物語を語り、人を語ること【映画「永遠の0」】

見てもいないうちから「特攻賛美の映画」とか見た上でも「やっぱり特攻賛美の映画」とか言う人もいるようだけど、全くそんなことはなくて、人を死に追い込む戦争というシステムの恐ろしさとその中でも個人として最善を尽くした人の物語でした。

死んだ祖母が実は再婚だったことを知った孫たちが、祖母の最初の夫はどんな人物だったのか知ろうとする。祖母の最初の夫—宮部久蔵は優秀なゼロ戦パイロットで当時では臆病者ともとられかねない「生きて家族の元に戻る」という心情の持ち主だった。しかし最後は自ら特攻に志願していた。なぜ宮部は特攻を志願したのか?

この物語の最大の謎「家族想いの男が特攻を志願した理由」は、作中、台詞など明確な形では回答が示されない。しかし、観客には分かるんですね。「生きて帰る」のが心情だった宮部は部下にも無駄死にを許さなかった。当然特攻作戦にも(自分のできる範囲で)反対した。しかし、そんな想いが周囲に伝わると「宮部を死なせてはいけない」と、周囲が逆に自身の命をかけてまでも宮部を救おうとしてしまう。それに宮部は耐えられなかった(…のではないかな?)。

自分の思いとは逆のことが起こる理不尽さ。さらに戦争では、個人への尊敬さえも人を死なせる装置として発動してしまう。宮部と同じように特攻に反対していた古参パイロットが「宮部が特攻に行くなら俺は命をかけて送り届ける」と決意してしまうのにゾッとしましたね。もうそれ、自身が特攻に行くのと大差ないから!

とまぁ、生前の宮部が登場する戦中編は登場人物たちの心理描写、戦闘シーンの迫力など見応えがありました。その分、宮部の孫たちが中心になる現代編がねぇ。物語の構造上、どうしても単調な会話劇になってしまうわけですよ。

まず孫たち、カンが働かなすぎ。宮部が特攻出撃の直前に機体を変えた訳はすぐ分かるでしょう。「変えなければ助かったのに!」じゃないよなぁ。

最大の問題点は、最後にすべてを明らかにする生存者の存在。いや普通、死んだ最初の祖父のことを調べるなら、まず初めに話を聞くべき人でしょその人。なんでまわり回って最後に話を聞いているのだ?彼に聞けば生前の宮部がどんな人物だったか、ほぼ分かったよ。

過去の出来事をミステリー仕立てで解明しようとするこの映画の現代編は、全体構造を作っている部分なので(その割に場面自体はどれも単調になりがち)、ストーリー全体を盛り上げようとして無理な構造にした感があったなぁ。

まぁそうはいっても変化を付けようとした箇所もありましたけど。田中泯演じたおっかない男性がすべてを話した後、宮部の孫にした行動とか。あの後の台詞も「あなた、ソッチ系?」と変に思わせるもので良かったですよね。

この作品のテーマの一つに「物語を語っていくことの大切さ」があるようなんだけど(クライマックスで現代編の語り手たちや戦中編の宮部の妻まで(!)カメラ目線になって訴える)、結果として、宮部の孫たちは察することを禁じられてしまっていた。終止聞き役だったので、見終わって考えると、頭の悪い探偵みたいな存在になったのが惜しいところ。ミステリー仕立てで始まった話なので、現代編の最後は孫たちが宮部の思いに気付き「!」となったところで終わってアレが飛んでくると映画の満足感がもっと出たように思うけど。映画としての面白さよりテーマへの誠実さをとったのかな…。

と思って見ていたこの映画、戦中編で描かれる内容は、すべてを現代編の登場人物が知っている訳ではない構造になっている(宮部の一時帰宅の場面など)中で、最後の最後に映画でしか表現できない謎を観客にだけ残して終わってみせた。あぁ岡田君最高。素晴らしい演技でした。さっき書いたのとは別の形で、映画への満足感を与えてくれたんですね。それは「『物語』を語ることはできても、それをもって『人』を語ったことにはならないかもしれないよ」ということ。人間はもっと複雑だよ、ということ。

だからこそ生きている我々はもっと知ろうとしないといけないのかもしれない。分かったつもりにならないでね…。