アメコミも日本の漫画に似てきた話【鑑賞・アメイジング・スパイダーマン2】

アメコミ「スパイダーマン」の新シリーズ第2作。前作を見てシリーズを再スタートする意味があまり分からなかったのだが、今作を見てますます分かんなくなった微妙な作品でした。

今回のメーンの悪役は電気人間「エレクトロ」。前3部作でも出た「グリーン・ゴブリン」も登場。一方、スパイダーマンとしてニューヨークを守るピーターは恋人グウェンの父と最期に交わした「娘を巻き込むな」という約束に苦しむ。それを知らないグウェンはピーターの煮え切らない態度に迷いを持ち、自分の夢だったイギリス留学を優先しようと決心するが…

…というあらすじ以外にもですね、前作でにおわせたピーターの両親失踪にまつわる謎、第3の怪人「ライノ」の登場などはっきりいって盛り込み過ぎ。とくにピーターの両親の謎が本作で明らかになるんだけど、意味付けが「スパイダーマンになれるのはピーターだけ」でしかなかったのに愕然。その秘密を知ったピーターがするのは恋人グウェンへの愛の告白ってどういうこと?オズコープ社への復讐を誓ったりしないの?

アクションシーンは見応えがありましたよ。3Dで見ましたがスローモーションや「マトリックス」でおなじみ(懐かし?)タイム・スライス(場面が止まって視点がぐるんぐるん回るやつ)ショットが絶妙に使われて飽きなかった。スパイダーマンも消防士のヘルメットをかぶったり風邪を引いている時に変身しなくてはいけなくなってニットキャップやダウンベストを着たまま悪人を退治するなど、キャラとして楽しませる工夫はあった。

だけど話が微妙に暗いし、主演のアンドリュー・ガーフィールドも悩める青年って印象なので、(そういう設定とはいえ)スパイダーマンに変身した途端「ヒャッハー!!!」みたいなアゲアゲイケイケになるとは思えん。前3部作のトビー・マクガイアなら説得力があったんだけどね。

そして何より結末ですよ。何だか前向き感を微妙に出した終わらせ方だなぁと思ったら…気がつきました。

週刊漫画雑誌での打ち切り漫画の終わり方なんだ今回は。「闘いはこれからだ!」ってことだもの。

前3部作との違いは両親にまつわる秘密だと思っていたのに、今作で全部ご開帳してしまうし、前作から引っ張ってきた設定をほとんど使い切っちゃってる。こりゃあ今シリーズはここまでだなお疲れさまでした…と思ったのですが、あと2本作るって本当ですかまた3Dでお願いしますそしてまた新作が公開されるあのシリーズとつながるんですか見ておいた方がいいんですか期待していいんですか?

背景の背景を知りたかった話【鑑賞・山本二三展】

写真「天空の城ラピュタ」「もののけ姫」などの宮崎駿作品、「じゃりン子チエ」「火垂るの墓」などの高畑勲作品、細田守作品「時をかける少女」などで背景を担当した山本二三(やまもと・にぞう)氏の作品の展示会。みやざきアートセンターで5月18日まで開催中の全国巡回展であります。実際に使われた背景画、作品制作に当たって作品世界をスタッフ間で統一するためにつくられるイメージボードなどが展示されていました。

正直言うと、ちょっと物足りなかったなぁ。展示物のクオリティは極めて高く、こういった人物にスポットを当てた企画がよく成立したなとも思うのですが「上手だな」以上の感想を持ちにくかった。

アニメの背景画がどう描かれるか、普通の風景画とどう違うかなどについてももっと解説がほしかった。音声解説(有料)なら分かったのかもしれないけど…?

アニメの背景画って背景の前で動くキャラクターより目立ってはいけないし、しかし単なる書き割りとも違い場面の光と影も意図的に描いて作品世界をつくっているわけで。

そんな意味付けを理解したのは舞台が夏だった「時をかける少女」の背景画。部屋に差し込む光や夏の路地のまぶしさなども書き込まれていて、背景画の意味を再確認した。

背景画の意味についてもっと知りたかったのだが物販コーナーで目を通した図録にもそんな記述がなさそうなので、市販されている別の画集を買った。「二三雲」とも呼ばれる雲の描き方が解説されていたのはもちろん、家の壁や道路のひび割れなどにも現地取材の結果が反映されていることとか、映像化に当たってはCGなども合成され背景もさらに変化していること…などなど、実際の展示や図録でなく(涙)画集の方で理解した。

たとえば二三氏の背景画を使って完成した場面との比較とか、演出側からどんなリクエストがあってこんな背景画を描いたのかとか、アニメーション制作の裏側にまで踏み込んだ展示だったら背景画の意味付けがもっと分かった気がするのだけど。ちょっともったいない展示会でした。

入れ替わったら分かった話【鑑賞「今夜は心だけ抱いて」】

先週「日本人が好きな話は逆転サヨナラ」って書いたら、ホントにそんなドラマが始まってましたよ!見てますよ!(エンタメと割り切って)

さてドラマつながりで、今回は4月に放送終了した唯川恵原作のNHKBSドラマ「今夜は心だけ抱いて」の感想を。

離婚以来12年ぶりに再会した47歳の母と17歳の娘が、事故で心と体が入れ替わってしまう。二人は戸惑いながらも女性として親子として互いを理解していくが…という話。

結末を書くのは野暮なので触れませんが、「転校生」みたいな入れ替わりものだから…と思ってみていくと…肩すかしにあいます。人によっては「ちゃんとハッピーエンドにしてくれよ!」と思うかもしれない。

だけど見終わった時に思ったのは「人はいつからでも人生をやり直せるし、いつからでも幸せになれる」がこの作品のテーマかな、ということ。

タイトルだけだと大人女子が飛びつきそうなラブストーリーかなと思ったけど、男性でも楽しめる親子の愛情話でありました。井手綾香の主題歌「飾らない愛」もばっちり。NHKのドラマはわりと再放送があるので、機会があれば是非。

早くするのは何かという話【書評「考えよ!」】

51Yj6L--MBL2014年ブラジルW杯の日本代表メンバーが間もなく発表になる今、元サッカー日本代表監督の本を読んでみました。前回2010年南アフリカ大会の直前に出た本なので情報として新しくはないし(そりゃそうだ)、「(敵チームには弱点もあるのに)相手を脅威に感じ過ぎる」など、サッカーから見る日本人像ももっともな点。

スターに敬意を表し過ぎる」なんて言い回しは、いかにもこの著者らしい。

そんな中、印象的な指摘だったのが

私が訴える「スピード」とは、素早く考えどのような局面に置かれても、動きながら瞬時にして判断する「スピード」である。

日本人は責任を他人に投げてしまうことに慣れすぎている」という別の指摘ともあわせると、日本人が今後目指す方向が見えてくるのではないだろうか。

前回紹介した「無印良品は、仕組みが9割」でも

改革にはスピード感が重要で、戦略が間違っていても、実行力があれば軌道修正ができます。

 

実行してみて、結果が出ないのであればまた改善するという繰り返しで、組織は骨組みをしっかりと固めていけます。

と実行することの重要性を説いていた。

話はズレるけど、ここら辺の指摘を受けて、日本人が好きな話って「逆転サヨナラ勝ち」なんじゃないかと思った。危機的状況に追いつめられた人たちが一発逆転で成功を収める話。ナレーションは田口トモロヲで、テーマ曲は中島みゆき。

まぁそれで成功することもあるだろうけど、社会を持続的に変える「アニマルスピリット」を出すには、追いつめられて破れかぶれで行動するのではなく、リーダーが責任を持って判断と行動のサイクルを早くする社会にする必要があるんだろうな、と考えたのでした。

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発想を転換する話【書評「無印良品は、仕組みが9割」】

51LneCdUKkL企業が帝国化する」でも仕組みを作る側になることの重要性に触れられていたけれど、実際に仕組みをつくる側になるためのヒントになりそうな本。一時の低迷からV字回復を成し遂げた無印良品(良品計画)の会長が「マニュアルの重要性」を説く。

無印良品には店舗で使う「MUJIGRAM」、本部の業務用の「業務基準書」の2種類のマニュアルがあり、売り場の商品陳列から接客、商品開発、出店の判断などの経営までマニュアル化されている。「MUJIGRAM」はなんと2000ページ。いずれも「個人の経験や勘に頼っていた業務を仕組化する」ためなのだそうだ。

新規出店の際、応援に駆けつけたベテラン店長たちが、各々勝手に「これじゃ『無印らしさ』がない」といって商品を並び替えていくので開店準備がちっとも終わらなかった―というエピソードを著者は紹介しているが、確かにこれは「業務が個人の経験や勘に頼っている」例だろう。

著者はマニュアルを「守ること」の重要性を説くのではなく(いやもちろん守らないといけないのは当然として)、「つくる人になる」重要性を訴える。マニュアルを作り、マニュアル通りに実行しながら、絶えずマニュアルを磨き上げていく組織が著者の理想だ。著者にとってマニュアルとは「仕事の最高到達点」でもあるのだ。

その対極が「上司の背中を見て育つ文化」なのだという。

背中を見せるのが上司の仕事ではなく、マニュアルを作り、改善し続けるには全員で問題点を見つけ定期的、かつリアルタイムに改善する必要があるのだから、様々な意見を検証してまとめるのがリーダーの役割なのだそうだ。

またマニュアルからは離れるが、会社を強くするために必要なことに「ヒントは他社から借りる」を挙げ、その理由を「同質の人間同士が議論をしても新しい知恵は出ない」と言い切ったのも印象的だった。閉塞感を打破する当たり前のことですよねこれ。

仕事に徹底的にマニュアルを取り入れるという、ともすれば一番閉塞的な手法が実は会社を活性化させうるという、一見矛盾を感じさせる著者の主張は興味深かった。

ただ、あまりページを割かれてはいないのだが、著者自身は結構「実行力」のあるタイプのよう。

売れ残った商品はアウトレットなどにせず社員の目の前で焼却してみせて在庫管理を徹底させるよう仕向けたり、それでも在庫管理に失敗すると在庫管理を現場から本社に強制的に移す。「MUJIGRAM」作成に反対する社員を「MUJIGRAM」作成委員に任命してやる気を出させる一方、なかなか「MUJIGRAM」に従わない店長には「多少の強制力」を発揮した—とさらっと書いているのがちょっとコワい。

いずれにしろ「マニュアル」はリーダーの指導力、実行力を適切に促し、かつ、部下の意見を吸い上げる仕組みでもあるということで、双方にやりがいを生じさせる仕組みなのだ。発想の転換が興味深い本だった。

古典の誕生を目撃した話【鑑賞・アナと雪の女王】

 

今作の白眉、日本語版では松たか子が歌う「ありのままで」の場面を見て、今年の冬の東京ディズニーランドのエレクトリカルなんちゃらにエルザとアナと脇役の男2人がいる姿がはっきり見えましたよ。

そして数年後には観客に吹雪が吹いてくる「ミッキーのフィルハーマジック」みたいなアトラクションまでできて、自分が行列に並んでいる姿まで見えました。

それくらい(?)今作の完成度は圧倒的。ディズニーアニメの新しいクラシックが誕生した瞬間に立ち会えた。

王家の姉妹、姉のエルザと妹のアナ。エルザには触れるものを凍らせる“魔法の力”があった。制御できない魔法の力を見せないよう人目を避けて来たエルザだったが、戴冠式の日、エルザは力を制御できなくなり国中を凍りつかせてしまう。エルザは山へ逃げ出し、アナは凍った国と姉を救うため、姉の後を追う…。

思い出してみると細かい部分で省かれている描写もある。エルザが魔法を使えるという記憶を消されたはずのアナが、エルザの魔法を見て大して驚いていない点とか。前半に登場する悪役が後半になると影が薄くなるとか。

しかし、ストーリーの骨格は二人のヒロインをうまく使い、古典的な「王子と王女が結ばれてめでたしめでたし」的な結末になるのか…とみせかけつつ「これしかない」という結末に導いたのが見事。エルザの“魔法の力”の解決方法も悪くない。力を手放すのが答えじゃないんだよね。

思えばディズニーのミュージカルアニメってまともに見たのは初めてだった気がする。圧倒的な完成度の今作を見て、過去作は何故見ていなかったのか思い出したぞ。

「美女と野獣」「アラジン」など過去のディズニーアニメも面白そうだったけど、有名な作品をそのままアニメにした(印象)があったんだった。どうせ「王子と王女が結ばれてめでたしめでたし」的な話なんでしょ、と今でも思っているんです(見てないけど)。

その点今作は万人受けする古風な素材を扱いつつ、今の観客を飽きさせないよう結末は古風にしない。よくできた話でした。

鑑賞したのは吹き替え版だったのだが、単純に声だけ差し替えたような「吹き替え版」ではなかった。あたかも外国産のパソコンソフトを日本人でも扱えるようにした「日本語ローカライズ版」のように、「最初からこのキャラの声はこうだった」と思わせる出来。

何と言っても松たか子…もなのだが、それ以上に神田沙也加とピエール瀧!二人とも歌も声の演技もうまかった。言われなきゃ当人たちと分からない。ピエール瀧の歌はミュージカルの定番、上品なメロディーのコミックソングなのだがキャラのなり切りぶりが完璧。「生まれてはじめて」「雪だるまつくろう」などでの神田沙也加の歌は「e」の音を伸ばし方がお母さんにそっくりなのが微笑ましかった。親の七光りじゃないな、ミュージカルスターですよ。もちろん松たか子の「ありのままで」も言うことなし。

「ありのままで」という歌自体、エルザがようやく得た自由への喜びと、とうとうたどり着いてしまった孤独への絶望がない混じりになった印象的な場面でありました。

アニメとしてももちろん楽しめた。オープニングやエンディングで氷や雪の結晶のイメージが音楽に合わせぱっと広がるのだが、それだけでグッときてしまう。このヤラレっぷり何なんでしょうか。ミュージカルという芸術の魔力でしょうか。これだけのレベルの作品を特定の個人に頼らず集団体制でつくっちゃうんだからディズニー恐るべし。

3D版も見たかったが、4月末から一部劇場では、アメリカでは実施済みの「歌詞字幕付き版」が公開されるとか。一緒に歌うのは恥ずかしくてもコンサートのような雰囲気が楽しめるのかな。こういう映画は繰り返し上映してもいい。見れば見るほど楽しみ方が変わってきそうだ。もう一度劇場で見たら曲に拍手を送ってしまいそう。うーんもう一回見るか?(はまり過ぎ)

協働って面白そうという話【書評・はじめての編集】

31uXbXQPiRL編集についての本。以前読んだ「僕たちは編集しながら生きている」にも通じる内容で、メソポタミアの壁画から雑誌、ウェブ、選挙候補者といった個人まで対象として俯瞰しながら編集についての概論や編集で用いる素材の扱い方、編集という思考法の活かし方などが書かれている。

SNSなどが普及した現在、編集は個々人の生活をも可能にするという考え方は二冊に共通するのだけれど、「はじめての編集」の方が後に出版された分、アーティストと作品の比較で

現在はアーティストの作品が、その人自身のアウトプットの小さなひとつにすぎないのではないかと思うのです。(中略)情報の流通量が少ない時代においては、作品というのはクリエイターよりもはるかに大きい存在でした。しかし今は違います。人生の方がはるかに情報化されて、伝わっているわけです。ということは高く評価されるクリエイターになるには、評価される人生を送るしかありません。(P230−231)

 

それはつまり「人生の作品化」です。(P235)

と(楽しいかどうかに関わらず)人生の編集化は避けられない…ともとれる内容になっているのが興味深い。

無限の選択肢のなかから、自分で可能な範囲で選んでカスタマイズして人は生きているわけです。言い換えれば、人は常に「人生を編集している」のです。(P235−236)

とも著者は書く。大量消費社会と言われる現在、消費することも(見方を変えれば)編集だったのだ。そして、そう意識した上で“編集物”を世間に発信していくことも出来るようになっている(SNSなどで)。

こうなってくると「人生の作品化」は「セルフプロデュース」とほぼ同義となり、下手をすると「リア充」などと僻まれたり「必死だなw」と蔑まれたりしかねない…気もする。

概念として「人生の編集」は理解できても、具体的に行動するのは容易ではない。以前、SNSを使った活動で評判になった人が「自分の印象をよくするにはオフィスの住所にもこだわりましょう」といった内容のことを書いていて目が点になったのを思い出した。

そこでこの本に戻ると、「はじめての編集」では

編集者は、自分よりもずっとうまく写真を撮れる人、自分よりもうまく原稿を書ける人、自分よりもうまくデザインのできる人などを集め、彼らの特性を生かしたディレクションをすることによって、自分のアイデアを、当初考えていたもの以上にすることができるのです。(P80)

と、周囲とのコラボレーションが編集に不可欠と説く。「僕たちは編集しながら生きている」でも編集について

編集の醍醐味は、「せまい自分」を確立することではないと僕は思っています。常に未来に対し開かれたスタンスであり続けること。いかに「可能性」の高い人生を送るか、それが問題です。(「僕たちは編集しながら生きている」P4)

と言っていた。

つまり、たとえ「人生の作品化」がセルフプロデュースと同義であっても自分一人ではできないということ、だろうか。

もちろん周囲を(一方的に)利用するのではなく(そんなことをしても長続きしないしね)、「この人とコラボしたい」と思われ、周囲に使われるくらいの才能は持ちたいところだ。「企業が『帝国化』する」の書評でも書いたが、学ぶのは自分だけが生き残るのでなく、周囲に役立つ存在でいたいから(=そういう形で生き残りたい)ということかな。

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学びの理由を考えた話【書評・企業が「帝国化」する】

41Epgl4y3OLレイヤー化する社会」でも参考文献に挙げられていた一冊。アップル米本社で働いた経験がある著者が、アップルに代表される「私設帝国」企業の実態とそんな帝国が存在する社会での生き残り方法を提言する。

「レイヤー化する社会」では、アップルやGoogleなど国家を超える財政規模や影響力を持った「帝国化」した企業について、負の側面をあまり書いていなかったように思う。この本でも「帝国の「打倒」なんてことは訴えず、そんな帝国のような企業が存在し続けるのが前提ということで結論に至っているのだが、「レイヤー化する社会」よりは帝国化する企業が社会に与える負の側面をしっかり書いている。

大事な点は「私設帝国」企業はネット関連だけでなく食やエネルギーの分野にも存在し、我々の健康や環境に悪影響「も」もたらしているという点だ。著者は様々な事例を紹介してその実態を伝える。

アップルの米国本社で働いた著者が明かす「私設帝国」内の働きぶりも凄まじい。朝6時からメールチェック、社内の政治闘争も激しいのだという。著者自身、そんな環境に疲れてしまい退職してしまったのだとか。

また、GoogleやFacebookなどのユーザーは「客」ではない、という指摘も重い。ユーザの個人情報や(検索などで)分析された行動が商品となって企業の広告出稿に使われているのだから。

そんな「私設帝国」企業とどう付き合えばいいのか。著者が提示するのが私設帝国企業は『イメージ』を気にするという点。評判が悪くなることを「私設帝国」企業は恐れ、下請けの業務改善や製品の販売中止にも繋がっているのだという。確かに企業は国家と違って複数の関係者の利害を調整しなくていいから決断が早くなる。また「私設帝国」企業の下請けで働く人々についても触れ、劣悪な環境であっても住んでいた故郷での暮らしよりはよっぽどまし、という例もあげる。

欠点があるとはいっても「私設帝国」企業がなくなることはないだろう。それは国家の力が弱くなっていくことの裏返しでもある。ならば我々は「私設帝国」企業と賢く付き合い、絶えず学んで自分を高め、仲間をつくり助けあっていこう。著者はそう説いている。

…と、概略だけで結構な量になってしまったが、結論としては「レイヤー化する社会」とあまり変わらないかな。バランスの取れた記述で、世界的に有名な企業の概要を知ることはできた。

ただこの本の中でも取り上げられている、エネルギー関係の「私設帝国」企業はやはり用心したい気がする。アップルやGoogle、マクドナルドなどは代わりがありそうだけど、エクソンなどエネルギー関連の企業は(石油採掘など)専門的な技術を持っているので代替がききにくいのではないかな。評判が少々悪くなっても結構平気な気がする。

また、これからの生き方として、仲間を作ることに触れつつも、「天は自ら助くる者を助く」として語学や専門的な技能など個人のスキルを高めることや「持ち家が自由を奪う」「移住を考える」など固定資産を持たないことに主眼が置かれているのも気になった。

ここ最近、東日本大震災を振り返る番組を見ていて思ったのだが、著者のように土地や家に思い入れの少ない人ばかりではないんだよねぇ。

また、著者が考える仲間づくりも、まずは自身のスキルアップありきで仲間づくりはその次、といった印象がある。「自分を高めてくれる環境に身を置く」という発想なんかその典型か。

環境や健康に害を及ぼす面もある「私設帝国」企業を、著者は

「帝国」を批判するのは簡単ですが、「帝国」を興してきたひとたちもまた、さまざまな体験を積み、常識にとらわれない新しいモノの見方、考え方といったものをつかみ、そこから湧き出てくるイメージやアイデアを形にしてきました。

と内部の人たちを見据えた上で肯定的にみる面もある。この視点は決して間違っていないとは思う。だからこそ

今後は「周囲と同じように振る舞う」といった行動様式ではなく、自分がどんな人生を歩んでいきたいのか、自分なりの考えを持つことが非常に重要になります。

と個人で考え、行動することを説く。

そう考えると、著者の考えるこれからの生き方とは、自分が生き残るのが目的で、今自分の周りにいる人たちと共生する感覚が乏しいように思う。

英語やプレゼン、コンピュータ、議論など著者が紹介している、これからのために必要なスキルの一つ一つは非常に説得力を感じさせるのだが、個々人がそんなスキルを身につけた先の社会像に血が通っているようには見えなかった。最終章に納得されつつも何か残念だったのはそこかなぁ。

何のために専門技能を身につけるのか、学び続けるのか。「私設帝国」企業と共存が不可欠な社会の中で、単に社会で生き残るためではない目的を見つけたいものです。

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見る側が試される話【鑑賞・アンディ・ウォーホル展ほか】

上京話の続き。六本木ヒルズの「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」メディア・アート展「Media Ambition Tokyo」についてです。

写真 1-1スープ缶や段ボール箱のパッケージを(ほぼ)そのまま模倣してアートにしてしまったアンディ・ウォーホル。かたや「Media Ambition Tokyo」は複数の作家によるメディア・アート展で音楽やテクノロジーを組み合わせて芸術の可能性を広げようとした企画。

どちらも現代的なアートでありながら「アンディ・ウォーホル展」は一見、アートとして分かりやすすぎて戸惑わせ、「Media Ambition Tokyo」はアートとして分かりにくすぎて戸惑わせる、そんな感じ。

もちろん、「分かりやすい/分かりにくい」がアートとしての優劣を決めるものではないんですが。鑑賞者を「何だこりゃ」と思わせるのがアートの特徴の一つであるならば、両者ともまさしくアート。アンディ・ウォーホルは1987年に58歳で亡くなっているけれど、何にでも興味を持った彼のこと、もしもう少し長く生きていたらデジタル技術にも興味持ったはず。この2つの展示は意外に共通点がある。

写真 2-1アンディ・ウォーホル展は著名な「キャンベル・スープ」「マリリン」「エルビス・プレスリー」などの作品や彼が創作の場にした室内すべて銀色の「シルバー・ファクトリー」の再現、映像作品の上映などもあり、回顧展として楽しめた。

彼の人を食ったようで本質をついているような発言の数々も会場のあちこちにちりばめられ、多様な創造性を示していた。「なんでオリジナルじゃないといけないんだ?他の人と同じがなんでいけないんだ?」「東京で一番美しいものはマクドナルド。ストックホルムで一番美しいものはマクドナルド。フィレンツェで一番美しいものはマクドナルド。北京とモスクワはまだ美しいものがない」あたりが、一番この人らしい発言でしょうか。そもそもあのトレードマークの銀髪もカツラだったそうだし。

「ぼくの時間が終わるとき(中略)ぼくは何も残したくない。それに残り物にもなりたくないんだ」という発言を描いた部屋が、何でも溜め込み捨てられなかった彼の雑多なコレクションをまとめた「タイムカプセル」コーナーだったのも気が利いてる。

写真 3いっぽう「Media Ambiton Tokyo」はPerfumeの衣装にプロジェクションマッピングをしたパフォーマンスで有名なライゾマティクスや現在佐賀県で作品の展示をしているチームラボなどが参加。ライゾマティクスの作品はトヨタの高級スポーツカー、レクサスLFAを光とエグゾーストノイズ、風などで立体的に魅せる試み。アンディ・ウォーホル展でアンディ自身がペイントしたBMWが展示されていたのを思い出した。時代が変わると表現方法も変わるもの。

この2展示会、共通点もあるのだけど「アンディ・ウォーホル展」のほうがどうしてもある程度の年月を経た分「時代」や「風俗」を反映している。「Media Ambiton Tokyo」展は現在のテクノロジーを反映してはいるけれど、時代や風俗を反映する作品=名作、傑作になるかは時間が経たないと分からない。

なにしろこの2展を鑑賞した際に、会場の森美術館で(年配客を中心に)一番人が集まっていたのは「ラファエル前派展」だったものなぁ。

「Media Ambiton Tokyo」だけでなく「アンディ・ウォーホル展」も、まだ見る側を試す展示会なのかもしれない。でも「これもアートなのか?」と鑑賞する自分に問うことで、自分の可能性を広げることも出来る気はする。

世界を触って理解した話【鑑賞・3Dプリンティング展】

今月は2度の上京。今度は出張でした。会議が始まる前に「3Dプリンティングの世界にようこそ!」展(印刷博物館)、「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」(森美術館)、「Media Ambition Tokyo」(六本木ヒルズ)を見物してきました。

「3Dプリンティングの世界にようこそ!」展はタイトル通り、3Dプリンティング技術を紹介。以前、3Dプリンティングを中心にモノづくりについて書かれた「メイカーズ」を読んだこともあり興味のある分野。実際に3Dプリンティングで出来たモノを見たのも今回が初めてでした。

写真 1いやぁ、思ったよりシッカリズッシリしたモノが出来るんですねぇ。「どうせ作れてもすぐ壊れるようなヤワなモノしか出来ないんでしょ」と勝手な印象を抱いていたのだけど、それは間違いだった。

一部触れない展示品もある中、「これはぜひ全国で展開してほしい」と思ったのが本物と同じ色形、重さまで一緒の土偶のサンプル。宇宙人みたいな形で有名な遮光器土偶を実際にもって鑑賞できる。意外な重さにびっくりした。本物はなかなか触れないので、ケース越しに見ることは出来ても持つことは出来ないもんねぇ。視覚だけでなく触覚も使って鑑賞できるのはたいへんな進歩だと思う。

ほかにも義足とか、身近なところではスマホケース、アクセサリーなどもあった。本で読んだだけではピンと来なかった3Dプリンティングが現物を見ると少し分かった気がする。

個人的にモノづくりをしている人たちにとっては大変な技術革新には違いないし、一般の人でもたとえば家の中で、パッキンだのネジだの、ちょっと壊れたモノを3Dプリンターで作り直す、ってのはありなのではないかな。そんな例なら小型の3Dプリンターで良いわけだし…。そんな可能性を感じた展示会でした。