの発信ができるんだ。今はインターネットやデジタル化で地方からの発信も敷居は低くなっているはず。生賴氏の作品群に圧倒されつつも「自分たちだってイマ、ココから何かできるはず」と勇気づけられる人も多いはず。

何はともあれ、全国の大きなお友達の皆さんはぜひとも宮崎に着て見るがいいです。もしくはこの展覧会自体が全国を巡回するがいいです。

井手綾香さんの歌はしみじみしっかり盛り上げてくれるという話

IMG_0938宮崎県串間市在住のシンガー・ソングライター、井手綾香さんのコンサートに行ってきたのですよ。

今春2枚目のフルアルバムが出るという彼女の、宮崎市でのホールコンサート。幅広い年齢層を前に1曲1曲を大事に歌い、客も大事に聴く感じ。温かい雰囲気の2時間でした。

全国的な知名度はまだまだ、なのかもしれないけれど、ドラマやCMで曲は使われていて、今後の活躍にますます期待、といったところです。

音楽の素養も大してないのに書いてしまいますが、彼女の歌はサビできっちり盛り上げてくれる。代表曲「雲の向こう」やドラマ主題歌にもなった「きっと、ずっと」など、もう何回も聞いているのに今だに気持ちいい。ポピュラー音楽では大事な事だと思うのです。

機微があり解釈も幅広くとれる表現力豊かな歌詞もいい。とくに前述の「雲の向こう」。「太陽のように世界中に輝きを与えたい」と歌うんですよ。

「欲しい」側じゃないんですよ「与えたい」側ですよ。彼女、当時高校生ですよ。どんだけオトナなんだっていう。未聴の人はぜひ聞いて欲しい…のでリンクを張るのであります。

2枚目のアルバム「ワタシプラス」は4月16日発売!

善人は善人であり続けられるか?【書評「未来予測」】

517vyfvdIWL._SL160_ついていけない部分も多々あるけれど、著者自身の体験も含め、表題通り長期的な「未来予測」だけでなく短期的なマネタイズの話まで、広い視野で語られた本。

【どんな本?】
「レイヤー化する世界」と同じく、テクノロジーが社会に与える影響を考えた本。「社会は国家化から産業化に進み、情報化に進む」「自分らしく生きる人が増える」など予測する方向は同じなのだが、異なるのは「自分らしく生きる人が増えると目に見えない世界の存在を信じ(!)直感を大事にする人が増える(精神世界的な真理感を持つようになる)」という点か。

著者のいう「精神世界的な真理感」は左脳的、論理的思考の持ち主が右脳的、感覚的な思考も身につけるという意味らしい。

「自分らしく生きる」人は、自身の成功も自分の能力以外の力に助けられたような気がすることがあり、他人と競争する必要がなくなる。他者に寛大になり自分は他人とつながっている真理感を受け入れやすくなる…と著者は考える。現実社会になじめない人がスピリチュアルに頼るのとは違うのだとか。

その上でこれからは、そんな人々が集まるコミュニティに奉仕し、その周辺で発生するビジネスチャンスを掴めば金が儲かると説いている。「コンテンツはコピーできてもコミュニティはコピーできない」という一言は的を射ていると思う。

【良かった点】
総じて「これからは仲間たちとポジティブに生きよう」ということを訴えた一冊。ぶっ飛んだ主張も含まれているのだが断定的ではなく、自分の主張にも懐疑的な面ものぞかせるのが真摯な印象を与えている。

【惜しかった点】
かなり読み返したのだが散漫な印象は残る。著者自身もあとがきでそう認めつつ「自分の葛藤だと思う」と述べているけれど。長い副題も葛藤のあらわれかな。あと、我々は元々一つの存在と考える「精神世界的な真理感」は、理解できるようでなかなか敷居は高い。自分からそんな真理感を持っているとは言い出しづらいですねやっぱ。

【どう読むべき?】
日々を生きる実感、生きる意味。あとがきによると著者はそれを「自分がワクワクする分野で尖っていくこと」と(この本を書きながら)再確認したそう。著者は仲間たちとプラスエネルギーを出し合って尖って生きていくのだろう。

まぁ普通に考えたら、誰だって人の悪口は聞きたくないし言わないに越したことはない。言わない方が人としての評価があがることも分かってる。つまり、普通に善人として生きればいい訳だ。

…でも、人間ってプラスエネルギーばかり出しては生きていけないよね。Facebookでは友達が言う愚痴や批判は表示できなくできるけど、見えなくなったからって愚痴や不満が消えた訳ではない。

レイヤー化する社会」でもそうだったけど、ポジティブな振る舞いや発想だけを良しとするのは、個人の生き方としてはありだろうけど、未来予測としては無しだと思う。

端的に、他者に善人でありつづけるよう求める思想って結構な無理難題ではないのかなぁ。

人は愚痴や誹謗中傷、批判「も」する存在。マイナスエネルギーをプラスに変えるような仕組みができるといいんだけどね。それがつくれたら金儲けのチャンス…なのか?

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物語を語り、人を語ること【映画「永遠の0」】

見てもいないうちから「特攻賛美の映画」とか見た上でも「やっぱり特攻賛美の映画」とか言う人もいるようだけど、全くそんなことはなくて、人を死に追い込む戦争というシステムの恐ろしさとその中でも個人として最善を尽くした人の物語でした。

死んだ祖母が実は再婚だったことを知った孫たちが、祖母の最初の夫はどんな人物だったのか知ろうとする。祖母の最初の夫—宮部久蔵は優秀なゼロ戦パイロットで当時では臆病者ともとられかねない「生きて家族の元に戻る」という心情の持ち主だった。しかし最後は自ら特攻に志願していた。なぜ宮部は特攻を志願したのか?

この物語の最大の謎「家族想いの男が特攻を志願した理由」は、作中、台詞など明確な形では回答が示されない。しかし、観客には分かるんですね。「生きて帰る」のが心情だった宮部は部下にも無駄死にを許さなかった。当然特攻作戦にも(自分のできる範囲で)反対した。しかし、そんな想いが周囲に伝わると「宮部を死なせてはいけない」と、周囲が逆に自身の命をかけてまでも宮部を救おうとしてしまう。それに宮部は耐えられなかった(…のではないかな?)。

自分の思いとは逆のことが起こる理不尽さ。さらに戦争では、個人への尊敬さえも人を死なせる装置として発動してしまう。宮部と同じように特攻に反対していた古参パイロットが「宮部が特攻に行くなら俺は命をかけて送り届ける」と決意してしまうのにゾッとしましたね。もうそれ、自身が特攻に行くのと大差ないから!

とまぁ、生前の宮部が登場する戦中編は登場人物たちの心理描写、戦闘シーンの迫力など見応えがありました。その分、宮部の孫たちが中心になる現代編がねぇ。物語の構造上、どうしても単調な会話劇になってしまうわけですよ。

まず孫たち、カンが働かなすぎ。宮部が特攻出撃の直前に機体を変えた訳はすぐ分かるでしょう。「変えなければ助かったのに!」じゃないよなぁ。

最大の問題点は、最後にすべてを明らかにする生存者の存在。いや普通、死んだ最初の祖父のことを調べるなら、まず初めに話を聞くべき人でしょその人。なんでまわり回って最後に話を聞いているのだ?彼に聞けば生前の宮部がどんな人物だったか、ほぼ分かったよ。

過去の出来事をミステリー仕立てで解明しようとするこの映画の現代編は、全体構造を作っている部分なので(その割に場面自体はどれも単調になりがち)、ストーリー全体を盛り上げようとして無理な構造にした感があったなぁ。

まぁそうはいっても変化を付けようとした箇所もありましたけど。田中泯演じたおっかない男性がすべてを話した後、宮部の孫にした行動とか。あの後の台詞も「あなた、ソッチ系?」と変に思わせるもので良かったですよね。

この作品のテーマの一つに「物語を語っていくことの大切さ」があるようなんだけど(クライマックスで現代編の語り手たちや戦中編の宮部の妻まで(!)カメラ目線になって訴える)、結果として、宮部の孫たちは察することを禁じられてしまっていた。終止聞き役だったので、見終わって考えると、頭の悪い探偵みたいな存在になったのが惜しいところ。ミステリー仕立てで始まった話なので、現代編の最後は孫たちが宮部の思いに気付き「!」となったところで終わってアレが飛んでくると映画の満足感がもっと出たように思うけど。映画としての面白さよりテーマへの誠実さをとったのかな…。

と思って見ていたこの映画、戦中編で描かれる内容は、すべてを現代編の登場人物が知っている訳ではない構造になっている(宮部の一時帰宅の場面など)中で、最後の最後に映画でしか表現できない謎を観客にだけ残して終わってみせた。あぁ岡田君最高。素晴らしい演技でした。さっき書いたのとは別の形で、映画への満足感を与えてくれたんですね。それは「『物語』を語ることはできても、それをもって『人』を語ったことにはならないかもしれないよ」ということ。人間はもっと複雑だよ、ということ。

だからこそ生きている我々はもっと知ろうとしないといけないのかもしれない。分かったつもりにならないでね…。

人の可能性はどこまで広がるか【書評「レイヤー化する社会」】

514ybGYX8oL._SL160_SNSや音楽、書籍の販売などインターネットを利用したサービスは増えている。国が消滅するとまでは思えないけれど、ネット社会の中で個人や企業が持つ可能性は広がっていることを感じさせた本。

【どんな本?】
AppleやGoogle、Facebookなどインターネットを活用した超国籍企業のサービスが広まっている現在の社会がどこに向かおうとしているのか、人類の歴史から振り返り予測する。

著者は人々を支配するシステムについて、古代から中性に広まった「帝国」、現代の「国民国家」を経て、現代から今後はいくつかの超国籍企業がつくる国境を越えた<場>が下から人々を管理する…と予測する。

この<場>には国民国家のようなウチとソトの概念はない。国境も超えたレイヤー(層)として世界に広がっている。<場>の中では様々な役割が切り分けられる。国境を越えた情報の交流(人間の交流も含む)が進み、<場>の中にいる私たちは立場に応じた交流も可能になる。<場>は私たちが利用したくなるようなサービスやコンテンツを提供し、私たちが利用することで強固になっていく。私たちは<場>との「共犯関係」を築いていく…のだという。

【良かった点】
…と、このように要約すると抽象的な内容のようだが決してそうではない。だって自分の普段の振る舞いを振り返れば著者の言いたいことは実感できるのだ。

AppleのiTunesストアやAmazonで音楽や書籍を買い、買ったことを報告したり感想を伝えたくなったらFacebookやブログに書く(Facebookに書き込みがしやすいよう、iTunesストアやAmazonからはリンクが貼られている)。わからないことがあったらGoogleにキーワードを入力して検索する。

ネットに書いた内容はGoogleの検索にヒットしたりFacebookの友達に広まるので、感想を知りたい人の役に立て、交流も可能になる。

AppleやAmazon、Google、Facebookはそんな私たちの活動をデータ化し、扱うコンテンツの販売や広告収入などに結びつけているのも分かっている。

自分の日頃の行動が何をもたらしているかを客観的に見つめ直し、わかった上でどう振る舞うべきかのヒントがあると思う。

【惜しかった点】
おそらくこの本に限ったことではないのだろうが、歴史を俯瞰し未来を予想する著述に接すると「著者が描きたい未来像に説得力を持たせるために歴史を解釈しているのでは」という、ある種の疑念がどうしても消えない。

「国民国家と、民主主義と、経済成長の連携は終わろうとしている」「国民国家の権力は終わる」と言われても、それは今生きている我々の世代の話ではないのではないか。

超国籍企業が中心になってつくる<場>はマジョリティとマイノリティを逆転させる、と著者は言うが、「自分が社会のマジョリティだと疑わず、安心しきっていた人」がそう簡単に逆転を許すだろうか?複雑に収益を動かして課税逃れをする超国籍企業を、国民国家が今後も見逃すだろうか。何らかの揺り戻しは生じるはずで、結果、著者の予測する未来は来ないか、別の形になる気がする。

【どう読むべき?】
この本に限らず未来予測の話は真正直にではなく、可能性の話として受け取るべきなのだろう。

ただ、個人の生き方として<場>を積極的に利用して新しい出会いをつくれば、可能性が広がる(それがどんなものかは分らないけど)という考え方は理解できる。

可能性に賭けるか賭けないか、目の前には二つの道があるのだろう。

レイヤー化する世界

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「いつでも見られる」は「いつまでも見ない」

IMG_0788今年初めに買ったデジタル機器は「Apple TV」でした。この歳でもお年玉を頂戴する機会がありまして、宵越しのお年玉は持たない主義者としてはさっそくほしいものをかおうと。

同梱の電源ケーブルと別途購入のHDMIケーブルを本体につないで、自宅内の WiFiパスワード、Apple IDを入力すればすぐ使えました。iPhone内の動画、写真も「AirPlay」機能でテレビに写せ、映画購入はおろかレンタルもできる…これはリビングで映画見放題だな!と思い、ちょっと時間が空くと予告編やプレビューなどを見ちゃうわけです。「ゼロ・グラビティ」などのハリウッド映画は米国版の予告編も観れちゃうのでこれまた楽しい。

しかし、この「楽しい」のって実は落とし穴がありそうだ、という話です。

どんな穴かと言いますと、「『そのうち見よう』と言いながら一生見ないんじゃないか」という穴です。いつでも見られるなら今すぐ見なくてもイイわけですからね。

写真正直、iTunes Storeの「ウィッシュリスト」とKindleを始めてからのAmazonの「欲しいものリスト」にはどんどんデジタルコンテンツが増えているのだけど、購入には至っていない。「まだ買わなくていいな」という気になってしまうのだ。 新しいコンテンツを買って視聴するくらいなら、むしろブルーレイレコーダーにたまった番組を消化したい。ハードディスクを圧迫してくるし。

本当は、この「物理的に制限がある」ってのが視聴の動機になるんですよねぇ。でもリビングで「ゼロ・グラビティ」予告編やら「パシフィック・リム」プレビューやらを見ている暇があったら、途中で見るのが止まっている堺雅人の弁護士ドラマ第2シーズンをさっさと見おわればいいのだ…!

テレビで何かを見るだけでも「何から見ようか」と頭を使う時代なんだなぁ。

というわけで次は、デジタル機器やネットを使ったサービス、SNSなどが広まったこんな時代をどう生きるかについての本を読んだので、その感想です。